ニール・ヤング 回想

二巻で出てる自伝(ニール・ヤング自伝Ⅰ - 本と奇妙な煙)と何が違うか。

向こうは時系列バラバラでとりとめない回想。こちらの方はニール・ヤング直筆の愛車イラスト&旧車マニア話とともに時系列での回想。 音楽に関する話はあまりダブってない。

ニール・ヤング 回想

ニール・ヤング 回想

 

キャデラック エルドラド ビアリッツ

 ある日、学校の帰りに、いつもと違う道を通った。(略)一軒の大きな家の前に車が停まっていた。鋭いテールフィンと優雅な曲線が目を引くコンバーチブルだ。そんな車は見たことがなかったので、近づいてエンブレムを見た。エルドラドだった。実物を見たのははじめてで、すっかり心を奪われてしまった。キャデラックの中でも最高の車だということは知っていた。よく見ると、フロントフェンダーに取りつけられた金色のエンブレムには、洗練された文字で“ビアリッツ”と書かれている。これがキャデラックの技術を結集したと言われる噂の車なのか。彫刻のように美しいボディ、クロームメッキ、フロントガラス、背もたれにクロームのメダルがついた豪華な革の座席、そしてこのみごとな車の存在そのものに、わたしは心が揺さぶられた。ナンバー・プレートには“ミシガン”。こんな車を持っているのは当然アメリカ人だろう。わたしは心に誓った。いつか自分もアメリカヘ行き、話に聞いたり本で読んだりした憧れの生活を送ろう。すべてのかっこいい音楽、すばらしい車が生まれる国。いったいどうやって作り出しているのか。わたしは知りたくてたまらなかった。

鉄道模型

 ちょうどそのころ、わたしは父と母が大喧嘩をしているのを目撃した。母は大声でわめいていて、父は母を叩いた。原因はわからず、いま考えると、わたしはその場にいるべきではなかった。(略)

両親の喧嘩を目撃したことで、わたしはとても嫌な気分になり、それから数日間は地下室にこもって、ライオネルの中古の小さな蒸気機関車で遊んでいた。家の地下のコンクリートの床の上、自分だけの世界。そこにあるのは電池で動く列車とボイラーとカビ臭い配水管だけ。ほかのことは何もかも忘れた。
 地下室は少し湿っていて、何かに触れた拍子に感電することもあった。裸足になってもだめだった。上から吊り下がった電球が小さな列車を照らしていた。わたしは床に座り、変圧器で実験をした。列車を手に持って、車輪が回りながら火花を散らすのを眺めていた。それが、わたしと電気との長い関係の始まりだった。

自己表現欲求の芽生え

[両親の離婚で母とウィニペグに引っ越し]

 新聞配達は貴重な収入源で、そのおかげでいろいろな物を買うことができた。最初に買ったのはハーモニー・ソブリンのギターとディアルモンドのピックアップだ。それがギタープレーヤーとしての足掛かりとなり、わたしは昼も夜も練習した。アンプは必要なかった。ハーモニーのギターにはfホールがあって、家で音を響かせて弾くことができた。
 そのうちに、ちょっとした言葉を紙に書いて寝室の壁に貼るようになった。ほとんどは“そんなこと構うものか”といったフレーズだった。そのせいで[母の]ラッシーはひどく心配し、壁に貼られたメッセージを見ては動揺していた。それでもわたしは書きつづけなければならなかった。いま思うと、自己表現の欲求が芽生えていたにちがいない。つねにハーモニー・ソブリンを弾きながら、あの部屋で詩を書きはじめ、やがてちょっとした自作の曲を演奏するようになった。
 シーブリーズ[のプレーヤー]はリビングに置かれた。(略)わたしはベンチャーズやシャドウズのLPを中心に、ザ・ファイアボールズ、ジョニー&ザ・ハリケーンズ、ビル・ブラックス・コンボ、ヴィスカウンツ、マーキーズ、それにフレディ・キングの「ハイダウェイ」というすばらしいインストゥルメンタルのドーナツ盤などを聴いた。

(略)
わたしは新しい街を探検した。学校が始まると、すぐに音楽好きの仲間が何人か見つかり、のちに〈ジェイズ〉という名前をつけるバンドを結成した。わたしの最初のバンドだ。

