資本主義に出口はあるか 荒谷大輔

日本に入ってきたのはロマン主義化した教養主義……の辺りをチラ読み。 

資本主義に出口はあるか (講談社現代新書)

資本主義に出口はあるか (講談社現代新書)

 

フランス革命とルソー

 当時のフランスは深刻な食糧不足に陥っており、困窮した市民が統治者を殺害し食料を奪うという事件が起きていました。事件を起こした市民への処分が取り沙汰される中でロベスピエールは敢然と市民の味方につきます。その「誠実さ」を見ていただくために、少し長いですが、ロベスピエールの演説を引用しておきましょう。

 

社会の第一目的とは何でしょうか。それは、時効によって消滅することのない人間の諸権利を維持することです。それらの諸権利のうちで第一のものは何でしょうか。それは生きる権利です。したがって、社会の第一の法は、社会の全構成員に生存手段を保障する法であり、その他の法は、すべてこの法に従属するといわなければなりません。所有が制度化され保障されるのは、ただその生存権を強固にするためであるにすぎません。人が財産をもつのは、まず、生きるためなのです。(略)同胞の命を犠牲にしておこなう商業投機はすべて、決して取引などではなく、略奪であり同胞殺しなのです。

 

 ロベスピエールのルソー主義とその真摯さがよく表れている演説だと思います。

(略)

 しかしながら、その「掛け値なき善意」に基づくロベスピエールの情熱は、その徹底において、歴史に残る未曾有の悲惨を引き起こすことになりました。民衆の喝采を浴びながらロベスピエールは、政敵を次々にギロチン台へと送ります。

ロマン主義

 ルソーの著作がドイツに伝わると、ルソーは「ドイツ民族の統一」の礎をなすものと見なされました。

 当時ドイツは宗教改革に端を発する戦争で疲弊し、ひとつの統一した国家というよりも諸侯がそれぞれの領地を統括する形態になっていました。

(略)

 ルソーの思想は、すでに見たように、かつてあったはずの自然状態の幸福を取り戻すための社会契約を示すものでした。(略)

ルソーの著作が、失われた「ドイツ民族の統一」を志す人々の心を揺り動かした理由はもうお分かりでしょう。ルソーの社会契約論は、ドイツでは、かつてあったはずの理想的な共同体を、新たに「近代社会」として取り戻すものと見なされたのです。

 しかし、ドイツにおいてその影響は、フランス革命のような急進的な政治運動としてではなく、芸術運動として現れました。

 いまの感覚からすると、芸術というのは個人のプライベートな領域の趣味のひとつにすぎないというのが大方の見方になるように思われます。

(略)

 しかし、その認識は間違っています。(略)

ロマン主義的な芸術は、感性の領域での交感を基礎に「理想的な社会」の実現を期するものでした。

(略)

[グリム兄弟が民話を童話に再構成したのも]

かつて存在し、みなに共有された(はずの)民話を集め、感性のレベルで同じ物語を共有することは、自然状態に近い感性を基礎に理想的な共同体を作る上で重要なことと考えられたのです。

「民族」の問題

 ロマン主義の中で「民族」が注目されるのも、まさにそのような「文化」の再構築という文脈があったからでした。ロック的な社会の進展にともなって、人々はそれぞれ自分の利益だけを考えるように分断されてしまいます。(略)

[そうした危機において]「民族」として同じ「文化」を共有することが、ロック的な社会の個人主義を乗り越える手段と見なされるわけです。

 しかし、このロマン主義的感性に基づく「民族主義」が、二〇世紀に入って非常に大きな問題を生み出しました。「ファシズム」の問題です。

(略)

しかしまだ、その前に見るべきものが残されています。ドイツにおけるロマン主義は、他方で「教養主義」へと展開していきました。

(略)

「教養」には「リベラル・アーツ」というアメリカ経由のルーツも知られています。

(略)

