洋書天国へようこそ 宮脇孝雄

 『さらば愛しき女よレイモンド・チャンドラー

 ミステリの世界では、このハードボイルドは長いこと人気がなかった。私が翻訳を始めたばかりの頃、と言うのは、50年近く前だが、ミステリーの専門誌でハードボイルド特集号を出すと、その号だけ売り上げが落ちるといわれていた。

『よき兵士』フォード・マドックス・フォード

 まだ訊かれたことはないが、もしあなたの好きな小説は何ですかと訊かれたら、Ford Madox Ford の The Good Soldierを挙げるかもしれない。しかし、訊いた側は、けげんな顔をするだろう。この小説、一般には、あまり知られていないからである。ただ、英米では有名な作品で、「20世紀の傑作長篇百冊」などというアンケートがあれば、必ず上位に食い込んでくる。

 「山本山」みたいな作者の名前、フォード・マドックス・フォードは、もちろんあとから自分でつけたもの。

(略)

まるで戦争小説のようだが、実は不倫小説の傑作で、第一次大戦中の1915年に出版されたせいで、戦意高揚のために(!)こんな題になったといわれている。

(略)

 話は、事件がほとんど(だが、全部ではない)終わったあとの回想として、ダウエルの一人称で語られる。面白いのは、時間軸に沿って出来事が回想されるのではなく、思いつくまま、連想にまかせて、とびとびに語り手の見聞が語られる点である。そこからサスペンスが生まれる。

 ところが、本当の悲劇は、当事者であるはずの語り手の知らないところで起こっていて、読者は何も知らない語り手の言葉の行間を読み、その悲劇の真相を探ることになる。今でいうメタ・ミステリ的な手法をとっているわけで、こんな書き方を導入した先駆作としても知られている。

(略)

 ここに書かれている事実は、あとになって、そのほとんどが覆されることになる。まず、陰の主人公アッシュバーナム大尉は、そんなに立派な人物ではなく、希代の女たらし。そして、語り手の死んだ妻には心臓病の持病などなく、心臓が悪い、と嘘をついて、毎年、温泉行きを夫にねだり、旅先で愛人と逢い引きを重ねていたのである。

 それなのに、語り手は、「こんな悲しい話は聞いたことがない」と、まるで他人事のように語りはじめる。自分が悲劇の登場人物であることにも気づかずに……。

『情事の終り』グレアム・グリーン

 フォード・マドックス・フォードの The Good  Soldier は、のちの世代の作家に大きな影響を与えている。 ミステリ作家のダシール・ハメットがこの本を読んでいたことは伝記的研究明らかになっていて、どうやらハメットはこれを下敷きにして、一人称のミステリを書きたがっていたらしい。

 真正面からフォード・マドックス・フォードに挑んだのが(略)グレアム・グリーンで、その代表作の一つ、『情事の終り』(The End of the Affair) は、The  Good Soldier を研究しつくした上で書かれた作品である。

(略) 

 爆発音を聞いた憶えはなかった。5秒後か、5分後かに目を覚ますと、世界は変わっていた。自分ではまだ立っているつもりでいたし、あたりが暗いのを不思議に思っていた。誰かが冷たい握りこぶしを私の頬に押しつけているようで、口は血で塩辛かった。しばらくのあいだ、私の心はまっさらになり、長い旅をしてきたような疲労感だけがあった。セアラの記憶はすっかりなくなって、懸念や嫉妬や不安や憎悪からは完全に解き放たれていた。私の心は一枚の白紙で、誰かがそれに幸福のメッセージを今まさに書き込もうとしていた。

チップス先生さようなら』ジェイムズ・ヒルトン

物静かで、神経質な少年だった。そして、のちにチップスがお悔やみをいう運命にあったのは、息子にではなく、その父親にであった。

 

 一瞬、ぽかんとするところだが、息子にではなく、父親のほうにお悔やみをいった、とすると、グレイスン少年は父親より先に死んだことになる。なぜ……と、考えて、そうか、第一次大戦に出征して戦死したのだ、と気がつくが、こういう暗示的な書き方もなかなかよくできている。そして、クライマックスで、戦死した卒業生の名簿をチップス先生が朗読するエピソードを読むと、第一次大戦がイギリスの社会にもたらした傷の深さがわれわれにも理解できるだろう。(略)

 『長距離ランナーの孤独アラン・シリトー

今、短編小説全体を読むと、不良少年ではなく、大人を主人公にしたほかの短編にも強く心を惹かれる。たとえば、「漁船の絵」という短編は、よその男と駆け落ちした妻の思い出を語る中年の郵便局員の話である。その妻は駆け落ちの相手に死なれ、最後には自分も事故で死ぬ。残された郵便局員は、話の最後に、おれは妻を愛していたか、と自問して、こう答える。

Yes, I cry, but neither of us did anything about it, and that's the trouble.

 

 そうだ、愛していた、とおれは叫ぶ。でも、おれたちはどちらも愛のために何もしなかった。それが不幸だったのだ。

『ラブ・ストーリィ』エリック・シーガル

(略)映画版の邦題『ある愛の詩』のほうが通りがいいかもしれない。

(略)

 今読むと、この小説、気の利いた文章の宝庫であって、アメリカ口語入門として役に立つことがわかる。

(略)

[彼女と結婚するなら援助はしないと言う父親とオリヴァーが口論する場面]

面白いのは the time of day の用法だろう。(略)

 I will not give you the time of day.

といえば、「私はあなたに時刻を教えない」ではなく「援助しない、助けない」という意味になり、

 Father, you don't know the time of day.

といえば、「お父さん、あなたは時刻を知らない」ではなく、「なんにもわかっていない」になる。

 ちなみに、ランダムハウス英語辞典で time of day を引くと、『ラブ・ストーリィ』のまさにこの箇所が文例に採られていて、「お父さん、何もわかっていないんですよ」という訳がついている。

 余談だが、『小さな恋のメロディ』という映画[でビージーズの First of May (「若葉の頃」)が流れる場面]

Now we are tall, and Christmas trees are small,

And you don't ask the time of day.

という歌詞に、

「今の僕らには モミの木が小さく見え

 君も もう時間を聞かない」

という字幕がついていた。(略)

この don't ask the time of day も「時刻を尋ねない」ではなく、「もうきみはぼくに話しかけてもくれない」

という意味である。 

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