東京12チャンネル運動部の情熱 布施鋼治

12チャンネル運動部を率いた豪腕白石剛達は他局からも一目置かれた。

東京12チャンネル運動部の情熱

東京12チャンネル運動部の情熱

 

“科学テレビ” 

 “科学テレビ”とも呼ばれた12チャンネルの母体は日本科学技術振興財団。その名のとおり、科学技術の普及を目的に作られた、お堅いテレビ局だった。

 開局日となった同年4月12日の番組表を見ても、それは一目瞭然だった。(略)『科学と人つくり』『科学と人間』などNHK教育テレビも真っ青な硬派な番組がラインナップされていた。

(略)
題名のない音楽会』は評判もよかったが、その後は白石の思惑どおりに事は進まなかった。オリンピック景気に沸いたのも束の間、日本経済は一気に冷え込んだ。中小企業の倒産は、戦後最大数にまで膨らんだ。その余波は12チャンネルにも及んだ。(略)

その経営は数百社の企業からの一口100万円の寄付に頼っていた。不況のあおりを受け、寄付が滞ったら金が回らなくなるのはしごく当然だった。

(略)

[白石も営業をやらされることに]

押しの強さや話術のうまさには定評のあった白石だが、状況が状況なだけに営業回りは困難を極めた。「(略)視聴率が悪いんだから、広告なんて出す意味がないよね。ずいぶんバカにされましたよ。それでも頭を下げまくりながら、今に見ていろと思っていました」

 事態はすぐに好転せず、2年後の昭和41年には一日の放送時間が5時間半に減った。そのうち3時間は通信制高校講座で、手間隙のかかる自社制作番組は週4時間しかなかった。(略)

新聞のテレビ欄では思い切り差別を受けた。

早稲田レスリング部時代

 白石は、終戦直後で食べ物などロクにない時代にもかかわらず、部員がみないい体をしていることにも注目した。

レスリングをやれば、俺もこんな体になれるのか」

 誰もが飢えていた時代だった。

(略)

 練習帰りには、よく新宿の闇市へ足を運んだ。(略)

酔いが回ってくると[ストリートファイト](略)

「俺のやり方は殴るというかスカすというか、すぐ終わった。だって毎日タックルをやっているんだもの。タックルで倒して相手が四つん這いになったら、ガーンと頭を踏んづけて終わり。それで向こうの仲間が来たら、パッと逃げる。だからケガはしなかったね。こっちは毎日練習で走ってもいるんだから、ヤクザに追いかけられても俺に追いつくのはひとりくらい。一対一になれば絶対に勝ち(笑)」

プロ野球中継スタート

なぜ12チャンネルはサンケイ対広島を放送したのか。

 それは他局が巨人戦の放映権を独占していたからにほかならない。

(略)

 裏番組に巨人戦があれば視聴率で負けることは明らかだったが、視聴率は大した問題ではなかったと白石剛達は本音を漏らす。

「それより、番組を埋めることのほうが大事だった。そうしないと、何か番組を作らなければならないじゃないですか」

 自主制作のドラマやバラエティ番組を作るよりも、野球中継のほうがずっと安上がりという台所事情もあったのである。(略)

教育の一環であることを証明するため(略)

「工業大学の先生をゲストに招いて、ボールとバットの力学を解説してもらったり(略)阪神タイガースの定宿の女将を呼んで、野球選手がとる食事について語ってもらったこともありましたね」

(略)

運動部が誕生して4週間後の昭和42年4月29日、当初は高嶺の花に思われた巨人戦の中継が早くも実現している。

 なぜ、そのようなことができたのか。[各局巨人戦の放送曜日が決まっていたので](略)

TBSやフジは自分たちが決めた曜日以外に巨人戦がきても放送しなかった。そうなると、こぼれたゲームをウチが放送できたわけです」

 雨で順延になったゲームも12チャンネルに転がり込んできた。

(略)

 果たして巨人の効果は絶大で、初めての巨人戦中継の視聴率はいきなり12・9%を記録した。

 また、巨人絡みのダブルヘッダーで放送しない第1試合を譲り受けるというケースもあった。いくら人気の巨人戦とはいえ、一日に2試合連続放送しようという局はなかったのだ。

