民主主義を救え! ヤシャ・モンク

民主主義を救え!

民主主義を救え!

 

日本語版によせて

三つの教訓

ポピュリスト政権は一般的な政権よりも、国の民主主義を後退させる可能性が四倍も高かったのだ。自由で公平な選挙で敗北した結果、あるいは任期満了から下野するポピュリスト大統領や首相はごくわずかだ。半数は、自らのより大きな権限行使を可能にする憲法改正を実現させている。多くは市民的・政治的自由を大きく制約した。また、選挙戦に汚職を根絶すると約束しておきながら、彼らの国は平均より腐敗していったのである。

(略)

こうした事例は、ポピュリストが民主主義を深刻な形で傷つけることを示している。

(略)

 他国の経験からは、大事な三つの教訓を引き出すことができるだろう。まず、対抗勢力が、ポピュリストの恫喝の奥底に潜む狡猾さに気づかず、過小評価してしまうことだ。チャベスは長らく権力を維持するほどの能力を持っていないだろうとしたベネズエラの上層階級から、ベルルスコーニは道化じみた詐欺師にすぎないと国民は気づくだろうとした教養あるイタリア人まで、高を括っていた人々は一掃されてしまったのである。(略)

 次に、ポピュリストに抵抗しようとする者たちは、自分たちの無力さに気づくまで、力を合わせて協働しようとしない。多くの国でポピュリストたちが権力を掌握できたのは、野党勢が選挙協力で合意できなかったからに他ならない。権威主義的な脅威が立ち現れた時、一致団結は容易いものと思われるが、実際はその反対であることが多い。苦痛と恐怖に駆られてポピュリストに対抗せんとする者たちは、政治に誠実さを求めるあまり、ポピュリストに背を向けたかつての味方にも踏み絵を踏ませようとしてしまう。

 三つ目は、国にとってよりポジティブなイメージを提供することに失敗した。同胞市民に対して何が提供できるかを説くのではなく、敵の失政を喧伝することに躍起になってしまうのだ。

(略)

 しかしポピュリスト支持者の多くは、自分たちがもり立てている相手が嘘つきで、憎しみに溢れ、がさつであることを十分承知している。彼らは既成政治家が無力であるからこそ、ポピュリスト政治家に惹かれるのだ。ポピュリストが非現実的な公約のわずかな部分でも実行してくれるかもしれない、と信じているのだ。そして最後には旧態依然とした政治家の偽善を一掃してくれると期待するのだ。

ハンガリーのデモクラシー 

すでにポーランドやトルコでは、非リベラルなポピュリストたちが指導者の座に収まっているのだ。彼らは、自らの権力基盤を固めるために、似たような手段に頼った。まず、名指しされた内外の敵との緊張関係を高め、次に自らの分身を法廷と選挙監視委員会に送り込み、そしてメディアをコントロールする。

 たとえばハンガリーのデモクラシーは、ドイツやスウェーデンなどと比べてまだ日が浅く、脆いともいえる。それでも一九九〇年代を通じて、その行く末について政治学者は楽観していた。彼らは、ハンガリーは民主制への移行を成功させるためのあらゆる要素を兼ね備えている、としていた。過去に民主主義の経験を持っており、他の東欧諸国と比べて全体主義の遺産も少なく、共産主義の旧エリートは新しい体制に組み入れられ、国自体も民主主義国に囲まれている、等々。(略)もしここでデモクラシーができ上がらなければ、その他のポスト共産主義国でも成功しないだろう、と思われていた。

 こうした予測は、一九九〇年代を通じて現実のものになるかと思われた。経済は好調で、政権交代もあった。活気ある市民社会は批判的なメディア、強力なNGO中央ヨーロッパで最も優れた大学を生み出すに至った。デモクラシーはハンガリーに定着したかにみえたのだ。

 しかし、困難が生じるのも早かった。多くのハンガリー人は経済成長の果実の分け前が少なすぎると感じ始めた。そして、大量の移民が到来して、(現実ではなかったにせよ)自らのアイデンティティが脅かされると感じるようになったのだ。そして中道左派政党による大規模な汚職事件が発覚すると、不満は一気に政権に向けられた。有権者は、二〇一〇年の議会進行でヴィクトル・オルバン率いる政党フィデスを圧倒的な多数派に押し上げた。

 首相の座に収まったオルバンは、自らのルールを手際よく作り上げていった。国営テレビ局や選挙監視委員会、憲法裁判所に腹心を送り込み、支配下に置いた。自らが有利になるよう選挙制度を変え、自分の仲間に資金が渡るよう外資系企業を追い出し、NGOに厳しい規制を課し、中央ヨーロッパ大学を閉鎖に追い込もうとした。

