「大人計画」ができるまで 松尾スズキ

 
「大人計画」ができるまで

「大人計画」ができるまで

 

 福岡時代、片葉みはる

福岡で「虚業」っていうか「表現」することに興味がある人は少ない分、出会うと仲間意識が強くなったんだよなあ。あの劇団をそのまま東京に持ってきてても、そこそこやれたと思う、マジで。東京で芝居見ても「勝てるな」って劇団はいっぱいあったから。まぁでも、皆を上京させるほどの統率力がオレにはなかったし、ましてやそれで食うっていうのはまったく非現実的な話だった。
 ちなみに、その頃からオレが作・演出で、そのときに制作をやってくれてたのが、数年後大人計画を一緒に旗揚げした片葉みはるって女優なのよ。 

 宮沢章夫

旗揚げの前に、宮沢章夫さんが新人を集めて作るユニットの舞台に直談判しに行って俳優として出ることが決まって

(略)

『電波とラジオ』っていう舞台に出るんです。そこで、自分がやってきたこととは全然違う、宮沢さんのやりかたっていうのかな。設定だけ与えられて口だてとアドリブを使って作っていく「エチュード」っていうのを知るんだけど、そのやりかたには、すごい影響を受けて、自分が最初にやったやつもエチュードを繰り返して作ったんだよ。そのへんは、時代の流れだろうね。(略)

まあ、うちは役者の発想にすぐ絶望して、というか、稽古始まっても俳優から何にも出てこないんで、その手法からは早々に撤退したけど。

(略)

[ラジカルで鍛えられてた先輩のビシバ西田&住田、ふせえりは]

アドリブがポンポン出てきて、その腕前を見せつけられて「これがプロか……」って打ちのめされたのをよく覚えてる。もちろん、初めてのエチュードでの演技だから、めちゃめちゃ精神的に追い込まれた。(略)

なぜかそこにはマンガ家になる前の安彦麻理絵もいました。そういえば。オレも安彦さんもなんにもできなかった。
 もう、ほんと毎回、試験受けているみたいでしんどかったけど、やっぱり刺激的で、そういうのを踏まえて、自分でも初演の『絶妙な関係』をほとんどエチュードで作ったわけ。

 

初公演

[イラストの「スーパーリアリズム」を]

芝居の世界に持ち込めないかなって考えていて。あのときは、平田オリザさんがやっている青年団系の「日常を切り取るように描く」みたいなことを、笑える角度でやってたなあ。

 (略)

 ビックリするのは、[友達しか来てない]そのたった1回の 公演を温水洋一がなぜか観てて、そのあと「入れてください」って来たんだよね。

(略)

[3回目の『嫌な子供』で]みんな辞めていったのは寂しかったね。まあ、でも、最大の原因は、オレの書く話が理解できなかったからじゃないかな。(略)その頃は、カート・ヴォネガットの影響を強く受けていて、100年ぐらいの壮大な時間の中で、話が前後しながら、最後に怒濤のようにまとまっていく、というような、その中にコントも入って、みたいな、俳優が感情移入しにくい芝居ばかりやっていて

(略)

[宮沢がコント出身でラジカルに装置がなかった影響で]

オレは赤字で苦しむことがあんまりなかった

(略)

[2回目『手塚治虫の生涯』は]すごくモンティ・パイソンの要素が入ってきてたね。宮沢さんの影響もあるし

(略)

 で、やっぱり宮沢さんとの出会いは肝なんだよな。1公演目を宮沢さんが観にきて[劇評を『ターザン』に書いてくれ、それを読んだ構成作家加藤芳一が『マイアミにかかる月』を観に来て、『冗談画報』に出ることに]

 人力舎

  宮沢さん、その頃は「人力舎」と、かなりつながりがあったんだと思う。劇評が出たときも、「人力舎」の人から「宮沢さんにお礼言いなさい」って電話かかって来たし……考えてみるとオレ、演技で初めてギャラをもらったのって「人力舎」からのギャラだわ。(略)

ビシバシステム」も「人力舎」だったし、ふせえりさんは今も「人力舎」だし。(略)

当時の「人力舎」ってかなり演劇寄りのところもあったんだよ。乾電池の役者も一時期「人力舎」だったんだから。シティボーイズもそうだし。だから「人力舎」って、舞台の世界でも歴史を持ってるんです。

 「俳優の笑い」

伴淳三郎とか、フランキー堺藤山寛美とか、ああいう喜劇人っていなくなったよね。それに関する反省としては、オレらが「俳優の笑い」をできる後継を育てられなかったというのがあるかもしれない。(略)

