ノーバート・ウィーナー伝 その3 フィードバック

前回の続き。

 「黄禍論文」

 一九四二年二月一日、ウィーナーは最初の公式の報告書をNDRCに送った(略)一二〇枚もの原稿には、暗号めいた、舌を噛みそうな「定常時系列の外挿、補間、平滑化」という題がついていた。報告書がD2部長の許に届いたとき、そのウォーレン・ウィーヴァー部長は、すぐにこの原稿を機密扱いにし、真黄色の表紙をつけて綴じ、戦時科学者・技術者の中の選ばれた人たちに、機密保持を念押しして見せた。この分厚い資料はすぐに、ウィーナーの「黄禍」と呼ばれるようになった。

(略)

 ウィーナーの新しい射撃制御理論は、それ自身が画期的な成果だったが、ウィーナーの「黄禍」は、対空砲火制御の細かい点をはるかに超えていた。それはどんな分野の技術者にとっても必須の概念である、「制御」という概念全体を、電子時代のための新しい科学の言葉で立て直していた。

(略)

初めてウィーナーは、電力工学という確立した領域(略)と、新しい通信工学の分野を明瞭に区別した。

(略)

 ウィーナーがこの「黄禍」で踏み出した歴史的一歩は、通信工学に属するばらばらの分野を(略)ひとつの分野にまとめたことだった。それまで歴史的には電力工学の領分だったところから、制御技術の営み全体を外科手術のように切り取り、それをまるごと通信の陣営に持ち込んだ。この通信と制御という、もっと大きな工学全体を、「メッセージとその伝達の研究」と定義した。

(略)

 ウィーナーは、メッセージの通信が、「人間が意図して考えを伝えようとする」ことに限らないという、重大な発想の転換をした。電動モーターでも、自己調節する「サーボ機構」(略)でも、あるいは機械的だろうと電子的だろうとどんな制御装置でも、それを制御するために使う信号は、「やはりメッセージであり、……通信工学の分野に属する」と

(略)

 何年も後、ウィーナーの「黄禍」は機密解除され、公に発表され、通信工学という新しい分野を創始する資料として適切に評価されたが、この一九四二年という出発点の年には、その壮大な仕事は、戦時体制の官僚機構に飲み込まれてしまった。

「フィードバック」 

 「フィードバック」という言葉は、工学用語としてはまだ新しかったが、考え方は古代からあった。ギリシア人は、自動ワイン注ぎや水時計を考え、それは、現代の水トイレのタンクでも使われるような、浮きのフィードバック動作で制御された(略)

一七八九年、スコットランドの技術者ジェームズ・ワットが、「調速器」と呼ぶ巧妙な工夫を考え(略)

この仕掛けは、ワットの新型蒸気機関の出力の一部を使って、その速さを自動的に調節する(簡単にたとえて言えば、やかんの中の蒸気の圧力が高まるとやかんの蓋が持ち上がるが、それによって、蒸気が抜けて圧力が下がり、蓋は閉じ、それによって……という形で、やかんの中の圧力をある範囲に保ちつつ、蓋の上下運動が作れるという原理による)。(略)

しかし、こうした初期のフィードバック機構は、ウィーナーとビゲローが、試作の射撃誘導装置で遭遇していた問題に陥った。ずれを埋め合わせる動きが大きくなりすぎて暴走し、目標を中心にして、大砲が大きく振れてしまうのだ。

 一九二〇年代、通信技術者は、自分たちが作るネットワークで、同様の状況が混乱をもたらすことを知った。増幅した音を近くのマイクが拾い、それを何度も繰り返して増幅して暴走する「正の」フィードバックの悪循環が起きる。(略)

[この問題が解決されたのは一九二七年にベル研の]技術者が、増幅された信号の出力の一部を、位相を逆転して――電子工学的に言うと、負のフィードバックとして――回路にフィードバックすると、耳をつんざく鳴音が止まり、信号は大きく明瞭になることを発見してからのことだった。

