情報爆発・その2 アン・ブレア

前回の続き。

情報爆発-初期近代ヨーロッパの情報管理術 (単行本)

情報爆発-初期近代ヨーロッパの情報管理術 (単行本)

 

 第二章 情報管理としてのノート作成

 印刷術のおかげで、レファレンス書は大部になり、広域に流通し保存されて今日まで残るものになった。(略)なぜ、編纂者や著者たちは、引用やテクスト素材の大部な集積物を何冊も生み出したのだろう。(略)

もっと言えば、なぜこれらのジャンルがかような成功を収めたのだろう。なぜ、知識人たちは比較的高額であるにもかかわらず、こぞってレファレンス書を購入しようとしたのだろう。

(略)

[編纂書は]すぐに使える読書ノートだったのだ。多くの学生や学者はそうしたノートを欲しいと思いながら、時間やエネルギーが足りないとか、利用できる範囲に本がないとかいう理由で、自分では作成できなかったのである。

(略)

レファレンス書は、また、たいていの人が一生のうちに収穫できる量をはるかに超える抜粋の大型コレクションを、読者に提供するのがつねであった。

(略)

ルネサンス期以降、ノートは、その場かぎりの一時的な道具というよりは、長期的な道具として扱われた。(略)

場合によっては他者(共同研究者や同僚、子孫)と共有したりする価値のあるものとして扱われた。

(略)

 ルネサンス期における大量のノートの保管蓄積を可能にしたものとして、入手可能となった紙の存在があった。紙は、羊皮紙に比べ安価で、しかも蝋板など仮のメモを書き付ける書字板と違って保存がきき、保管も容易だった。最近の研究によれば、イスラム世界で紙が広まると、それをきっかけとして多くのジャンルの書き物が爆発的に増えたという。

(略)

よりたくさんの私信や外交書簡、公正証書や政府の文書、商いの記録、学生のノート、それに学者の研究書類がここには含まれる。

(略)

何世代にもわたって蓄積された聖書や法律文書への書き込みもまた、集められて一つの語注つき聖書や『教令集』といった作品になることもあった。

(略)

欄外の書き込みに、用語索引やスコラ的な広範な引用を可能にしたノート作成法が垣間見られることもある。たとえば、他の箇所への相互参照や、記号や見出しで議論の対象となっている素材を示すといったもの

(略)

 初期近代の学者は、二冊のノートを付ける典型としてよく商人たちに言及した。二冊のノートとは、取引を時系列で記録するデイブック(すなわち日誌)と、複式簿記に見られるように取引をカテゴリー別に分類して記録する台帳である。加えて、フランシス・ベイコンは自分のノートブックの一つを「内容、形式、仕事、勉強、私事、礼拝そのほか、あらゆる覚え書きを、あちこちまばらにも規則的にも、いかなる束縛もなく、書き付ける商人の控え帳」になぞらえた。

(略)

一五、一六世紀におけるノート作成への新しい注目の主たる起動力は、人文主義教育であった。(略)

読んだ本の中から最良の一節を抜き出してノートブックに書き写すことを勧めた。そうすれば、模倣なり引用なりに使用するためにいつでもそこから引き出すことができる。ノートブックは(略)優美な「表現の豊饒さ」のネタ帳の役割を果たした。

(略)

ノート作成の指南書は、一七世紀半ばに出現した、勉強方法について助言する参考書の一部をなしていたのである。(略)

[とくにドイツ圈]大学の過剰状態が確立し、大学間で学生獲得と名声を競い合っていた地域で盛んに出版された。

(略)

すべてを教える完全なる指南書が生まれなかったもう一つの要因は、勉強方法は秘密にしておくにしくはないという認識であった。

(略)

本に書き込むという習慣は、けっして印刷時代特有のものではない。中世写本でもしばしば、書き込みができるよう欄外を広く空けておくということがなされた。(略)

印刷術は、書き込みを可能にする欄外余白や遊び紙を備えた書物を、新たに大量に生み出した。

(略)

