エドゥアール・マネ 西洋絵画史の革命・その2

前回の続き。

マネと印象派

印象派の画家たちは(略)マネの申し子であり(略)明確なつながりがある。もちろん、逆にマネの方が印象派の外光主義に影響された面もある

(略)

[しかし、マネがサロンに固執し]あくまでもそこを自らの「戦場」と見なしたの対し[印象派はサロンという制度から離反したという大きな違いが]

(略)

 もう一つの大きな相違は、西洋絵画の伝統との関係である。(略)

[古典を研究し換骨奪胎しアッサンブラージュしたマネの]造形手法は印象派とは異質である。実際、印象派の絵画は、対象を捉える視覚的なヴィジョン、色彩、筆触の斬新さはあるにせよ、基本的な絵画の枠組み、空間構成などに関しては、伝統的な絵画からマネほど齟齬や逸脱を示しているわけではない。古典との緊張関係を保ちながら絵画の規則を無視するという点において、マネの試みはある意味、印象派よりも過激なのである。

モネ

マネの先例なくしてモネの《草上の昼食》は誕生しなかったと言ってよいが(略)

マネの絵はアトリエで人物をポーズさせて描き、それに風景を合成したもの。ラファエロの人物像を借用し、同時代の設定でヌードの伝統を刷新しようとする意図もあった。それに対して、モネの絵は男女の仲間が森の中に集い、多彩なポーズの人物が織りなす愉悦に満ちたピクニックの情景を、戸外の自然光を意識しつつ描いた作品である。(略)

 とりわけ実験的なのは、光の反射と木漏れ日の効果であろう。ざっくりとした筆触が衣服や葉叢を表しながら、同時に絵具の物質的な存在感を確かに感じさせる。そこには、色彩分割にまでは至らない印象派初期ならではの清新な外光描写があり、無造作に見えるが絶妙な筆さばきがある。レアリスムと印象主義のあわいにいるモネと言ってもよかろう。

(略)

 モネが一八六〇年代半ばに、マネの《草上の昼食》を踏み台とすることによって印象派への道を歩き始めたとするならば、一八七〇年代半ばには、逆にマネがモネに接近している。

(略)

ジェンヌヴィリエでヴァカンスを過ごしたマネは、その間にアルジャントゥイユのモネの家を訪ね、モネをモデルにした作品を数点描いた。

(略)

これ以前のマネの作品で《アルジャントゥイユ》ほど明るく色鮮やかなものはなかった。自然光に包まれたセーヌの舟遊びは印象派に親しい主題で、印象派の外光主義にマネがこれだけ近づいたのは、モネとの交友の結果であろう。

(略)

一八七五年のサロンに入選した《アルジャントゥイユ》は非難や揶揄の対象になった。舟遊びの男女の卑俗さ、下絵や未完成と見なされる筆致、セーヌ川の青色の塗り方などが厳しく批判され、マネの作品のなかで《オランピア》以来のスキャンダラスな作品となったのである。特に問題とされた「壁のように青いセーヌ川」は、平面性というマネ独特の造形感覚をよく示している。

(略)

 それでは、未完成、印象派的と批判された筆致はどうなのか。例えば、川の色の塗り方は印象派とは異なっている。なるほど、筆触はある程度分割されているが、色は基本的に青だけで、その濃淡の調整はあっても、多彩な色が混じることはない。青のグラデーションによって平面的に塗られているのである。(略)

むしろ、川は人物や船とのあいだに鮮やかな色彩の対比をもたらしており、印象派の筆触分割よりも、色面対比の方がマネの造形感覚に合っているのは疑いないところである。

 セザンヌ

 [当時の若い画家たちにインパクトを与えたマネの]《草上の昼食》が示す官能性や不穏さ、緊張感や不可解さに敏感に反応したのは、モネではなくセザンヌだったのである。

(略)

セザンヌはマネの《草上の昼食》から、男女関係を現代風俗としてどのように描くのか、現代においてヌードをいかに扱うのか、という課題をもらったに相違ない。(略)

自分はこのテーマをマネのような都会的な洗練とともには描けないことを、逆に認識させられたのではないか。(略)

ただ少なくとも、男女関係やヌードを扱っても、エネルギーを爆発させるように描くのではなく、絵画として制御して描くことだけは、マネから学んだのである。

(略)

 セザンヌはマネに関する言葉をあまり残していないが、興味深い発言をモーリス・ドニが伝えている。なぜ激しい調子の画面から、筆触を根気よく並べていく技法に移行したのかと[問われ](略)

それは、私の感覚を一度に表現することができないからです。だから色をまた加えていきます。私のできるようなやり方で。しかし、描き始めるときは、いつでもマネのように絵具をたっぷり塗って、絵筆によって形態を生み出すことを求めているのです。

(略)

十九世紀に絵画の自律的な造形世界(形態と色彩で構造化された絵画)を、確信を持ってカンヴァスに実現した二人の画家こそがマネとセザンヌなのである。

 ゴーガン

ゴーガンは一八八九年のパリ万国博覧会の「フランス美術百年展」に出品された十四点のマネ作品を見ているが、その中には《オランピア》も含まれていた。ゴーガン自身によるその展覧会評には、「大いに怒号を上げさせたあの美しいオランピアは、王者の作品のようにそこにあり、少なからぬ人から評価されている」という件もある。マネを評価していたゴーガンは、ブルターニュの自室に《オランピア》の複製写真を掛けており、南洋の島タヒチにもそれを携行した。《オランピア》はゴーガンが画家として気にかけていた重要な作品であった。
 ゴーガンは《オランピア》を油彩でかなり忠実に模写している。ただし、マネの平面的な彩色とシンプルな形態を己の綜合主義様式に同調させており、筆触もより露わである。原作よりもやや大きめに描かれたオランピアの頭部はエキゾチックな雰囲気を湛え(略)色彩も原作以上にバラ色が裸婦の肌に広がり、異国趣味の華やかさが見られる。後に、遠いタヒチの地で野生の美、プリミティブな美を見出し、絵画に表現するゴーガンの運命を先取りしているような模写にほかならない。マネ以上にゴーガンの個性を感じさせるのが面白い。
 実は、ゴーガンによるこの《オランピア》の模写は、かつてドガが所蔵していたことがある。一八九五年の売り立てで購入したドガは、自宅の控えの間にこれを掛け、アングル、マネ、コロー、ドラクロワや、他のゴーガン作品とともに、一九一七年に亡くなるまで所蔵していた。ドガにとってこの模写は、マネとゴーガンという二人の画家が交差する意味深い作品であったに違いない。

