著者が日本で研究を始めた時に便宜を図ってもらったせいか、中曽根には好意的。
中曽根がハンサム?
外人からすると中曽根はハンサムでセクシーなのか……
中曽根は当時四八歳。背が高く、堂々としていて自身に満ちた男前である。キャサリン・グラハムの回想録にも中曽根が登場する。 彼女がワシントンポストの社長に就任してから初めての外国旅行中の一九六五年に、彼に会っているのだ。
「ディー・エリオット(ニューズウィーク編集長オズボーン・エリオットの妻で、グラハムと一緒に旅行していた)と私が世界一周旅行中に作っていたセクシーな男のリストに彼も入れた」という。
(略)
こうして私は東京に到着してほんの数日のうちに、初対面の大物政治家を前にして、自分のやりたいことを拙い日本語で説明し助言を求めることになったのである。
(略)
中曽根はその場で、次の衆議院選挙の立候補予定者のうち、私の研究対象に適した何人かの名前を挙げた。東京ではなく、保守派の票田である農村地帯や半農村地帯を調査対象にしたという私の考えに彼は賛成だったが、方言のことを心配していた。[中曽根は方言の強い岩手と鹿児島を外し、大分の佐藤文生を紹介]
諸般の事情で未発表だった2006年のインタビューを現在101歳の中曽根康弘の了承を得て公表。
靖国問題
カーティス 八五年の時に一回限りと思われましたか。それとも毎年公式参拝なさるおつもりでしたか。
中曽根 私はそういう意味の正式の政府としてのお礼を一回やれば、何回も繰り返す必要はないと思っていました。要するに総理大臣としての責任を果たしたんだと。戦死した英霊に対して国家として正式に追悼を靖国神社でやる。(略)
カーティス 中国がそんなに反発すると読めましたか。中曽根 それは外務大臣の安倍晋太郎君が向こうとの接触をしたら、それほど強い反対とは思わなかった。まあしかしやらないほうがいいという程度のものだったと私は認識しています。
ところが、その翌年また終戦日が近づいた頃に騒がしくなってきたので、[訪中する稲山喜寛・経団連会長に](略)「中国の真意を調べてください」と依頼した。(略)稲山さんが日本に帰る日の朝、一人の知日派の要人が来て、非常に悲壮な格好で「中曽根総理の参拝はぜひやめてもらいたい。中国の内政等については非常に影響がある」と言ってきた。
そのときの状況では、胡耀邦・中国共産党総書記が保守派から非常に非難されていた。で、私と胡耀邦は非常に近かった。そういう点も考えてみてこれは胡耀邦の進退に関わる危険があるから、そういう心配もして八六年は公式参拝をやめようと思った。
要するに戦後四〇年に公式参拝を総理大臣が一回やっておけば責任は果たされるんだということです。少なくとも。それ以上は、そのときの総理大臣の考えで行っても行かなくてもいい。そのときの状況しだいで。行かなくてはならないというわけではない。それは私の考えです。(略)
私はだいたい大東亜戦争というものは、英米仏に対しては普通の戦争だったと思います。しかし中国以下アジアの国々には侵略的様相があった。侵略戦争。そういうふうに国会でも答弁しています。そういう意味で東京裁判を平和条約一一条で「judgmentsを受諾する」と書いてある。あれは「判決を受諾する」と私は解釈する。
(略)
分祀の問題
カーティス (略)[国家を代表して総理大臣が参拝することは]アジアを解放するための戦争であったという神社の立場をどうしても間接的に支持しているような印象を与えるのは避けられないと思うんです。
(略)
中曽根 遊就館の展示は神主が差配して行っている。私は皇国主義的な伝統的発想については批判的です。靖国神社は明治時代の国家神道、廃仏毀釈、お寺を壊して国家神道に統一した、そんな影響の流れになっている。
それに対して私は分祀論ということを言っているわけで、神主は分祀なんかできないと言っているけれども、そんなものは明治の国家神道以来神主が勝手に決めたことじゃないか。(略)
カーティス (略)もし分祀ということになれば、却って日本の靖国問題がエスカレートしてしまう危険性があると思うんです。(略)