 白石は、すべて事業本部長の村木武夫のおかげだと語る。

「村木さんは住友石炭の出身で、若手財界グループの代表的存在だったので各局にもの凄く顔が利いた。フジテレビの鹿内(信隆)社長もそのグループの人だったし、村木さんとは親友みたいな間柄だったので意外と簡単にくれたんだよ。(略)どの局も村木さんが頼むよと頭を下げたら、問題なく譲ってもらえた」

(略)

[TBSからにべもなく断られた時は、村木自身が赴き]テーブルに手をついて深々と頭を下げた。

 TBSの専務は慌てた。目の前で頭を下げているのは住友石炭で副社長を務め、経済界や政財界でも名の知れた村木なのである。(略)

[すぐに編成局長を呼びつけ]

「その話、村木さんに差し上げなさい」

バックスクリーンからの映像

 今では考えられないことだが、野球中継をスタートさせた当初、12チャンネルは[予算がなく]わずか3台のカメラで試合を追いかけていた。

(略)

それでも制作スタッフは、視聴者に試合をわかりやすく見せるための努力と工夫を怠ることはなかった。(略)

 若松明は画面の下に小さくSBOやランナーの有無を表示することを最初に取り入れたのは12チャンネルだと胸を張る。(略)

技術部が開発してくれた。秋葉原の電気街に足を運んでね。テレビ局の暗いサブの部屋でモニターを見ながら手作業でやる。

(略)

 また、メインの1カメ(第1カメラ)としてバックスクリーンからの映像を導入したのも、日本では12チャンネルが最初だった。

(略)

 当時、バックスクリーンからの映像はタブーだった。キャッチャーのサインが見えるということで、コミッションから許可が下りなかったのだ。

(略)

すでにアメリカではバックスクリーンからの映像がポピュラーになりつつあり(略)

とはいっても、バックスクリーンからの映像だと、バッターは打つと右から左に走ることになり、一塁側の2カメの映像に切り替わるといきなり左から走ってくることになる。つまり、映像的にはまったく逆になってしまうのだ。それでもいいとするアメリカ的な映像の作り方に若松は軽いカルチャーショックを覚えた。

「だったら、どうやってつなぎの部分の矛盾を解消するのか。そこで考えたのは間にアップを挟み込んで、一度方向性をわからなくしてからカメラアングルを変える。そうしたら見ているほうも抵抗がなくなるわけです」

 そして、アナウンサーがしっかりフォローしてくれれば問題ない。そう割り切ることができた若松はバックスクリーンからの映像を日本にも導入しようと思い立った。 

マイナー競技に光を当てる 

[ストーブリーグに入ると『サンデースポーツアワー』開始]

他局が見向きもしなかったアマチュアスポーツの中継を13時から3時間という長い尺で放送し始めたのである(略)

サッカー、ラグビー、テニスのみならずアイスホッケー、棒高跳びハンドボールアメリカンフットボール、リトルリーグ、果てはロシアの格闘技サンボ

(略)

[アマチュアスポーツ中継に反対はなかったが一度だけ]

日本サッカーリーグの放送で三菱重工の試合を扱ったら、[メインスポンサーの三井グループから]さすがに怒られたね」

(略) 

「俺たちは世界の果てでも三菱と闘っているんだ」

白石はすぐ説得にかかった。

「天下の三井がスポーツ番組の中で三菱を放送したからといって何が問題なのですか。そんなことを言っていたら、何も放送できませんよ」その一方で(略)三井がリトルリーグを育てようとしていた時期だったので、(略)

『リトルリーグ関東決勝調布対城西』を[放送。のちに調布リトル出身の](略)荒木大輔が“大ちゃんフィーバー”を起こすが、その礎を作ったのは12チャンネルだった。

(略)

[冬枯れで放送する大会がないとなると、何度も放送している関東学生ボウリング連盟に頼み、『ボウリング東西学生対抗戦』なる新たな大会を開催し放送]

既存の大会を放送するのではなく、放送のために大会を作ったのである。しかも、この大会の中継は当時のボウリングブームの波に乗って、5.2%という高視聴率を記録した。

(略)

視聴率は2%をとれば上出来。 よりも毎週その枠を埋めるほうが大変だった。

(略)

