ニール・ヤング 回想 その2

前回の続き。 

ニール・ヤング 回想

ニール・ヤング 回想

 

CSN

 CSNには独自のサウンドがある。そこにわたしの声がどうしたら溶けこめるのか。三声のハーモニーは比較的簡単だが、四声となるともう少し複雑になる。だが、わたしたちはうまい方法を見つけた。あれほどすばらしいシンガーたちと歌うのは本当によい経験で、彼らから多くのことを学んだ。デヴィッドとグレアムは完璧なのに対し、スティーヴンとわたしの歌はもう少し自由だった。ところが四人で合わせると、みごとなハーモニーが生まれた。わたしたちはたびたび合わせた。スティーヴンと歌っていると心が踊る。四人で歌うのは楽しかった。何というサウンドだろう。
 毎日、わたしは超幅広タイヤにスモークガラスの窓、グレーのプライマーで塗った埃だらけのミニに乗って、スティーヴンの家までクロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤングの練習に通った。途中には信号もなければ高速道路もない。ほかの車を見かけることもほとんどなかった。自分専用の抜け道だった。埃っぽい尾根の旧道で、利用する者はほとんどなく、サンフェルナンド・バレーと海辺の町を隔てる山の稜線を走っている。まさに絶景で、標識も交通ルールもない。わたしは8トラックでフランク・ザッパマザーズ・オブ・インヴェンションをガンガンかけながらミニを飛ばした。(略)

フリーウェイの上を通って、そのままマルホランドを飛ぶように走りつづける。わくわくするドライブだ。もっとも、わたしのお気に入りはトパンガから続く十二マイルの未舗装の道だった。ほかの車にすれ違ったことは一度もなく、全速力で飛ばす際に巻きあげた土埃は何マイルも向こうから見えたにちがいない。

 一九三四年型ベントレー直動式クーペ

 エイブラハムを売ってから真っ先にしたこと――それは、グレンデールの年配の紳士から、マリナーがボディワークを手がけた黒とシルバーの一九三四年型ベントレー直動式クーペを買うことだった。

(略)

来る日も来る日も、ブリッグスとわたしは古いベントレーでトパンガとハリウッドを往復し(略)決まって夜遅くにトパンガに戻ってきた。スタジオに長時間こもったあとで、夜の空気を切り裂きながら101号線を飛ばした。

(略)
床にも排気カットアウトレバーがあった。この仕組みは控えめに言ってもすごい。燃料を節約してパワーアップするために、レバーを引いてマフラーの機能を完全に止めることができる。それによって排気ガスは残らず排出される。すると車は爆音を立て、少しばかり速く走る。それこそブリッグスと私が毎晩やっていたことだった。そうやって101号線を走り、レコードのことや明日やること、うまくいったこと、もう一度やるべきことなどを思いつくままに話しているあいだ、この威勢のいいベントレーは驚くような音とともに疾走し、わたしたちを間違いなく目的地へ運んでいた。低く轟く音は何とも心地よかった。車にまつわる数々の思い出のなかでも一、二を争うものだ。あの車の気迫は本物だった。 

一九五一年型ウィリス・ジープスター 

 トパンガヘの帰り道、ブリッグスとわたしは何度となくジープスターに乗り、カセットを聴いて、ミキシングをチェックした。(略)

アフター・ザ・ゴールド・ラッシュ』の制作中に、キャニオンで大麻を一ポンド買った。それを吸いながらジープスターに乗るのは最高だった。当時はしょっちゅうそうやって古い山道を上り、途中で停まっては、若い目で、上等のハッパで感受性が鋭くなった視界で、美しいカリフォルニアを眺めた。

(略)

[「アフター・ザ・ゴールド・ラッシュ」の歌詞引用]

(略)

 わたしたちは夢の中で生きていた──音楽を作り、目標を達成し、そのたびに若者だけがつかの間、知っている楽しみとともに勝利を祝う。わたしたちはまさしくそこにいた。女性、愛、わたしたちの歌う歌とともに谷を進み、山の頂上にたどり着いた。しかも、まだほんの序の口だった。ブリッグスと一緒に作るアルバムは愛と苦悩、喜びと悲しみ、大人になることへの証なのだ。 

旧車マニア 

  わたしは少しずつ旧車マニアとして知られるようになっていた。一九七一年の秋には手当たり次第に買った。そのうちの半分はまともに走らなかったが、どれも見た目が特徴的で個性が際立っていた。ガソリンの価格は一ガロン当たり三十六セントだった。
 一九七二年ごろ、LAでまたしても車を買った。いったい、どういうつもりだったのか。ほとんど病気だ。とにかく、それは一九五〇年型パッカード・クリッパーで、唯一の魅力は翼を広げた美しい鳥の飾りがボンネットについていることだった。まるで古い船の軸先のようだった。車自体は、わたしが子どものころに父が買ったような普通のセダンで、とくべつなところは何もなかった。

(略)

