前回の続き。
女子プロレス
相手を組み伏せて太股のガーターを奪えば勝ちというガーターマッチが主流だった。試合会場は米軍キャンプが多く、ストリップ劇場やキャバレーで行なわれることも少なくなかった。舞台はリングではなくステージだった。
スポーツよりエロ。
技の応酬よりお笑い。
戦後復興期、女子プロレスに求められていたのはエロとお笑いだったのだ。
その後、女子プロレスは日本各地でいくつもの団体が勃興し、離合集散を繰り返しながら男子プロレスとはまったく違う道を歩んだ。観客は年配の男性客が大半だった。
昭和42年4月19日には団体を統合する形で、異種格闘技戦のルーツといわれる「柔挙」の創始者として知られる中村守恵が中心人物のひとりとなって日本女子プロレス協会が設立された。(略)
[一時盛り上がるも、すぐに内部分裂]所属選手の大半は、中村に反旗を翻した派閥(全日本女子プロレス)のほうについていった。
(略)
[東スポの]山田隆から白石は女子プロレス中継の話を持ちかけられた。(略)
レスリング経験者である白石の目から見ても、小畑千代と佐倉輝美だけは観客の観賞に耐えられるだけのスキルを身につけていた。
「このふたりだったら、なんとかなる」(略)
[教育専門の12chで放送するには]脱エロ路線しかなかった。
白石は中村に言い渡した。
「キャバレーショーをやったら即、放送中止だ」
(略)
「力道山が日本プロレスを作る時、すでに女子プロレスは世の中にあった。力道山はプロレスを発展させるためにはこいつらが邪魔だと思ったんだ。だから、その頃ウチで女子プロの記事を少しでも書こうものなら、みんなもの凄いアレルギー反応を示した。(略)」
その証拠に当時のスポーツ紙はおろか、専門誌を見渡しても女子プロレスに関する記事はほとんど掲載されていない。
(略)
会場は大相撲の聖地・蔵前国技館。入場無料にしたら、超満員の観客で埋まった。大半は男だった。小畑は、リングサイドに警視庁所属の柔道家がズラリと並んでいたことを覚えている。さらに女子プロレスのステータスを上げるために、最前列の一番目立つところには八田一朗に座ってもらった。
(略)
[アメリカのプロレスに特化した『プロレスアワー』もスタート、15.1%の高視聴率。白石は]
女子プロレスとアメリカのプロレスを隔週で交互に放送しようと考えていた。
(略)
ここは胸を出さないのか?」
その言葉を耳にした佐倉は激昂し、試合そっちのけでリングサイドに腰を下ろしていた野次の主に啖呵を切った。
「てめえ、ストリップと一緒にするんじゃねぇよ」
それから佐倉はその客に本気で殴りかかった。小畑も加勢した。
(略)
「私たちは、水着の後ろをちゃんとテープで補強して外れないようにしていた。試合中に下着が見えたら汚らしいじゃない。だから試合用の水着のはじっこの部分はゴムでギュッとしばっていたの。今でも、その痕は残っていますよ」(略)
「私、ビキニだったらやらないと言ったもん。白石さんは女子プロレスをスポーツとして認めてくれたから。じゃないと、やらないですよ」
(略)
[ある週刊誌は]「女子プロレスは三流のピンク映画」と断定したうえでの取材だったからだ。
白石は声を荒らげた。
「なにがピンク映画だ!小畑も佐倉も一生懸命闘っているんだ。見る奴の目が汚れているからピンクに見えるんだ。東京オリンピックで体操をやっていたチャスラフスカを見ろ。彼女はレオタード姿だし、股だって開く。見方によっては彼女だって十分エロじゃないか」
翌週、白石はその週刊誌に「チャスラフスカをエロだと言った男」として顔写真付きで掲載された。ほとんど犯罪者扱いである。頭にはきたが、話題にもなった。白石は、それで良しとした。
(略)