(略)

 ケンもわたしもシャドウズのファンだった。そのころ、アラン&ザ・シルバートーンズというウィニペグで一番のバンドに、シャドウズの曲を全部弾くギタリストがいた。とにかくすごい演奏だった。名前はランディ・バックマン。シャドウズのリードギターのハンク・B・マーヴィンがやっているように、テープレコーダーを使ってエコーサウンドを作っていた。
 誰でもヒーローの存在が出発点となる。わたしの場合はハンクとランディだった。ふたりともテープエコーはエコープレックスを使っていたので、わたしも真似をして、いまでも使っている。テープエコーを使いながら、ビグスビーのヴィブラート・テールピースでピッチを変化させて音に深みを加える。ビグスビーを取りつけ、さらに指先を上下に動かして音の幅を広げると、オリジナルの音とは異なるディレイ音が出せる。わずかにピッチの異なる音が少し遅れて響き、ディレイ効果が得られるのだ。もちろん、当時のわたしが持っていたのはピックアップが一つしかないハーモニー・ソブリンで、ビグスビーもついていなかったから、実際にディレイ音を鳴らすことはできなかった。エコーはかからなかった。ただ弾き方を知っていただけだ。ランディのギターはグレッチで、ピックアップが二つとビグスビーもついていた。わたしには世界一のサウンドに聞こえた。あんなふうにかっこよく弾いてみたくてたまらなかった。

(略)

 一九六二年十一月、一七歳になったわたしは、誕生日にラッシーからもらった新しいギターでインストゥルメンタルの曲を書きはじめた。サンバースト塗装で黒いギブソンのピックアップが一つついた、ギブソンレスポール・ジュニア。本物のエレキギターだ!記念すべき第一号だった。塗装はあちこち剥げていたが、そのほうが本格的に見えた。

(略)

勉強しなければならないときでも、装置やアンプの配置によってサウンドがどう変わるのかを想像しながらステージセッティングの略図を描いたりしていた。

(略)

わたしはビル・ブラックス・コンボを見に行ったのを覚えている。当時、ビル・ブラックはエルヴィスのバンドでベースを弾いていて、弦を櫛で叩いて恐ろしくユニークな音を出した。だからビル・ブラックス・コンボのギターサウンドはパーカッションみたいだった。これはまったくのオリジナルで、ブギウギのベースラインとなった。

(略)

わたしは何時間もバンドの目の前に立って、一挙一動を観察した。

(略)

[双子の]マリリンとジャッキーは『ティーン・ダンスパーティ』というテレビ番組にレギュラー出演していた。美しいだけでなく、ダンスも上手だった。一度、番組を見学に行ったが、わたしは恥ずかしくて踊れなかった。それでもマリリンはわたしのことが好きで、ふたりで本当に楽しい時を過ごした。どこにでもいる少年少女のカップルだった。いつもわたしが彼女の家に行き、リビングにある電子オルガンを弾いた。

(略)

 マリリンはわたしが初期に作った「アイ・ワンダー」という曲を楽譜に起こすのを手伝ってくれた。それを自分宛てに送って開封しなければ、基本的なやり方で著作権を保護することができる。つまり封を切らずにおくことで、消印が投函された日付を示し、作曲者がわたしであることと時期が証明されるというわけだ。マリリンがわたしの歌を聞き取って楽譜に書きこみ、わたしは歌詞の上にコードを書く。そんなふうにして母がよく父の原稿を編集していたものだった。

(略)

 新しいバンドには〈スクワイアーズ〉という名前を考えた。(略)

ウィニペグ・ピアノ・カンパニー〉は、地元ミュージシャンたちが集う大きな楽器店だった。(略)わたしは足しげく通い、眺めながら夢見ていた。ランディ・バックマンもしょっちゅう顔を出していた。彼は、ちょっとしたリバプールのようだったと振り返っている。ウィニペグには無数のバンドがあり、誰もがどこかのバンドに参加しているようだった。

(略)

