グローバリゼーション・パラドクス・その3 トービン税

前回の続き。

グローバリゼーション・パラドクス: 世界経済の未来を決める三つの道

グローバリゼーション・パラドクス: 世界経済の未来を決める三つの道

 

WTO体制

世界貿易機関WTO)は、ブレトンウッズ体制が優先してきたことと逆行する新しい種類のグローバリゼーション、すなわちハイパーグローバリゼーションの追求に目を向けた。

(略)

一九八〇年代は、レーガンサッチャー革命の十年だった。自由市場経済学は支配的地位を占め(略)

[政府は]市場が機能することを邪魔するものであり、その規模は縮小されなければならないと考えられた。

(略)

過去の貿易交渉から逃れてきた二つの分野である農業といくつかのサービス業は、いまや自由化の群れにしっかりと投げ入れられてしまった。

 金融のグローバリゼーションという愚行

IMFの暫定委員会は「ブレトンウッズ協定に新たな章を加える時が来た」と宣言した。(略)

「資本移動の自由化は、このグローバリゼーションの時代における効率的な国際通貨体制のために重要な要素である」と委員会は宣言した。

(略)

 巨額の財政赤字と経常収支赤字を抱えた上にインフレ財政に携わるような、ひどく誤った経済運営を行っている政府なら、金融市場から信用を失っても不満を言う資格はない。(略)

しかし、アジア通貨危機はこのような類のものではなかった。(略)

これらの国々の「健全なファンダメンタルズ」や「持続的な成長」の見通しを、IMF通貨危機の起こるほんの数カ月前まで褒めちぎっていたのだ。
 通貨危機が発生した当時、観察者の多くは、政府と財閥の癒着関係――簡単に言うと、アジア型の政治的縁故主義――が過剰な貸し出しと非効率な投資をもたらしたと論じた。しかし、このような説明にはいくつかの問題があった。癒着がはびこっているのに、これらの国々は、なぜあのような奇跡的な経済成長率を実現できたのだろうか?(略)外国の貸し手は、なぜこれらの過ちに全く気づかなかったのだろうか?ひとたび金融状態が安定した一九九八年以降、韓国とタイ、マレーシアの経済が素早く回復したことは、根本的にこれらの国々の経済に間違ったところはほとんどなかったことを示している。(略)

通貨危機が示したことは、アジア諸国の政府自体に何かとてつもない過ちがあったということではなく、金融市場に特有の問題があったということなのだ。

(略)

[それでも]IMFと米国財務省は、二〇〇八年にサブプライム危機に見舞われるまで、資本取引自由化の擁護者であり続けた。

トービン税

変動相場制はわれわれに重大な教訓を教えてくれた。いったん資本移動が自由化されれば、為替レートが固定されていようが変動しようがほとんど違いはなかったのだ。一九七八年に(略)ジェイムズ・トービンは、中核となる問題をすでに的確に指摘していた。(略)

根本的な問題は、民間金融資本の「過剰」な移動なのだ。「国民経済と中央政府は、実体経済が苦難に遭遇したり、雇用や産出量、インフレに関する国民経済政策の目標を大きく犠牲にしたりすることなく、外国為替を通じた資金の大量移動に適応することはできない」。彼の議論は、本質的にケインズのそれと同じだが、いまや変動相場制の世界にも適用することができる。彼が記すように、資本移動は、各国が他国と違う財政金融政策を実行することを妨げ、それゆえに国内の経済状況に適した政策の実行にとって害となっている。

(略)

 世界経済は次の二つのうちどちらかの道を辿るだろうと、トービンは指摘していた。われわれは、単一の世界通貨を採用し、国内において正しいとされることを、世界全体においても適用させることができる。このことによって、国家ごとの通貨の違いが生み出す困難や歪みをすべて消し去ることができる。もちろん、これは、すべての国が単一の金融政策に従事するという犠牲の下で実現するものだ。このシナリオが政治的に不可能だと判断すれば、われわれはもう一つの答えへと進行ことになるだろう。トービンがきっぱりと論じるように、必要なのは「過剰なまでに効率的な国際金融市場の歯車に砂を投げつけること」だ。特に彼が推奨するのは国家間の資本取引に対する課税であり、これは後に「トービン税」と呼ばれるようになった。
 しかし、トービンは明らかに少数派であり、彼の主張はブレトンウッズ後の時代精神に反するものとして無視された。

 金融の森のハリネズミと狐

 アイザイア・バーリン卿は(略)古代の格言に立ち戻って、二種類の思想家を区別した。「狐は沢山のことを知っているが、ハリネズミは大事なことを一つだけ知っている」。

(略)

[ハリネズミは一つの思想で世界を観察するので]世の中の複雑さや例外的な出来事を見落としたり、それらの事物を自分の持つ世界観に適合するように取り繕ったりする。(略)

[一方の狐は]壮大な理論には懐疑的である。

(略)

ハリネズミ経済学者は[税は非効率で、制限は経済規模を縮小させると主張する](略)

政府による介入と比較して、市場による解決の方が害悪はより少ないと論じる(略)

[官僚は]自身が規制する部門の利害に関心を持ち、とかく腐敗に陥りがちである。

(略)