[「シティボーイズ」みたいな]「俳優の笑い」っていうのは廃れちゃいけないとは思うから、オレもやっていきたい。

(略)

 ……あーしゃべりすぎた。 やっぱり、笑いと演劇の関係についての話題が一番熱くなっちゃう。まあ、オレにとって一番コアな部分だから。

 客演

  でもオレ、WAHAHAに客演したことはないんだよね。というのも、WAHAHAには彼らの笑いがあって、オレのそれとは全然、質が違ったから。それでも仲良くしてもらえてたのは、当時の演劇界にも染まらないし、お笑い芸人の世界にもいかないみたいな、言ってみればアウトロー同士の仲間意識みたいなのがあったんだと思う。

(略)

 たしかに客演って特殊な文化だよね。当時の大人計画は本当に人材が不足してたから、完全に相手の力を借りるって感じ。(略)

その人目当ての客も来るだろうっていう算段はあったよ。

(略)

 公演自体でいうと(略)仕事っていうより、何かにつながればという気持ちがすごくあったよね。実際、その頃はCM業界とかにお金と余裕があったからかもしれないけど、有名なCMディレクターが青田買い感覚でオレらみたいな小劇団の公演も観にきてくれたりしてたし。(略)

当時は公演を1回やったらCMオファーが1回くる、ぐらいの感じだったんだよ。とくにオレの場合は、『冗談画報』に呼んでもらってから、明らかに状況が変わったなあ。

 マンガ家志望

 書き下ろしにこだわったのは、そもそも「あり物をやる」っていう発想が、まったくなかった。(略)マンガ家志望だった頃の思考なんじゃないかな。
 キャラクターを作って絵を描いて、ストーリーも書いてっていうマンガ制作の一連の流れね。オレの場合、その過程が演劇に移行したっていうことだから。映画を撮ったときもそうだったけど、オレはやっぱりマンガがベースなんだよね。コマ割りって感覚もあるから、絵コンテも描けるし。

(略)

2次元的なコミックの世界と、3次元の身体性っていうのを結びつけて演劇として昇華しているんだと思う。マンガも好きだけど、コメディアンの動きが好きだったから

[学生時代、ジョン・ベルーシ財津一郎の動きを]どうやって動いているんだろうって、自分の部屋で独り、ひたすら真似してたっていう気持ち悪い時期があったから。

かつての盟友・温水洋一について 

 大人計画の初期の話だと、やっぱり温水の話も外せない。(略)

鼻と小箱』をやるくらいの頃に、やっとギリで食えるようになってたって感じ。まあオレは、宮沢章夫さんの紹介で松尾貴史さんとふせえりさんと3人で、ラジオのコント番組やってたから、そっちの収入もあったし、温水も、ほかで番組に出るようになってきてたし。それでも2人ともバイトはしてて、(略)新薬の治験バイトもそうだし、交通量調査とかも一緒にやったしさ。

(略)

そんな温水は結局、舞台よりもテレビや映画の仕事をメインにやっていきたいってことで、大人計画は辞めちゃうんだけど(略)お互いの感じを知りつくしてるから、今でも一緒になにかやったら面白いんじゃないかなって思うんだ、正直。だってオレらくらいの世代で、作・演出をやってコントも演技もやってる人なんていなかったからさ。本当に、オレと温水のコントは面白かったんだよ。

(略)

もちろん、世間にバブル期の余裕があったから成立したコントだし

(略)

[今のテレビだと瞬発的な面白さを求められるけど]

そうじゃない笑いもあるんだってことは、みんなにも知ってて欲しいなあってこと。昔のテレビには、夢がありましたよ。

 宮藤官九郎

[初対面は『神のようにだまして』で便利屋さんとして。日芸在学中で]

無口でロン毛の鬱屈した男って感じ(略)

宮藤は高田文夫さんに憧れたクチで、「いつか、たけしさんに相槌打ちたい」みたいな感じだった

(略)

日テレの『演歌なアイツは夜ごと不条理な夢を見る』っていう深夜ドラマも、宮藤と一緒にやったんだよね。結構、オレだけでやったと思ってる人もいるみたいだけど、2話目からは宮藤のクレジットも入ってるから。あの頃は、本当に2人きりで、オレの笹塚のワンルームの部屋でガッツリやってたね。

(略)

 あいつとは、師弟関係とか、そんな感じじゃなくて、歳下の遊び相手みたいな感じだったんだよね。作家的スタンスで、面白いことについて語り合える人間と、やっと出会えたっていうか。(略)

宮藤に怒ったこと、ほとんどないんじゃないかな。ほかの人間は、若い頃にオレにガツンとやられてるんだけど……。 

『溶解ロケンロール』

あのときに大人計画の俳優は全部芸名にしようって決めたんだ。(略)