  少しばかりファンもつくようになった。あちこちの会場に同じ顔が聴きに来ていることに気づいたのだ。とにかくうれしかった。バンドの曲はすべてインストゥルメンタルで、その多くをわたしが書いていた。オリジナル以外にも、ベンチャーズやシャドウズなどの人気グループの曲をたびたび演奏した。一九六三年、わたしたちはお世辞にもきれいとは言えない格好で小さな車に乗り、ウィニペグ中をどさ回りのように渡り歩いた。季節が変わって秋が終わろうとしていたあのときの感覚をいまでも覚えている。わたしは成長し、木の葉の色も変わりつつあった。

ジミー・リード

昼休みの余興として、わたしは居並ぶ生徒たちの前に立った。スチュアート・アダムズと、もうひとりが一緒だった。スチュアートはイギリス人だ。ビートルズを二曲やった。わたしはギターを弾き、たしか彼も弾いていたが、よく覚えていない。がちがちに緊張していた。あのときの感覚は一生忘れられない。(略)

「マネー」と「イット・ウォント・ビー・ロング」、どちらも大ヒットアルバムに収録されている、すばらしい曲だ。観客の反応がよかったかどうかは覚えていない。

(略)

 世の中がビートルズ一色になっても、わたしはあいかわらずジミー・リードに夢中で、つねにシーブリーズで聴くアルバムを二、三枚持っていた。どの歌からもにじみ出るシンプルさと誠実さが大好きだった。声はすばらしいというわけではなく、ハーモニカは素朴でぶっきらぼうだったが、コーヒーハウス〈フォース・ディメンション〉で聴いたブラウニー・マギーとはスタイルが異なった。ジミーは同時にギターも演奏できるように首にハーモニカホルダーをかけ、哀愁を帯びた高い音を長く伸ばして吹く。ほかの誰とも違うブルースサウンドで、単純ながらも最高の音楽を作り出し、わたしにとっては記憶に残る天才、偉大なミュージシャンだった。おそらくあまりにも完成度が高かったせいで、生存中は筋金入りのブルースファンにも正当に評価されなかった。わたしを除いて。 

Anthology

Anthology

 

 

デル・シャノン

わたしたちはエコーや重ね録りを駆使し、スタジオでは本当に有意義な時間を過ごすことができたが、残念ながら成果は得られなかった。レコード会社と契約できなかったのだ。わたしは自分の声が世間受けしないせいだと思ったが、レイの考えは違った。だから路線は変更しなかった。
 ステージの予定があったため、わたしたちはそのまま街に留まった。コロシアムで行われるCJLXの番組で、〈ジェイ&アメリカンズ〉の前座を務めることになったのだ。大きなチャンスだった。何しろ彼らは大スターだ。一方、フォートウィリアムにいるあいだに、デル・シャノンが来て歌った。ケンとビルとわたしは観客に混じってステージを見た。ウィニペグでシルバートーンズを見ていたときと同じように。
 デル・シャノンはミンクのギターストラップを肩にかけ、「花咲く街角」「悲しき街角」「さすらいの街角(Stranger in Town)」などヒット曲を残らず歌った。本当に唯一無二で魅力的だった。のちに自殺を遂げたのは非常に残念なことだ。声量のわりには小柄で、見るからに孤高の存在だったが、すばらしい歌手でとても強い感情を秘めていた。それでも、彼のパフォーマンスにはどこか痛ましいところがあった。はっきりとはわからないが、存在感がありすぎてステージに収まりきらないような気がした。その日から、わたし自身も「さすらいの街角」を歌うようになった。とても気に入って、スクワイアーズのレパートリーにも加えた。のちに、わたしはわたしなりの「Stranger in Town」を書き、練習を重ねてCJLXの番組に備えた。その大きな番組に出演できるのはワクワクした。

(略)

 当時、わたしはアメリカヘ行くことを考えはじめていた。アメリカほどおもしろい国はない。バンドで成功するつもりなら、音楽の中心地でメジャーになりたいと思うのは当然だろう。 

Stranger In Town

Stranger In Town

  • デル・シャノン
  • ロック
  • ¥150
  • provided courtesy of iTunes

 1954年型パッカード

  あのすばらしいパッカードの救急車/霊柩車がわたしの手元にあったのは、ほんの一時期で、その後どうなったのかは覚えていない。おおかた修理代も出せないような問題が発生したのだろう。きっとどこかに駐車したまま置いてきたにちがいない。車両登録も保険も、そういった類の法的な手続きはいっさいしていなかった。(略)