「(偏見にさらされつつ)我慢しながらやってきて、ようやくメジャーになれるし、世の中に認めてもらえると思ったの。だからこそ、たとえ自分の体を捨ててでも、白石さんを男にしてやろうと思いました」(略)
「この恩は一生忘れない。だからこそ私たちはケガをしていても試合には出た」
(略)
[バッシングが増していたところに、同じ局で『プレイガール』が始まり、世間の批判をかわすために30分番組の女子プロレスが犠牲となって打ち切り]
慰労会で白石は小畑と佐倉に約束した。
「いつかどこかで必ず」(略)
[白石は]男の約束を守った。(略)
[昭和49年の国際プロレス放映にあたり]女子部の創設を直訴。それを早大レスリング部同期で団体の社長だった吉原功に認めてもらい、小畑と佐倉を投入したのである。
小畑は白石からかかってきた電話のひと言が忘れられない。
「ちいちゃん、今度はカラーだよ。また一緒にやろう!」
“真剣勝負”のキックボクシング
[キック戦国時代到来]
白石はひとつだけ心に決めていた。「ボクシング同様、やるんだったら八百長のない試合を放送したい」
今でこそキックボクシングは真剣勝負として成立しているが、その黎明期には日本人選手の当たってもいない蹴りで素性もわからぬタイのムエタイ選手が失神KOされるような試合が普通に放送されていた。
(略)
白石は真空飛びヒザ蹴りを見るたびに虫酸が走った。
「僕には片八百長だってすぐにわかった。ボクシングのようなスリリングな興奮もないしね」
(略)
[岡村プロモーション社長岡村光晴]
児玉誉士夫の片腕だった岡村吾一の息子である彼は強気の交渉に打って出た。
「ウチは黒崎のジムを押さえたよ」
黒崎とは“鬼の黒崎”の異名を持っていた黒崎健時を指す。(略)
「ウチはリアル(真剣勝負)でやりたい。片八百長とかは絶対にイヤだ」
(略)
[真剣勝負路線はその道を求めていたファンの支持を受け4.2%とまずまずだが、問題があった]
「こっちはガチンコだからさ、いい選手が出てきたと思ったら負けちゃうんだよ」(略)
[テレビとしては]スターの不在は痛い。
(略)
[NETが一年で撤退、ひとり勝ちのTBSは乗ってこなかったが、日テレ系の協同プロモーションと全日本キックボクシング・コミッションを設立。コミッショナーは石原慎太郎]
石原がコミッショナーという大任を果たしたのは、鳴り物入りでキックボクシングに転向してきた元ボクシングの世界王者・西城正三が藤原敏男と闘った時だろう。(略)
[西城を“第2の沢村”に仕立て上げたい一派が出来試合を目論んだが、それが石原の耳に入る]
「もし、そんな試合をやったら、俺はコミッショナーを降りる。そしてお前たちの悪事を全部バラしてやる」
(略)
試合は序盤からローキックをきかせた藤原がペースを握る。(略)
第3ラウンド、西城側のセコンドがリングにタオルを投入して試合を棄権した。(略)
唐突な幕切れに一時場内は騒然。試合後、西城が「まだやる」と口走ったため、一度は関係者がリング上で試合を再開するとアピールしたが、西城が不穏な空気が漂う会場に再び姿を現すことはなかった。
後日、藤原は石原の元を訪ね、深々と頭を下げた。
「先生、本当にありがとうございます。おかげで、自分の意にそぐわない試合をしないで済みました」
モハメド・アリとニューラテンクォーター
白石の顔を見つけると、ボクシング好きだった勝新太郎はよく声をかけてきた。このクラブで顔見知りになったことが縁で、ボクシングの世界タイトルマッチのゲスト解説者として勝を起用したこともあった。
社長の山本信太郎から気に入られていたことも、ニューラテンクォーター通いに拍車をかけた。
(略)
夜の街を徘徊する第一目的はプロデューサーとしての情報収集だった。
(略)
ある日、ひとり酒でほろ酔い気分の白石を目にしたキョードー東京の永島達司が近づいてきた。(略)
「台湾のテレビ局は知っている?」
