官僚制のユートピア デヴィッド・グレーバー

規制緩和」という名の下で公的権力と私的権力が融合して「全面的官僚制化」が進むという話。

リベラリズムの鉄則と全面的官僚制化の時代

 旧来の福祉国家の解体とともに、こうした議論が、決定的にズレているようにみえてきた。あらゆる社会問題に「市場による解決」を押しつける右翼が、獰猛ぶりに磨きをかけながら反官僚主義個人主義の語り口を採用するにつれ、主流の左翼はますますいわば味気ない防衛的ふるまいにみずからを切り縮めていった。すなわち、旧式の福祉国家の残骸を救出せんとするのである。つまり、社会サーヴィスの一部私有化[民営化]や、あるいは、「市場原理」、「市場インセンティヴ」そして市場ペースの「説明責任プロセス」を、官僚制の構造それ自身に統合させることで、政府の取り組みをより「効率的」なものにしようとする試みに甘んじるか、あるいはしばしばそれを率先してさえきたのである。
 その結果は政治的破局である。まったくもってそれ以外に表現しようがない。どんな社会問題であれ「穏健な」左翼的解決として提示されるものは(略)、官僚制の最悪の要素と資本主義の最悪の要素の悪夢のごとき混合物である。
(略)
 少なくとも右翼は官僚制の批判をもっている。決して上質のものではない。しかし少なくとも存在する。ところが左翼に、それはない。そのため、左翼と自認する者が官僚制について批判をしたいとき、たいてい右翼による批判を水で薄めたようなことしかいえなくなってしまうのだ。
 この右翼による官僚制批判をまとめることはむずかしくはない。起源は一九世紀のリベラリズムにある。(略)
中世の商人階級は、シロアリのごとく古い封建的秩序を掘り崩した。シロアリとはいっても、良いシロアリである。崩壊した絢爛豪華たる絶対主義国家とは、リベラル版の歴史観によれば、旧体制の断末魔なのであり、国家が市場に、宗教的信仰が科学的悟性に、侯爵や男爵夫人などからなる厳格な秩序と身分が個人間の自由な契約にかわったとき、終わりを告げるはずのものなのである。
 近代の官僚制の登場は、この筋書きに収まりがいいとはいえないために、いつもちょっとした厄介の種であった。原理上では、複雑な命令の鎖にしばられた役所のこれらお堅い役人など封建制の遺物にすぎず、次第に軍隊や将校団とおなじ轍をふんでいくはずであった。要するに、やがて不要になるとみなされていたのである。

ジョージ・ウォレス「頭でっかちの官僚」

二〇世紀の中盤までには、フォン・ミーゼスのような右翼の批評家も(略)市場が実際には自己統御したりはしないということ、市場システムを動かしつづけるためにおびただしい数の行政官が実際には必要になることを積極的に認めている(略)
しかし、右翼ポビュリストは、現実に照応しているかはおかまいなしに、官僚を的にかければ、ほとんどつねに効果があることに気づいてしまった。合衆国の州知事ジョージ・ウォレスは、一九六八年の大統領選のキャンペーンではじめて、汗水たらして働く市民の税金で食っている「頭でっかちの官僚」とラベルを貼った。こうした「頭でっかちの官僚」への激しい非難が、公的発言の場でつねに聞かれるようになったのである。
 ウォレスは実際、ここでは重要人物である。今日、アメリカ人はふつう、かれをおもいだすときは、失墜した反動家とか、ひどいときは吠えまくる狂人ぐらいに考えている。(略)[しかし]ウォレスの遺産を幅広い視点でとらえたとき、かれは一種の政治的天才ともみなしうる。つまるところ、かれは一国レベルでひとつの右翼ポピュリズムの型を創造した最初の政治家であった。その感染力の強力さはすぐにあきらかになり、一世代後のいまとなっては、政治的立場を越えて、ほとんど万人が利用するようになった。その結果、アメリカ人労働者階級のなかでは、政府はいまや、一般的に二種類の人物からなるとみなされるようになった。(略)
[選挙で落とせる「政治家連中」と尊大なエリートの「官僚連中」]
(略)
 現代アメリカ(略)のポピュリズムにおいて「官僚制」にかわりうるものはたったひとつしかない。「市場」である。(略)政府はもっと企業のごとく経営されねばならず(略)問題が起きたときは、市場の魔術に解決をまかせられるようにすること、と理解されている。
 こうして「民主主義」も、市場を意味するようになった。ひるがえって、「官僚制」とは、市場への政府による介入を意味するようになる。今日にいたるまで、それはほとんど変わっていない。

