ポール・マッカートニー ザ・ライフ その3

前回の続き。

PAUL McCARTNEY THE LIFE ポール・マッカートニー ザ・ライフ

PAUL McCARTNEY THE LIFE ポール・マッカートニー ザ・ライフ

 

〈ヘイ・ジュード〉

[〈ヘイ・ジュールズ〉を]トマス・ハーディの悲劇小説『日陰者ジュード』を投影して〈ヘイ・ジュード〉に変えた。この曲はジュリアンを元気づけるアドバイスであると同時に、ジョンに対する遠回しの批判になってい[たが、ジョンは](略)
「彼女を見つけたんだから、さあモノにしてこい」という歌詞を、ヨーコとの不倫に対する支持ととらえたのだった。
(略)
最後の韻が欠けているバースがあり、ポールは適当な歌詞が見つかるまではその部分を、「君が必要としている行動は君の肩にかかっているんだから」という意味の通らない歌詞で歌っていた。ところがジョンから、これがこの曲で一番いい歌詞だと言われたので、そのままにしたのである。その後、熱狂した顔を見せる人々の前でひとりで演奏するたびにそのときの記憶がよみがえって、ポールの胸はいつもいっぱいになるのだった。
(略)
「彼女を見つけたんだから、さあモノにしてこい」――が、自分にも同じように当てはまるとポールが気づいたのは、九月末になってからだった。彼はニューヨークのリンダ・イーストマンに電話すると、すぐにロンドンに戻ってきてほしいと頼んだのである。彼女は直ちに応じた。
(略)
 ようやく帰ってきたポールは、その日にビートルズがレコーディングした曲のテープを手にしていた。それはポールの曲ではなく、ジョンによる〈ハッピネス・イズ・ア・ウォーム・ガン〉だった――恐ろしいまでに予言的なタイトルなのは言うまでもない。寝る前に聴くよう、彼はリンダに強く言った。
 こういった人の動きは、正門前に四六時中いる女性ファンの集団には、当然のことながら目撃されていた。ある爽やかな九月の夜に(略)開け放たれた音楽室の窓から、〈ブラックバード〉を歌うポールの声が聞こえてきたのである。
 これはポールがリンダを終わることのない自身の歌の世界へと迎え入れているところだったが、「真夜中に」盗み聞きしていたファンの女の子たちは、自分たちのために歌われたと思い込んだのだった。