「ジュディ・オングのオヤジさんが編成局長をやっているから知っているよ。もしかして、また音楽ショーの売り込み?」
「いや、シラさん、それが違うんだよ。今度はボクシングなんだよ」(略)
「実は俺がアリ対フレージャーのファーイースト(極東)の権利を預かっているんだ。台湾のテレビ局にも売り込もうと思ってさ」
「日本の放送は?」
「いや、すべてこれから」
白石は天にも昇る気持ちだった。(略)
[1週間待ってくれと頼み電通に連絡すると]
「アリの世界戦だったら、何億円でも売れますよ」
局の編成にかけ合うと、すぐGOサインが出た。
(略)
[中継は平日昼間で15.4%、1時間に再編集したゴールデンタイムでの再放送は18.6%]
(略)
昭和47年4月1日には、日本武道館で行なわれたアリとマック・フォスターとの15回戦を12チャンネルが放送した。担当は田中元和だった。(略)
アリは、この時が初来日だった。(略)
田中から見た素のアリは非常にやさしい人物だった。
「マスコミの前ではプロレス調でベラベラ喋っていたけど、普段はすごく大人しかった印象があります」
後楽園ホールで13時から公開練習と言われると、アリは11時には現場に現れ、マスコその目が届かぬうちに猛練習した。
「そして公開練習の時間になると、10分くらいやってさっさと切り上げた。おかげで翌日の新聞には全然練習しないと叩かれたけど、アリは自らそういうイメージを作っていたように思えました」(略)
[マスコミの前でわざとアルコールを口にふくんでみせたが]
田中は見ていた。日本に滞在中、アリは朝5時には起床して、ホテルの庭でひとり黙々とトレーニングをしていたことを。
「練習は人の見えないところでやる。逆に人の目があると、もうチャランポラン。カメラマンがたくさんいる前でいきなりキックの練習を始めたこともありましたね。普通に試合をやるだけでは昼間の興行に人が集まるわけがない。それを察したアリは自分が危ないと煽るしかなかったんでしょうね」
(略)
シャドーボクシングが主体だったアリのトレーニングについてもよく覚えている。
「ミット打ちではなく、フォームを重視したトレーニングでした。(略)
ホテルの庭園で動く時には靴の中に重りを入れていました。鉄が入った靴です。
やらせの時代
[会社にハッパをかけられサメ対ワニの異種格闘技戦を制作]
田口成はまず昼間にサメを釣り、犬のようにヒモをつけて浅い海で“散歩”させながら夜を待った。泳がせていないと、サメは死ぬ。そして夜になるとワニを捕まえた。(略)
いよいよ収録。田口はワニが待つリングに捕獲したサメを入れ、カメラを回した。ゴジラ対エビラのような大激闘が待ち受けていると思いきや……。
「それがね、サメもワニも闘わないんだよ。ハハハッ」
たまに触れ合うと、お互いパッと避けた。(略)
「これでは番組にならない」
その場でそう判断した田口はサメとワニをテグスで縛りつけてぶつけ合った。それでも猛獣たちは闘争本能を出さない。頭にきた田口は最後の手段に出た。無理やりワニの口をこじ開け、そこにサメを噛ませたのだ。
(略)
放送された映像では巧みなカットで傷み分けということに細集されたが、本を正せば最初から勝ちも負けもない。試合不成立だったのである。その時の状況を思い出しながら、田口はボソッと呟いた。
「フィルムの時代は、ヤラセでもなんでもあり。昔のテレビはヤラセ大会だったからね。
(略)
「フィルムの時代が終わってビデオで撮るようになったら、ヤラセがパタッとなくなったんですよ」(略)
フィルムは高価で長時間の撮影ができない。だから、ドキュメンタリーといってもどうしても演出が生まれてしまう。それに比べ、ビデオテープは格段に安く、目的の映像が撮れるまで写していられたからである。
その一方で、田口は堅実なドキュメンタリー番組も手がけた。
(略)