分祀した場合、総理大臣が靖国に行かざるを得なくなる。天皇陛下も行くべきだという話にもなる。僕が思うに靖国の問題は、A級戦犯が祀られているということではない。
間題なのは、靖国神社が第二次世界犬戦における日本の政策は正しいという立場をとっているため、A級戦犯の問題が消えた場合、総理が参拝すれば、外国人から見ると、アジアでの戦争は侵略俄争ではなく、解放するための戦争であったということを総理大臣が認めているということになる。そんなニュースがアメリカをはじめ世界に報道されて、日本のイメージに非常にダメージを与えることになる。
中曽根 それはおっしゃるとおりで非常に心配なことですね。私も先日、遊就館に行ってきましたよ。あれは直させなきゃいかん。
分祀したときは靖国神社の神主を変えなきゃだめですよ。そして靖国神社のあり方というものを世界に通用する、また国民も本当に歓迎する、そういう形にしなければいけないですね。私はだから神主がよくない、変えなければならない、そういうことを言っているんです。(略)
それが今、私とのけんかの中心になっている。明治の国家神道、非常に狭隘な思想の延長線でまだ彼らはやっている。変えなきゃいかん。
(略)
個人的心情、あるいはポピュリズムで国民の支持があった場合でも、政治的判断として国家的利益に沿わないと思った場合にはやめなくちゃいかん。今、わたしは止める段階に来ている。そう思っています。
(略)
朝鮮日報のインタビューで、「いま、政治家に何が必要ですか?」という質問に「各国の指導者が自国の過激なナショナリズムを抑制することが一番大事である。このままいったら世界が非常に混乱状態になる危険がある」と答えました。
(略)
カーティス いまの世の中でただ漂流するということが一番危険だと思うんですけどね。
中曽根 私と宮沢まではそういう理性があった。が、それ以後は戦略的思考が希薄になっているね。だから日本が危なくなってきている。
自民党のパラドックス
自民党政権がこれほど長く続くとは、当の自民党でさえ、与党になった当初は予想していなかった。(略)
[竹下登談]
「自分が自民党の新人衆議院議員として一九五八年に東京に来たときには、次の選挙かその次で自民党は政権の座から滑り落ちるだろうと思っていた」(略)
急速な工業化と高等教育を受けた若年層の増加を踏まえ、「このままでは、産業構造の変化に伴い、一九六八年にも自民党と社会党の支持率は逆転する」と予想した
(略)
[予言が外れた理由は、政権についた自民党が結党時の綱領に固執しなかったから]
憲法改正、靖国神社の国家護持の復活、米軍占領時代に行われた各種改革の巻き戻しといった目標にこだわるよりも、国会での過半数議席を維持し、握った権力を手放さないことが彼らの最優先事項となった。(略)
世論が許容すると判断したとき以外は、イデオロギーや原理原則を強硬には主張しない。
(略)盤石な地位を堅持しようと決めた自民党は、やむなく政治的には中道に偏っていく。
自民党のパラドックスを形成したのは、まさにこのプラグマティズムと日和見主義だ。自民党は日本の突出して有力な中道政党でありながら、幹部の多くは中道より右だというパラドックスである。
新自由クラブ
[自民党脱退を決めた河野洋平が田中角栄に会い新党結成の決意を伝えると]
「君は大きなまちがいを犯そうとしている。頭を冷やして自民党にとどまり、私と戦え。君には勝つチャンスがある。だが離党したら、あとで後悔するにちがいない。最初はいいかもしれない。だがそのうち資金切れになる。大衆は興味を失う。有望な候補者を立てられなくなる。そして、遅かれ早かれ自民党に舞い戻ることになるだろう。私の忠告を聞いて、脱退は止めろ」
田中との会談は河野に強い感銘を与えた。そして河野の話を聞いた私も強い感銘を受けた。田中は、河野に対していっさい不快感を露わにしなかったし、自分に対する河野の批判についても一言も言及していない。彼は老練な政治のプロとして、将来有望な若手に、急いては事を為損じると諭したのである。