アレン・クライン

 ニュージャージー州で極貧に生まれ、ユダヤ人の孤児院で育ったクラインは(略)会計士になって人生をスタートさせた。レコード会社の不透明かつ怪しい帳簿という習慣のせいで、多くの大物たちは多額の印税が支払われていないことにまったく気づいていなかった。クラインは警察犬のように嗅ぎ回っては、彼らに支払われるべき数千ドル、時には数十万ドルを何度となく見つけた。その結果彼は、文字通りに何もないところから大金を生み出すことのできる人物として、「ポップス界のロビン・フッド」として知られるようになった。(略)
 クラインは1964年にビートルズに対して初交渉をして失敗していたが(略)
[ストーンズのデッカとの契約更新で前払金125万ドルを確保。ポールはそれを]うらやましく思っていたので――このあとに起こることを考えると皮肉だが――クラインをビートルズのマネジメントに加える手段を探るよう、ブライアンに提案した。(略)
クラインはドノヴァンやハーマンズ・ハーミッツ、アニマルズ[を次々と獲得、ついにジョンと密会、カードを巧み切った](略)
貧しかった子ども時代、(ジョンと同じく)おばに育てられたこと(略)不屈の精神で業界のトップに上り詰めたこと、音楽業界の不正に対して立ち上がって勝利を得たこと。その恩恵を受けた中には(略)[ビートルズのアイドル]サム・クックもいた。(略)
[数日後、ジョンは他の3人にクラインを紹介]
ポールは人生にはテーブルを囲むよりもすることがあると言うや、ぷいと出て行った。ジョージとリンゴはそのまま残り、どちらもクラインに取り込まれた。(略)
 翌日にアップルに出てきたポールは、彼らがクラインを採用したと知る。
(略)
 イーストマンの助けにより、ポールはニューヨークにおけるクラインの評判が今や終わっていることもつかんでいた。クラインは、つぶれたも同然のカメオ=パークウェイというレコード会社を購入しており(かつてはチャビー・チェッカーの〈レッツ・ツイスト・アゲイン〉で大金を稼いだこともあった)、続いてイギリスのチャペル社を含む複数の裕福な音楽会社が同社を獲得しようと争奪戦を繰り広げているというデマを広めて、会社の価値をつり上げようとした。その結果、カメオ=パークウェイの株式に関する取引はニューヨーク証券取引所によって停止され、クラインはその取締機関である証券取引委員会による調査に直面していた。これでも足りないというかのように、彼のABKCO社は50件ほどの訴訟に巻き込まれているうえ、本人も所得税の申告が連続して滞っていて、国税庁ともめていた。
 ところが、この情報をジョンとジョージとリンゴに伝えても、まったくの無駄だった。むしろ、地元での悪名の高さはクラインにとってプラスであり、彼こそが自分たちに必要な真のタフガイであるという確証だと感じていたのである。マフィアとの関係が噂されている件(略)も、とりわけジョンにとっては魅力が増しただけだった。
 ポールが支持を求めることのできた強力な反クラインの声があり、これはジョンでも無視できないと思われた。かつてクライン組の星だったローリング・ストーンズが、彼のマネジメントに不満を暮らせて、今や彼を排除しようと密かに計画していたのである。(略)
[ポールに]頼まれたミックは、ビートルズのほかのメンバーにこのことを話すべくアップルを訪れた[が会議室のテーブルにはクラインもおり](略)対立を望んでいなかったミックは単なる表敬訪問のふりをすると、ほんの数分で帰っていった。彼はその後ジョンの自宅に電話をかけて、「人生最大の失敗」をしないように説得した。だがジョンは聞く耳を持たなかった。

〈ジョンとヨーコのバラード〉

彼がレコーディングできるというときに、ジョージとリンゴはたまたまロンドンにいなかった。そのため、マネジメントの件でやり合ったばかりにもかかわらず、これを実現させるために、彼は自然とポールに頼ったのである。(略)
[4月14日]
曲中の「クソッ[クライスト]、楽じゃないぜ」というコーラスに、ジョンを「磔にする」という言及は、彼らをキリスト絡みの新たな騒ぎに引きずり込む恐れがあった。それでもポールは自分のすべてを出し、ベースにドラム、ピアノにマラカスを担当して、「バッグ」「ドラッグ」「クルーシファイ・ミー」という歌詞に最高級の甘美なハーモニーを加えたのである。この二人がデュオとして演奏したのは、ポールのいとこのパブでナーク・ツインズとして登場して以来であり、その間の年月や群衆や数々のことがなかったかのように、二人は冗談を飛ばしている。「もう少しゆっくりだ、リンゴ」と、ドラムパートを担当するポールをジョンがからかうと、「わかったよ、ジョージ」という答えが返ってくるのだった。
(略)
[4月18日の会合で、ポールが他メンバーに内緒でノーザン・ソングスの持ち株を増やしていたとクラインが明かし、激昂したジョンがポールに手を出しそうになったが、4月30日には〈ユー・ノウ・マイ・ネーム〉を仕上げた]
おかしな声でタイトルを繰り返す以外にどうしようもない曲だった。それでも何時間もかけて、一本のマイクに向かって歌ったり、咳をしたり、早口になったり、『グーン・ショー』風のアクセントにしたりして(略)ティーンエイジャーの仲間や悪友たちのようになった。のちにポールは、このレコーディングがビートルズの中で一番好きなものだと振り返っている。