秘境では、信じられないような風習や光景に出くわしたことも少なくない。パプアニューギニアでは親族がひとり死ぬたびに指を切るという部族と会った。(略)
「悲しみを表す意味で指を1本ずつバシッバシッと切っていくわけ。道端を歩いているオバちゃんが3人くらいいたけど、みんな指がない。でもね、親指だけは切らないんだよ。農作業するのに必要だからってね」
女だけではない。男には耳を切っていく風習があった。
「だから、男はみんな耳が小さかったんだよね。さすがにそんな指がない女や耳が小さい男ばかり撮れないよね」
箱根駅伝
昭和53年のある日、白石剛達は読売新聞社に呼ばれ、同社事業部長だった知人に懇願された。
「白石君、箱根駅伝をやってくれないか?」
「そんなことを頼まれても……。日本テレビでやってもらったらいいじゃないですか」(略)
「いや、日本テレビではやってもらえないんだよ」
(略)
当時の東京12チャンネルはマラソン中継や駅伝には必要不可欠といわれる自社ヘリコプターだけではなく、上空から地上の中継車に電波を飛ばす追尾装置という通信機器も所有していなかった。
日本テレビが箱根駅伝に手をつけていなかった理由も、なんとなく理解できた。箱根の山中は曲がりくねった道が続くため、それまでにいくつものスポーツを扱ってきた白石でも、どうやって中継したらいいのか想像もつかなかったからだ。(略)
[話を聞きつけたNHKのディレクターからも本気なのと言われた。東京オリンピック]以来、長距離走の中継はNHKがリードしていたが、一番ノウハウを持ったNHKから見ても箱根駅伝の中継は難しいと思われていた時代だった。山上りの5区と山下りの6区をいかに撮るか。その答えはNHKですら持ち合わせていなかったのである。
(略)
「当初のプランではゴールだけでは面白くないというので、前日の往路も撮影してハイライトとして見せようということになりました」
(略)
中継車はコースを走ってはいけなかったので、主催の読売新聞社が出す移動車の中にカメラを載せて撮影する方法をとった。
東京タワーが見えるところにアンテナを立てなければ、その映像を電波で飛ばすことはできない時代だった。そこで田中元和は移動車の中で撮った映像とは別に、電波を飛ばせる10区のスタート地点となる鶴見、東京タワー近くの増上寺、そしてゴールの大手町にカメラを設置した。終盤だけは生中継を中心に見せようとしたのだ。
(略)
もっといい番組作りをしたい。
そう思い立った田中は翌年の放送のため、事前にコースをくまなく歩いた。そうすることで撮影するポイントを探し出そうとしたのである。
(略)
長い間、当時復路のスタート地点の箱根・芦ノ湖は山間で電波を飛ばせる環境にはないため、中継できるポイントではないと考えられていた。しかし、田中は自分の足を使うことで往路のゴール地点の映像の電波を辛うじて送れるポイントを発見した。
(略)
[その後の映像は]ところどころにバイク便を待機させておき、移動車が通りすぎる際にVTRを手渡すようにしたのだ。バイクは電波を飛ばせるアンテナを立てた地点までVTRを届けた。
(略)
田中が手がけた2回目の第58回箱根駅伝は[8.3%、翌年の](略)第59回大会は10・3%とついに2桁の大台に乗る。(略)
[第60回大会は2時間枠になり13.5%に](略)
田中は日本テレビの焦りを感じとった。(略)10%を超えると、日本テレビの視聴率を上回ってしまう。そうなると、なぜテレビ東京にやれてウチではできないんだ?という声が日本テレビの中であがっても不思議ではない」
案の定、昭和60年の第61回大会から読売新聞社の先頭車両に日本テレビのスタッフも同乗するようになった。(略)
「どういうふうにテレビ東京がレースを追いかけているのか。そのノウハウを知りたかったんじゃないですかね」
