秋吉敏子と渡辺貞夫 西田浩

秋吉敏子と渡辺貞夫 (新潮新書)

秋吉敏子と渡辺貞夫 (新潮新書)

 

23歳の秋吉敏子 

進駐軍のジャズ・ミュージシャンに交じって、奔放にピアノを弾く若い女性がいた。23歳の秋吉敏子だった。「僕と3つしか違わないのに、この時点で日本のモダンジャズを代表する若手として高く評価されていました。まさにあこがれの存在でした」と振り返る。

 そんな貞夫に、ある日、敏子が声をかけてきた。

「新しいバンドを作るんだけれど、一緒にやらない」(略)

[レギュラー出演しているクラブではダンス音楽を求められるが、「ビバップを追求したい」と52年夏コージー・カルテットを結成するも数か月で解散。渡辺晋率いるシックス・ジョーズで態勢を整え、貞夫を加え第2期コージー・カルテット結成]

この出会いが、日本のジャズを大きく動かしていくことになるのだ。

上京 

 山田バンドは福岡の進駐軍将校クラブに出演していたが、敏子は昼間、そこにあったジャズのレコードを片っ端から聴いて、採譜した。

「当時、すごいなと思ったのが、ドラマのジーン・クルーパの『ダーク・アイズ』でした。派手でわかりやすかった上、クルーパの豪快なドラムソロがかっこよかったんですね。なぜか、同時期に聴いたデューク・エリントンは、抽象的でよくわからない音楽だなと感じました。その後、エリントンは私の最も尊敬する作曲家になるので、今思えば、意外なのですが、洗練された音楽を理解するには洗練された耳が必要ということなのでしょう」

(略)

「ある日、自分なりに工夫して組み立てたアドリブをバンドで弾いたら、終演後、リーダーの山田さんが『秋吉がちょっと工夫しただけで、フィリピン人のような演奏になった』と言ってくれました。当時、フィリピンのミュージシャンは日本人より格上と思われていたので、これは立派な褒め言葉なのです」

[福岡では限界があると]

 1948年夏、18の敏子は上京した。

バド・パウエル

 米軍クラブやダンスホールでの仕事の合間には、東京や横浜にあるジャズ喫茶に入り浸り、レコードを聴きあさり、気に入った曲を採譜する。中でもレコードコレクションの充実していた横浜の「ちぐさ」はお気に入りで、店主と気が合ったこともあり、毎晩のように通ったという。

 「採譜のため、いくつかの曲を繰り返し聴いたから、その店のレコードコレクションは部分的にすり減っていたと思います。気に入った曲は片っ端からコピーしました。例えばスタン・ゲッツのサックスソロなど、ほかの楽器のパートもピアノで弾きましたね。とにかくむさぼるようにジャズを吸収していました」

 もう一つ、彼女の音楽の糧となったのが、来日した本場のジャズ・ミュージシャンとの交流だった。50年に朝鮮戦争が勃発したこともあり、進駐米軍関係者の慰問に本国から訪れるようになった。そんな中で、敏子が初めて触れた本場の一流のジャズが同年に来日したレス・ブラウン楽団だった。

(略)

 その頃、敏子はバド・パウエルのレコードを聴き、衝撃を受けた。

「単に技術云々なら、オスカー・ピーターソンの方が上なのでしょうが、サックス奏者のチャーリー・パーカーの影響受けたパウエルには、一聴しただけで彼だとわかる強烈な個性があった。特にリズム感満点の左手の刻みは素晴らしい。パウエルのように弾くことが、いつしか目標になりました」

敗戦で花開いたジャズ

 進駐軍のために演奏する楽団の需要は多く、都市部ではアマチュア奏者をその日の進駐軍キャンプの娯楽用にかき集め、急造のバンドに仕立て上げる手配師のような人もいた。戦後の混乱期で、まだ食べるものにも事欠く時代に、とりあえず楽器が弾ければ、高額の報酬にありつくことができる。米国ではジャズの全盛期。仕事にありついた奏者は、ジャズを習得する。そういった環境が、日本のジャズの基礎を築いていく。

 皮肉なことに、この進駐軍ジャズの中核を担ったのは、旧日本軍の軍楽隊の面々だった。

(略)

16歳で海軍軍楽隊に入隊した原信夫がこう語っている。

「僕の同期は90人。入隊するとまず、楽器ごと班に分かれて常に競争ですよ。寝るのはハンモックだが、その設置や片づけも競争。下位になると殴られる。軍事教練と基礎練習で3か月。そこから本格的に音楽を学ぶわけですが、実技、座学と音楽漬けで、試験も頻繁にある。成績が悪いとまた殴られる。とにかくスパルタで鍛えられ、1年で配属になる。僕は横須賀の連合艦隊司令部付きとなりました」

(略)

46年春、上京して帝国劇場専属オーケストラの入団試験を受けたが、試験を終え、劇場を出たところで、軍楽隊時代の友人とばったり会った。

「入団試験のことを話すと、『クラシックなんかやっても食えない。これからはジャズだ。進駐軍の仕事はもうかるぞ』と言って、彼のバンドのたまり場まで引っ張って行かれた。メンバーは軍楽隊上がりの奏者と歌手。そのまま横須賀の米兵用ダンスホールの仕事をしました。ジャズって言葉ぐらいは知っていたが、実際どういう音楽なのかわからない。譜割りなんかクラシックと全然違う。ジャズなんか知らないのに、見よう見まねでジャズを吹いている。それが始まりでしたよ」

