エレクトリック・ギター革命史・その2

前回の続き。

エレクトリック・ギター革命史 (Guitar Magazine)

エレクトリック・ギター革命史 (Guitar Magazine)

 

 ディック・デイル

 “私は彼に近づいていって、こう話しかけた。「僕の名前はディック・デイル。波乗りをしています。お金は持っていないけど、どうしてもギターが欲しいんです。何とかしてもらえませんか?」”。(略)
レオはこう言ったよ。「このギターを持っていきなさい、使ってみた感想をあとで私に聞かせてくれればいいから」
(略)
 レオとタバレスにとっての頼れるコンサルタントとなったデイルは、特に新しいギター・アンプの設計に関して大きく貢献した。とりわけ、フェンダーのアンプにスプリング・リバーブ・ユニットを組み込むことを奨励したのはデイルである。サウンドに新たな広がりを与えた“スプリング・リバーブ”は、エレクトリック・ギター・ミュージックの公約数の一つとして、カントリー、サーフ・ミュージック、ロカビリー、サイケデリック・ロックを始めとする数多くのジャンルになくてはならないエフェクトとなった。
 また、増え続けるランデブー・ボールルームの観客動員数に対応するため、より大きな音の出る機材が必要となったデイルが、もっとサイズが大きくてパワーのあるアンプを作ってくれるようレオをせき立てた結果、誕生したのが100ワットのフェンダー・ショウマンだ。このアンプの15インチのJBLスピーカーは、熾烈を極めるデイルのプレイのテクニックにも耐えられるよう設計されたものだった。
 “私がショウマンのアンプにギターをつないであのスピーカーを鳴らした瞬間に”と、デイルは後に振り返った。“軟弱なエレクトロニクスの世界は終焉を迎えたんだ。アインシュタイン原子力のエネルギーに気づいたときみたいにね”
[フェンダーサウンドによるサーフ・インストが次々にヒット]
 ことにリンク・レイの「ランブル」はギターのパワー・コードやディストーションを使った初のレコーディング作品の一つとして引き合いに出されることが多い。伝説によれば、レイはよりダーティーな音を得るため、アンプのラウドスピーカーを穴だらけにしたという。彼が苦心の末に発したトーンは、キンクスザ・フーのようなブリティッシュ・インベージョン勢のグループにも多大な影響を与えることとなった。
(略)
[若い購買層にマーケティングを行い]14種の異なる特別色が登場したが、フィエスタ・レッドやバーガンディー・ミストに代表される大半の色は、デュポン社の自動車用塗料であるデュコのカラー・バリエーションだった。(略)
エレクトリック・ギターは速いスポーツ・カーのように魅力的でセクシーなツールとして扱われ始めたのだ。
[65年健康不安からフェンダー社を1300万ドルでCBSに売却。その少し前にCBSはヤンキースを1500万ドルで獲得している]
一般的な大企業の例に漏れず、CBSも経費を削って最大の利益を得ようと画策したため、フェンダー製品の品質は目に見えて損なわれていった。

マディ・ウォーターズ

 1943年夏、イリノイ・セントラル鉄道の9番線は、通常どおりメンフィスから北上し、16時間をかけてシカゴへ着いた。(略)
30歳になったばかりのハンサムな元農業従事者の黒人、マッキンリー・モーガンフィールドにとっては忘れることのできない旅であり(略)
30歳になるまで綿の農場で汗水たらして働き(略)
一張羅のスーツを着込み、片方の手にぼろぼろのスーツケースを、もう片方の手に10ドルのステラのアコースティック・ギター
(略)
 数年前にクラークスデールを出た友人のロバート・ナイトホークがすでにビクターやブルーバードのレーベルからレコードを出しているのだから、自分も通用するだろうと思えた。本当のところ、実力はマッキンリーのほうがずっと上だった。周囲の友人たちには十代の前半からマディ・ウォーターズとして知られていたモーガンフィールドは、日がな一日ストーヴァル・プランテーションの畑を耕しては、夜が更けると近場のジューク・ジョイントでプレイするという生活を送り、手強い顧客を相手に技を磨いていた。
(略)
ウォーターズ率いる自称“ヘッドハンターズ”は、電気とディストーションを使い、マディをシカゴまで運んできた機関車のように、大音量でパワフルで近代的なサウンドを作り上げた。
(略)
 ウォーターズが移り住んだ頃のシカゴはまだジャズが盛んな街だった。(略)
ブルース・パフォーマーは小さなクラブへ追いやられていた。(略)
ボトルネック・スライドの泥臭いカントリー・ブルースなど都市部では決してウケない」と揶揄されたが(略)[黒人居住区で仲間内のパーティーでは]驚異的な人気を誇っていた。人々は大好きな懐かしい家庭料理を前にしたように、感情を突き動かすウォーターズのデルタ・スタイルのブルースに熱狂した。
(略)
[150ドルするギブソン等は手が出ない]
どんなアコースティック・ギターでも取り付けた瞬間から電気楽器に変える(略)[のが25ドルで買える]ディアルモンドの電磁ピックアップだ。
(略)
ウォーターズとロジャースは、そのうち阿吽の呼吸のようにボトルネックのニュアンス一つで演奏のギアの切り替えができるようになった。
(略)
ロジャースがそれまでに耳にした中で最も攻撃的なハーモニカを吹いていたのは、ひどくやせっぽちのティーンエイジャー、マリオン“リトル・ウォルター”ジェイコブスだ。
(略)
[トリオの演奏は]聴く者を圧倒した。(略)高音のリックは切れ味を増し、ギター音の豊かなサステインが煙のように宙を舞う。彼が奏でるサウンドは産業都市に似合う色調を帯び、粗野で野太いギター音は、当時のシカゴを生きる人々の耳に合うよう巧みに演出されていった。

