小津安二郎大全 その2

前回の続き。

小津安二郎大全

小津安二郎大全

 

 川又昂 キャメラマン

 ――(略)対話してるふたりの視線が合わないことが特徴だといわれますね。

 あれはわざと、役者にレンズを見せるんです。そうすると、あっと思わせるような視線になりますよね。お互いにこうギリギリのところ見せてるんです。で、ロングに引いた場合には相似形の構図になって、目線は登場人物ふたりとも同じ方向を見せてみたりね。これは、ずいぶん計算してますよ。やはり。

 篠田正浩

[『東京暮色』小津組の人手が足りず]結束の固い一座の中に僕が呼び出されて、弱ったなと(笑)。

(略)

[試写にて小津から声がかかり]「お前はよそもんだから、俺の映画を客観的に見られるだろう。見終わったら感想を言うように」

(略)

[試写後]月ヶ瀬って、撮影所の真ん前にあるレストランの一室に陣取って、湯豆腐を始めた。(略)冷酒で、皆で回し飲みを始めた。篠田どうだ感想を言えって、いつ言われるのかと思って待ってた。でもね、待てど暮らせど言わないんだよ。不機嫌なんだ。とっても不機嫌なの。(略)そのぐらい自分じゃ不出来だと思ったんだと思う。(略)
 僕はね、とってもいい映画だと思ったの。世評でも小津映画の中で一番劣悪で、ベストテンの中にも入っているか入っていないかという作品にされてしまったけれどね。(略)
 暗い。ものすごく暗い。暗さが、僕にはなんとも言えず良かった。だって、有馬稲子が堕胎するわけでしょう、男に振られて。

(略)

 鎌倉の華正楼でね。一九六三年の監督会の新年会があった。僕は『乾いた花』がお蔵入りになった頃だった。その頃、映画界の前途はどん底だったわけです。(略)今考えると最後の晩餐だったんだ、松竹大船の。一通り酒が回ってきた頃かな、正面にいた小津さんが、つかつかっと、僕の前に座るかと思いきや吉田の前に座った。吉田が一番末席で、僕が隣にいた。吉田君飲みたまえって、酒をついで。吉田君、俺は小林(正樹)や木下(恵介)は好きだけど、吉田君、君は嫌いだよって。君なんかに俺の映画が分かってたまるかって言い出したんだ。――変なこと言う人だなって思ってね。「シナリオ」っていう雑誌にね、吉田が現場の人間としての視点から、小津は時代に媚びていると。素直に老残を示せばいいのに、って発言をしたらしいんですよ。僕はその発言を知らないんですけれど、吉田らしい、知的な分析だと思うんですよ。

(略)
まだ続きがあって、俺は、橋の下で菰をかぶってね、客をひく女郎だ、って。吉田君、君の映画は橋の上で声をかける女郎だよ、お上品だよって。僕はそれ聞きながら心の中で、橋の下の女郎っていうのはローアングルのことかと思って(笑)。そこに、吉田の師匠が木下恵介だったから、木下さん割って入って。「オッちゃん何言ってんです。大監督が、そんな後輩いじめてもしようがないですよ、駄目ですよ。沽券に関わるよ」って。そしたら小津さん、「木下、俺お前が好きだよー」ってキスしてね(笑)。もう退け時だと小津さんが悟って収まった。(略)

[同じ方向の篠田が送ることになり]

「篠田、もういっぺん飲もうよ」。「駅前の弁天寿司だ」。すると木下さん、「僕もついてく!」って言って。(略)

そのときに木下さんが、「さっきの吉田に対する態度は何事ですか」ってお説教を始めた。「小津さんのところからはどう考えても、いい監督が生まれてませんね」って。「僕を見てくださいよ。小林正樹松山善三吉田喜重。全部、私の組ですよ」って。そしたら小津さん、「木下、何かい。映画監督ってのは、助監督を映画監督にするのが仕事かい」って。吉田とはまだ続きがあって、その同じ年、小津さんが癌で入院したとき、吉田と岡田茉莉子が夫婦で見舞ったら、「吉田君、映画はドラマだ。アクシデントではない」って言った、という話もあります。