(略)

当初、オルバンは自らを保守的な価値観を持った実直な民主主義者だと規定していた。現在になって、彼はリベラル・デモクラシーへの敵対意識を隠そうとしなくなった。彼によれば、デモクラシーとはリベラルであるよりもヒエラルキカル(序列的)であるべきなのだ。こうしてハンガリーは彼の指導のもと「ナショナルな基礎に基づく新たな非リベラル国家」になるという。

 デモクラシーが安定していた時代

 まず、デモクラシーが安定していた時代、多くの市民は生活水準の急激な改善を経験していた。たとえば一九三五年から一九六〇年まで、平均的なアメリカ家庭の所得は倍増した。一九六〇年から一九八五年にかけて、さらに倍増した。しかしそれ以来、所得は横ばいのままだ。

(略)

アメリカ市民は政治家一般を好いていたとはいえないが、それでも政治家は公約を守り、結果として自らの生活も上向くはずと、概ね信頼していた。しかし今日、この信頼と楽観はもはや雲散霧消している。市民は将来を大きく悲観しており、もはや政治をゼロサムゲームとみなすようになった。移民やエスニック・マイノリティにとって得になることは、自分たちの損になる、といったように。

欧州愛国者がなぜ日本国旗を持っていたか

二〇一五年にドイツに難民数万人が流入したことへの怒りがピークに達し、恥ずかし気もなく「西洋のイスラム化に反対する欧州愛国者(略称PEGIDA)」と名乗る運動が、メルケル首相とその政策に反対して結成された。

(略)

運動の中核的イデオロギーは「嘘つくマスコミ」であり、ほとんどのデモ参加者は私と話すことを拒否した。

(略)

PEGIDAの中核的な訴え──難民に対する嫌悪、アメリカへの不信、ドイツ民族の純潔さ(略)

[ドイツ国旗]の代わりに掲げられていたのは、赤色を背景色に黒の十字があしらわれた、「ヴィルマー旗」として知られる旗だ。これは、極右界隈ではドイツの北方系・キリスト教の伝統を象徴するものとして、好んで用いられている。(略)

群衆が手にしていたもので私の目についたのは、ロシア国旗(「プーチンは自国民を優先している」とあった)やアメリカの南部旗(「彼らは本物の反乱軍」)、そして日本の国旗まであった。日本の国旗の意味はわからなかった。

(略)

 少し慄きながらも、日本の国旗を持つ男性におずおずと尋ねてみたところ、彼は喜んでその理由を説明してくれた。彼は日本とドイツは同じ問題を抱えているという。それは人口減少だ。ドイツは、労働力不足に際して多くの移民を受け入れたことで、社会保障の負担が増えた。しかしそれは間違いだったのだ、と。反対に、日本のように移民に門戸を閉ざしたままの方が賢いのだという。「人口を減少させておく方が外国人を入れるよりは良い」ということだ。

(略)

メルケルやその大臣たちは「私たちを殲滅させる戦争をしかけている!」、「ドイツ人民の敵」であるとするもの。ほかにも「ヤンキーどもお前の操り人形と一緒に消えうせろ」というのもあった。(略)

「レイプ難民は来るな」「ムハンマドは来るな」というのもあった。(略)

抗議の中心的な感情(略)スローガンの叫びは四半世紀前と変わっていなかった。群衆は「私たちこそ民衆だ」と繰り返し、繰り返すほどに攻撃的になっていった。私たちこそ──ドイツになだれ込んでくる外国人でも、彼らと結託する政治家でもなく──が民衆なのだ、と。

 

 抗議に続く数カ月後、ヨーロッパでは権威主義的なポピュリストが脚光を浴び、アメリカでドナルド・トランプが大統領に選ばれる中で、私はこの凍てつく夜のことを思い出していた。

政党制の「解凍」 

歴史をみれば、自らこそ民意を体現するとする者が、権力の階段を駆け上るのは早い。

(略)

戦後の大部分の時期、北アメリカと西ヨーロッパの政党制は 「凍結」されていた。(略)

党派の構成は変わることはあっても、政党制の基本的な構造は驚くほど変わらなかったのだ。

 しかし、過去二〇年のうちに政党制は大きく「解凍」させられている。どの国でも、それまで周縁部分にいたり、ほとんど存在しなかったりした政党が、政治の表舞台で極めて確固とした存在感を示すようになった。