 教育者たちは、欄外への書き込みを、読書から独立した抜粋帳を作るという最終目標に向かう最初の任意の一歩とみなした。

(略)

一六七一年、シャルル・ソレルは、他人の所有本を読むさいはノートブックにメモし、自己所有本の場合はそこから別のノートに書き込むことなく本に直接印を付けることを、読者に対して推奨した。そうすることで、抜粋テクストを転写するという読書中の厄介な中断をなくすことができるからだ。

 私から公ヘ ――他者に奉仕するノート

 ノートはしばしば他者との協働で作成された。ちょうどそのように、ノートは持ち主にとってだけでなく、潜在的に他者にとっても有用なものだと認識されていた。

(略)

 著者たちが自分のノートを、結構な額を提示されても売りたがらなかった理由は、想像に難くない。多くの場合、著者たちはノートを活発に使い続けていたのであり、貴重な資料として、時期尚早に他人に売却するより、(プリニウスの場合がそうであったように)家族に遺贈したいと考えたのである。

(略)

エラスムスは友人の一人に、友人の所蔵する『スーダ辞典』に記されている書き込みを、自分の使用人が書き写すことを許してほしい、と頼んだ。そうできれば「相当量の読書を」しないですむから、というのがその理由であった。エラスムスのこの行動は、他人のノートを秘書に書き写させるというわけだから、二重に代理を使うことを意味した。ある者はまた、プライバシーの露見を恐れてノートを守った。一八世紀、ジャン=ジャック・ルソーはお金に困ったとき蔵書から書籍を売却したが、買い手(彼の本の出版者だった)にはそれらの書籍の欄外書き込みを印刷することを禁じた。

(略)

 ノート作成者による自身のノートの売却について私が発見できた唯一の事例は、コンラート・ゲスナーの例で、彼は死の床で、植物に関する博物誌のために作ってきたノートや描画を、自身の元学生で共同研究者のカスパー・ヴォルフに、わずかな名のみの金額で正式に売り渡した。ゲスナーが売却した理由は、確実に出版してくれる人の手に渡されることを願ったからであった。しかし、ヴォルフは結局役に立たなかった。彼は何一つ出版することなく、植物の描画を(ゲスナーの相続人の許可を得たうえで)ヨアヒム・カメラリウスに売った。カメラリウスは、出典を明示しないまま一部を自分の著作に使用したのち、みずからの息子に相続させた。三代後の所有者のときにゲスナーの『植物誌』は(略)ようやく出版された。

(略)

J・J・スカリゲルの書き込みのある本は、同時代の人々に高く評価されていた。ニコラス・ハインシウスは、スカリゲルの書き込みのある本を競売で、あるいは個人的に購入して二〇〇冊所蔵していた

(略)

ジョン・ディーの書き込みのある書物を持っていた一七世紀の所有者の一人は、それらが書き込みの存在ゆえに「はるかに価値のあるもの」となった、とはっきり述べている。 

販売目録

 中世には前例がなかったものの、初期近代において重要性を増していったジャンルが、書籍の販売目録である。

(略)

目録は、遠方の買い手に書物についての情報を伝えただけでなく、たとえば、すべての書物を陳列するスペースをもたないパリの書籍商の例のように、地元の買い手にも役立っていた。

(略)

 本の所有者が死去して遺された蔵書を競売にかける習慣が広まった一六世紀後期になると、特別な種類の販売目録が発展した。

(略)

一ハ世紀に入ると書物の競売は最高潮に達した。ある個人が書物を所蔵していたことの証拠として競売目録を使うさいには、注意が必要である(略)

書籍商が、競売にかけられた本に、他の本を付け加えることもできるからだ。

(略)

こうした習慣の最たる証拠が、「店からもってきた古臭い屑本や粗末な版本を、著名な人士の蔵書のふりをして売りつける」ことを取り締まる法令や、これに対する苦情である。

(略)