アメリカは根っから官僚制社会

第二次大戦後、公式に大英帝国から主導権を引き継いで、アメリカ合衆国が最初におこなったのは、まさに世界初の正真正銘の地球規模の官僚制度を設立することであった。すなわち、国際通貨基金世界銀行[等](略)
大英帝国はこのようなことを試みたことは一度もない。他国を征服するか、貿易をおこなうかである。[それに対し]アメリカ人はあらゆるものとあらゆる人間を管理しようと試みたのだ。
 わたしの観察するところ、イギリスの人びとは、じぶんたちが官僚制にとくにむいていないということを大いに誇りに感じている。ところがアメリカ人は、概して、じぶんたちが官僚制にとてもむいているという事実に困惑をおぼえるようにみえる。自国の自己イメージにふさわしくないからである。われわれは、本来、自立した個人主義者であるはずなのだ
(略)
アメリカ合衆国が根っから官僚制社会である――そして一世紀を超えてずっとそうだった――という事実は揺るぎない。
(略)
[「官僚」=「公僕」]という感覚は、一九三〇年代のニューディール期にさかのぼる。この時期はまた、官僚制の機構や技術が、多数の一般的な人びとの目常に、はっきりとみえてきたはじめての時代であった。しかし、実のところ、その端緒から、ルーズヴェルトのニューディーラーたちは、法律家、エンジニア、そしてフォード社やコカコーラ社あるいはP&G社によって雇われた企業官僚の一群と、密接な協力関係をむすびながら、かれらのやり方や感性の多くを吸収しているのである。合衆国が一九四〇年代に戦時体制へと移行してからは、さらに米軍の巨大な官僚制も追随した。いうまでもなく、合衆国はそれ以来、戦時体制から離れたことはない。さて、こうした経緯のなかで、「官僚」という用語はほとんどもっぱら公務員にのみむすびつけられるようになった。たとえ一日中机の前に坐り、書類書きをおこない、報告書を整理しているとしても、[企業の]中間管理職も軍人も決して官僚とはみなされないのである。
(略)
 アメリカ合衆国では、公的なものと私的なもののあいだの分割線がぼやけてきてから長い。たとえば米軍は、その回転ドアで有名である。物資調達に携わった高官は、決まって、軍事関連請負業者の取締役に落ち着くというわけである。
(略)
[あるトラブルについて]
もしわたしが銀行の責任者を探しだし、ことの原因を問いただすなら、彼ないし彼女は、銀行が悪いのではなく、やたらとややこしい政府による規制のせいなのだ、とただちに応じるであろう。これには一分のうたがいもない。しかしながら、おなじぐらいうたがいないのは、もしこれらの規制の由来を探りあてたなら、きっと、銀行委員会の意を汲んだ国会議員、銀行自身の雇ったロビイストや弁護士が束になっての助力によって策定されたことが判明するであろうことである。ちなみに、その間、当の国会議員の再選キャンペーンには寛大なる資金が注ぎ込まれているであろう。
(略)
わたしたちのペーパーワークの大半はまさにこの種の中間地帯――建前上は私的ということになっているが、実際はすべて、政府によって象られている――に存在している。

規制緩和」の罠

今日の政治的言説において、「規制緩和」は、「改革」と同様、ほぼ例外なくよいものとされている。規制緩和によって、官僚による干渉は少なくなるし、イノベーションや交易を邪魔する規則や規制も減るし、というわけである。
(略)
[だが]「規制なき」銀行のようなものは存在しない。というか存在不可能なのである。(略)
銀行の準備預金制度から営業時間までのすべてを政府は規制している。(略)
 だとしたら、「規制緩和」が人の口にのぼるとき、それはいったいなにを指しているのだろうか?(略)
一九七〇年代や八○年代における航空業や遠距離通信業の場合、二、三の大企業に保護を与える規制のシステムから、中規模企業のあいだの厳しく監督された競争を促進させるような規制のシステムヘと転換させることを意味していた。銀行業の場合、「規制緩和」はふつう、その正反対を意味している。すなわち、中規模企業のあいだの管理された競争という状況から少数の金融コングロマリットが完全に市場を支配することができるような状況への移行である。規制緩和という用語を好都合なものにしているのはこれである。あたらしい規制手段に「規制緩和」とラベリングすることで、あたかもそれが官僚制を縮小させ、個人の創意工夫を解放するものであるかのように、世論にみせかけることができるのだ。たとえその結果、処理すべき書類、仕上げるべき報告書、解釈に法律家を必要とする規則や規制(略)オフィスのなんにでも口を出す人びとの実数が五倍上昇したとしても、である。
 この過程には、いまだ名前が与えられていない。公的権力と私的権力とが徐々に融合して単一の統一体(略)を形成する過程である。この名称を与えられていないということそれ自体が重大である。
(略)
わたしは、このような様相を呈している現代を、「全面的官僚制化」の時代と呼んでみたい
(略)
戦後アメリカのような根っから官僚制化した社会にとって、金融化はなにを意味しているのか?(略)
大企業の役員の側の階級的連携に一種の転換、すなわち、自社の労働者との波乱ぶくみの事実上の同盟関係から、投資家との同盟関係への転換が起きているとみるのがよい。
(略)
労働者から離脱して、株主に接近すること、そして最終的に金融機構総体へと接近することである。