グレッチ

 グレッチがギター製造に重きを置くようになったのは、バンジョーの人気に陰りが見え始め、ダンス・バンドのリズム・セクションが選ぶ楽器としてギターが浮上した20年代から30年代にかけてのことだった。
(略)
[ドラム事業にも投資していたので、ビジュアル的に強い材質は他社の追随を許さず]
 ドラムスの側面の素材をギターに適用するというアイディアは、ジミー・ウェブスターの発案によるものだった。(略)[社交的でエネルギーの塊]ミュージシャンでもあり、発明家でもあり、大道商人でもあり、マーケティングの天才でもあった(略)ツアーに出た先々でグレッチの楽器の販売促進のためのクリニックを開き(略)両手でフレットボードをタッピングするといった驚愕のテクニックを披露して潜在的な購買層を感嘆させた。
(略)
[最大の貢献は、チェット・アトキンスのスカウト]
ギブソンレス・ポールシグネチャー・モデルの大成功を収めていた。(略)
グレッチにとっては、カントリー界のスターと契約を結ぶのが賢明な選択だと思われた。
(略)
“私は努めて真摯に対応したよ。私はグレッチのギター、あのオレンジのモデルをちゃんと使った。好きにはなれなかったけどね。”
 けばけばしいデザインにもかかわらず、あるいは、それが功を奏したのか、一夜にして話題となった6120は飛ぶように売れ(略)
[「ミスター・サンドマン」「シルヴァー・ベル」のヒットで]
自分のモデルであるオレンジのギターをプレイするアトキンスが全国ネットのテレビ放送の電波に定期的に乗る
(略)
スタジオ・ミュージシャンとしても大活躍[プレスリーエヴァリー・ブラザーズなど](略)
 ブルースがロック・ギターに与えた影響についての文献は数多いが、カントリー・ミュージックが同等に貢献していることについても特筆すべきである。ギターをプレイする初期のロック・ミュージシャンは、ほとんどが南部の出身だった。
(略)
[白人による]初期のロック・ミュージックの総称が“ロカビリー”だったのは偶然でもなんでもない。
(略)
プレスリーは、以下のように要約した。“僕が今やっていることなんて、僕が意識するよりもずっと以前から黒人の人たちが歌ったりプレイしたりしてきたことなんだよ”。しかし他のインタビューにおいて彼はロックを“興奮度の高いカントリー”と表現したこともある。
(略)
[50年代半ばから60年代前半アトキンスがプロデュースしたシングルがことごとく大ヒット]
シーンを塗り替えたナッシュヴィルサウンドは地方のニッチなスターのものだったカントリー市場を数百万ドルのセールスが見込めるポップ-クロスオーバー産業に変貌させた。
 “我々はカントリーから「トゥワング(弦楽器の生音)」を排除したんだよ”。とアトキンスは誇らしげに語った。“私がイメージしたのは高台の住宅地に似合う音だった。だから聴いた途端にカントリーの烙印を押されてしまうスティール・ギターとフィドルは使わないことにしたのさ”。(略)
[売れ線を狙いすぎとの声に]
“まさにそのとおり。あれは金儲けのためのサウンドだ”[とアトキンス]

