情報爆発・その3  コピペ、抜粋

前回の続き。

情報爆発-初期近代ヨーロッパの情報管理術 (単行本)

情報爆発-初期近代ヨーロッパの情報管理術 (単行本)

 

著述業は金にならず

初期近代の著述業が、金儲けの機会をもたらすことは通常ほぼなかったし、もたらしたとしても、それは偶然によるものであった。著者は原稿を印刷業者に売ることができたが、対価はささやかであった。

(略)

 大きな書物は制作費がかさむので、革新的な資金調達法が生み出された。ゼバスティアン・ミュンスターは、地理学的な情報を集めた浩瀚で図版満載の編纂書『世界誌』の出版資金を募るために、書物の中で扱った諸年に寄付を願った。(略)応じた都市もあれば、拒んだ都市もあった。『世界誌』は大成功を収め、初版の後ですぐに数版を重ねたが、ミュンスターは六〇グルデンを受け取っただけで、儲けの大半はリスクと出費を担った印刷業者のものになった。

切り貼り

 書き写すことによって紙片を作るのではなく、他の出所から切り取ることで紙片を得ることができるなら、初期段階で手間が省けることになる。コンラート・ゲスナーは(略)この裏技をとりわけ有効に活用した。ツヴィンガーの〈遺稿〉中の紙片はすべて、編纂を目的として抜粋を紙の上に書き写したものであるが、ゲスナーの〈遺稿〉に残されている紙片は、他の著者たちの作品からの切り抜きを数多く含んでいる――取り交わされた手紙、印刷の過程で用いられた普通ならば捨てられていたはずの原稿、印刷本からの切り抜きである。ゲスナーは、索引を作成するときは印刷された書物から切り貼りするとよい、とはっきりと勧めていた。「この方法が可能であれば、大いに手間が省けるのです」。(略)

ゲスナーは、自分の本の印刷者のフロシャウアーと親しく交わっていたので、切り取り術を発揮できる立場にあった。印刷者はゲスナーのような編纂者に、印刷過程で用いられ指示の書き込みがあるために売ることができない本や、他の理由によって、ほとんどあるいはまったく市場価値のない本(たとえば、今日言うところの「ゾッキ本」など)を提供することができた。ほぽ無価値な本も、ゲスナーが提唱するこの切り刻むという方法で、ノートの収集を増やしたり、索引や新しい作品を作って印刷するのに役立てたりと、うまい具合に活用することができたのである。

(略)

ゲスナーは、もらった手紙の中に有益な一節があればそれを切り抜き、自分のノートのしかるべき場所に加えるのをつねとしていた。

(略)

手紙の切り抜きを『実用医学宝典』に加えるにあたって、ヴォルフは問題に直面した。手紙はたいてい紙の表裏両面に書かれているので、紙片を真上に糊付けすると、情報の一部が隠されてしまうのである。そのような場合、ヴォルフは、頁を窓のように切り抜き、そこに紙片を嵌め込んで縁を糊付けするという工夫をしたので、手紙の文面は両面にわたって読むことができた。

(略)

書物が刷り上がると、それらの[植字工による]割り付けの跡のある頁は紙屑とみなされ廃棄されたが、ゲスナーはこうした素材を漁って再利用してもいる。(略)

新版の活字を組むために用いられた[古い印刷本もゲスナーは回収して](略)自分のノートに加えた。ゲスナーがつねに財政的に厳しい状況にあったことを考えれば、テクストが印刷所のごみとして完全に無料で得られるのは、とくに魅力的であったことは疑いない。

(略)

 古いテクストから新しいテクストを創出するための切り貼り術は、印刷業者のあいだで生じた習慣であり、手稿を扱うときに最もよく用いられたと思える。(略)

バーゼルのオポリヌスは、切り貼りをして作業を効率よく進めたいので原稿は紙の片面だけに書いて提出してほしい、とあるとき著者にはっきりと頼んでいるが、それもこの理由による。多作な著者たちも、この切り貼り術を用いた。ジローラモカルダーノは本を再構成したり作成したりするときには、既存の著作物(自著、ないしは、ことによれば他の人々が書いたもの)から文章を切り貼りすればよいと述べているし、ロバート・ボイルは、出版用の本文を作成するために手書きノートを切り分けた、と語っている。

(略)