カナダで乗っていて、手に負えないトラブルのせいで路肩に置き去りにした一九四七年型ビュイック・ロードマスター・コンバーチブルと似たような運命を辿ったわけだ。

一九五七年型コルベット

 大きなテレビ番組への出演決定、アトランティック・レコードからの前払い金、ファーストアルバムの発売と続いたところで、わたしはまたしても自分へのと褒美として、一九五七年型コルベットを千二百五十ドルで購入した。メタリックブロンズのボディ、かっこよくて力強くハスキーなエンジン音。そのコルベットはわたしが所有した最初のセクシーで速い車で、舞い上がるような気持ちで運転したものだった。ほとんどいつもガソリン臭かったが、それでも美しいデザイン、タイヤ、古典的なダッシュボードに惚れこんだ。
 この自分へのと褒美の習慣は長年続き、じつを言うと、いまでもやめられない。わたしは車が大好きで、何かを成し遂げて、その見返りを得るという気分は何ものにも代えがたい。

(略)

 ローレルキャニオンは知り合いのミュージシャンがおおぜい住んでいて、その多くが成功したバンドのメンバーだった。(略)

わたしの一九五七年型コルベットは、ユーカリの木立ちに囲まれた節だらけの松材の小屋まで曲がりくねった山道を難なく上っていく。(略)

途中で、ママス&パパスの美しいミシェル・フィリップスが庭に出ているのを見かけることがあった。その家を通り過ぎるときには、決まって彼女の姿を探したものだ。もっとも話しかけるチャンスはなかった。遠くからひそかに想い、けっして触れることはできないとわかっている――彼女はそんなタイプの女性だった。

(略)

 一九六六年の二十一歳の誕生日は忘れられない。なぜなら、その晩にサンセット・ストリップの暴動が勃発したからだ。(略)

[ロック・ファンに人気のラジオ局がヒッピーの夜10時以降外出禁止令への抗議デモを呼び掛けたことで暴動が発生]

 スティーヴン・スティルスが暴動に触発されて「フォー・ホワット」という曲を書いていたころ[ドライヴ中に無免でつかまり刑務所へ]

[ジョニー・カーソンの『ザ・トゥナイト・ショー』に出たくなくて]

いま思うと、いきなりバンドを辞めなくても、スティーヴンと話し合えば自分の考えを理解してもらえたかもしれない。だが、そのころのわたしは大人ではなかった。

 その結果、[ローンが払えず]わたしはコルベットを失った。(略)

それは忘れられない教訓となり、以来、車は何があっても現金で買うようにした。

 もちろん、しばらくしてからわたしはバンドに復帰して、またツアーに出はじめた。

(略)

[67年3月]そのころには、わたしたちのスタイルはかなり過激になり、スティーヴンの名曲「ブルーバード」を(略)サイケ調の白熱したアドリブで限界までアレンジしていた。その結果、わたしはグレッチの弦をことごとく切り、デューイはドラムを破壊し、スティーヴンは怒濤のように演奏した。

(略)

ポートランドでの晩、楽屋に戻ったときに行き違いが起きた。スティーヴンとブルースとわたしは何かのことで大喧嘩し、わたしは頭のネジがぶっ飛んだ。クスリをやっていたわけではなく、ただ正気を失っただけだ。わたしは美しいオレンジのグレッチをつかんで椅子に叩きつけた。ボディの裏側がぱっくり割れた。エネルギーがあり余っていて、どうしていいかわからなかったのだ。(略)
 当時、新品のグレッチは、ベルトのバックルで傷がつかないように裏側にやわらかい革のパッドをつけて製造所から送られてきた。そこで、わたしは修理してもらった部分にそのパッドをつけた。いまでもそのギターを弾いている。
 わたしの音楽人生では、この仲間で演奏したステージが最高だった。バッファロー・スプリングフィールドは、わたしが生まれてはじめて全力を出し尽くしたバンドだった。(略)

残念ながら、バッファロー・スプリングフィールドが日の目を見ることはなかった。オリジナルのメンバーによる録音で質のよいものは存在せず、活動を記録した映像も残っていない。だからその名を聞くと、最盛期を知る者の胸にはほろ苦い感情がこみあげる。 

次回に続く。

 

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