 一九四二年にもなると、動作を自動調節する機械を作るために、技術者はあたりまえにフィードバック原理を使っていた。

(略)

[敵パイロットの操縦、対空砲射撃手の反応]

そうした感覚による認識と運動反応という基本的な問題は、ウィーナーを生物学に引き戻し、ハーヴァードの医学部にいる親友アルトゥロ・ローゼンブルートに引き戻した。(略)

間もなく、ウィーナー、ビゲロー、ローゼンブルートは、対空砲の射撃制御にかかわる物理学と神経生理学の因子のからみあいをもみほぐす、三方向の共同研究を始めた。

(略)

軍用機のパイロットも対空砲の射撃手も、直感的に負のフィードバックを用いて、「ある行動パターンに入ってくる誤差を観察し、その誤差を、意図的にそれを減らす方向への行動で対抗して、その行動を調節する」ということだった。

(略)

 結局、ウィーナーの統計学に基づいた射撃誘導装置は実戦には加わらなかったが(略)

[その]ウィーナーの軍事技術研究は(略)技術者に、統計学的な確かさと、既知の誤差の範囲で、その開発が達成できると予想されるものに対する物理的限界を詳細に述べ(略)

レーダー装置、サーボ機構、通信工学の分野全般の設計での、よりぬきの方法となった。

クロード・シャノン 

よく二号棟二四四号室を訊ねていた人物が、若い数学者、クロード・E・シャノンだった。MITで博士号をとり(略)ベル研の射撃制御チームにいて、軍事通信用の安全な暗号化手順を考えるチームにも属していた。(略)戦争初期、シャノンはウィーナーの新しい通信理論を、直接ウィーナーから学ぼうとやって来た。ビゲローは二人が会っていたときに何度も居合わせ、ウィーナーが自分のアイデアを年下の同僚に惜しみなく与えているのを見ていた。

(略)

しかし、しばらくして、シャノンの訪問は、ウィーナの気前のよさを引き締めるようになった。(略)

ウィーナーは『あの人は私の脳を吸い出しに来ている』と言っていました。(略)自分のアイデアを盗み、自分のした功績を横取りするのを心配していました」。

メイシー会議 

 ウィーナーの新しい考えの最初のかすかな光は、一九四二年五月一三日の朝、ニューヨークのビークマン・ホテルの落ち着いた会議室で灯った。心理学者、生理学者、社会科学者が、ジョサイア・メイシー・ジュニア財団の後援で集まった(略)

イリノイ大学の神経生理学者で、脳の機能と組織については世界のトップに立つ権威、ウォーレン・マカロック。これまた一流の神経生理学者(略)ラファエル・ロレンテ・デ・ノー、フロイト派の精神分析医に転じた神経学者で、ニューヨークの有名な画家や劇作家を顧客にもつ、ローレンス・キュビー、それから二人の人類学者、グレゴリー・ベイトソンとマーガレット・ミードだった。二人は当時夫婦で、太平洋の孤島の文化での生活に関する草分けとなる研究をして、国際的な評判をとっていた。(略)

[対空砲射撃誘導装置の準備に忙しいウィーナーの代わりに親友のハーヴァード大の神経生理学者アルトゥロ・ローゼンブルートが参加]

(略)

ウィーナーの通信原理と統計学の方法は、こうした入り組んだ生命過程の基礎をとらえ、確かめるために必要な理論的根拠と厳密な数理を提供し、それを実際に動くモデルに再現する技術的手段を提供する。

(略)

 ローゼンブルートの話は、メイシー財団の会議での主役の座をさらった。(略)

脳科学者の間では、そのフィードバックや循環性の概念に響きあうものがあった。

(略)

 この会合でも先頭に立っていた神経生理学者のウォーレン・マカロックは、ローゼンブルートの発表に魅了された。

(略)