ギブソンの逆襲

[戦後ギブソンの業績不振を打開するためにウーリッツァーを退社してやってきた辣腕テッド・マッカーティはフェンダーを敵視。社運を賭けた新しいソリッド・ボディの名をレス・ポールにすることに]
5年の契約期間中、レスにはギター売り上げの5%が(略)[さらに]楽器発売時の色を2色選択する権限を求め(略)
“当初私が選んだ2色は、ゴールドとブラックだった。(略)ギブソン側はこう言った。「なぜ、よりによってゴールドなんて選ぶんだ?あれは最悪の色だぞ。(略)私はこう反論した。「豊かさを象徴する色だからだよ。(略)」[もう1色と言われ、ブラックに]なぜブラックかって?ピッキングする手が観衆からよく見える色だからだよ。理由はそれだけだ”
(略)
[“ギブソン社は時代遅れの保守的な人間の集まりだ”というフェンダー側の発言を耳にしたマッカーティは、鼻をあかしてやろうとフライングV、過激なまでに幾何学的な形のエクスプローラーを製作。58年の出荷数はフライングV81本、エクスプローラー18本と惨敗。モダニズム・デザイン・ギター第3弾モダーンの生産を取り止め]

ビートルズ

[妻の集めたデータを検討したリッケンバッカーの社長ホールは早速英国の営業バックナーにメール]
もし現在のイギリスにおけるピートルズ人気がアメリカに飛び火したら(略)生産が間に合わなくなることだろう。(略)
 [バックナーはこう返信]“フェンダーの営業にはくれぐれも気をつけてください(略)さもないと彼らは(ビートルズフェンダーの)ジャガーとピギーバックを使わせると息巻いてくるでしょう”(略)
 [そこでホールはエプスタインとコンタクト]
“私がニューヨークでビートルズのメンバーと会う日時が確定したよ。ただしこの件は他言しないでくれたまえ。(略)競合相手に知られたくないんだ”(略)
 ホール夫妻はビートルズの来米に先立ってニューヨーク入りし、バンドが宿泊するプラザ・ホテルの近くのサヴォイ・ホテルのスイートを滞在場所に選んだ。彼らは現地に駆けつけたハロルド・バックナーと協力し合ってリッケンバッカーの楽器やアンプを自分たちのスイート・ルーム内に展示した。(略)
この会合の機会に社運を賭けていたホールは、リバプール出身の若者たちに楽しんでもらいたい一心で(略)トゥーツ・シールマンスをスイートに呼んでいた。シールマンスがリッケンバッカーのギターを使用していたという事実がハンブルク時代のレノンに影響を与え、同社の楽器の購入を思い立たせたという。 

ストーンズ

“俺たちをロックンロールの音楽集団だと思って欲しくはないね”[と62年のミック・ジャガー](略)
 初期のストーンズヤードバーズのマネージメントを手がけ、ロンドンの“最もブルーズウェイリングな(泣きのブルースが似合う)”ナイトクラブ、クロウダディの経営者でもあったジョルジオ・ゴメルスキーは、“当時私たちはストーンズを英国のR&Bバンドと呼んでいた”と証言する。“なぜならロックンロールとは別物だったからだ。ロックンロールは白人が作り手で、サーフィンが扱われたティーンの女の子向けの音楽だと考えられていて、あの頃から商業的に作られたものがロックだと捉える向きもあった。どこを向いても(歌手の)ファビアンみたいな、似非エルヴィス・プレスリーな奴らばかりだったからね”。
(略)
 “イギリスに誕生した小さなブルース・シーンは、たかだか400人程度しか出入りしていなかったにもかかわらず二つの派閥に分かれていた”とゴメルスキーは振り返る。
 “「チャック・ベリーのあのバージョンはブルースとは呼べない」「そうだな、だが誰それのあのバージョンもR&Bではない」などと意見を戦わせていたんだ。当時、最大手の同人誌だった『ブルース・アンリミテッド』が配布していた配給レコードのパンフレットを片手にこういった論争が繰り広げられ、同時進行で実際にブルースを演奏するバンドが出現してきて、シーンが形成された。後になってみれば、あそこで議論したところで何かが変わったわけでもなかったんだけどね”。
(略)
“俺たちはブルース・バンドだったんだ(略)ちょっとポップなレコードを作ってヒットさせた。(略)すると突然、女どもが叫びだし、もう演奏なんか誰も聴いちゃいないような状態になってしまった。(略)”(キース・リチャーズ
(略)
 “ストーンズはそもそも女の子にウケるタイプのバンドではなかったんだよ”とゴメルスキーは振り返る。“R&Bバンドなんてみんなそうだった。演奏を聴きに来るのは90パーセントが男性客で、その中にピート・タウンゼントエリック・クラプトンジミー・ペイジなど、あの一派がいた。ビートルズのほうが女の子ウケするバンドだったんだ。しかし、とどのつまり、見た目に反応されたら理屈は覆るってことだよ”。