アビイ・ロード

ポールが言うには「前にやっていたように」、彼らはマーティンに一緒に作業してもらいたがったのだ。
 マーティンには、1月のトゥイッケナム・スタジアムや、その前の《ホワイト・アルバム》のときの悲惨な雰囲気に戻りたいという気持ちはなかった。彼は校長然としたかつての厳しい口調で、こう返事した。「そのアルバムをかつてのような姿にしたいなら、君たちがやるべきはかつてのようなやり方だけだ」――つまりは、しっかり働き、集中して、陽気にやるということだ。そして何よりも、お互いに対して友人であるということだった。ポールはそうすると約束した。そして信じられないことに、彼らはそのとおりにしたのである。

〈カム・トゥゲザー〉

ジョンによるオリジナル・ヴァージョンでは、出だしがチャック・ベリーの〈ユー・キャント・キャッチ・ミー〉に少し似ていることにポールが気づいた。剽窃の罪を未然に防ぐべく、彼は「じめじめした」と思い描いていた異なるアレンジを提案した。こうして、夢遊病のようなベースの重たいビートに、熱帯夜に嗚くカエル、蚊帳の下でのセックスを連想させたのである。(略)
レノン=マッカートニーによるナマのハーモニーのために作られたように思われたが、ジョンは自分ひとりだけによるヴォーカルの重ね録りのほうを選んだのだ。のちにポールが思い出しているが、二人でまた一緒にマイクを分け合って歌うことができたらと思っていたものの、「きまり悪くて言い出せなかった」という。これはおそらく、二人の間を今や隔ててしまった溝の大きさを示す話として、最も悲しいものであろう。

ジョンとポール

 創作面における協力関係は明らかに終わっていたものの、彼とジョンはまだ定期的に会話をしていて、かつての共感がきらめくことも多かった。会議室で敵対関係にあることや、それぞれの取り巻きがお互いに悪口を言ってご機嫌を取ろうとする様子について、二人は冗談まで言っていた。「連中は、君を俺と対立させようとしているのか?」と尋ねるジョン。「俺を君と対立させようとしているように?」
 三月には、ポールはとうとうジョンに対して、自分がこの数週間、自宅でやっていた秘密を明かした。「君とヨーコがやっていることを、僕もやっているんだ。僕はアルバムを出す――それから、僕もグループから抜けるよ」
 「わかった」と、ジョンは答えた。「これで精神的に受け入れた人間が二人になったわけだな」
 ジョンはいつになく気分が弾んでいた。(略)最新曲〈インスタント・カーマ〉が、アメリカで三位を記録したところだったからである。

ポール脱退報道

 Q このアルバムはビートルズから一時的に離れたものなのでしょうか。それともソロ・キャリアの始まりなのでしょうか?
 A 今にわかるさ。ソロ・アルバムということはソロ・キャリアの始まりということであり、ビートルズと一緒にしなかったということは、休みを意味する。だから、両方だね。
 Q ビートルズと離れるのは一時的なのか、それとも永続的なのでしょうか。また、個人的な意見の相違によるのか、それとも音楽的な相違によるのでしょうか?
 A 個人的な意見の相違、ビジネス上の相違、音楽的な相違があるけど、何よりも僕が家族とよりよい時間を持てるからなんだ。一時的なのか永続的なのかって? 僕にはよくわからないよ。
 Q レノン=マッカートニーが再びソングライティングの協力関係として活動するという将来は予測できますか?
 A できないね。
(略)
 このインタビューの予定原稿を入手した『デイリー・ミラー』紙(略)
「ポール ビートルズを脱退へ」。
(略)
「アップル・スクラッフス」の中にはインタビューを撮影された者もいたが、すべてはリンダのせいということで意見は一致していた。「法的には、彼女はポールの奥さんということになるけど」と、その中のひとりがBBCの記者に対して答えている。「でも、彼女がポールを支配して、監視して……彼女に『飛んで』って言われたら、ポールは飛ぶわ。あんな天才なのに……女の人が男の人に、そんなことをさせたら駄目なのよ」
(略)
「僕のほうからピートルズを離れたわけじゃない。ビートルズビートルズから離れたんだ。でも、パーティーが終わったとは、誰も口にしたくなかったんだよ」。だが[ポールが]そう抗議しても、事態はほとんど変わらなかった。ほぼすべてのマスコミが、ポールの尊大な自己中心的なところと身勝手さを責めた――さらには、この大変なときに合わせて自身初のソロ・アルバムをリリースするという冷酷さを。事情通の関係者たちでさえ、バンド内での村八分状態や無視、陰での中傷行為や屈辱に対してポールがこの何カ月も耐えていながら、それでもばらばらにならないようにしようとしていたことについては、まったく知らなかったのだ。
 一方でジョンは、自分が半年前に共通の利益のために説得されて、脱退を遅らされていたことに怒りを露わにしていた。自分のものだったはずの大々的な脱退劇が、今やポールに盗まれていたのである。