(略)
案の定、昭和62年の第63回大会からは日本テレビが放送することになった。
(略)
田中は[日本テレビ制作の]スケールの大きさに驚くしかなかった。
「テレビ東京の波(電波)は1波プラス予備の1波しかない。でも、日本テレビは全国に系列局があるので、その電波を箱根駅伝のために持ってくることが可能なわけです。そうすれば、一度に8波とかを使えるので生中継が可能になる」(略)
「ウチが50名だとしたら、日本テレビは700名くらい動員したんじゃないですかね。
(略)
[だが]それでめげるほど田中はやわな男ではなかった。
「箱根駅伝で培った撮影のノウハウを活かそう」
次にターゲットとして照準を定めたのは、昭和42年に日本初の市民マラソンとしてスタートした青梅マラソンだった。(略)
田中はまず箱根駅伝では使うことができなかった空撮を試みることにした。しかし、その時点でもテレビ東京にヘリコプターはなかったので[熱意で業者に頼みこみテスト飛行のような形で低予算で飛ばしてもらうことに](略)
[だが]上空から電波を飛ばす追尾装置を持ち合わせていなかった。(略)田中はとんでもないアイデアを思いついた。「撮ったVTRを落下傘につけて、中継車の前に落としたんですよ」落とした衝撃でVTRを傷つけたら元も子もないので、発泡スチロールをたくさん詰めた袋の中に入れて落下傘につけた。落下傘を落とすポイントは3カ所。それぞれに車かオートバイを用意して、電波を飛ばせる場所まで運んだ。
そして、地上から撮った映像の間に空撮映像を挟み込んで放送した。放送は完全な追っかけVTR方式だったが一見、生中継に映った。視聴率も10%を超えた。
田中が編み出した落下傘を使用した空撮方法はその後、ハワイ国際女子高校駅伝やノルディックスキーのワールドカップでも効果を発揮した。
日本一早いスポーツニュースを作れ!
[最後発でスポーツニュースをやることになり]
白石は、どこよりも早く始まるスポーツニュースを思いついたわけである。(略)
贔屓のチームの試合結果だったら、1秒でも早く知りたい。そんなファンにとってNHKとの15分の差は大きかった。「たった15分早いだけ」ではなく、「15分も早い」という捉え方なのだ。
(略)
若松明は白石から放送開始時間を聞いて思わず声をあげた。「エーッ!」プロ野球担当が長かった若松にとって、22時30分はややもするとゲームは終わっていたとしても、試合後の談話を聞いている時間だった。(略)
[それに]「広島にウチのネット局はありません、どうするんですか?」
(略)
広島での試合映像は市内の茶臼山にある電電公社の無線中継所までバイク便で運び、そこからマイクロ回線を使って送信することになった。
(略)
[広島でのオールスター戦、なんとか生中継したい。テレビ大阪から小型中継車を出してもらい、あとは特設スタジオの手配]
球場の真ん前にある相生という大きな旅館が目に止まった。
[ロビーにある瀟洒なカウンターバーをスタジオにすることに]
あとがき
社会的に低俗だと見なされていた女子プロレスを白石が放送に踏み切らなかったら、『東京スポーツ』にすらなかなか扱われないアンダーグラウンドな流れから抜け出すのにさらに時間がかかったのではないか。
(略)
海外のスポーツの放送も、そのルーツは12チャンネルの『ダイヤモンドサッカー』にある。(略)
この番組がスタートするまで日本には海外のスポーツを観る習慣はなかった。(略)
海外のサッカーも数カ月ほど遅れて専門誌に掲載される写真を見て想像力を働かせるしかなかった。頭の中でしか動いていなかったジョージ・ベストら世界の一流プレーヤーを実際の動画として見せたことに歴史的価値があったのだ。
サッカーだけではない。日本で初めて本場アメリカのプロレスを放送したのも12チャンネルだった。
(略)