女なのに虫っていう字を6つ並べて「ロクムシ」(略)「新宿チャコ」とか「頭良男」ってのもいた。(略)もはやたけし軍団状態ですよ(笑)。

(略)

オレの手ごたえもあったし、客のウケもよくて。それこそ、「こんなにわけわかんない素人連中でもイケるんだ」っていうくらいすごいウケてて。それはオレにとっても、初めてオレと関わることになった人にとっても自信になったと思う。それまでとの違いは……もう勢い(笑)。(略)

「とにかく、ほかの劇団とは違う、演劇を破壊してやろう」みたいな心意気。(略)

宮沢さんの影響から抜け出さなきゃならん、って思いもあった。ああいうスタイリッシュさに憧れて、もともと自分の中にないものだから。

(略)

 ウケてたって言っても、演劇関係者は誰も来てなかったんだよ。(略)

「WAHAHA本舗」とか「ラジカル・ガジベリビンバ・システム」を観て流れて来る客とか、サブカル系の雑誌を見て来る人とか(略)いわゆる「演劇ファン」ではないんだよね。衣装を着てるオレなんかより、ずっとアバンギャルドな服を着てる人達ばっかだったもん

荒川良々井口昇

 ちなみに荒川は、阿部とは違って戦略的なタイプだと思うんだよね。先輩達にめちゃくちゃ気配りできるし、そういう意味ではすごく体育会系なのに、反面、サブカル大好き野郎だから、そこのギャップが面白いよね。基本的にはメジャー志向だと思うんだけど、ちゃんと井口君の新作とか真っ先に観るし。俳優としては、とくに舞台でのアドリブが抜群に面白い。アドリブは宮藤もうまいけど、必要最低限、アクシデントが起きない限りアドリブはしない。でも荒川は、アドリブでは、もう独自の世界の中で突き進んでいくから、本当に特殊な役者だと思うな。その一方で、どんどん本人の中で「ちゃんとした俳優になろう」っていう気持ちが高まっていることも感じる。

(略)

 荒川もだけど、井口君をうちに入れた狙いは、なんていうか、大人計画ってああいう過激な作品を作る人間もいる危険な事務所だぞって色合いがほしかったの。さらに、そんな本人がすごく腰が低いっていうのが、またいいんだ。井口君も、今やもうハリウッドを相手にしているような国際的に有名な映画監督だからね。そんな彼をゴミくずみたいな(恰好の)状態から見ている人間としては、嬉しい限りですよ。だって井口君、初めて会ったとき、すでに20歳くらいだったけど、小学校の遠足の時に使ってたリュックをまだ背負ってたし、破れたズボンはいて、本当に妖怪みたいだったんだから。今は嫁も貰って、すごいポップになってるけど、昔は本当にヤバいやつだった。まあ、オレだってヤバいと思われてたし、サブカル界の連中同士で「お前ら、どこまでできる?」みたいな感じでヤバさを競い合って楽しんでる時期もあったからね。

チラシ文化 

唐十郎さんも言ってるんだけど、ポスターやチラシって「劇団の旗」なんだよ。だから、劇団にポスターを作る体力がないなら、余計にチラシだけはナメられちゃいけないっていうのはあったし、ほかとは違うものを求めたんだ。世の中的にもチラシ文化っていうのが、もっと認知されてたしね。

(略)

そもそもデザインするだけでも大変な時代だったからね。オレだって『手塚治虫の生涯』のときは、版下に級数指定して、トンボだって切ってたし、トレーシングペーパー使って版下を色別に3枚作ってたもん。今そんなことできる演劇人、絶対いないでしょ。(略)

チラシに、オレ自身が直接手を入れてたのは『絶妙な関係Ⅱ』あたりまでかな。でも、当パン(当日配るパンフレット)はスゴイ作ってたよ。『ふくすけ』もそうだし。もちろん、外注するお金がないっていうのもあったけど、「当パンぐらいはオレのセンスを出していきたい」みたいなこだわりでね。そこはもう役者ではなく、職人としての完全なクラフトワーク。全部自分で書いて大量コピー。(略)

 チラシといえば、その頃は吹越さんのソロの芝居のチラシだと、吹越さんの自宅が連絡先になってたんだよね。大人計画だって社長の長坂が入るまでは、うちの自宅が連絡先だったもん。ま、長坂が入ってからも、彼女の自宅が連絡先だったんだけどね。(略)深夜の問い合わせなんかもしょっちゅう。思い返せば平和な時代ですよ、ほんと。

次回に続く。

 

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