ジャズ黄金時代

[ジーン・クルーパ来日でブームに火が付き、53年]

ジョージ川口率いるビッグ・フォーが結成され、大旋風を巻き起こした。(略)[川口、小野満松本英彦、中村八大]という、人気バンドのスタープレーヤーが結集した、いわばスーパーグループで、絶頂期には後楽園球場や西宮球場でコンサートを開き、満員にするほどだった。

 当時、その西宮球場でのライブを見たジャズ評論家の児山紀芳はこう述懐する。

「小野、松本、中村が登場した後、川口が野球の救援投手が乗るカートに乗って現れる。本塁、一塁、二塁、三塁のベース上付近にそれぞれの楽器が配置され、そこで演奏するという趣向でした。とにかく派手だったことを覚えています。当時の音響機器では満足に音は聞き取れなかったが、会場は熱狂の渦に包まれました」

 今では信じられないことだが、ジャズは大衆に熱く支持されていたのだ。同時に女性ファンが追い掛け回すアイドル的な人気も併せ持っていた。(略)

北村英治がこう語っている。

「コンサートでは女性の黄色い声が響き、終演後は楽屋口に出待ちの女性ファンが押し寄せる。(略)

もっとも、50年代後半にロカビリーがブームになると、若い女性ファンはサーっといなくなってしまいましたが……」

美空ひばり

沖縄で公演した時のことだった。メンバーの一人がジュリー・ロンドンのレコードを聴いていたら、ひばりが「これいいじゃない」と興味を示した。中でも「クライ・ミー・ア・リヴァー」を気に入り、「明日のステージでやりましょう」ということになった。さあ、バンドは大変だ。(略)

翌日のリハーサルで、英語を話せないはずのひばりが見事に仕上げてきたのにびっくりしたという。さて無事、本番を終えた後、公演を聴いていた米軍の将校が、ひばりの歌が素晴らしかったので、会いたいと言ってきた。バンドの中では英語が得意だった北村が「彼女は疲れているし、英語もできないので勘弁してほしい」と言ったところ、その将校は「嘘を言うな。彼女は完璧な英語で歌っていたじゃないか」と怒り出したという。

バークリー入学

[JATPで来日したオスカー・ピーターソンが敏子のピアノを気に入り、ノーマン・グランツに敏子のレコードを出すべきだと訴え、グランツはあっさり承諾。ラジオ東京のスタジオでJATPのメンバーをバックに録音、米国で発売、渡米の希望に燃える。バークリーに入学希望の手紙を書いたが音沙汰なし、そんな時]

日本で発行される米国人向け新聞のカメラマンが、「ノーマン・グランツから君の写真を撮ってほしいと頼まれた」と言い、敏子を訪ねて来た。よく事情が分からぬまま、一張羅の黒いスーツを着て、撮影したところ、数か月後にグランツから、音楽誌「メトロノーム」が送られてきた。その時の写真が入った極東のピアニスト敏子を紹介する2ページの特集記事が掲載されていた。

 それから間もなく、バークリーから、入学許可と学費免除を知らせる手紙が届いた。「現金なものですね」と敏子は笑う。(略)

「当時のバークリーは学生340人ほどの小さな学校でした。学校の宣伝のために、私はうってつけだったのでしょう。アジア人がジャズをやるというだけでも物珍しい時代に、米国内でも数少ない女性奏者。さらに米国の一流レコード会社からレコードも出ている。(略)

渡米してわかったのですが、有り体に言えば、私は宣伝用に呼ばれたわけです。でも夢は叶いました」(略)

[ボストンに到着した夜、バド・パウエルが出演するクラブに行くと旧知のエド・シグペンがおり]

パウエルに紹介した。ライブが始まると、ステージに上げられ、演奏させてもらった。それを聴くパウエルは手をたたきながら大喜びしていたという。

「東洋から来た小娘が自分そっくりの演奏したのに驚いたのでしょうね。

恵まれたスタート

 バークリー音楽院で、敏子は最初から学生と言うよりはプロの音楽家として期待されていた。学校は、ニューポート・ジャズ・フェスティバルの主宰者として有名なジョージ・ウェインを敏子のマネージャーにつけ、すぐに仕事が決まった。こうして月~金曜の昼はバークリー音楽院に通い、木~日曜はボストンのライブハウス「ストーリーヴィル」に出演するという生活が始まった。この年の夏、ウェインのレコード会社から2枚のアルバムを出し、ニューポート・ジャズ・フェスティバルにも出演した。まさに順風満帆のスタートとなった。ただ、活動はすべて学校が仕切り、ライブの時には、「トシコ・アキヨシ・フロム・バークリー・スクール・オブ・ミュージック」とクレジットされた。敏子に仕事の決定権はなく、それで残念な思いをしたこともあった。

ノーマン・グランツが、私とレイ・ブラウンの共演アルバムを出したいと申し込んだのですが、学校はそれを断ったんです。理由は『グランツの仕事は、報酬が少ない』。こっちはお金を払っても受けたい仕事だったのですが。もう一つは、オスカー・ピーターソンが、『バードランドに出演するビッグバンドでピアノを弾かないか』という話を持ってきてくれたんですが、これもダメでした。

 バークリーが『トシコのニューヨーク・デビューは、彼女のリーダーという形でやりたい』という意向だったためです」