兼松熈太郎 撮影監督

――(略)小津組の撮影は、いつもどのように始まるんでしょうか。
 毎日ね、九時になると「小津組、小津組、ただいま第一ステージで撮影開始します」ってアナウンスが流れる。前の日に決めてあったポジションにキャメラを置いておくと、九時十五分くらいかな山内(静夫)さんが迎えに行って監督が来る。そこで監督が台本をぽーんと置く。台本には全部カット割りが書いてあって、色分けしてあるんです。赤色とか、黄色とか。これをその場で助監督が全部書き写すの。僕らはその色を追いながら、ああ今日は二十カットだな、四十カットだな、ということが分かるんです。

(略)

四十っていっても順撮りじゃないから、そんなに大変でもない。同じ構図も多いから。

(略)

(小津監督にとっては目線の一致は)どうでもよかったんじゃないかな。(略)

(小津監督は)目線をキャメラの横に誘導して、「もうちょい右だ、もうちょい右だ、もうちょい右だ」とやっているうちに、センターを越えちゃう。俺たちにしてみると、「あれ、おかしいな」と思う。でも監督はそれでいいって言うんだから、それでもうOKですよ。

(略)

[廊下や部屋の一角の瓶]

あれは厚田さんのアイデアですよ。画面にビール瓶が映っているのはなんでかっていうと、画面がしまるから。手前にあると、瓶が大きく映って構図が決まらない。それを避けるために小さいのを用意した。そうしたら、監督が、それがいいって。

(略)

[ビール瓶などの小道具の位置]はすべて小津監督ですね。でも、照明はすべて厚田さんの指示。

田邉皓一 キャメラマン

[東宝小早川家の秋』に参加]

[どうして移動車使わない?どうしてローアングル?と質問したら]

「あのなぁナベさん、俺、蒲田時代にね、豊田四郎成瀬巳喜男が午前中移動車使う、俺には午後に貸してくれるって。でもあいつら全然貸してくれない、午後も貸してくれない。ええい、もういいわいって。俺は一切移動車使わないって決めた。それ以来使わないんだ」と。「ローアングルはね、そのほうが見やすいんだよ」って。昔、映画館のスクリーンは舞台のちょっと上、客席から見るとだいぶ上にあったんです。アイレベルよりスクリーンがちょっと上にあるから見やすいんだと。

(略)

 照明は黒澤組のメンバーなんです。

(略)

 東宝の監督は脚本見せるの嫌がって、成瀬巳喜男なんか見に行ったらパッて伏せるしね。でも小津さんは大っぴら。

(略)

[最後の場面]煙突から出る煙、黒か白か迷って、タイヤを燃やしたんですわ。(略)あと、カラスも映るけど言うこと聞かなくてね。しょうがないから杭で脚つないでるんです。

小津安二郎芸談

 音楽についてはぼくはやかましいことはいわない。画調をこわさない、画面からはみださない奇麗な音ならいい。ただ場面が悲劇だからと悲しいメロディ、喜劇だからと滑けいな曲、という選曲はイヤだ。音楽で二重にどぎつくなる。悲しい場面でも時に明るい曲が流れることで、却って悲劇感の増すことも考えられる。こんなことがあった。支那事変のときの修水河の渡河戦の時であった。ぼくは第一線にいた。壕の近くにアンズの木があり白い花が美しく咲いていた。その中に敵の攻撃がはじまって、迫撃砲がヒュンヒュンと来る。タンタンタンと機関銃や小銃の間を縫って大砲が響く。その音や風で、白い花が大変美しくハラハラと散って来る。ぼくは花を見ながら、こんな戦争の描き方もあるのだなと思ったことがある。これも一つの音楽と画面の例だが(略)
(「東京新聞」昭和二十七年十二月)

小津安二郎映画の音楽について 長門洋平

[斉藤高順談]

小津さんはこう言ってくれたのです。「ぼくは、登場人物の感情や役者のの表現を助けるための音楽を、決して希望しないのです。」(略)「いくら、画面に、悲しい気持ちの登場人物が現れていても、そのとき、空は青空で、陽が燦々と照り輝いていることもあるでしょう。これと同じで、私の映画のための音楽は、何が起ころうと、いつもお天気のいい音楽であってほしいのです」

(略)

一部の前衛をのぞき、映画の音に対してここまでラディカルな立場をしめした映像作家はほとんどいない。

(略)

[だが『早春』の葬式シーンに流れるマーチ風の音楽は]

場面に対する観客の没入を中断させてしまうこの音楽は、「ただドラマをほっぽっておく」の範疇を超えてしまってはいないか。人がひとり死んだというのに、お天気がいいにもほどがあるという意味で(略)

いくばくかの作為がにおう。

(略)

