フリーステート・プロジェクト
ニューハンプシャーに移住しよう
独立と自治の精神が強く(略)タウンミーティングが今も活潑だ。(略)
一八八九年以来、議員の給与は年一〇〇ドルに据え置かれたままだ。固定資産税こそ高いが、所得税も消費税も相続税もなく、税負担は全米で二番目に低い(一位はアラスカ州)。(略)
おまけに銃規制は西部や南部の州並みの緩さ。他人に見える形での拳銃の携行も認められている。自動車保険の加入も必須ではなく、シートベルトやヘルメット着用の義務もない。
(略)
[ユートピア共同体を調べたジェイソン・ソーレンスは、国家や小さな共同体では失敗していると考え、小さな州にリバタリアンが二万人集結すれば政治を左右できると考えた]
(略)
日本では、リバタリアンはアメリカの「保守派の一部」と見なされがちだが、湾岸戦争やイラク戦争には反対した。人工妊娠中絶や同性婚についても国家が口を挟むべき事案とは考えない。さらに言えば、レイシズムやナショナリズムは個人を矮小化するドグマとして否定する。
(略)
[「ティーパーティ」とも財政保守の姿勢は一致するが]
あるフォーラム参加者曰く、「ティーパーティ参加者のプラカードに「私のメディケアを踏みつけるな」と書かれていたのを見て呆気に取られました。メディケアこそ「大きな政府」の象徴です。ティーパーティは軽薄なブームに過ぎないと悟りました」
(略)
[トランプについても]
アイン・ランド協会
[「アイン・ランド協会」講座担当アーロン・スミス談]
「ランドは自らをリバタリアンとは見なしませんでした。そういう集合的カテゴリーに括られることを嫌ったのです。とりわけ「無政府主義」というイデオロギーに陶酔しているリバタリアンのことは軽蔑さえしていました。憲法によって権力が制限され、不可欠な機能を果たしている政府であれば、その権限を容認していました。社会保障制度すら擁護していたほどです」
(略)
「トランプは『水源』を愛読していると公言していますが、最後まで読んだかどうかは疑わしい。協会内にはトランプ支持者は皆無に近いです」
(略)
リバタリアンは総じて軍事介入に懐疑的だ。政府の権限や防衛費が肥大化することによって市民的自由が犠牲になる、あるいはアメリカの介入が対抗勢力の介入を招きかえって問題が泥沼化する、といった懸念からである。
(略)
「慈悲深いリバタリアン」を自負する一派がいる。(略)
[政治学者マット・ズオリンスキーは]
「貧困や恐怖からの自由は個人の基本的権利です」とし、ベーシック・インカムの導入にも理解を示す。「政府の福祉事業は画一的で選択肢も少なく、需給のミスマッチが目立ちます。競争もないため、既得権益が優先され、結果的に高コストになります。それならいっそ一律に最低限所得を保障し、その使い方は個人の裁量に委ねたほうが賢明です」
(略)
国家と一部の特権的な企業・資本家が結託した資本主義が貧困や環境破壊などを引き起こしていると批判し、「資本主義ではない市場」を提唱している。
「リバタリアン」という言葉
「リバタリアン」という言葉が今日的な意味で広く用いられるようになったのも五〇年代だ。(略)
三〇年代以降、自由をめぐる政府の役割認識が逆転し、「大きな政府」を容認する進歩派が「リベラル」と称されるようになった。そこでアメリカ本来の自由主義を取り戻そうする一派が辿り着いた言葉が「リバタリアン」だというわけである。
「リベラル」への対抗概念として「保守」という選択肢もあり得たが、当時のアメリカではそれは蔑称に近かった。(略)加えて、イギリスでは「保守」は旧王党派のトーリー党を連想させることが多く、リバタリアンが描く自由主義とは相容れないものだった。
もっとも、「リバタリアン」という言葉に違和感を抱く者も少なくなかった。自分たちこそはアメリカ元来の正統なリベラル=自由主義者というわけだ。彼らはむしろ「古典的リベラル」という呼称を好んだ。
第3章 リバタリアニズムの思想的系譜と論争
リバタリアニズムヘの懐疑
もっとも、リバタリアニズムの世界観には批判も多い。
曰く、「完結した強靭な自己」という西洋流(とくにアメリカ流)の個人主義を前提にしており、普遍性に欠ける。歴史的・人類学的にそうした「個人」は虚構ないし理想に過ぎない(略)。「社会」は「個人」の集合体ではなく、逆に、個人を「個人」たらしめているのが「社会」である……。(略)
リバタリアンは連邦政府の権限が弱かったアメリカ建国期を理想化するが、連邦に加わった州にはすでに「政府」が存在していた。そもそも「自然権」を裏書きしているのは政府である。奴隷制を廃止したのも政府である。人びとがより健康になり、豊かになり、安全になったのは政府のおかげである。個人を抑圧するのは政府=公権力だけとは限らない……。
「リバタリアン・パターナリズム」
ところで、リバタリアニズムは近年、やや異なる文脈で注目を浴びている。それは「リバタリアン・パターナリズム」という概念で、個人に自由に選択させているようで、実は一定の方向に判断や行動を誘導――「ナッジ」(nudge=ひじで軽くつつく)――することを指す。カフェテリアでサラダをメニューの最初のほうに配列して目につきやすくし健康への配慮を促すこと(略)
[キャス・サンスティーンやリチャード・セイラー]らによって精緻化され、目下、公共政策への応用へ向けた制度設計が世界各地で進んでいる(略)
自由至上主義と父権的干渉主義を両立させようとする点が特徴だが、そのどちらかに着目するかによってリバタリアンの間の評価は分かれる。
リチャード・ローティ『アメリカ未完のプロジェクト』
オンカー・ゲート氏はトランプ氏を批判すると同時に、民衆の側にも独裁者を待望する素地があると警鐘を鳴らした。
(略)
[リチャード・ローティ『アメリカ未完のプロジェクト』]
労働組合のメンバー、あるいは組合に入っていない低スキルの労働者たちは、ある日気づくときが来るだろう。彼らの政府は賃上げをすることもないし、雇用の海外流出を防ぐこともしないと。そして、郊外に住んでいる白人のミドルクラスたちは、彼らのために税金を負担しようとも思わなくなると。そのとき、社会のシステムにヒビが入る。その裂け目でいかなる事態が生じるのか。高給取りや官僚、ポストモダンのインテリといったエリートたちの思う通りには社会を運営させないというメッセージを発する指導者が突然現れ、労働者の怒りのはけ口として求心力を持つようになるだろう。そのとき、アメリカ社会は過去四〇年間の成果を失い、マイノリティや女性の権利などが一気に後退していく……。そう論じた同書は「トランプ旋風」の予言の書として、選挙後アメリカの論壇で話題になった。(略)
政治学者スティーヴン・レヴィツキーらは民主的手続きを踏みつつも、特定政党や政治指導者が権力支配を強める政治体制を「競争的権威主義」と称した。トランプ氏のアメリカのみならず、程度の差こそあれ、トルコやポーランド、カンボジア、フィリピンなど多くの国々を覆いつつある現象とも言える。グローバル化に伴う社会変動や不確実性への不安が、より「強い指導者」への渇望を助長しているのだろうか。
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