10セントの意識革命 その2 C&Wのリアル

前回の続き。

カントリー・アンド・ウェスタンのほんとうの姿とは。

10セントの意識革命

10セントの意識革命

 

 ビートルズ、ディラン 

 ビートルズは、スーパーマーケットの商品がおカネさえあれば誰にでも買え、ながめるだけなら無料であるのとおなじように、手をのばせば誰にでも届きそうだった。

 あの四人に関してもっとも重要だったのは、四人ともはっきりと「男」をうちだしてはいないという明らかな事実だった。四人は性的に不明確であり

(略)

アンリアルでありシュールだった。

(略)

ビートルズが登場すると同時に、ビートルズ的なものあるいはビートルズにちかいものが、日常生活的風俗としていちどにひろがっていったからだ。

(略)

 ボブ・ディランは、絶妙な造花のようであった。人工的に無理やりにつくりあげられた、ショービジネスのためのスター、というような意味ではなく、精密につくられた造花は、本物の花よりもはじめから高価で貴重になる運命を持っていて、そうなると造花の「造」の字はマイナスの意味を持たず、アンリアルの極致が現実をとことん真似することによりひとつのリアリティとなり、ボブ・ディランは、造花の花びらに、いまにも転がって落ちそうなありさまでつくりつけてある透明なプラスチックの雨滴だった。

 彼は、彼自身が自分の世界としてよく言うところの、魔女やパーキング・メーターや西瓜男の、ファンタジーそのものだった。

カントリー・アンド・ウェスタン

 アメリカのものが日本に入ってくる場合、ほとんどが、いや、もうすべてが、曲解され誤解され、その結果、ごくつまらない姿で日本に居つくことになる伝統が昔からあり、カントリー・アンド・ウェスタンも例外ではないという気がしている。

 だから、誤解されないほんとうの姿とはどのようなものなのかを書いていかなければならないわけで、そうなると、ごく個人的な文脈で書く以外に方法はなく、それ以外の方法にはあまり興味は持てないし効果もないようだ。

(略)

 カントリー・アンド・ウェスタンは、アメリカの源流、いや、音楽だけではなくて、アメリカそのものの原点だというようなことがさかんに言われるようになっている。こういうのは困る。

(略)

カントリー・アンド・ウェスタンは、大西部の農場ないしは牧場という美しい雄大な自然のなかにがっちりと根をおろし、自然を相手に人間味ゆたかに生活している人たちに固有の音楽である、というような考え方があった。

 まず、たとえばアメリカの西部、南西部、南部といったあたりの自然は、美しくも雄大でもなんでもない。

(略)

ぼくの個人的な視点からだと、ただひたすらに自然であるだけだ。このような場合は、自然というよりもランドスケープ(風景、といったような意味)と呼んだほうが正しいようだ。

 自然の風景がそのままそこに広がっているありさまは、明らかにものさびしい。このどこから出てくるのかよくわからないメランコリックな雰囲気は、カントリー・アンド・ウェスタンのなかに、音楽という抽象的な実感のなかに、確実にとりこまれている。このことにまずまちがいはない。カントリー・アンド・ウェスタンは、アメリカの土から発した音楽であるとする考え方は、このような意味では、まったく正しい。

 いわゆるカントリー・アンド・ウェスタン地帯でもいいのだが、とにかく自動車でひた走ると、視界いっぱいに広がっている風景が持つドミナントなトーンは、一種独特の、荒涼とした寂しさだ。

(略)

 フロンティアが幻想になりはじめたころから、風景の持つ心象効果は変化していき、その変化にかさなりつつ、ホワイト・マンのブルースだと言われている、幻の歌、カントリー・アンド・ウェスタンが生まれてきたのではないかとぼくは考えているさいちゅうだ。こういった文脈からは、ブルーグラスやホワイト・ゴスペルは、ちょっと除外しておかなくてはいけない。ブルーグラスやホワイト・ゴスペルは定着者たちのちょっとした宗教的なたかまりの音楽だとぼくは感じているからだ。ブルーグラスは袋小路だ、と以前どこかでぼくは書いたけれど、ぼくのいうカントリー・アンド・ウェスタンにはオープン・スペース(なにもない、ただ風景だけの風景のひろがり)が見えるのに、ブルーグラスやホワイト・ゴスペルにはそれが見えないからだ。

 忘れていた。ぼくのカントリー・アンド・ウェスタンが、どのようなものをさしているのかを書いておかなければいけないのだった。(略)