 そしてマカロックだけが興奮していたのではなかった。参加していた社会学者の中でも、グレゴリー・ベイトソンはとくに熱心だった。(略)

 マーガレット・ミードは、自分が耳にしたことで、雷に打たれたようになった。後である回顧談に「会議が終わるまで、歯が一本折れていたことに気づかなかった」と書いている。

(略)

この会に集まった人々は、その後「サイバネティックス・グループ」と呼ばれるようになる

(略)

翌年の初め、ウィーナーの新しい科学をうかがわせる最初のヒントが、一般の消費者に向けて明らかになった。ウィーナー、ローゼンブルート、ビゲローが共同で、有名な学術誌《科学哲学》に掲載した、「行動、目的、目的論(ビヘイヴィアー、パーパス、テレオロジー)」という短い論文には、複雑な方程式も、機密の技術設計も入っていなかった。おおまかに言って哲学論文であり、頭が痛くなるようなウィーナーの黄禍論文よりも、いくつもの点で核心に迫っていた。六ページのこの論文(略)は最初のコミュニーケーション革命宣言で、実に扇動的なことを唱えていた。

(略)

意図的で知的なふるまいが自然に登場することを、物理的に表せない原理や神の介在に訴えることなく、合理的に説明していたし、その新しい原理を、広い範囲の科学や技術の営みにわたって、実際に動かす、系統的な方針を立てていた。 

 天才少年ウォルター・ピッツ

[42年春、マカロックは]頭のいい少年に出会った。

 ウォルター・ピッツは、ぎこちない、痛々しいほど内気な天才少年数学者(略)

一九二三年、デトロイトの労働者の家庭に生まれたピッッツは、一三歳のときに家を逃げ出して、シカゴで自活した。(略)

「ウォルターの父は配管工で、息子を殴りつけていたので、ウォルターは、とうとう逃げ出し、浮浪児になりました。ある日、仲間に追いかけられて図書館に逃げ込み、本棚の間に隠れたんですが、そこが数学書のコーナーでした。『数学原理』に出くわし、それをやめることができなかったんです。一週間図書館に通い、三巻とも読み通しました。そして腰を下ろして第一巻の長い一節に関する批評を書き、それをイギリスのラッセルに送りました。ラッセルは好意的な返事を出しました。ウォルターに、ケンブリッジの大学院で勉強するよう誘う手紙を出したのです――言っときますが、相手は一三歳ですよ」。(略)

二年後、ピッツはシカゴに来て、ラッセルが行なった数理論理学の講義に出た。ラッセルは、一九三八年の秋、シカゴ大学客員教授となっていた。(略)

[ラッセルはルドルフ・カルナップのところで勉強するよう指導](略)

高卒の資格もないまま、ピッツはシカゴ大学のもぐりの学生となった。(略)

ホームレスの浮浪児で、通四ドルのぼろぼろの部屋に住んでいましたが、すぐに『変わった天才少年』として認められて、シカゴ大からささやかな奨学金を与えられました」。(略)

ピッツはカルナップのところで、論理学者の抽象的な記号表記を習得できるまで勉強した。

(略)

 静かなピッツは、きゃしゃな体つきで、細面の顔は眼鏡に覆われていて、肉体的にはほとんど目立たなかった。しかし一九四一年には、大学の図書館の本とカリキュラムの大半は消化しつくし、生まれつつあるとんでもない才能の跡を残していた。(略)

レットヴィンはこう回想する。「ピッツが、科学概論の授業の○×式の期末試験にやってきました。最前列に並ぶと硬貨をはじき、答えを書き、はじいては書きます。クラスで最高点を出しました。もちろん硬貨をはじいたのは、そういう演出ですよ」。(略)

[レットヴィンがピッツをマカロックに紹介]

 二人の最初の共著論文、「神経系に内在する観念の論理計算」は(略)