日本にとって輸入先が異なるので別系統に見えますが、今日「教養」と呼ばれるものの背景には、近代ドイツにおいて成立した「教養主義」の影響を見ることができるのです。

ロマン主義化した教養主義

学問の専門化が広がることで「教養=文化」と呼ばれるものの内実が急速に空疎になっていったことは確かです。何しろ、それぞれの領域の専門家は、自分の専門のことしか探究しないわけですから、大学の教員の間でさえも「教養=文化」の共有など望めない状況ができます。

(略)

「教養」によって文化的共同体を形成するという教養主義の戦略は、もはや単なる「お題目」以上の内実をもたないものになっているのです。そのあたりの事情は、ヴィンデルバントというドイツの教養主義の中心人物が二〇世紀初頭に率直に認めていることでもありました。

(略)

 

われわれは、文化内容をひとつの意議において統一的に総括することはもはやできないことを覚悟する必要がある。(略)

そのため、文化統一の要求は知識の領域においてよりもむしろ、価値の領域において、認識の共通においてよりも意志の共通において実現されると考えるべきである。(「教養階級と文化の統一」)

 

 お分かりでしょうか。ヴィンデルバントはここで、みなで同じ「教養=文化」を共有するという教養主義の理念を半ば諦めています。(略)

 しかしでは、ヴィンデルバントが「教養主義は失敗した」と投げ出しているかといえば、そうではありません。ヴィンデルバントは、ここで「教養 =文化」という言葉の中身を変えることで「教養主義」を救おうとしています。(略)

ヴィンデルバントは「意志の共通」という魔法のことばで「教養=文化」なるものを救おうとします。つまり「教養」というのは、各人の心持ちの問題であり、何かをどれだけ知っているかどうかということではないというわけです。共通の知識はもてなくとも、みなで同じ方向を向いていることを互いに確認できれば、文化共同体は維持できる。

(略)

 こうして、ヴィンデルバントのいう「教養主義」は、実質的に教養主義であることをやめ、ロマン主義へと戻ることになりました。

(略)

「われわれの国民的存在の道徳的価値内容が文化統一の紐帯として、十分力強く維持されることを期待する」というのが、右に引いたヴインデルバントの議論の結論でした。(略)

人々の意志による文化的共同体を維持するため、「民族」という概念が再び持ち出されるのも、ここからそう遠くない未来になります。

 

 その後の教養主義はどうなったのでしょうか。

 逆説的なことに、このヴィンデルバントの実質的な「敗北宣言」を起点として、教養主義は大きく盛り返します。これは分かりづらいところなのですが、実際のところ、われわれが知っている「教養主義」とはむしろ、このロマン主義に戻った後の「教養主義」なのです。ヴィンデルバントの「敗北宣言」の後、失地回復とばかり「教養主義の理想」なるものが盛んに喧伝されるようになります。「教養主義」という言葉が一般の人々に広く知られるようになったのも実は、その喧伝のおかげで、近代大学が設立された当初には「教養主義」という言葉はむしろあまり知られていなかったのです。

(略)

 大正期、日本に輸入された「教養主義」は、このすでにロマン主義化した教養主義でした。(略)

ゲーテドストエフスキーを読み、ベートーヴェンを聞かなければならない「教養主義」は、ロマン主義へと立ち戻った後の教養主義だったのです(ちなみに、アメリカの「リベラル・アーツ」は、一九世紀に実質的な教養主義を輸入し、二〇世紀ドイツのロマン主義教養主義を拒否しました。その流れは次のフェーズⅢで見る「リベラリズム」へと繋がっています)。

 新渡戸稲造の「修養主義」が成功のためのマニュアルという大衆的な側面をもっていたのに対して、大正期に成立した「教養主義」はエリート文化として位置づけられました。それは「学ぶべきもの」であり、それを学ぶことで知の共同体に属することができるという認識が共有されました。「教養」はその後、昭和一〇年代に河合栄治郎によって「マニュアル化」され、一定程度の学力があれば誰でも身につけられるものになっていきます。同時に、特定の本を読んでいないと一段低く見られるという風潮が大学生の間で生まれることになりました。「同じ本を読んでいる」ことが一定の知的レベルを保証するという仕組みがそこで出来上がったのです。

