エドゥアール・マネ 西洋絵画史の革命 三浦 篤

 

修行

[叔父]のフルニエ大佐に連れられて、マネは小さい頃からルーヴルを訪れ、絵画に親しんでいた。そして、画家の道を歩み始めた一八五〇年にはトマ・クチュールの弟子としてルーヴル美術館に登録し、五〇年代に幾たびか模写を行ったことが記録に残っており、模写作品も現に存在する。

(略)

模写のラインナップを見ると、マネは当初からどちらかといえば西洋絵画の「色彩派」の画家たちに関心があったことがわかる。

(略)

一八五二年から五三年にかけて集中的にヨーロッパの主要都市の美術館を訪問[オランダやミュンヘンレンブラントフィレンツェで《ウルビーノのヴィーナス》、マドリードでベラスケスなどを模写]

複製版画と美術全集

[名画の]複製版画は画家自身が所有したり、その画家が学ぶ師のアトリエに備わっていることもあったが、帝国図書館版画保管室にも所蔵されていた。実際、マネは(略)登録カードを作っている。(略)

古典的な神話画の複製版画を鑑賞したり、デッサンで模写したに違いない。(略)

 さらに、当時フランスでは、過去の名高い画家たちの絵画を網羅するような美術全集が出現していた。 

 ティツィアーノ

 もともと、マネが六年間師事したクチュールはティツィアーノを高く評価しており(略)偉大な色彩派の画家としてこのヴェネツィアの巨匠の色調、色彩の輝きを絶賛している。(略)修行時代のマネはルーヴル美術館で[ティツィアーノを研究、模写]

(略)

 このように細部を比較して見ていくと、《オランピア》が《ウルビーノのヴィーナス》を継承しつつ、いかにそれを反転させるように変容させたのかが理解できる。マネは古典的ヌードの偉大な先例に依拠しつつ、その本質をことごとく裏切っているのだ。(略)《オランピア》の裸体は理想化にはほど遠いプロポーションで、卑俗な現実性が付与されている。顔立ちも身体つきも含めて、モデルの個性がこれだけ生々しく露出するヌードは、ゴヤの《裸のマハ》を例外とすれば、《オランピア》以前には存在しなかった。

一八六五年夏のベラスケス体験

オランピア》の大スキャンダルを経た一八六五年の八月末から九月半ばにかけて、マネはスペインに旅行した。約二週間の滞在 

(略)

[友人への手紙]

友よ。君がここにいないのが残念だ。このベラスケスを見ることは、君にとってどれほどの喜びだったことだろう。ベラスケスのためだけに旅をする価値があるのだ。(略)

ベラスケスは画家の中の画家だ。僕を驚かせはしなかったが夢中にさせた。(略)

最も驚くべき作品(略)は、フェリーペ四世の時代のある有名な俳優の肖像と目録に記載されている絵だ。背景が消えている。黒一色の服を着て生き生きとしたこの男を取り囲んでいるのは空気なのだ。

(略)

ベラスケスの真作から受けた衝撃(略)はまず、帰国直後に制作され、一八六六年のサロンに落選した《悲劇俳優》と《笛吹き》に顕著な形で表れた。(略)

[《笛吹き》は]《道化師パブロ・デ・バリャドリード》の様式的影響に加え、日本の浮世絵版画に倣った明快な彩色を採り入れることによって、平面的な絵画表現の極限に達した大胆な作品である。ここにはマネによるベラスケスとジャポニズムの独自な融合の成果がうかがえる。

 ヨーロッパ絵画の統合

 マネという画家は、あたかも過去のヨーロッパ絵画史を集大成するような独自の視点から、その全体を包み込むような画家とも見えてくる。(略)

[《草上の朝食》には]イタリア絵画の換骨奪胎があり、オランダ絵画からのモチーフの引用があり、まさに古典主義と自然主義が溶け合っているではないか。

(略)

まるで美術全集から画像を引用するかのように、ほぼ無差別な形であらゆる「古の巨匠たち」から自分が気になったもの、必要とするもの(主題、テーマ、構図、形態、モチーフ、色彩、筆触等々)を摂取し、違和感をものともせず現代的な文脈に置き直して見せた。そこには、ほとんど無秩序に近い暴力性すら感じられる 

アッサンブラージュとイメージの等価性

[《老音楽師》]

 実は、一八六〇年代のマネ作品でこの絵以上に多数の形態を引用し、アッサンブラージュした、つまり寄せ集めて構成した例はちょっと見当たらない。マネの作画手法がもっともラディカルな形で表れているのである。まず全体の枠組みについては、マネが信奉していたベラスケスの《バッカスの勝利(酔っぱらいたち)》が基盤にあるが、この時点でマネは原作を見ていないので、セレスタン・ナントゥイユによる複製リトグラフを参照したと思われる。人物をフリーズ状に並べ、画面左上に葡萄の葉、右上に帽子をかぶった男を配したところなど共通性は明白である。しかし同時に、マネがル・ナン兄弟の《フラジョレットを吹く老奏者》を参照したのも確かで、第四章で指摘したようにブランの『全流派画人伝』に掲載された複製図版が典拠と思われる。

(略)