論理的な「神経網」という最初の図式的なモデルを立て、「すべての観念、すべての感覚は、その網の中での活動によって実現する」という急進的な命題を主張した。学習や記憶のような、もっと高度な心の過程が、どう計算でき、神経細胞間の新しいシナプス結合の形成につながるかも示した。

(略)

[ウィーナーとマカロックの関係が築かれ、レットヴィンは]ピッツのことをウィーナーに話した。「私は、『先生の気に入りそうな数学者を知っていますよ』と言いました」

(略)

[シカゴからやってきたピッツにウィーナーは]

『こちらへ来なさい。エルゴード定理の証明を見せるから』と言いました。ピッツを隣の大きな黒板のある教室へ連れて行くと、書きはじめました。黒板一枚の半分くらいになって――ご存じのとおり、ウィーナーはよくまちがうんです――ピッツが『先生、ちょっと待ってください。そこはおかしいですよ』と言って、ウィーナーにちゃんと論証するよう求めます。ウィーナーは考え、論証を試みて、そうするうちに、ピッツが疑問のある前提を指摘すると、またウィーナーは考え、論証します。三枚目の黒板が終わる頃には、ピッツがここにいるべき存在だということがはっきりしました」。

 ウィーナーは、ピッツに、自分に匹敵する分析力をもった、聡明で若い共同研究者と仕事ができるという展望と、才能ある若者が世界的数学者になるのを手伝う機会を見た。ピッツに、MITへ来て自分の指導を受けるよう誘い、数学の博士号を採らせることを誓った――ピッツはと言えば、まだどんな学校も卒業しておらず、大学にも正式に入学してはいなかった。[43年秋MIT入学]

 フォン・ノイマンチューリング

 プリンストンでは、博学のジョン・フォン・ノイマンが、ウィーナーの通信、制御、計算機に関する、培養中のアイデアに、格別の関心を向けていた。ハンガリー生まれのユダヤ人で、一九三〇年代のはじめにアメリカへ移住してプリンストン高等研究所の研究員となったフォン・ノイマンは、ウィーナーと同じく元神童だったが、気質や社会的な背景は、まったく違っており(略)

一九〇三年、ブタペストの裕福な銀行家の家に生まれ、一九二〇年代末にゲッティンゲンで活躍した。(略)

数年のうち、単独で量子論の数学的な枠組みを完成させ、余った時間には、新しい数学の「ゲームの理論」を考案した。(略)

 快活なフォン・ノイマンは、大きな目と盛り上がった額から、「親切で気弱なおじさん」という感じだったが、すぐに、プリンストンののどかなオルデン・レーンにある小さな研究所にあふれる灯台の中でも、発電機として頭角を現した。同僚はフォン・ノイマンの頭脳を「完璧な装置」とたたえた。(略)アインシュタインのようなぼさぼさ流ではなく、銀行家の父のような「保守的な銀行家風の身なり」をしていた。英語は流麗で、「ハンガリー人の魅力もにじみ出て」いた。

 フォン・ノイマンとウィーナーほど似ていない組み合わせもなかったが、それでも二人の元神童は(略)数学を行なう方法や、それを行なう人と機械を変えることになる対話を始めた。二人は論文を交換し、数学の問題について幅広く話し合うために会った。

(略)

[当時アラン・チューリングプリンストンにいて「普遍機械」というアイデアを仕上げつつありノイマンは自分の助手として]その概念をもっと進めないかと誘ったが、チューリングはイギリスへ戻る方を選んだ。

ノイマンの提携相手 

 一九四五年の夏じゅう、ウィーナーはフォン・ノイマンをMITへ移籍させる作業を急がせた。七月のはじめ、自分の勧誘が勝つとしていた。(略)

相手は密かに高等研究所(IAS)ともっといい待遇を求めて交渉中だということも知らなかった。(略)

[11月末ノイマンは手紙でウィーナーの招聘を正式に断った]