 結局、ボンネットの飾りは別のパッカード、木目パネルのステーションワゴンに使った。一九五〇年型クリッパー・セダンは、しまいには解体するはめになった。本当に何を考えていたのか。そうした行為をきっかけに、わたしは車の衝動買いの癖や全般的な価値観について考えるようになった。この車には五百ドルも使った。何か深い意味があるのか?自分の欠点を補おうとしているのか?だが、この本では車のことを書いている。だからここでは深追いしない。

癲癇の発作

[バッファロー・スプリングフィールドが演奏した全ての日付が記録されたサイトを見ていて]

  最も衝撃的だったのは、わたしが脱退と復帰を繰り返した回数だった。それ以外にも、わたしがステージ上で癲癇の発作を起こしたとサイトの作者が主張している回数にもひどく驚いた。そう考えると、バンドはよくわたしに我慢してきたものだと感心せざるをえない。もちろん本番中に発作を起こしたことはない。発作を起こせば大ごとになる。とくに子どものころはそうだった。わたしはじっくり考えてみた。発作を起こしていれば忘れるはずがない。この作者が誤解しているか、誇張しているのだろう。

(略)

発作についてはつねに危惧していて、ステージで演奏中に人前で発作を起こすことをひどく恐れていた。そう言われてみれば、前兆を感じて一度ならずパニックに陥ったことを思い出した。みずからの殼に閉じこもり、なかば演奏し、なかば意識を保ちながらその場に突っ立っていた。いつもそうだったわけではないが、その状態になると手がつけられなかった。スプリングフィールドのメンバーは、わたしが注目を集めるためにわざとそうしていると考えていた──サイトにはそう書かれていた。当時のことを思い返しながら、わたしは気まずさがこみあげ、身体が熱くなるのを感じた。(略)

実際には演奏したはずなのに、ウェブサイトではキャンセル扱いになっているステージについては、開演が遅れたことを思い出した。発作に関する記述は続き、フロリダでのライヴまでは何となく心当たりはあったが、それ以外は記憶になかった。それに、本当に発作を起こしたのかどうかはいまでも確信がない。おもしろおかしくするために、こうしたことは誇張して書くことが多いからだ。
 ビーチ・ボーイズやストロベリー・アラーム・クロックのツアーにも参加した。続けざまに多くのステージをこなし、ときには一日に二、三回演奏しながらフロリダ中を飛びまわった。前の会場でのライブが終わらないうちに、次のライブが始まる。こうした“マルチライヴ”が来る日も来る日も続いた。タイトなスケジュールだったが、わたしたちは若く、それがビーチ・ボーイズのやり方だった。わたしたちは他のバンドよりも多く前座を務めた。二年間で三分の一はビーチ・ボーイズのツアーに同行したと思う。(略)

[68年4月9日のライヴについて]

ウェブサイトには次のように書かれていた。


 ニール・ヤングはこの公演で癲癇の発作を起こす。デューイはシャツを脱いで客席に飛びこみ、あやうく乱闘になりかけた。警官がライヴを中止すると同時にヤングは発作を起こす。スプリングフィールドは彼をステージに残して下がり、観客の中から彼の母親が助けに駆けつけた。

 

 わたしはほとんど覚えていなかったが、どうも大きな不安を抱え、フリーズ状態になってしまったライヴのようだ。リストでは、それを発作と見なされていた。そのころには皆、わたしにうんざりし、ライヴ会場に置き去りにした。彼らはわたしがバンドにいることに耐えられなかったにちがいない。いまのわたしにはそれしか言えない。ステージ上で起きたことは事実だが、あれは発作ではなかった。発作を起こすかもしれないという不安だ。いつも胃に前兆を感じる。吐き気がこみあげるのに似ている。そうするとパニックに陥り、凍りついてしまうのだ。
 じつに忌まわしい出来事だった。

シトロエンマセラティ 

 これまでわたしがしてきたことには、生きるためのちっぽけな根拠から外れ、せいぜい規範から逸脱した例に過ぎないものもある。ひょっとしたら自分を変えようとする試みかもしれない。あるいは理解できない何かを意味しているのか。いずれにせよ、深く追求するまでもない。
 その最も典型的な例が、七〇年代半ばに生産されたシトロエンマセラティを買ったことだ。全盛期には異彩を放っていた。速いが信頼性に欠け、概してオーバースペックで細心の注意が必要な車だった。どこで買ったのかは覚えていない。マリファナ常用者のわたしにとっては、運転が難しかった。危険なほどスピードが出る。そしてわたしはスピードを出した。そう求められていると感じたから。ほかの車の大半はリラックスしながらゆっくり走らせていた。言ってみれば旅の道連れのように。大型で快適な乗り心地だった。だが、これは違った。相性が合わない。違和感だらけで、ことごとく私の意に反する乗り物だった。(略)

[ある日、フォルクスワーゲンに抜かれ、挑戦を受けて立ったが、時速105マイルでスリップしかけ断念。しばらく行くと、VWの運転手が待っていた。話をすると、ポルシェ・エンジン搭載の改造車]