画面左の白い服を着た男の子が(略)ヴァトーの《ピエロ》

(略)

 それでは、ヴァイオリン弾き自体はどうかと 言えば(略)ル・ナン兄弟の《笛を吹く老奏者》(略)

 《老音楽師》における構図や形態の借用はこれで終わりではない。もっとも大胆不敵なモチーフが残っている。実は、画面右のシルクハットを被った男は、一八五九年のサロンに落選した《アプサントを飲む男》そのものに他ならない。マネはここで堂々と自作からの引用までも行っていることになる。

(略)

美術館の整備が急速に進み、第一章で述べたように、シャルル・ブランの美術全集が出版され始めたこの時代は、複製版画を通して特定の名作をうやうやしく引用する段階から、体系化された膨大な画像のアーカイヴから任意のイメージを自由にピック・アップして、大胆にコラージュできるような段階への移行期に当たっているのである。写真が美術品の複製媒体になり始めるのも時期的にちょうど符合する。

(略)

マネがこのような歴史的条件を利して、大胆かつ自在に形態をアッサンブラージュし得たのは、その前提としてイメージの等価性をいち早く認識していたからだと思われる。おそらくは、複製画像を介してあらゆるイメージが相対化され、同質化することにひときわ敏感であったマネは、最終的には、起源を問わずあらゆるイメージを同一次元で操作し、絵画を作り上げる試みにたどり着いたのではなかろうか。その作画法にはほとんど暴力的とでも言うべき過激さ、無頓着さがあり、単なる引用を超えて、本来並置し得ない出自の異なるイメージの断片を強引に接合するところに真骨頂が見られると言ってもよい。

(略)

誇張して言えば「活人画」のごとき人工的な現実感を創出することを意味するのである。ジャン・クレイの言葉を借りるならば、「文化から自然を創り出す」ようなタイプのレアリスムにほかならない。

 こうして出来上がった作品は、もちろん伝統的な画面構成とは異質である。平面上にモチーフを羅列した、ある意味まとまりのない構図であり、画面右端で半身に切り取られた人物が、完成した作品自体の断片性を示唆するのも興味深い。

(略)

逆にまとまりのある構図の絵を切断してモルソー(断片)にしてしまうことがある。

(略)

[《闘牛場の出来事》が一部しか残っていないのは]

批評家たちから空間表現を批判されたマネが、サロン終了後に絵を切断したからである。当時の戯画を見れば、切断前の内容はほぼ判別できる。原作を上下に切り離し、下の倒れた闘牛士の部分を《死せる闘牛士》に仕立て直し(略)上部に関しては、牛の姿をほぼ切り落として《闘牛士たち》という作品に整序したが、その結果、画面下にモチーフの切断という効果が表れている。

1867年個展カタログ序文 

 個展開催の動機
 一八六一年以来、マネ氏は作品を展示し、あるいは展示しようと試みている。
 今年は、自らの画業全体を公衆に直接提示することを決意した。
 サロンに初めて登場したとき、マネ氏は優良賞を獲得した。しかしながら、その後、審査委員会によってあまりに頻繁にサロンから遠ざけられたために、仮に芸街上の試みが一個の戦いであるならば、少なくとも同等の武器で戦わなければならぬ、すなわち制作したものを同じように見せることができねばならぬ、と考えざるを得なくなったのだ。

(略)
 今日、芸術家は「欠点のない作品を見にきてくれ」とは言わず、「誠実な作品を見に来てくれ」というのである。
 画家は自分の印象を表すことだけを考えていたのに、抗議するのに似た性格を作品に与えるのは、誠実さの結果なのである。
 マネ氏は一度として抗議しようと欲したことはない。逆に、マネ氏に対して予期せぬ抗議がなされたのだ。なぜなら、絵画の形態、手段、見方に関する伝統的な教えがあり、そうした原則の中で育った者たちは、もはや他の原則を認めないからである。彼らの方式の埒外では、何も価値を持つことができず、彼らは自ら批評家となるに留まらず敵対者に、それも積極的な敵対者になるのである。
 展示することは、芸術家にとって死活問題、絶対不可欠のことがらである。というのも、驚かされ、お望みなら衝撃を与えられた作品でも、幾度か熟視した後には、親しみを覚えることがあり得るからだ。人は少しずつ作品を理解し、認める。

(略)

 展示すること、それは戦いのために友人と味方を見つけることである。 

(略)

 落選者のサロン

[1859年サロン初挑戦《アプサントを飲む男》。屑拾いにポーズさせボヘミアンを描いた]

卑俗なテーマといい、日常的で無造作なポーズといい、師クチュールのアカデミックな教えに対するレアリストとしての反発と挑戦という意味合いを持っていたと思われる。しかし、落選という結果はやはりマネには応えたようで(略)

[二年後のサロンでは]当時流行中のスペイン趣味を取り上げ、明快で堅実な画風で描いているからだ。両作品とも思惑通りサロン入選を果たし[《スペインの歌手》は優良賞を獲得、批評家からも絶賛される](略)

 ところが、一八六三年のマネは再び大胆な試みに足を踏み入れ[三点すべて落選](略)史上有名な「落選者のサロン」に展示されることになった。

次回に続く。