 このような過程を最初に歩んだ民主主義国は、イタリアだった。一九九〇年代初頭、この国の政治システムは大規模な汚職事件によって機能停止に追い込まれた。終戦直後からイタリア政治を支配してきた政党は解党させられるか、選挙で壊滅に追いやられた。長きに亘るこの空白を最初に利用したのは、政界入りしてから自身が汚職の嫌疑をかけられていた実業家、シルヴィオ・ベルルスコーニだった。システムを一掃し、国を豊かにすると約束した彼は、政権を手にする。続く数年で政権が取り組んだのは、ベルルスコーニの数々の失敗をつくろったり、収監されないようにしたりする措置をとることだった。結果、彼は四半世紀近くも国の政治の中心に居座り続けたのだ。

 この時期のイタリアは異常に見えた。しかし過去数年で、ヨーロッパ各国で政治の新参者が現れ、権力と影響力を持つに至るのを見るにつけ、むしろイタリアこそが正常であるかのように見える。

簡単な解決法の危険性

 ヒラリー・クリントンとは対照的に、ドナルド・トランプが「トランプ大学」の学生から取引相手への不払いまで、数多くの人を欺いてきたことは広く知られている。彼の掲げた政策の多くは、実現しないだろう。

(略)

それでも、何百万人という有権者がトランプの主張のシンプルさこそ、その信憑性と覚悟の証明であり、そしてクリントンの主張の複雑さは彼女の不実さと無関心の表れだと捉えたのだ。

 口当たりのよい簡単な解決法こそ、ポピュリスト的アピールの核心にある。投票する者は、この世が複雑であることを認めたがらない。自分たちの抱える問題に簡単な解決法などない、と言われることを嫌うのだ。

(略)

 ポピュリスト指導者が絶対に上手くいかない、簡単な解決法を提示するのは非常に危険なことだ。いったん彼らが権力の座についてしまえば、公慣のもとをさらに悪化させてしまうことになりかねないからだ。だから、引き起こされる混乱をみて、有権者らが既存の政治家に対する信頼を取り戻すと予想したくなるかもしれない。しかしさらなる痛みは、彼らの態度をもっと硬化させ、苛立たせるだろう。そして南米諸国の歴史が示すように、一人のポピュリストが失敗すると、有権者は旧エリートを権力の座に戻すのではなく、新たなポピュリスト──あるいは問答無用の独裁者──を探し求めるようになる。

 ポピュリストの原動力を理解すること

今日のポピュリストたちは、かつての極右運動が目指したように、民主主義を超えるヒエラルキカルな政治システムの創立を目指すというよりも、我々が持っている民主的要素をより強化すると主張しているのだ。これこそが問題なのだ。

(略)

彼らの非リベラルな処方箋では、彼らが不人気となった時、民意に歯止めをかけるのに必要な自由で公平な選挙といった制度を維持できなくなってしまうからだ。

 ポピュリストは、彼らが人々の現実の声を代弁していると主張する。彼らは、自身の統治への抵抗も正当化されない、という。それゆえ、彼らは過度に反対勢力の口を封じ、敵対勢力の権力基盤を破壊する誘惑に駆られる。彼らの原動力となっている民主的なエネルギーを理解しない限り、その本質は理解できないだろう。そしてそのエネルギーが、今度はいとも簡単に人々に対して牙を剥くのかを理解しない限り、ダメージがどう及ぶかも想像できないだろう。リベラル・デモクラシーの守護者たちがポピュリストたちに対して立ち上がらない限り、非リベラルな民主主義があからさまな独裁主義へと転じる危険性を避けることはできないのだ。

「我々が采配を振るうことが許される限りにおいて、お前たちが統治する振りをする」 

[東プロイセン・ヤヌシャウ村に選挙が導入されたが]

オルデンブルク家の土地監理官、封のされた封筒を手渡したが、その中にはすでに印のつけられた投票用紙が入っていたのだ。

 疑問に思った勇気ある農民の一人がその封筒を開けようとして、監理官の怒りに触れた。(略)「これは秘密投票なんだ、馬鹿者!」

(略)

民主主義の夜明けにみられたこのエピソードは、伝統的なエリートが持つ大衆に対する感覚が、私たちの政治システムの起点にあることを物語っている。それは、「我々が采配を振るうことが許される限りにおいて、お前たちが統治する振りをする」というものだ。

(略)

イギリスやアメリカの政治システムは、民主主義のためではなく、これに抵抗するために作られた。人民の統治を許容する民主的な性格を有しているとされるのは、後世になってからのことだ。

(略)

リベラル・デモクラシーとは人々による統治を意味するのだ(略)この主張は、一世紀かそこら、民主主義が史上ないほどの理念的ヘゲモニーを誇った時代にこそ、真実味を持った。しかし、もはやそうではない。その結果、私たちの制度が唯一正当なものであるという民主主義の神話は崩壊しつつある。