(略)
タヒチ滞在について綴った『ノア・ノア』の中で、ゴーガンは肖像を描こうとして招いたタヒチの女性が、《オランピア》の複製写真に関心を持ったことを伝えている。「私はどう思うかと彼女に尋ねた。とても美しいと、彼女は私に言った。私はこの考えに微笑み、感動した。彼女には美の感覚がある(美術学校はそれをおぞましいと思うだろうが)。考えをまとめる前の沈黙を破って、突然彼女は付け加えた。〈あなたの奥さんなの?〉〈そうなんだ〉私は嘘をついた。私が《オランピア》の夫だなんて!」

(略)

 《オランピア》を模写した翌年に制作した《マナオ・トゥパパウ(死者は見守る)》についても、ゴーガンは『ノア・ノア』の中で関連する逸話を述べている。ある日のこと(略)真っ暗な部屋のベッドの上で恐怖に怯えている妻テウラを見つける。

じっとして、裸のまま、ベッドにうつぶし、恐怖のあまり眼を法外に大きく見開いて、テウラは私を見つめ、しかも私だと分からないでいるようだった。(略)ひたとみつめるその眼から、燐光があふれ出ているような気がした。こんなにも美しい彼女を見たことはなかった。しかもこれほど胸に迫る美しさの彼女を。(略)心も体も迷信に支配され、烈しい感情に囚われている彼女は、私の知らない存在であり、それまで目にすることので
きたどんなものとも違った存在であった。

(略)

そのヴィジョンを絵画化する際に、裸婦の向きやポーズに違いはあるにせよ、ブルターニュからタヒチヘと常にゴーガンに寄り添っていた《オランピア》のイメージが介在しているのは確実であろう。しかも、マネの絵の平坦な彩色をさらに押し進めながら、装飾的な画法を結実させているのである。

マティス

一九三二年に新聞紙上で「マネは本能を解放することで自らの感覚の直接的な表現を行った最初の画家です。彼は初めて反射的に振る舞い、画家の仕事を単純化したのです」と述べているのは、マネを継承する自己を意識した言葉としてきわめて興味深い。とりわけ、次第に絵画の平面化、単純化を押し進めていくマティスにとって、透明感のある明るい色彩の広がりで構成されたマネの絵画は、自らが進むべき方向へと後押ししてくれたのではなかろうか。

(略)

[ゴヤの《バルコニーのマハたち》を踏まえたマネの《バルコニー》、バルコニーの人物を棺桶に変換したマグリット]

 しかしながら、私見では、二十世紀の画家でさらに見事な《バルコニー》の再解釈を行ったのはマティスにほかならない。《コリウールのフランス窓》こそは、マネの《バルコニー》に潜む近代特有の非情さや緊張感を、黒い帯が示す闇や暗さに移し替えた作品ではなかろうか。 

ピカソ 

ピカソもまた一九〇一年に《〈オランピア〉のパロディー》を描いている。ペン画に色鉛筆という軽めの作品だが(略)

ベッドに横たわるのは裸体の黒人女性で、その傍らに座るのは裸のピカソ自身、ベッドの向こうには果物皿を持つ男性(略)がいて、ベッドの上、裸婦の足元には犬と猫が一匹ずつ鎮座している。要するに、ピカソは《オランピア》を左右反転させたばかりか、白人の裸婦を黒人に変え、召使いを黒人女性から白人男性にすることで、人種と性を転倒させた上に、召使いの持つ花束を果物に変え、小動物として本来の猫に犬を加えた。(略)

黒人の裸婦を中心に置くことによって、《オランピア》が含む異国趣味、プリミティヴィスムのテーマを、ゴーガンとは違った形で強調してみせたのである。

(略)

マネが《オランピア》でティツィアーノの《ウルビーノのヴィーナス》に依拠したことを、ピカソは子犬を加えることでほのめかしたわけだが、左右反転した裸婦の姿勢そのものはゴヤの《裸のマハ》を想起させるところがある。他方、果物皿を手にする男性の顔の向きと視線は、ティツィアーノの《ヴィーナスとオルガン奏者》のそれと類似している。すなわち、ここにはヌードに関するピカソの絵画的記憶が、《オランピア》を中核として幾重にも取り巻いているのだ。

デュシャン

今日の画家のなかで、あなたにとってもっとも偉大な人たちは誰か、と問われたデュシャンは、セザンヌ、スーラ、マティスらの名前を挙げ、ピカソの役割を強調したあと、マネに言及する。「今世紀のはじめは、それはマネでした。絵と言えば、それはいつもマネの話でした。マネなくしては絵画はありませんでした」と。マネによって絵画史の位相が決定的に変わってしまったことを、デュシャンもまた意識していた。絵画が絵画として成立する枠組み自体を問題化するという意味では、十九世紀後半におけるマネのパラダイム転換は、二十世紀前半のデュシャンのそれにつながる最初のステップとも見なされるのである。