傷心

[70年夏、ジョンがプライマル・スクリーム療法を受けていた頃、再度スコットランドに逃避中のポールもボロボロ]
「ひどく不安で偏執狂的になり、仕事もなくて無用に感じて……(略)傷ついていて失望して……あんな素晴らしいバンドに……あんな素晴らしい友人たちを失う悲しみで」。デビュー・ソロ・アルバムに対する酷評は――27歳で――「自分が用済みになった」という確信を煽ったのだった。(略)
夢には、悪魔の歯医者の姿をしたアレン・クラインが出てきて、彼に注射しようとするのだった。《マッカートニー》収録の〈エヴリナイト〉では、抑えが利かないほど震えながらベッドに横たわり、頭が重すぎて枕から上げることもできない状態が明らかになっている。依存性の強いハードドラッグも誘いをかけてきていた。「友人」(画廊のオーナーで常習者のロバート・フレイザー)がかつて言ったことを、彼は思い出していた。「『大丈夫だって。“イエスタデイ”を書いたんだから、ヘロイン代はいつだって出せるさ』という彼の言葉に、一瞬耳を傾けそうになったんだよ」
(略)
「僕はどうしようもなかった……あんな状態の僕と一緒にいられる人などいるだろうか」と、本人も振り返っている。「自分の目で見ても、もう用済みの人間だった……ものすごい虚無感が自分の魂を駆け抜けていったんだよ」

ジョンとの和解

72年の初めに、ポールがウエストヴィレッジにあるジョンの狭いアパートを訪れた。(略)
ここで二人は、お互いのことやアルバムをけなしたり、音楽誌を通じて悪口を言ったりするのは馬鹿げていて子どもじみているということで、意見が一致したのだ。
 その後は、ポールはニューヨークを訪れるたびに、よくジョンに電話していた。(略)
ジョンは親切なときもあれば敵意に満ちたときもあり、さらには「ものすごく恐ろしい」ときもあったからだ。そして必ず、電話の後ろではヨーコの声が聞こえていたので、ポールは電話を切りながら、「彼らが自分の人生にもういなくてよかった」と思うのだった。
 一度彼が電話したときは、ティーンエイジャーの頃から知っているリヴァプール訛りの低い声が、「ああ?ああ?何なんだよ?」といった生粋のニューヨークっ子という感じでしゃべりかけてきた。その声はポールには、テレビドラマで棒付きキャンディをなめている、ハゲ頭のギリシャ系の刑事と同じくらいに、偽物に聞こえた。「うるさい、くたばれ、コジャック!」と言い返すと、ポールは受話器を叩きつけた。
 ポールに対するジョンの態度の軟化には、自分たちに最終的かつ致命的な不和をもたらしたマネージャーに対する、ジョンの態度の硬化が大いに関係していた。アレン・クラインに対して、ポールの見立ては間違っていなかったと思い始めていたのだ。
(略)
[73年ジョンは]彼とジョージとリンゴはクラインから「離れた」ことを認めて、さらには元メンバーが受け取る公式の謝罪ともいうべき言葉を言い添えている。「ポールが抱いた疑念のほうが正しくて、時期も適切だったと言えるだろう」
(略)
[ジョンをダコタから追い出したヨーコは、ロンドンのポールの家に現われ]
もしやり直すのならジョンが守るべき条件を提示している――「ニューヨークへ戻ってくること。すぐには一緒に住まないこと。自分に言い寄って、もう一度誘うこと。花を贈ること」