田中角栄
[辞任直後、40分程の会談]
あまりに印象が強くてほかの記憶をすべて薄れさせてしまったことが一つある。向かい合って話していると、田中は歯切れよい口調で要点を指摘しながら、まるでボクサーのような具合に私のほうに身を乗り出してきたのだ。そのとき私は、自分が後ろへ押されているような感覚を抱いた。それは動物的な迫力だった。
(略)
竹下は、自民党の議員に選挙資金を渡すときの金丸と田中のちがいについて話し始めた。(略)
「金丸さんはデスクの前に座っている議員に現金の入った封筒を渡し、黙って待つ」(略)相手が封筒を開けて一万円札を注意深く数え、
「たしかに三〇〇万円です、金丸先生、ありがとうございました」
と頭を下げると、金丸は「がんばれ」と励まして送り出すという。
だが田中はちがった。議員が事務所へ束て田中の向かいに座ると、田中は札束で膨らんだ封筒を渡す。相手が開けようとすると、田中は手を振って、
「よしゃ、よしゃ、開けなくていい。これを使ってがんばってくれ」
と言う。議員が早足で自分の事務所に戻って封筒を開けると、そこには予想していたより一〇〇万円かそれ以上余計に入っているのだ。(略)
あとで親分の気前のよさに感謝するように仕向けたわけである。そうすれば、自分はこれほど信頼されているのだと感じ入った議員が深く恩に着て、田中が必要とするときによろこんで馳せ参じるだろうと知っているからだ、と竹下は話した。
三木おろし
一緒に首相官邸を訪れて、三木に退陣を迫ったことがある。だが二人は、三木があっさり脅しに屈するような人物ではないと思い知らされることになる。(略)
[数日後]会談の詳細を三木から電話で聞いたことを覚えている。(略)
三木は疲れきっている様子だったが、同時に興奮気味でもあった。「党は総理の辞任を求めている」と言われて、三木はこう言ってやったという。
「私を党総裁にしたのは自民党であるが、私を総理にしたのは自民党ではなくて国会である。だからあなた方が党総裁を辞めさせたいなら、衆参両議員総会でも開いて私を辞めさせればいい。だが総理大臣を辞めさせる権限は自民党にはなく、国会だけが持っている。したがって、どうしても私に総理を辞めさせたいなら内閣不信任案を提出すればよい。それが憲政の常道である」(略)[不信任案可決なら]三木には解散、総選挙、自民党分割という奥の手がある。三木はクスクス笑いを含んだ声で、福田と大平はうろたえて早々に引き揚げたと語った。
中曽根康弘
日本中心の世界観に浸る視野の狭い政治家とは異なり、中曽根はグローバルな視点を備え、世界の動向がどのように日本の長期的な国益に影響を与えるかを深く考えていた。そして外国の指導者との丁々発止のやり取りを楽しみ、しかもそれを自信をもってやっていた。中曽根は、珍しいインターナショナルなナショナリストだったと言えよう。
中曽根は、憲法改正を唱え強い軍隊を持とうとする右寄りのタカ派というイメージが強い。だが日本の戦前史、中国をはじめアジア諸国との関係、防衛政策、対米関係についての彼の見解を考慮すると、そう単純に一言では片付けられない。日本の右派の政治家の中には、反米に凝り固まり、韓国を見下すような態度をとり、中国に敵対意識を持つ人もすくなくないが、中曽根にはそのようなところはなかった。彼は首相として日中関係、日韓関係の改善を図るのと並行して、日米同盟の強化にも努めている。(略)
憲法改正についての彼の見方は、長い年月の間に変化している。二〇一三年に彼と交わした次の会話からも、それが伺える。
近い将来に憲法は改正されるだろうかと質問すると、中曽根はこう答えた。
「憲法ですか。憲法の改正はだんだん遠ざかるからね。いま、国民はそれほど改正の必要性は感じていない。改正の必要性の中には、やはり憲法の独自性とか、誕生の秘密とか、そういう問題がわれわれの時代には非常に強かったが、時間が経ってみたらそのような意識がほとんどなくなって、中身がよいか悪いかと、そう悪くないじゃないかと、そういう過程に入ってきている。私自身はすこし直して子孫に渡したほうがよいと、手を入れるほうがよいと、占領以来の経過をもう一回日本で洗い直すほうがよいという気がするが、しかしもう昔のような緊急課題ではなくなってきている。歴史的な課題ではあるが、現実的な課題かと言えば、あまりそうは言えない」