 [再度、斉藤談]

小津さんの場合、人物の内面とは関係なしに、喫茶店やレストランではムード・ミュージックとして流れているという設定でやりましてね。ところが、そのまんま、まったくシーンが変っちゃったりなんかしても、引きつづき流してるなんてのがおもしろいですね。リアリズムだったらね、パッとシーンが終わったら、そこで切れなきゃいけないのにね、ズーッと流れていて、聴いてるほうでは、あれ? なんて思ってしまうんです。(略)ですから、エフェクトのつもりだった音楽が、ブリッジになっちゃってるんです。そういうとこがおもしろいですねえ。あの当時でですね、場面が換わっても音楽だけが続いてるなんてこと、ありえないですもの。

(略)

この三つの場面でつねに登場しているのは山田五十鈴演じる喜久子である。すなわちこの「サセレシア」は、場面のムードとも、登場人物の心理とも、舞台の説明とも、シーンのコンティニュイティともまるで関係しないが、喜久子が画面に出ているから流れているという点において、映像との構造的な関わりをもっている。

晩年の小津安二郎は忘れられていたか
佐藤忠男 映画評論家

 小津安二郎は晩年、人気がなく、忘れられた存在であった、という無知な妄説が広がっている。

(略)

[50年末から60年初め。テレビに人気を奪われた斜陽期。高学歴世代の増村保造今村昌平山田洋次大島渚らが監督になった時期]

それまで映画界には、昔の職人がそうであったように、先輩、とくに師匠筋の人の仕事への批判は決して人前ではしないという、つつましい美徳があったが、秀才中の秀才である彼らは、悪口というような下品なことではなく、批判は批判としてきちんと書いて公開した。まず増村保造が直接の恩師である溝口健二を平気で批判したし、今村昌平も師匠の小津安二郎の仕事にあき足りなくて他の監督の組に移った。
 若い監督たちはまた、元気な映画と理屈っぽい映画を好んだ。

(略)

 映画批評界は完全に二つに割れた。戦前派は味わいと深みのある作品を戦前に確立してそれを今も守っている小津をこそ支持し、戦後派はそれを否定して、元気よく自我を主張し理屈も言う若い監督たちを支持した。

(略)

しかし小津批判といっても、映画雑誌に活字となって表に出たものは殆んどない。なんとなく新旧両勢力の口論のように言われたことがあった程度である。
 ただ、小津の名人芸については若者たちも敬服していた。大島渚なども、俺たちの仲間からもああいう技巧でうならせる者が出てきたほうがいい、と言っていた。

 私は当時、小津はなぜ社会派的な映画を作るのを止めたのだろうということを主に考えていた。

(略)

 もし、晩年の小津が本当に無視されていると見えたとしたら、小津作品をいっさい海外の映画祭に出品しなかった松竹の城戸四郎社長に責任がある。城戸四郎は公的にはもちろん自社の誇りとして小津を賞讃したが、仕事の上ではいちばん自分の言いなりにならない監督として反発していた。小津があの形式へのこだわりをゆるめてくれればもっと良くなると言い、小津の作品をカンヌやベニス(ヴェネツィア)に出すことは許さなかった。

(略)
 ただ、小津作品は外国人には理解できないのではないかという城戸の言い分は彼だけの判断ではない。当時は日本人の多くが、背広を着て畳の上に座り、小さなチャブ台でメシを食うような現代の日本人の生活は西洋人には滑稽にしか見えないと思い込んでいたのだ。その点で、エキゾチックな時代劇でいきなり西洋人をびっくりさせることができた黒澤明溝口健二は幸運であるが、小津や木下恵介は日本人だけで守ってゆこう、という、それこそ暗黙の合意が出来ていたのだ。アメリカ人のドナルド・リチーなどが、そんなことはない、と、しきりに言っていたのだが。こうして小津作品は日本人にしか理解できない伝統芸能のようなものと見なされたのだ。

(略)

[当時は古い作品を自由に見れなかったので]

若い批評家たちは先輩たちがなぜあんなに小津を崇拝するのか、本当のところよく分かっていない傾向もあり、『東京物語』は別として、たあいのない喜劇などまで名人芸として賞める先輩たちのことに反発する傾向はあったかもしれない。

(略)

[小津が忘れられていた時期などないが]小津の晩年は日本のヌーヴェル・ヴァーグと重なり、そっちを賞めることのほうに私などよりいっそう努力していたことはたしかである。