著作権ビジネス

義兄ジョン・イーストマンとその弁護士の友人にばったり出会ったことから始まったものだ。その友人が、ノー=ヴァ=ジャック社の売却手続きをしている最中なんだ、と口にしたのがきっかけだった。ノー=ヴァ=ジャック社は、ポールがティーンエイジャーだった頃のヒーロー、バディ・ホリーの楽曲を出版していた会社だった。
 その友人の話はこうだった。ノー=ヴァ=ジャックにはすでに有望な買い手がついている。だが、いらいらするほど動きが鈍くて手続きが終わらない。その買い手の名前はアレン・クラインだった。イーストマンはいつものクラインの引き延ばし戦術だと悟って、この仇敵を出し抜く機会に飛びついた。「こう言ってやったんだ。『MPLが買うよ。今すぐオフィスまで来てくれたら、書類に署名しよう』。ポールは15万ドルで買ったんだが、この会社はすぐに毎年何倍もの額を稼ぎ返してくれるようになった」

日本での逮捕劇

[ギターの]ローレンス・ジューバーは、彼の言う「一生忘れられそうにない」瞬間には、ポールのすぐそばに立っていた。手袋をはめた手でポールの荷物をいかにも「おざなりに」調べていた係官が、ジャケットを持ち上げたところ、その下から透明のビニール袋が現れたのだ。そこには、明らかに大麻と思われる大きな塊が入っていた。
 「そいつを引っ張り出したときの彼の顔は、僕よりも困っているように見えた」と、ポールはのちに回想している。「元に戻してすっかり忘れてしまいたいと思ったんじゃないかな」。そうする代わりに係官はさらに調べを進め、洗面用具入れに入っていた少量の大麻まで見つけてしまった。
 ジューバーの話では、それと同時に「警報が鳴り響き、ドアが開いて四方八方から人が駆けつけてきた」。ジューバーとポールは別々の部屋に連れて行かれ、取り調べを受けることになる。
(略)
[警視庁では]麻薬捜査班による、カタコトの英語を交えた五時間に及ぶ厳しい取り調べが待っていた。ポールがスーツケースに所持していた大麻は合計で約220グラム、単に個人で使用するためと見るには多すぎて、密輸、さらには密売の意図があるのではないかと疑われても仕方がない量だった。(略)
[留置棟に送られた]ポールが案内されたのは、ベッドの代わりに薄いマットが敷いてあるむき出しの狭い小部屋だった。
 これまでにこんな状況に置かれたのは、18歳のときハンブルクで、火をつけたコンドームでポルノ映画館を燃やそうとした疑いでピート・ベストと一緒に短期間収監されたときだけだ。(略)
一睡もできず、今にも乱暴されるのではないかという怯えから、一晩中、床に座って壁に背中をもたせかけていた。
(略)
 「僕は自分の経歴を細かいところまで言わなければならなかった……学校、父の名前、収入など。また、興味津々という感じで『MBEを授与されたんだって?』と訊かれたので『そうだよ』と答えた。少しでも感銘を与えられればと思ったんだが、それなりの効果はあったようだ。彼らはますます興味を惹かれた様子で『女王の宮殿に住んでるのか?』なんて訊くんだよ。『いや、そういうわけじゃない……でもまあ、ごく近くにね』と言ってやった。女王の宮殿の近くに住んでいると知ったら解放してくれるんじゃないかと期待したのさ。『大麻を吸う?』『ほとんど吸わない』というやり取りの後、『吸ったら音楽が気持ちよく聴けるようになるか?』と言われた。僕は思ったね、『おっと、こいつはワナじゃないのか……』って」
(略)
[留置場の]一日は朝六時の点呼から始まる。(略)他の収容者と一緒にあぐらをかいて床にすわり、自分の留置番号22番を呼ばれると大声で「ハイ!」と返事する。(略)ドアの穴から押し込まれる小さな塵取りと箒で自分のせせこましい領分を掃除し、寝具をたたまなければならない。
(略)
「数日後には、僕は『大脱走』のスティーヴ・マックイーンみたいな気分になっていた。生まれつきの生存本能とユーモアのセンスにスイッチが入ったのさ。『よし、それじゃ明かりがついたら真っ先に起きて真っ先に部屋を掃除し、洗面と歯みがきも真っ先にしてやろうじゃないか』[と思ったんだ]」
(略)
 毎朝ブリキのバケツの周りで紫煙をくゆらす集まりの中で、ポールはすっかり人気者になり、ビートルズがかつてホテルの部屋やアビー・ロードのスタジオに缶詰めになっている間に遊んだゲームを教えたりした。壁の前で順番にジャンプして、だれがいちばん高いところにタッチできるかを競うゲームで、たいていは、小柄な他のメンバーより背が高いポールが勝つのだった。
 そのうち、厳しかった管理態勢もいくぶん緩やかになった。ギターを弾きたいというポールの要求は断固として拒否されたが、清潔な衣類や温かい食事、毛布などの差し入れは認められた。乱暴されるのではないかという不安も薄らぎ、個室の風呂に入れると聞いたときにも共同のシャワーの方を選ぶほどだった。そこでは彼が音頭を取って父親が好きだった昔のスタンダード・ナンバー(たとえば〈ホエン・ザ・レッド、レッド・ロビン・カムズ・ポップ、ポップ、ポッピン・アロング〉をみんなで歌ったりした。
(略)
[釈放後、アムステルダム、次いでロンドンで報道陣に対し]
アメリカで吸った大麻の残りが大量にあり、それは「トイレに流すには惜しい」ので、「まだアメリカにいるような気持ちで『大麻なんてたいしたものじゃないのさ』と思って」荷物に入れたというのである。
(略)
 実際にはこの曲は日本で悪夢のような事件が起こる前の1979年夏に作曲されたもので、ポールはこの器楽曲で雪化粧をした富士山という日本の象徴的なシーンを表そうとした。〈フローズン・ジャップ〉はふと思い浮かんだフレーズをラフな作業用のタイトルにしただけだ。日本に輸出されたアルバムでは〈フローズン・ジャパニーズ〉に変更されたが、それでもなお、日本人には「信じがたい侮辱」と思われたとポールも認めている。