競売目録はしばしば何冊もまとめて装丁された状態で保存され、書物が売られた価格が書き込まれていることもときにある。

(略)

ある特定の書物を手に入れることが難しかったり、不可能であったりしたような場合には、販売目録や文献目録を参照することが、実際の書物を見るかわりとなっていたことであろう。また、書物の世界への入門や近刊の評定の役割も果たしていた文学史の授業では、競売目録が、学生や教授のためにこうした用途で使われていたと思える。

書評

 書評は、書物があまりにも多くなったことへの解決策と喧伝されていたが、当然ながら、書評自体が溢れ返るという問題をすぐに引き起こした。書評というジャンルが誕生するのとほとんど同時に、実際に本を読まずに書評をしているという非難もなされるようになり、とくに目の敵とされたのが、アドリアン・バイエの複数巻からなる『智者の判断』である。「もし[バイエが]言及しているすべての本を一人の人間が読むことが不可能だとするならば、彼は、自分もまた読めていない、多くの書物についての報告をしていることを認めるべきである」と批判されたのである。一八世紀の書評における離れ業としては、アルブレヒト・フォン・ハラーが三一年にわたって(略)書いた九〇〇〇もの書評や(略)

ジョヴァンニ・ラミが、それぞれの本の冒頭だけに着目し、たいていは前書きの全部または大半をそのまま転載して報告した、大量の書物に関する情報の発信が挙げられる。

 編纂者による改変

 中世の編纂者、とりわけ詞華集と百科事典の編纂者は、慎ましい態度をとるのがつねであって、ときには無名でいることに甘んじ、己の権威よりも、己が抜粋した著者たちの権威に光を当てたにもかかわらず、編纂者はけっしてたんなる転写者であったわけではなく、素材を広める過程で、素材を変容させたのである。編纂者は、見出しや主題別の章のもとに抜粋をまとめることによって、異なる著者や文脈から取られた一節のあいだに類似性を創り出した。そして元来の文脈においては異なる意味合いをもっていたかもしれない一節を、主題の類似性にもとづいて解釈するよう促した。

(略)

編纂者は、選りすぐりの断片を統合して徳育教化の書にするという過程を円滑に進めるため、意図的にあるいは意図せずに、収録した一節にささやかな変更を黙って加えた。たとえば、異教の著者の一節に編集の手を加えて、古代の神々への言及を削除したり、複数の「神々」を一つの大文字の「神」に変えたりして、キリスト教の文脈の中で解釈し利用しやすくしたのである。詞華集の編纂者は、難しい一節は回避することによって、また、自分が選んだ一節には思慮深く手を入れることによって、異教の著者たちへ便利に「安全に」接近できることを保証した。

特認権制度

 それらすべてのレファレンス書が産出された大陸ヨーロッパにおいては、初期近代を通じて、特認権制度が競争を規制していた。これは、印刷業者の求めに応じて(料金と引き換えに)、ある作品を数年のあいだ独占的に印刷する権利を与えるものである。特認権の有効期間は、時代、場所、対象となる作品によって異なっていた。期間はフランスではより長くなる傾向にあり、一六世紀初期においては二年から三年、一七世紀半ばまでには一二年から一五年にもなった。特認権が効力をもつのは(略)

それを付与した機関が管轄する区域内だけであったし、新作か大幅に増補された作品にしか与えられなかった。

(略)

成功を収めた書物に付与された特認権の期限が切れかかると、印刷業者は新版を印刷しようという気になる。新しい特認権を確保するに十分なほど増補された新版を、競合者がその作品の印刷許可を得る前に出してしまおうというわけである。

(略)

 印刷業者には特認権を得る義務はなく、競争からの保護を保証するこの権利を費用と手間をかけて得るのは、以下のような書物に限られていた。よく売れることが見込まれる書物(教科書や学校で使用する教本も含む)、そして制作費がとりわけ高くつく書物(たとえば、挿し絵付きだったり、きわめて大部の書物だったりする場合)。

次回に続く。