ノイマンには、ウイーナーには明かさなかった新しい提携相手がいた。軍、海軍、後には空軍や、新設の原子力委員会である。しかしフィン・ノイマンは、この開発を進めるために、さらにな中核プレーヤーを一人必要としていた。主任技術者である。(略)

他ならぬウィーナーのところにいた技術者、ジュリアン・ビゲローだった。(略)

IAS計算機の決め手となる器官は(略)複合的なフィードバック機構で調節され(略)巧妙なエラー訂正回路で照合される。ビゲローは、この古典的なフィードバック機構を実現するには、うってつけの人物だった。

 戦後初のメイシー会議

二〇人の参加者には、プリンストン会議のときの数学者や生理学者、つまりウィーナー、フォン・ノイマン、マカロック、ビッツ、ラファエル・ロレンテ・ア・ノーという中核集団が入っていたし、ウィーナーの仲間で、この会議のためにメキシコからやってきたローゼンブルートや、前日からフォン・ノイマンの計算機開発に参加して仕事を始めていたビゲローもいた。社会科学者には、一九四二年の会議にもいた面々がいた。人類学者のベイトソンとミード、精神科医のローレンス・キュビー、学習理論のローレンス・K・フランク。一流の新顔も加わった。ドイツから亡命してきた、シカゴ大学ゲシュタルト心理学者、ハインリヒ・クリューヴァー、MITの社会心理学者で、これまたドイツのゲシュタルト学派にいて亡命したクルト・レヴィン、コロンビア大学社会学者で、現代のマスコミュニケーション技術の影響に関する先駆的な研究を行なったオーストリア人、ポール・ラザースフェルト、イギリスの生態学者で、ベイトソンの同僚でもあり、生態系の研究を切り拓いた、G・E・ハチンソンである。

(略)

 フォン・ノイマンが発表の口火を切り、電子計算機とその人間の神経的計算ネットワークとの類似について報告した。いつものようにこざっぱりとスリーピース姿で、ポケットにはハンカチが完璧に畳んで入れられた姿で、自分が高等研究所で建造中の新しいデジタル計算機と、その「計算できる数なら何でも計算し、論理的問題ならなんでも解ける」プログラム内蔵方式の説明をした。神経生理学者ロレンテ・デ・ノーとの分野を超えた「デュエット」で、フォン・ノイマンは、新しいコンピュータが、脳のような論理・計算力を持ち、「神経系という計算機」のダイナミックな動作を模倣する見事な保持・想起能力を持てるという展望で、参加者の頭をくらくらさせた。

(略)

[ウィーナーは]ノイマンの話をさえぎって、そのコンピュータの論理的腕前に疑問をさしはさんだ。(略)

コンピュータがラッセルのパラドックスのひとつを解くように――たとえば、「この文は間違っている」という命題の真理値を求めるよう――プログラムされたとすれば、振動する非合理な状態に陥り、「最初は真と判定しても、次には偽と判定したり、その逆になったり」して、答えに達しないと予想した。そう問われて、フォン・ノイマンは自分ではその逆説を解決できなかった。

 昼食後、ウィーナーとローゼンブルートが舞台を占め(略)

フィードバックの概念と、機械と生物を問わず、意図のある、目標を求める活動すべてを支配する「負のフィードバックを通じた制御」の原理を解説する。(略)

循環するフィードバック回路、敏感な「受容体と作動体」を備えた新種の人工機械が、その当時作られていたどんな機械よりも進んだ実際的作業を行なえ、その動作を以前の情報の上に立てて未来を推測できる」ことを説明する。

(略)

 その夜、グレゴリー・ベイトソンとマーガレット・ミードの夫婦人類学者は(略)

「逆向きフィードバックによる安定性を達成した」遠隔地の文化について、参加者によどみなく話した。(略)

男の部族民に攻撃的な衝動ができて、内戦が始まりそうになると、安定させるフィードバックの役割を果たすという、滑稽な男装・女装の儀礼など

 次回に続く。

 

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