実は資格社会のアメリ

アメリカ合衆国は、世界でもっとも厳格に資格証明書の支配する社会である」とジェイムズ・エンゲルとアンソニー・デンファーフィールドは、二〇〇五年の著作『カネ万能時代に高等教育を守ること』で書いている。「信じがたいことに、四年といわないまでも、二年はフルタイムの訓練が必要な働き口に、学士号[資格取得に四年必要な]が必要とされるのである」。
 中産階級的生活への参入資格としての高等教育の促進のもたらしたものは……公の影響力をもつ職業からの非大卒者の排除であった。一九七一年には、ジャーナリストのうち大卒は五八%を占めていた。それが今日では九二%である。(略)もっとも著名なジャーナリストたちは、決してジャーナリズムを学んだりはしてこなかったにもかかわらず。
 ジャーナリズム(略)で資格証明書は、事実上の免許として機能している。(略)それを獲得する能力は、たいてい、家庭の財力に左右される」。
 看護師から芸術講師、心理療法士から対外政策コンサルタントまで、どの領域でも、おなじ筋書きをくり返すことができる。
(略)
大学に在籍した者なら知っているように、いわゆる[財政的]支援を確保するための書類作成のコツを一番よく知っているのは、家族の資産により、もっとも財政的支援を必要としない人間、すなわち、知的専門−中間管理職階級の子息たちである。そんな境遇とは無縁の人間にとって、一年間の専門教育の主要な成果といえば、学生ローンによる膨大な借金でがんじがらめになったことである。たとえ職にありついたとしても、その後の収入のかなりの部分が、月ごとに、金融機関に吸い上げられる。
(略)
金貸しと訓練プログラムの立ち上げをもくろむ人間が、手を組んで政府に圧力をかけ、たとえばすべての薬剤師は以後、追加の資格試験をパスする必要があるという決まりを発表させ、すでに職に就いている多数の人びとが夜学に通うよう余儀なくさせる、といった場合である。
(略)
これもまた、あたらしい金融体制のもとでの公的権力と私的権力の融合の模範例なのである。アメリカにおける企業利益は、ますます、商業や産業からではなく、金融から――つまるところ人びとの負債から――上がるようになっている。

とあるエコノミストとの会話

わたしはかれに、二〇〇八年の金融恐慌をみちびいた過失行為でもって一人の銀行役員も裁判にかけられていないのかと聞いた。
エコノミスト そう、アメリカの検事が金融詐欺に対してとる方法はいつも示談交渉だからね、そこが理解のカギだな。かれらは裁判沙汰になるのを嫌がるんだ。結果、金融機関は高額を支払うことになる。何億ドルという莫大な金額にのぼることもある。でもそれで犯罪の責任は負わなくてすむ。(略)
わたし そうすると、たとえばゴールドマン・サックスバンク・オブ・アメリカの詐欺行為を政府が発見しても、政府はかれらに罰金を課すだけだということですね。
エコノミスト そうそう。
わたし そうすると、この場合……そう、正しい質問はこうですね。企業の賠償総額が、詐欺行為自体からえた総額を上回るという事例はこれまであったのでしょうか?
エコノミスト いやいや、知ってるかぎりで、ないない。だいたい、かなり低いよね。(略)
平均二〇%から三〇%ぐらいかな。(略)
わたし ということは……まちがってたら指摘してください、実質的に政府は、「きみたちが詐欺行為をしでかして、オレたちがつかまえたとして、そのときは分け前をよこせよな」といってることになりませんか?
エコノミスト ううむ、この仕事をやってるかぎり、そういうようにはいえないが、だ……。
[一方、支払いに追われる庶民は、5ドルの超過引き出しで銀行から80ドルのペナルティを食らう]

次回に続く。

 

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