(略)

 つまり、「教養主義」とは、少なくとも日本においては最初から、額面上理念として挙げていた「知の総合」を実際に目指すものではなかったというわけです。日本で「知識人」と呼ばれた人々が、総合的な知に基づく批判的思考を展開するよりもむしろ、同調圧力をもって特定の知の共有を要求することの方が多かった理由もそこから理解できます。「同じ本を読み、同じ感性を身につけること」が重要だとすれば、「知識人」の役割は、批判よりもむしろ追随者に向けて「知ることが、いかにかっこいいか」を示すことになるでしょう。そして実際、日本の「知識人」(の少なくとも一部)は、その役割を積極的に担ってきました。実際に知を総合する努力が、ほんの僅かな人々の間でしかなされなかったことが、今日の学問の惨状をもたらしたのではないでしょうか。

(略)

こうしたロマン主義化のために、教養主義はこの後台頭してくるナチズムやファシズムと十分な距離をとることができませんでした。それらの運動はまさに、「文化」や「民族」を仮構して共同性を確保しようとするものにはかならなかったからです。

 ニュー・リベラリズム

一九世紀の過度な労働者の貧困は、自由主義の中から自由主義を批判する言説を生み出します。(略)その批判の枠組みは、やはりルソーから引き継がれたものでした。

 ニューリベラリズムは、イギリスにおける「理想主義」から生まれますが、その成立には、ロマン主義の影響がありました。(略)

次世代の自由主義のリーダーたるべく教育されたジョン=スチュアート・ミルでしたが、一定の成功を見た後に精神的な危機に陥ります。その危機の中で傾倒していったのが、ロマン主義だったのです。ハリエット・テイラーとの恋愛、女性解放運動などとの関わりにおいて、ミルは次第に立場を理想主義へと転換していきました。

(略)

新しい「自由主義」、すなわちニュー・リベラリズムが目指すべき「自由」とは、「教養」を身につけ、人格を養うことによって獲得されるといわれました。そこに「教養主義」の影響があることは、明らかです。実際にイギリス理想主義の思想家は、ドイツの教養主義を取り入れることで、「自由主義」を改革したのでした。

 そこで使われる「自由」という言葉の内実が、ロック的な「自由」を離れて、ルソー的な意味での「自由」になっていることはお分かりだと思います。

(略)

 このニュー・リベラリズムの思想が、ホブソンやマーシャルの経済学に取り入れられ、ケインズ経済学に流れ込みます。

 ネオ・リベラリズム

一九八二年九月五日のワシントン・ポストに「ネオ・リベラリズム宣言」と題された記事(略)

そこでは、ネオ・リベラリズムを代表する論客として、ポール・ソンガスの名前が挙げられているのです。早逝したため、あまり名前が知られていませんが、ソンガスは、民主党上院議員で、ビル・クリントンと大統領候補選を争うほどの大物でした。「私が考えるには、民主党の統治が終わった[レーガン政権誕生]」原因は、ひとつです。すなわち、現実は政治理論に合致するようには曲げられないということです。(略)

高度成長期の「成功」を錦の御旗としてリベラルの理念を振りかざす時代は終わったとソンガスはいいます。リベラルは「消費者の味方」としてガソリン税の値上げに反対するが、それは結局、経済の長期的な問題から目を背けることでしかない。労働組合は賃金を上げることにばかり関心をもつが、それによって長期的な生産性の低下と競争の敗退を招いてしまった。一九七〇年代の不況をきちんと見据えた上で、民主党は、それに対応した経済政策を採らなければならないとソンガスは訴えたのです。その主張は、ほとんど保守派のものと変わりません。しかし、こうした主張がリベラル陣営の中から展開され、リベラル陣営の中で一定の支持を得たということが重要です。「新しいリベラリズム」は、リベラル陣営の自己批判として出てきているのです。ビル・クリントン政権は、その中で「リベラルと保守の対立を乗り越える」と訴え成立しました。しかし、クリントンも、その後実現した民主党政権も、今日に至る保守化の流れを止めることはできなかったのです。