サンデースポーツアワー』が12チャンネルとアマチュアスポーツの絆を強くした。今でもテレビ東京が卓球や柔道の国際大会を放送しているのはこの番組のおかげですよ」

男子バレー

[男子バレー担当の後藤謙一。ブロックを重視する松平に合わせブロックの撮り方を再考。当時は横からの映像が一般的だったがブロックの醍醐味を伝えるために背中越しの映像に。さらに]臨場感を伝えるために、松平にワイヤレスのピンマイクをつけてもらった。

(略)

[休日でも]研修館を訪れ、チームの面々と談笑。(略)

時には向き合うだけではなく、男子チームの中にドップリと入ることもあった。(略)

[フジのバレー担当者が独占取材を狙って空港で]男子チームの到着を待っていた。(略)

バスが到着し、乗降口に近づいたその記者は愕然とした。選手たちに続いて、最後にネットに入ったボールの籠をかついだ後藤がチームの一員のような顔をして降りてきたではないか。

世界への窓『ダイヤモンドサッカー』

[BBC制作の『マッチ・オブ・ザ・デイ』の]編集作業を進めていくうちに、寺尾はBBCの斬新な編集方法に目を見張った。

「シュートがゴールから外れて、ボールがゴールキーパーに戻ってくる。それからゴールキーパーをアップで撮ってゴールキックをするわけだけど、実はそのゴールキックは次のゴールキックなんですよ。BBCの制作スタッフはゴールキックゴールキックの間をそっくりそのままカットする手法を編み出したわけです。この方法だったら、まったくプレーを途中で切ったようには見えない」(略)

「BBCのカメラワークは痒いところに手が届く感じで、ちゃんとサッカーがわかる中継をしている。ロッカールームにまでカメラを持ち込んだ映像を見た時には素直にいいなと思いましたね」

(略)

 回を重ねていくなかで寺尾が懸念したのは“タイムラグ”だった。放送しているフイルムは1966~8年の試合だったので、『ダイヤモンドサッカー』の放送時には1年以上のタイムラグがあった。「もう〇〇は別のチームに移籍しているよ」親切に最新情報を教えてくれる人もいたが、寺尾は自分で調べたかった。(略)

[丸善で2日遅れの『ロンドンタイムズ』を購入]

サラリーマンの昼食代が月平均3600円という時代に年間購読料は7~8万円

(略)

日本との文化交流の架け橋となっているブリティッシュ・カウンシルに、イギリスで発行されている『デイリー・テレグラフ』や『マンチェスター・ガーディアン』など何種類もの新聞がマイクロフィルムで保存されていることを聞きつけるや、寺尾は毎日このカウンシルに通うようになった。

 努力の末に寺尾が書き上げた最新情報を収録前に解説の岡野や実況の金子に渡すと、ふたりとも喜んだ。それはそうだろう。寺尾が作ったメモは、少なくとも日本のどこの新聞や雑誌にも載っていない最新かつレアな情報ばかりだったのだから。

 昭和43年10月、番組名が『三菱ダイヤモンドサッカー』に改められると、放送時間は土曜昼間から日曜午前10時へと移行した。

「プレーヤーが見られる時間に変更してほしい」

 日本サッカー協会からのリクエストを12チャンネルが受け入れた格好だった。視聴率はコンマ以下である回が多かったが、選手から見れば必要不可欠の番組だったのだろう。

(略)

 寺尾の脳裏に焼きついているのは[自ら放映権獲得に動いた74年西ドイツでのワールドカップ。全試合のVTRだけで75万マルク(9000万円)、とても出せない。直前に救世主、三菱重工サッカー部監督二宮寛三菱グループをメインスポンサーにして75万マルクを調達。決勝当日、日本では参議院選挙]

 開票速報に背を向けたのは12チャンネルだけだった。

(略)

『ダイヤモンドサッカー』の放送は昭和63年まで続く。取り上げる試合はイングランドリーグだけではなく、ブンデスリーガセリエAと多岐にわたった。(略)

『ダイヤモンドサッカー』がスタートする前、日本に海外スポーツを楽しむコンテンツはなかった。

ローラーゲーム

[キョードー東京から話を持ちかけられ]

村木は白石のアメリカ行きを了承した。

「プロデューサーのお前が当たると思ったら、その場でVTRを買ってこい」

 昭和43年1月(略)会場のオリンピック・オーディトリアムはダウンタウンにあった。足を踏み入いると思わずを鼻を覆いたくなった。鼻孔をつく臭気が立ち込めているではないか。観客席を見すと、鋭い視線を投げかけてくる黒人やヒスパニック系が多かった。(略)