[アルゼンチンは]九〇年代初頭、金融や貿易、財政政策、統治体制の幅広い改革とともに資本移動を熱心に受け入れた。(略)金融規制と監督に関するルールは(略)IMF加盟国中で最も輝いて(略)

IMF専務理事ミシェル・カムドシュ[が称賛した](略)三年後、アルゼンチンは、一九九九年のブラジルの平価切下げに誘発された突然の資本流入の停止という大惨事に遭遇した。

(略)

「問題は道具じゃない。誰がその道具を使うかなんだ。デリバティブは銃のようなものさ」。このたとえは意義深い。要するに、ハリネズミによる金融自由化の主張は、銃に対する規制緩和の主張のようなものなのだ。そのスローガンは次のようなものである。「人を殺すのは銃ではない。人を殺すのは人なのだ」。

(略)

トービンは狐のような改善策を提示せざるをえないと考えた。それが国際資本市場を分割するための課税である。このような国際金融取引に対する課税は、たとえ非常に低率なものだったとしても、トレーダーが極めて短期の利益を追求するために通貨や他の金融資産を過剰に売り買いするのを防ぐだろう。
 もちろん、ケインズも賛成しただろう。彼もまた、過剰投機の根本的な原因を指摘することを望んだに違いない。ケインズは、その原因として、規制の弱さや政治的分断に加えて、人間の持つ欠点や群衆心理があると考えていた。しかもケインズは、現実世界において実現できることの実践的な限界に鋭い感覚を持つ狐だった。そのため、安定的な国際金融システムに必須なものとして、彼は資本規制を心に描いていたのだ。
 今日の経済学者の中で最も有能な狐は、ジョー・スティグリッツかもしれない。(略)

彼は、資本移動の自由化に遠慮のない反対意見を表明しており、IMFに対する熱心な批判者であり続けている。

 資本市場に対する懐疑派の中で、最も奇妙な人物は(略)ジャグディッシュ・バグワティである。(略)

短期的投機、パニックに陥る傾向、そして資本の逆流がもたらす大きな犠牲を伴う調整(略)を考慮すると、各国に資本移動に対する規制を無理やり撤廃させる適当な理由はないと、彼は論じた。

 バグワティの立場が奇妙なのは(略)

貿易についてはハリネズミであるが、金融のことになると狐になっている[こと]

トルコ、ギリシャ 

一九八〇年代に資本移動に対する規制を撤廃した後、トルコ政府は、マクロ経済の運営が稚拙であるにもかかわらず、安価な資金を着実に得ることができると気づいた。トルコでは、公的債務は急増し、インフレ率は高いままだったが、それにもかかわらず、国内の商業銀行は、利鞘による利益を得るために、外国から資金を借り入れて国債を購入しようとした。しかし、結果として、資本流入の「急停止」によって突然罰せられることになり、経済はこの数十年のうちで最悪の落ち込みを見せた。金融のグローバリゼーションがなければ、トルコは二〇〇一年よりもかなり早い段階で財政再建を強いられることになり、そのコストはかなり少なく済んだかもしれない。

 また、欧州連合の放蕩息子で問題児であるギリシャについて考えてみよう。この国は、予算に関する統計を操作することによって、ブリュッセルが定めた財政赤字の上限を数年間にわたって無視した。このような統計のごまかしを実行する際に、ギリシャ政府には巧みな共犯者がいた。数億ドルの報酬で、ゴールドマン・サックスのようなウォール街の企業は、ギリシャの財政悪化の規模を隠すのを手助けする金融派生商品を設計した。二〇一〇年初順に財政破綻の規模が完全に明らかになった時、ギリシャだけでなくユーロ圈全体が危機に陥った。

(略)

 対外金融とは、いい時だけの友達のようなものだ。全く必要でない時にはそこにいるが、何か助けて欲しい時にはそこにいない。

 規制が撤廃された新システムの脆さ

大恐慌以前、アメリカは十五年か二十年ほどの期間ごとに大きな銀行危機に見舞われていた。しかし、その後一九八〇年代に貯蓄貸付組合危機が発生するまでの五十年間、それに比する危機は全く起こらなかったのだ。

(略)

[政府とウォール街の]取引は単純なものだった。すなわち、経営の自由と引き換えに規制を課したのだ。政府は、公的な預金保険と最後の貸し手としての機能を供給する代わりに、商業銀行をいくつかの厳しい健全化規制に従わせた。そして、株式市場には、それが発展する前から広範囲に及ぶ情報開示基準と透明性の規定が重くのしかかっていた。

 一九八〇年代の金融自由化は、その約束をひっくり返し、われわれを新しい未知の領域へと導いていった。

(略)
規制が撤廃された新システムの脆さは、大いに強められた。(略)

ある国で起こった金融危機が他国の銀行のバランス・シートを汚染してしまうという、国境をまたがった強力な伝染病を生み出してしまった。一九八〇年代後半より以前は、アメリカは資金に関して事実上の自給自足状態だった。

(略)