印刷業者はまた、自分の在庫から本を一部持ち出し、そこに挟み紙をすることがあった。すなわち、後の版に盛り込むべき追加や変更を記録しておけるように、各見開きに白紙を挟み込むのである。ゲスナー〈遺稿〉には、頁のあいだに挟み紙のある一五八三年版『万有文庫』が一部含まれているが、この本が残存しているのは、それ以上版を重ねることがなかったからである。

(略)

そうした切り貼りの中で最も広く行われたのは、中世写本や印刷本から、イルミネーション、イニシャルその他の装飾的要素を、他の写本や書物を装飾するため、あるいはたんに収集するために切り取ることで、そうした行為は一九世紀にいたるまで容認できるものとみなされていた。印刷術によって、中世の写本の価値は、一五〇〇年までには全般的に下落していた。テクストの印刷版が入手できるようになると、印刷本が写本に取って代わると考えられていたからであった。もちろん、少数の写本は、その特別な内容や来歴のおかげで価値がゆらぐことはなかったが、その一方で、おびただしい数の写本が破壊され(それが最も大々的に行われたのは、イングランド修道院解散の時であった)、写本の素材の羊皮紙は、瓶の口の覆い、壁紙、印刷本の製本などに転用された。一ハ世紀になってようやく刊本や写本の稀覯本の市場が出現し、この流れを反転させ始めたのである。印刷術が登場する以前にも(早くも一四世紀には)、イルミネーションを古い写本からより新しい写本に移すために、中世写本に鋏が入れられることはときにあった。イルミネーション欲しさに写本を切り刻むことは、ほとんどの中世写本は印刷術の到来とともに無価値になったという認識によって、盛んに行われるようになった。中世写本から切り取られたイルミネーションは、そのほとんどが、他の写本や印刷本を装飾するためや、子供が集めたり遊んだりするためのおもちゃとして用いられ

(略)

中世写本の供給がそれこそ無尽蔵であると思えた時代があまりに長く続いたので、一九世紀以前には、司書も書籍商も愛書家も手持ちの写本を切り刻むのにさほど良心の痛みを覚えなかった。

(略)

印刷された書物でも、口絵、図版、あるいは贈呈の辞の付いた題扉をある本から切り取って別の本に貼り付けることは、その本を改良し(ないしは「洗練させ」)商業的価値を増すための方策であると長いあいだみなされていた。

(略)

著作権の発祥地であるイギリスにおいてさえ、一七一〇年のアン法は、書物の中の諸要素(たとえば、小説の場面や登場人物)をそのまま借用したり、縮約版、選集、模倣作、改訂版を作ったりする余地を残していた。ましてや初期近代においては、「機械化された」編纂方法が法律的な問題を引き起こすことはなかった。各国語のレファレンス書が一八世紀に爆発的に増加したことにともない(略)編纂者は競争相手が自分の市場を荒らすのを防ごうとして数々の方策に訴えたが、法的手段が成功することはあまりなかった。

レファレンスへの不満

 要約が、それが要約したより長い原典自体の喪失を招いたとする苦言は、とくに長い歴史をもつ。それは一〇世紀イスラム世界の学者たち(略)や、古代のテクストを伝承し回復する運動をしていたヨーロッパの人文主義者たち(エラスムスもその一人)が挙げていた声であった。

(略)

 より複雑で息の長い不満の声の一つは、編纂物に頼ることで読者たちが原典を無視し、それによって本文上の誤りや、抜粋により導入されたより深刻な誤解のために、誤った方向に導かれるという点にあった。(略)

ヴァンサン・ド・ボーヴェは、アリストテレスの著作からの現行の「詞華集」が原典の語順や語形を変え、抜粋が著者の意味するところに忠実な場合ですら、原典を短縮したり、説明文を挿入したりしている、と喝破した。

(略)

一七〇七年の一文で、ジョン・ロックは次のように嘆いた。「[使徒書簡]はあまりに切り刻まれていて……普通の人々がたいていはその各節を別々の警句集と受け取っているばかりか、より高度な学識を有する者たちですら、それらで読むものだから、文脈が生み出す一貫性ゆえの説得力の大半を見失っている」と。

(略)

 抜粋集に依存することへの初期近代ヨーロッパにおける苦言はさらに、出典表示もなく、原文の文脈を無視して不見識に選ばれた引用文を積み重ねる傾向を嘆くという、より具体的なかたちもとるようになる。ペトラルカから一八世紀まで続くこうした趣旨の考え方においては、抜粋は、それを使おうとしている人が十分に考え抜いた結果選び出したものでなければ価値がないのだった。他人の抜粋に頼ることは、これすなわち機械的に文章を生産することであり、簡単で手っ取り早いが十分な個人的熟考を経ていない。かくて、教育者たちは、レファレンス用の書籍として印刷されたノート集ではなく、自分で読書ノートをとることが大事なのだと、きまって主張したのである。