ムーン・マリカンとかハンク・スノウとかキャル・スミスとかニュー・ライダーズ・オヴ・ザ・パープル・セイジとかが、ぼくのいうカントリー・アンド・ウェスタンなのだ。

 共通しているものは、ブギウギの生命力とかダイナミズムだとぼくは思う。アメリカに固有の音楽としては、ニグロ・ブルースしかなく、ブルースの命はブギウギに結晶されている。ホワイト・マンのブルースは、しかし、ニグロ・ブルースとはまったくコンテクストがことなり、どうことなるかを説明すれば、それがそのまま、カントリー・アンド・ウェスタンについての説明のひとつになりうるだろう。

 定着者たちに対して、常に動きまわっている、旅の多い人生をおくっている人たちがいて、そのような人たちの音楽が、カントリー・アンド・ウェスタンではないのか。

 すくなくとも、いまその人がいる場所からその人をこじあげるようにしてはずしてしまい、どこかへと旅立たせ、ランドスケープのなかにほうり出す力を持った音楽。それが、ぼくのいうカントリー・アンド・ウェスタンなのだ。道路、というものがアメリカの文明では非常に重要なものになっていて、カントリー・アンド・ウェスタンは、風景のなかにのびている道路の音楽、と言いかえてもさしつかえない。

(略)

 普通、道路は実存の象徴みたいなものなのだが、アメリカの特に南西部から西部にかけての一帯にある道路は、雰囲気がまるでちがっている。

 ひどく幻想的な感じでその道路はのびていて(略)大小とりまぜていろんな町があり、コミュニティがあることはたしかで、そのたしかさを承知したうえでいまひとつべつの世界、つまり、なにか幻を追う堂々めぐりみたいな世界が、すでに五〇年ぐらいまえから、できあがっているみたいだ。

(略)

ハイウェイぞいのロードハウスとか、小さな町のはずれにぽつんとある酒場だとか、あるいは、長距離輸送トラックの運転手たちのために終夜営業している、トラック・ストップとかで聞くカントリー・アンド・ウェスタンは、いま現実にどこかへむかって移動しつつある自分にとって、たいそうこころよく、しっくりとなじみ、したがってとてもふさわしく、それを聞きながら薄いコーヒーをお代りしながら飲み、アップル・パイを食べていたりすると、ひょいと立ちあがってなんの未練もなくその場をあとにし、どこかへむかってまた動いていきたいという、圧倒的に陽性で無責任な衝動につきあげられてくる。そして、その衝動にしたがってしまうのだ。

 夜中は、ヘッドライトの明かりが届く範囲しか見えないから、ただ走るだけで、なにごともない。陽が暮れてからどこかの町に入ったり、あるいは、とおりすぎたりするとき、その町は、ひどく暴力的なものにうつる。昼間みれば、なんのことはない田舎町なのだろうけれど、夜になってしまうと、どことなくしかし確実に、アメリカの町は狂暴なのだ。

(略)

 なにかをみつけるために動くのではなく、動くために動く(略)

さがし求めるものなど、はじめからなにもありはしない。

 ありはしないのは承知で、美女とか富とかが、消しきれない幻として、歌が終ったあとの余韻のなかにのこっている。動くことをすこしはロマンティックにするためにこの幻はのこされているのであり、実際に動いている人たちは、ロマンチストでなくリアリストなのだ。

(略)

幻のカウボーイたちは、ほとんどなにも持たずに、ひとりでただ馬に乗る。

(略)

なにごとをも達成せず求めず、人生をひとつのジョークとして楽しむことがそのままそのひとの人生の創造過程になるという、ぜいたくな実践的な哲学は、アメリカだけのものだ。

(略)

 バックアップ・バンドのテキサス・トルーバドアズが、ニヤニヤと笑いながら演奏し、アーネストがうたい、お客たちはよろこび、アーネストのLPを買い、サインしてもらう。

 このショーがおこなわれているあいだに、アーネスト・タブ・アンド・ヒズ・テキサス・トルーバドアズが乗って巡業に出るカスタムメイドの大型のバス、グリーンホーネット・ナンバー2の出発の用意がととのえられている。ショーが終わると、

 「では、アーネストとそのトルーバドアズは巡業にでかけます。」

 というようなしめくくりのあいさつがあり、お客や関係者のみんなが手拍子するなかをバス・ドライバーを先頭に、きらびやかなステージ用のカウボーイ衣裳に身をかためた男たちが店を出ていき、次々にバスに乗りこみ、最後にアーネスト・タブが、ギターをちょっとかかげてみせてふりかえり、バスのステップに、カウボーイ・ブーツをはいた足をかける。(略)