毎週末、レーストラックを走っているとのこと。わたしは内心ほっとした。この男においつこうとせずにスピードを落としてよかった。わたしがマリファナ煙草をすすめると、彼は一服した。

(略)

 結局、マセラティとはそりが合わず、その後すぐに売り払った。無傷で逃げられて運がよかったと思いながら。

リンカーン・コンチネンタル 

一九五九年型リンカーン・コンチネンタル・マークVのコンバーチブル

(略)

力強い輪郭、考え抜かれてレイアウトされたダッシュボードと計器盤は、それまでに見た二台よりもはるかにいい。みごとに彫られ、磨きこまれたクリーム色の美しいハンドルには、中央にしゃれたクロームのリングと、黒を背景にしたリンカーンの立派なエンブレムがはめこまれている。まさに芸術作品だ。後部のライトは五八年のものよりもはるかに優雅で、五八年の平たく丸い形にくらべて端正で洗練されている。フロントエンドは、情熱的でちょっぴり腹を立てている、少なくとも悲しそうな表情の五八年とは対照的に楽しげに見えた。細部にじっくり目を向けるうちに、わたしはこの車から強い感情を感じ取った。車はフロントエンドを見れば全体のデザインがおおよそわかる。わたしは五九年の明るく楽観的な雰囲気が気に入った。

  長いスカーフを巻いたマリリン・モンローが女友だちと後部座席に座り、髪を風になびかせ、あの黒い大きなサングラスでそよ風から目を守っている姿がすぐに思い浮かぶ。この車には成功が約束されているような気がした。ほかのどの車よりもアメリカンドリームに訴えかけていた。

(略)

[だが塗装に変な箇所。持ち主が語る悲しい思い出]

「やったのは、わたしの恋人です」男は静かに言った。話によると、彼女は腐食性の高いブレーキオイルを持ち出して、時間をかけて車全体にかけ、取り返しのつかないほどのダメージを与えたという。損傷は金属にまで及んだ。(略)彼がどれほど車を愛していたのか、わかっていたのだ。

(略)

 わたしはその場で購入(略)

それまで目にしてきた車のなかでもずば抜けた存在感を放っており、わたしの人生で大きな役割を果たしそうな予感がした。その車とともにどんな経験をするのか、あるはどのような変化をもたらす存在になるのか。まったく見当もつかなかった。 

デッドマン [DVD]

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『デッドマン』

[友人のジム・ジャームッシュからサントラの依頼]

 わたしがその映画を観たときには、台詞しかなかった。わたしはジムに傑作だと伝えた。実際、そのとおりだった。(略)最初からサイレント映画のような印象を受けた。

(略)

 わたしはコンチネンタルでセッションに向かった。『デッドマン』に参加するに当たり、映画館で生伴奏をする音楽家の気持ちになろうと決めた。一九八〇年の『ヒューマン・ハィウェィ』の撮影で知り合った友人のマイク・メイソンからサンフランシスコの古い場所を借り、部屋の中央に立つわたしを取り囲むように、二十台ほどのテレビモニターを置いた。七十インチから七インチまで、さまざまなサイズのモニターを取りそろえた。テレビに囲まれたわたしはギター──オールド・ブラック──とアンプ、古いピアノを用意した。どこを見ても映画が見える。逃れられない。伴奏をしたくなると、楽器を構えて演奏した。ほとんどはエレキギターのオールド・ブラックのソロで、効果音を出したり、何年も前に自身の映画のアイデアのために書いた「The Wyoming Burnout」をもとにテーマ音楽を作ったりした。別のテーマ曲も脇役のひとりのために考えた。すべてラィヴ演奏だ。ぶっ続けで全編の音楽を三回録音し、二回目の前半と一回目の後半を採用することにした。

(略)

場面転換で用いた車の音にはリンカーンのエンジン音を録音し(略)

映画に登場するのは馬や列車だけで、車は出てこないが、サウンドトラックでは、夏の夜に誰もいない裏道を走るコンチネンタルの轟音が道端のコオロギの鳴き声とともに効果的に使われている。
 録音の際には、コンチネンタルのコンバーチブルトップを開け、車にマイクや録音機材を積みこんだ。あの年の夏はコオロギの鳴き声がひときわ大きく、ところどころ、台詞やブレイクの詩を朗読するデップの声の裏にコオロギの声が聞こえる。音楽、台詞、車のエンジン音、ジョニー・デップのすばらしい朗読とともに、アルバムのために物語が紡がれた。リンカーンのV8エンジンの乾いた音は、二十世紀の馬としてさまざまな映画で用いられている。 

(略)

 私が車を買うのは、その魂のためだ。車にはそれぞれの物語がある。わたしは運転席に座り、その物語を感じ、そこから生じる感情で歌を書く。車は思い出を積んでいる。わたしにとっては、車は生きている。どの車も。