 自由な資本移動によって、ヨーロッパやその他の地域の投資家が、アメリカから輸出された有害なモーゲージ資産の山の上に腰掛けることになった。アイスランドは、国全体がヘッジファンドのようになってしまい、わずかな利鞘の違いから利益を上げるべく、国際金融市場で徹底した投機活動を行った。金融に対する規制強化の要求は、銀行がより規制の緩い国へと移転するだけだという指摘によってはねつけられた。

「ワシントン・コンセンサス」

これは一九八九年に経済学者ジョン・ウィリアムソンによってつくられた新語で、最初は当時の南米諸国が乗り出した改革に共通する要素のいくつかについて言及したものだった。(略)

規制緩和、貿易と金融の自由化、民営化、通貨の過大評価の回避、そして財政規律を大きく強調した十個の異なる改革が含まれていた。時が経つにつれて、「ワシントン・コンセンサス」は、超自由主義者による呪文のようなより狂信的な手法へと変形された。ウィリアムソンは金融グローバリゼーションに対して懐疑的であったにもかかわらず、遺憾なことに、資本市場の自由化は、すぐに同じパッケージの中に混ぜ合わされた。

(略)

一九九〇年代に途上国を旅行した時、政策立案者、特に南米の人たちが、経済救済の唯一の道としてこの政策課題をイデオロギー的な熱狂を持って受け入れる姿に、私は衝撃を受けた。東アジアにおいて、価格インセンティブと世界市場の力に対して実践的に重視されたに過ぎないものが、お粗末な宗教に一変されたのだ。

(略)

彼らが論じるには、貧困国が貧しいままなのは、政府による貿易制限によって生み出された非効率性に溢れた小さな国内市場を持っているからである。この考えによると、これらの国々が国際貿易と国際投資に開放されると、貿易がもたらす上げ潮によって貧困から抜け出すことになるだろう。

(略)

 このような運動の典型は[ジェフリー・サックスとアンドリュー・ワーナーの論文で、国際貿易に対して開放的な国は閉鎖的な国より成長率が高いという分析だった]

(略)

[サックス=ワーナーや世界銀行が実施した研究は、グローバリゼーションの推進を煽り立てた]

(略)

ワシントン・コンセンサスを受け入れて輸入代替工業化を放棄した南米諸国は、そのほとんどがかなり低い成長を遂げる羽目になった。

(略)

[ジェフリー・サックスは自説を]捨て去った。アフリカでより多くの時問を過ごすにつれて、彼は、低水準の教育や粗末な衛生基準、みじめなほど低い農業の生産性、工業インフラに対する不十分な投資など、経済発展に対する国内の制約にますます注目するようになった。

(略)

新しい筋書きによると、ワシントン・コンセンサスの失敗が示したのは、意図した結果を確実に生み出すためにはより根本的な制度改革が必要だということである。実際に着手されていた改革はちぐはぐで不完全だったと、二〇〇五年のIMFの報告書は不満を述べていた。

(略)

 途上国はもっと徹底しなければならないと考えられた。輸入関税の引き下げや貿易障壁の撤廃だけでは不十分で、開放的な貿易政策は、広範囲に及ぶ行政機関の改革、労働市場の「柔軟性」や国際貿易協定によって補強されなければならなかった。

(略)

これらの新しい改革は「第二世代の改革」と呼ばれた。

(略)

このような果てしない政策課題は、途上国の政策立案者にとってほとんど助けにならなかった。

南アフリカの苦境

 [94年]白人による支配が終わった後、この国は、辛辣な罪の擦りつけ合い、終わりなき再配分、そして経済を台無しにして国を見せかけの民主主義へと転換させるポピュリズムに転落することを何とか避けてきた。

(略)

[経済政策も]慎重で用心深いものだった。経済は貿易と資本移動に対して開放されていた。(略)
 もし世界が公正だったら、これほどの政治的自制と経済の清廉は、南アフリカ経済に完全雇用と好況をもたらしただろう。しかし、不幸なことに、一九九四年以降のこの国の成長率は、毎年一人当たり二%以下とみじめなものだった。

(略)

南アフリカは、ゲームのルールが全く異なる世界で、この困難に直面しなければならなかった。低コスト輸出国としての中国の興隆は、製造業における競争をより困難なものとした。南アフリカの輸入関税は引き下げられており、国際協定は輸入関税を大幅に引き上げることを困難もしくは不可能なものとしていた。

(略)

 結局、私と同僚はいくつかの折衷的な政策の組み合わせを推奨した。われわれは、中央銀行金利を低下させランドを切り下げる余地をつくるために、より緊縮的な財政政策を提唱した。次に、若い新卒者を雇う雇用者のコストを低下させる一時的な雇用補助金を提案した。そして、より効率的、より市場友好的で、かつWTOで訴えられる可能性が低いと考えられる新しい産業政策の手法を推奨した。

(略)

アレクサンダー・ハミルトンは、政府の支援なく近代産業が自ら発展するだろうと信じる者は間違っていると、一七九一年にすでに論じていた。

(略)

 貿易原理主義者は、ハミルトンやそれ以降の数限りない他の経済学者たちによる知見を見落としていた。重要なのは政府が介入すべきかどうかではなく、どのように介入するのかだった。

次回に続く。