中曽根はこのときの会話で、日本の歴史は外国の思想や制度を取り入れ、それを消化して日本的なものに変えてしまうことの繰り返しだったと語った。若かった頃は、憲法は日本人の価値観と相容れないのだから改正すべきだと考えていたという。だが長い年月を経る間に、日本人は憲法を自分たちのものにしていった。憲法を日本化したのである。
橋本龍太郎
橋本は首相在任中に多くのことを成し遂げたにもかかわらず、どうも過小評価されているきらいがある。私は何回か会ったが、ひねくれて近寄りにくい人で、ゆっくり話を聞く機会を作らなかったことをいまになって後悔している。金融ビッグバン、官邸パワーの強化、中央省庁再編、政策立案プロセスの透明化といった成果を考えれば、橋本は戦後の首相の中で歴史に残る一人だったと言える。
『代議士の誕生』
同書は日本の戦後民主主義における選挙運動を詳細に調査した初めての本格的な研究文献として評価され(略)政治に関心のある人たちの必読書となったのである。
また、一部の政治家志望者にとっては、選挙運動の組織作りのマニュアルといった存在にもなっていたらしい。小泉純一郎(略)首相になってから話をした際、
「私が政界に出たとき、『代議士の誕生』は日本の政治家の“バイブル”だった」
と話してくれた。
(略)
票まとめのできる地方の有力者の重要性に初めて気づいたのは(略)
佐藤文生の選挙運動の世話役をしている町会議員の坂本[を取材していると、田舎道を向こうから歩いて来た男に](略)
「今度、衆議院選挙がある。佐藤文生をよろしく頼むよ」
と言った。そのときの相手の返事は、日本の選挙における個人的関係の重要性を教えてくれるものだった。
「あなたには大変世話になっているけん、もちろん佐藤に入れますよ」
と言ったのである。
もう一つのエピソードは、豊後高田市を地盤に持つ清原という県会議員の自宅にお邪魔したときだ。(略)[選挙運動のために集まった男達に]なぜ佐藤を支持するのかと私が質問をすると、彼らは失笑し、一人が答えた。
「カーティスさん、誤解しないでください。俺たちは佐藤文生を支持しているのではない。支持しているのは県議の清原先生である。先生が佐藤の票をまとめろと言うからやっているだけだ」(略)
佐藤は結局、選挙運動中に一度も豊後高田市を訪れなかった。清原があの手この手を使って、佐藤の演説会が開かれるのを防いだからだ。彼としては、衆院選の候補者でカリスマ性もある佐藤に直接有権者に訴える機会を与えなければ、佐藤は清原に頼って票を取りまとめてもらうほかない。佐藤は清原に潤沢な選挙資金を渡し、その中から票集めに動く子分たちに「足代」を払ってもらう。言ってみれば佐藤は豊後高田での選挙運動を清原に丸投げしたわけである。
清原は豊後高田市で三五〇〇票を佐藤に約束していた。[結果、得票は3564票だった]
- 作者: ジェラルド・カーティス,山岡清二,大野一
- 出版社/メーカー: 日経BP
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選挙制度改革
小泉は選挙制度改革に反対で、小選挙区中心の制度にしたら党総裁に過大な権力が集中するだろうと考えていた。(略)
[首相になってから食事した時]小泉は、選挙制度改革を中心になって進めたのは(略)小沢一郎だが、小沢は、新制度になれば自分が首相になり、それまで誰も手にしたことのないような権力を掌握して政治を支配できると考えていた、と語った。(略)
「私は小選挙区には反対だったが、いまやそうなったからには、首相がこの制度を使っていかに自分の思い通りにできるかを広く知らしめてみせる」(略)
「この制度は、平議員にとっては悪夢だ。もう派閥の長は頼りにならないし、中選挙区制のときのように選挙運動で党総裁を批判することもできない。