(略)

 主張をもたずにする書き物を助長するとして、ノートの収集そのものを非難する人々もいた。この批判はモンテーニュやロバート・バートンの冗談半分の自己言及的なかたち(「私たちは互いに注釈しあってばかりいる」、または「私たちはすでに言われてきたことしか言えない」)から、後の作家たちによる辛辣な攻撃へと展開していった。たとえば、ジョナサン・スウィフトは、「頭は空っぽだがコモンプレイス・ブックが詰まっている」文章を書く人々を嘲笑したが、明らかに彼自身はそのような非難の対象には含まれないとみなしてのことだった。同様に、マルブランシュは、読んでもいない本を読んだかのように見せるためだけに長々と他人の引用をする引証文化を批判した。抜粋作業を独自の判断を損ない猿まね的な模倣と剽窃に陥りやすくするものだとする非難は、とくに一ハ世紀ドイツにおいて、抜粋作業自体とともに、長く続いた。

(略)

抜粋で読めるテクストがどんどん増えてくるにつれ、引用文のたんなる使用ではもはや学識の誇示とはならなくなった。かわって、編纂物ではしばしば欠落もしくは誤って表示されることのあった、引用文の原文中での文脈に対する知識を示すことが、原典を読んだ者という折り紙となった。

(略)

イエロニモ・スクアルチャフィーが一四七七年に、印刷術は「誰でも学問があるふりをする」ことを可能にしてしまうと嘆いたように、編纂物もまた誰でも学問の雰囲気を纏うことを可能にしてしまったと非難された。人文主義者のコンラドゥス・ムティアヌス・ルフスは、エラスムスの『格言集』を、「学生たちに、もってもいない学間を見せびらかす手助けをする詞華集にすぎない」と非難した。

『百科全書』

『百科全書』は、ときには他から引き写した従来型の記事も含む、記事の折衷的混交を呈したとはいえ、多くの記事がディドロダランベールだけでなく、モンテスキューテュルゴーヴォルテールほかといった重要な啓蒙思想のフィロゾフたちによって書かれていた。これらの記事にはしばしば教会や国家に対する批判が織り込まれたが、それはエリートたちを説得し改革を実現するという、フィロゾフたちの計画に沿ったものであった。この大胆な立ち位置にもかかわらず、『百科全書』は、そのあたりをさまざまな手段で隠したおかげで印刷にこぎつけた。たとえば、それらを無害そうに見える記事に埋め込んだり、危険とみなされる著者たちの名前を、たとえ本文で彼らの考えが採用されていても明記しなかったり、相互参照を使って意図的なつながりを創出したりすることによって。『百科全書』は第一巻の後はフランスでは印刷されなかったにもかかわらず、フランスで広く読まれた。検閲官長のこのプロジェクトヘの共感から、本を国外で作りフランスに紛れ込ませるための巧妙に発達したネットワークにいたるまで、さまざまな理由で検閲の徹底が困難であったためである。
 『百科全書』の成功と名声は、ヨーロッパ中でおびただしい数の百科事典が生み出されるきっかけとなった。

(略)

残念ながら現時点では、一八世紀の百科事典がどのように作られたかについてほとんどわかっていない。たとえば、ディドロがどのように彼自身のノートや書き物、一〇〇人を超す寄稿者たちのそれを管理したのかわれわれはほとんど知らないし、また、どのように印刷者たちがこのような大型プロジェクトを管理した経験を伝えたのかについて多くを知らないのである。

(略)

ディドロは、すべての記事に記号体系を用いて記名し、記号解を付けて筆者名がわかる仕組みを目論んでいた。ディドロは、他人の言葉をそれに対する責任を負うことなくただ報告するだけの存在だと、中世および初期近代の編纂者に近い言葉で自分自身を表現した。現実には、検閲が集団での執筆と責任のあり方についてのディドロの計画を複雑なものにした。第一巻が世に出た後フランスでの出版が差し止められると、多くの寄稿者たちが自分たちの名前が公表されることを望まなくなった。ことによると最後の数巻の記事の大半を彼が書いたことに読者が気づくことを回避するうえでも、前書きで約束した星印で彼自身の執筆項目を記録する件は、それが正確に行われたとは考えにくい。