 走り出したバスに、みんなが声援をおくる。幻のカウボーイの旅立ちだ。うんざりするような、多少は陰気な街なみにそのレコード店はあり、レコード店自体、あまりきれいではないが、とにかくこの旅立ちは、キラキラと輝いていて胸がときめくようで、しかも同時に、ものさびしい。

 バスのなかでもまた、もう何千回となく経験してきた、オン・ザ・ロードのくりかえしが、再びはじまろうとしている。

 ロックンロール

 おもてむきいろんなかたちをとることが、ロックンロールには可能だった。大人の世界の戯画でもよかったし、ティーン・エイジャーという無定形で自由な状態を謳歌したものでもよく、あるいは、女のこにふられて嘆いているという単純な歌でもよかった。ほんのりと、しかし確実に自分の体で意識した時代的な絶望感が、一見ノヴェルティ・ソングのような自動車の歌とか、失恋の歌など、単純なかたちへと屈折しているのは面白い。ほんとうに単純さそのものだけしかそこに存在しなかったら、ロックンロールとして全時代的な共感は持たれなかったにちがいない。単純なものの裏にかくれている、その時代のもっともせっぱつまっていた若き当事者たちの意識の複雑さだとか深さみたいなものは、あらためてすくなくとも観察しなおすくらいのことは、おこなわれなくてはならない。

(略)

根本的にはロックンロールはまったく新たに歴史のなかから創生してきた音楽であって、ブルースもカントリーも、たいして関係ない。しかし、自分がすこしも望んではいなかったところへ無理やりにつれてこられて、非人間的な状態のなかで労働を強制されているニグロの内部から発してくる歌は、ロックンローラーの内部に芽を出しはじめたホワイト・ブルースと、ある部分、かさなりえた。そして、カントリー・アンド・ウェスタンがどうやってロックンロールのなかに流れこみ得たかというと、あの時代の白人ティーン・エイジャーたちがのっけからニグローブルースを真似することはできもしなかったし、とうてい許されることでもなかったから、周囲から許してもらえてしかも自分たちでも多少とも興味の持てる唯一の音楽ということでカントリー・アンド・ウェスタンが、土台としてのこることになったからだ。ロックンロールはニグロ・ブルースと白人カントリーの合体であるという、ほとんどいつも馬鹿げたつかいかたがなされている公式は、じつはこれだけのことにしかすぎないのだ。

(略)

 かなり大量のティーン・エイジャーたち個々に、匿名的なかたちでロックンロールを届けるには、レコードによるほかに手はなかった。レコードが唯一の伝達手段であり、唯一だったからこそ、それはオリジナルだったのだ。ロックンロールのシングル盤を持っているティーン・エイジャーの誰もが、等しくオリジナルを手にしているという、都市の文明のみが可能にした、奇妙だけれども面白い世界が、そこにあった。

(略)

[ビートルズの時代には]

 創生期のロックンローラーたちのように、「ぼくは、いやだ!」と足を踏んばることはもうとっくに力を失っていた。(略)

一九六〇年代のなかばには、文明はすでにまちがった方向へ曲がりこんでいた。おかげで、絶望は、はっきりしたかたちでつかまえることはできなかったかもしれないが、その時代のごく基本的な色とかにおい、あるいは音として、時代ぜんたいをおおっていた。ビートルズは、それを「悲しさ」としてすくいあげ、ビートルズの存在と音楽という体験の土台にしたのだった。初期のロックンロールの、「いやだ!」という単一な呼び声は、ビートルズを通過することによって、全時代的な悲しさの表現へと変化していった。この変化は、いいことだった。

 ビートルズがおこなったもうひとつのいいこと、ないしは面白いことは、ぜったいに現実ではないひとつの透明な虚構の空間をつくったことだ。

(略)

圧倒的な現実が、自分ではどうすることもできない巨大なものでありつづけるがために、ある瞬間、ふとアンリアルな悪夢に見えるとき、その現実からはなれたところにイマジネーションでつくりあげた虚構の空間のほうが、はるかにリアルな感触を持ちはじめる。ビートルズがつくった、ひとつの透明な虚構の空間とは、具体的な一例で言うと、たとえば『丘の上の愚者』が、彼の「頭のなかの目」で見た世界だ。この空間は、もしそれが好みならば、宇宙と呼んでもさしつかえはない。

次回に続く。