「間違っても、向こうのハイソサエティが観にくるような雰囲気ではなかった」

 日本ではどんなスポーツも収入などに関係なく、その人の嗜好で観る。対照的に欧米では階層によって観るスポーツが異なるケースがある。ローラーゲームのファン層はアメリカの低所得者層で占められていた。

(略)

[プロレスとGSのギターが重なって日本でも行けると白石は確信]

「(略)滑走する時に出るガーッという音が、グループサウンズエレキギターと結びついたんだ」

 ゲームは完全に出来勝負。(略)巨人のようなロサンゼルス・サンダーバードという絶対王者チームがあり、他はすべて敵役だった。

(略)

[実際は]アメリカの一部でしか普及していなかったが、日本にVTRを持ち帰ると「全米で大流行」と煽った。

[4月に番組をスタートすると、いきなり7.5%の高視聴率。9月には2チームを来日させ日本初興行](略)

生放送は15%の高視聴率をマークした。毎週土曜のレギュラー枠の視聴率も10%を超した。

(略)

[人気沸騰に]前後して、白石の耳にはNETがローラーゲームを放送するという噂も入ってきた。後ろで糸を引いていたのは、戦後の復興期にドン・コサック合唱団ボリショイ・バレエ団などの興行を打った神彰だった。[2チームの素性はリタイアメンバーとスクール生を集めたセミプロの寄せ集め、売られた喧嘩は買うと、神に内容証明書を送りつけると](略)

NET派ローラーゲームは名称の変更を余儀なくされた。

 窮余の策でローラープロレスにしようとしたら、今度はプロレスのほうからクレームがきたという話も白石の耳に入ってきた。結局、「アメリカン・ローラーゲーム」の名称になり大会は東京体育館で強行されたが、白石は全然ダメだったと語る。「そもそも、選手たちがパーッと走れないんだもの。(略)

果たして、NET派のローラーゲームはすぐフェードアウトした。

[だが本家の方も]日本人選手が出場していない試合は飽きられるのも早かった。(略)日本で開催された試合以外はすべて録画で、臨場感に欠けたことも視聴者離れに拍車をかけた。(略)[二時間特番は2.9%]レギュラー枠も5%台に低下した。

(略)

白石は日本人チーム結成のために集められたメンバーの中から角田誠と佐々木ヨーコを選抜してアメリカに派遣。ロサンゼルス・サンダーバードの中で彼らを育成する映像を撮ることで人気回復を試みた。

 これは、いわゆるリアリティ番組の走りといっていい。(略)

[しかしこれも当たらず、遂に打ち切り](略)

日本人チーム結成のために応募して合格した13名の選手候補生の存在も宙ぶらりんのままだった。

ローラーゲームの灯を絶やしたくない」

そのグループの中にもそういったムーブメントがおこり、彼らは所用で来日したグリフィスに直談判。自分たちの高度なスケーティングのテクニックを披露して、グリフィスを驚かせた。(略)

「日本人チームを作れたら、ローラーゲームは復活できる」

 それが白石とグリフィスの一致した意見だった。

(略)

昭和47年6月、紆余曲折を経て東京ボンバーズは結成された。意外なことに結成地は日本ではなくハワイだった。

 なぜ、海外だったのか。その経緯を白石が明かす。

「日本人チームをひとつ作ったとしても、それで試合ができるわけじゃない。だからといって試合のたびにアメリカからチームを日本に呼んでいたらお金がかかりすぎる。だからハワイで作ったんですよ。アメリカ本土からハワイまでだったら、飛行機も国内線で安いからね」

(略)

ローラーゲームは『日米対抗ローラーゲーム』という番組名で再スタートを切った。

[10月からのレギュラー放送は平均視聴率13%](略)

あとにも先にも海外で“東京”を冠するチームが活躍したのはこの時だけだろう。

(略)

昭和48年には東京体育館で5日間連続興行を打ち、大成功を収めている。(略)思えば、この頃がローラーゲームのピークだった。その後、人気に陰りが見え始め、視聴率も徐々に下がっていった。

次回に続く。