「公共空間」は存在したか

市民が政策を議論し合うような「公共空間」は、いつの間にか失われてしまったとハーバーマスはいいます。

(略)

 代わりに台頭してきたのが、消費社会的な「公共性」です。(略)

 ハーバーマスの議論は、その「公共空間」のイメージが企業や政治家によってコントロールされる側面が強調されています

(略)

 こうした現状を前にハーバーマスは、民主主義の最初の理念に立ち返り、もう一度みなで議論し合う「公共性」を取り戻そうとします。理性的なコミュニケーションでしっかりと話し合う公共空間を再構築することが重要だと「リベラル」な主張を展開するわけです。しかし、待ってください。そのような民主主義の理念は、歴史上実現できたことがあったでしょうか。かつて存在していたとされるコーヒーハウスの民主主義は、自由主義的熱狂を背景とするものでした。封建的な社会制度を改革し、私的所有に基づくロック的な社会を実現するための熱狂が「公共空間」の形成を後押ししたのです。

 その結果実現したものがロック的な社会であり、そこに矛盾はありません。もちろん、社会主義的な社会を目指した「公共空間」も存在し、一定の広がりを見ました。しかし、その社会は文字通りの意味では実現していません。ルソー的な社会は共産主義国家としては確かに実現しましたが、リベラルが想定するような「公共空間」は、実際には資本主義社会の枠組みに寄生し、その中で権利を獲得する運動に落ち着いたのです。

 つまり、実際に社会として形成された「公共空間」は、あくまで最初から市場原理と共感を基礎に「一般性」を作り出す消費社会だったと考える必要があります。ハーバーマスが回顧するような「公共空間」は、実際に社会全体の意思決定を担うものとして機能したことはありません。

(略)

われわれの「この社会」の「公共空間」は、最初からずっと市場原理と共感を「道徳」とするものだったのです。理想的な公共空間を「かつて存在していた(はずの)もの」と考えることには、多分にロマン主義的な要素があるように思われます。

(略)

 しかし、繰り返しになりますが、「戦後民主主義」の枠組みの中では、対立するロックとルソーの理念は幸せな同居関係を実現できました。リベラルの描く理想は、資本主義の枠組みの中で経済的基盤を獲得し、資本主義社会はまさにそのリベラルの理念によって労働者を経済に統合し、実際的な利益を得ることができました。

(略)

経済成長が限界を迎えると、リベラルの描く理想は説得力を失っていきます。ネオ・リベラリズムの台頭の中で自由至上主義が復活し、苛酷な闘争の中で獲得してきた労働者の権利を労働者自ら手放そうとする雰囲気が「一般性」を獲得するに至りました。その中でわれわれは、市場原理に準拠したイメージ操作のゲームに参加することによってのみ「公共的」でありうる社会に生きているのです。

 では、結局のところ、われわれは、そうしたロック的な社会の「ルール」の中で生きるしかない のでしょうか。もちろん、それでもいい、あるいはそれしかないと思われる方もいると思います。(略)

 しかし、残念ながらそうもいかない のです。「それでいい」ということの前提には、少なくとも現状は維持されるという含みがあると思いますが、それは実は保証されていません。

(略)[30ページ飛んで](略)
では、労働者の側で積極的に「ネオ・リベラリズム」に与して未来があるかといえば、そうでもありません。すでに見たように、経済成長を維持することを自己目的化した社会は、生産性を高めるために労働者の福祉環境を切り詰める一方で、バブルと危機の繰り返しと「演出」に頼らなければ維持できない状況になっています。

(略)

「この社会で生きるよりほかに道はない」と決めつける前に、新しい道を採る可能性を考えてもよいように思います。

 では、どのような可能性があるのでしょうか。次の章では、「この社会」の問題点を反省した上で、ありうべき新しい社会の構想をお示ししたいと思います。