ブライアン・ジョーンズ

“ブライアンはいつでも目新しいサウンドを探していた”とキース・リチャーズは振り返った。“ミュージシャンとしても彼は非常に多才だった。彼はギターを弾くときと同じように、楽しそうにマリンバやベルをプレイしていたよ。だが裏を返せばそれは「おい、そろそろどんな音で弾きたいのか腹を決めろよ、ブライアン!」とこちらをヤキモキさせた彼の性格の一面でもあった。彼は延々とギターを取っ替え引っ替えし続けていたからね。「そう、これこそ俺のギターだ」と宣言してメインのギターを使い続けるタイプのギタリストとはほど遠い男だった”。

ストラトキャスター

ブリティッシュ・インベージョンの影響により、一時はリッケンバッカーとグレッチのギターばかりがもてはやされた。そして60年代半ば頃に真剣に技術を磨こうとしていたギタリストたちはみな、ギブソンレス・ポールに食指を動かされた。1954年の発売当時は、早い段階で隣のお兄さんのような魅力を持つバディ・ホリーのイメージと結びつき、少し後からはビーチ・ボーイズの陽光降り注ぐ健全で楽しいサーフ・ミュージック・サウンドを象徴する楽器となったストラトキャスター。しかし、60年代の終盤を生きる若い世代にアピールする力は持っていなかった。あの頃のストラトキャスターは少々時代遅れの楽器のように捉えられていたのだ。

 しかし、ヘンドリックスがメインの楽器としたことで、ストラトキャスターはまた俄然注目を浴びることとなる。(略)「サード・ストーン・フロム・ザ・サン」の中の“君がサーフ・ミュージックを聴くことはもう二度とないだろう”という語りは、鮮やかな手腕で意図的にストラトキャスターサウンドとイメージを刷新した彼の意思表示としても受け取れる。ストラトは音の出るサーフボードから、多次元空間を飛び回る宇宙船へと進化を遂げた。 

『追憶のハイウェイ61』

 直感的な意思の疎通がブルーム・フィールドとディランとの間に成り立っていたからこそ、『追憶のハイウェイ61』は今もなお畏敬される鮮烈で革命的なアルバムとなった。

(略)

[ブルーム・フィールド談]

不完全な曲の断片を行き当たりばったりにまとめ上げるような作業でね。まるでジャム・セッションだった。(ディランの)頭の中にサウンドのイメージだけはあったんだ。彼はバーズのレコードを聴いて衝撃を受けたばかりだったからね。彼は俺にロジャー・マッギンのような演奏を求めていたんだ。彼はそこしか目指していなかった。(略)「私はB・B・キングの音など望んでいない」ってはっきり言われたからね。(略)

彼がセッションで録りたかったのはバーズのサウンドだったんだよ。 

バターフィールド・バンド

 エレクトリックのバンドを率いてニューポートに出演するというディランの決断を促したのがバターフィールド・バンドだった。(略)

エレクトリック楽器を蔑視していた上、どうやら白人がブルースをプレイすることに偏見があったとみえるアラン・ローマックスが、見下したようなアナウンスでバンドを紹介したことが、ディランとマネージャーのアルバートグロスマンの双方を激怒させた。後者は実際にこの件でローマックスと殴り合いの喧嘩になった。

 だが、転げ回ってパンチを交わし合うフォーク界の重鎮二人を前にして、ディランははるかに面白い報復手段を思いついた。(略)

[バターフィールド・バンドをバックにエレクトリック用に書いた新曲のセットリストで出演することに](略)

“ディランにはどうすれば敵が一番嫌がるのかがわかっていたんだ。「いつまでもここが電化されないと思っていたら大間違いだからな。私がやってやる」。それがどれほどの影響力を持つかなど二の次だよ。(略)” 

マイク・ブルームフィールド 

[クラプトンやジミヘン登場直前に]その名を轟かせた。また、アレン・ギンズバーグやディランと共に、ブルームフィールドとアル・クーパーも新世代のクールなユダヤアメリカ人アーティストとして名を馳せた。彼らは都会的で理知的で、時代の最先端を行く羨望の的だったのだ。

(略)

[ブルームフィールドに薦められ聴いたこともないB・B・キングをフィルモアに出演させたビル・グレアム]

“それを機に、ビルはヒッピー・バンドと併行してブルース・バンドにも出演を依頼するようになった。(略)”

(略)

ブルームフィールドが愛器のテレキャスターを[生産中止だった]1956年製のギブソンレス・ポール・ゴールドトップに持ち替えた[ことで](略)

ビンテージ・ギターの市場が急に実態を現した。これこそ数十年後に数百万ドル規模の事業となるビンテージ・エレクトリック・ギター・ブームの起こりだった。

 次回に続く。

 

 

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