(略)

イギリス議会は人民の統治を可能にするためのものではなく、変化を求められた王政と国の上層エリートとの間の血塗られた妥協の結果にすぎなかった。一九世紀と二〇世紀の過程で、参政権が徐々に拡大されてからというもの、この統治システムは民主主義に類似しているという考えが広まっていった。

(略)

民意を政策に転換するために最も民主的な方法とされる選挙とは、アメリカの建国の父たちにとっては、人民を遠ざけておくための手段でしかなかった。

 ジェームズ・マディソンの言葉を借りれば、選挙とは「国にとっての真の利益を最もよく認識できる知恵を備え、愛国心と正義を持つ選ばれた市民の集団を経て、公的な見解が一時的もしくは部分的な検討しか国益に加えない」ためのものだった。人々が政府に決して影響を与えないようにしたのには理由があった。マディソンは続けて「人民の代表が表明する公的な声の方が、そのために集まった人民が個々に意見を言うよりも、公共の利益により一致することになる」という。

 簡単にいえば、アメリカ建国の父にとって代表制による共和政は次善の策などではなく、民主主義という世を分断する悪物よりも好ましいものだった。アレクサンダー・ハミルトンとジェームズ・マディソンが『フェデラリスト・ペーパーズ63番』で明らかにした通り、アメリカ共和政の本質は統治おいて「いかなる部分においても、人民とその集合的能力の完全な排除」だったのである。

 これが変わるのは、移民の大量流入や西部開拓、南北戦争、急速な工業化によって、アメリカ社会が大きく変化した一九世紀のことだった。この頃に新しい思想家たちが、新たな衣装をまとい、再生された民主主義によって、理念的な共和政を意識的に作り上げようとした。統治のいかなる部分からも人々を排除するために作られたかつての制度は「人民の、人民による、人民のための」の統治を可能にすると読み換えられた。

 こうしてアメリカは、民主的な国とますますみなされるようになった一方、現実の姿とは程遠かった。アメリカが民主的プロセスを経験するには時間がかかった。一八七〇年の憲法修正第一五条では「人種、肌の色あるいは以前の隷属状態」によって市民の投票権を奪ってはならないことが決められた(しかし実際にはしばしばそれが行われていた)。

(略)

ジョン・アダムズが書いたように、人々は「五〇〇マイルも歩けず、時間を捻出できず、会う場所もないのだから、ともに行動し、討議し、結論を導き出すことなどできない」からだ。(略)

 この制約は、一九世紀後半の民主的思想家たちが、アメリカ統治について不思議な再発明をする理由となった。代表制はもともと、民主主義の理念に対する意識的に対抗する制度だったにもかかわらず、現代の条件では、それが最も民主主義の理念に近い制度とされるようになったからだ。こうして、リベラル・デモクラシーの理念(略)誕生についての神話が生まれたのだ。

(略)

エリートたちは自分たちで決定権を握り続けられることを、平等主義者たちは自分らの希望が叶えられるものとみなしたからだ。

(略)

民主主義出生の神話がなぜかつてほど民衆の想像力を掻き立てないのか、重要な理由がある。それは、過去数十年に亘って政治エリートが狡猾に民衆からの視線を遮ることに成功してきたからだ。

(略)

多くの政治的決定は選挙を経た議員たちによって下されてきた。こうした政治家は、自らの選挙民と深い関係を保ってきた。国の各地から集まり、教会や労組に至るまで、地域の組織と密接な関係を築きあげてきた。

 議員たちはまた、自らの使命についての理想を抱いていた。それが貧困世帯出身で一般の労働者を擁護する社民主義者であろうが、敬虔なクリスチャンの家庭で育った伝統を守ろうとするキリスト教民主主義者であろうが、いずれも明確な政治的使命を抱き、議員を辞めた後には、彼らの属する共同体へと戻っていった。

 しかし今日の職業政治家にもはや、こうした事例は当てはまらない。最も重要な機関であった立法府は、司法や官僚組織、中央銀行、国際条約や国際機関に対する権力を後退させている。同時に、立法府を支えていた多くの国の政治家も、代表するはずの有権者とは似ても似つかないような人間ばかりになっている。今では、自らの地域共同体と密な関係を持つ政治家は少なく、その基盤となるイデオロギーにコミットする者はさらに少ない。

 結果として、一般的な有権者は、かつてないほど政治家と疎遠になっている。彼らが政治家をみても、そこに自らの姿を見出すことはない。だから、政治家が下す判断は、自らの選好が反映しているとはみなされないのだ。

次回に続く。

 

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