ライバル心

[ポールは]ニューヨークを通る機会があれば(よくあったのだ)ジョンに電話をかけたり、時にはリンダと一緒にダコタ・ハウスにふらりと立ち寄ったりした。
 このころジョンの気分にむらがあったのは、多くは子育てのストレスが原因だった(略)。「おい、まず電話するってことを思いつかないのか?」と不意に現れた訪問者にジョンは苛立った。「赤ん坊の世話でくたくたなんだ。それなのにいまいましいギターなんか抱えて入ってきやがって」
 だが別の日に訪ねると大いに歓迎されたりする。二人の間に一緒に曲を作っていたときの親密な関係がなくなっていたとしても、この二人が一緒にいるだけで絵になるのだ。
(略)
 ジョンには自分がついに大人になったという自覚があったが、それでもポールに対する競争心は少年のころと同様盛んだった。たとえば、彼がお茶でも飲もうとプラザ・ホテルのパームコートに入って行くと、弦楽四重奏団がすかさず〈イエスタデイ〉を演奏するのが気にくわない。(略)
 ジョンは、ウイングスの新作はアルバムでもシングルでもすべて聴いていた。初めのうちは自分やヨーコを侮辱するような内容が隠されていないかチェックするためだったが、後には「この曲はいい」とうなずいたり感嘆したりすることも多くなり、ウイングスがアメリカのチャートで何度も上位にランキングされるのを見ると羨ましさを抑えられなかった。1978年にポールが2250万ドルでCBSレコードと契約すると、羨望の念はピークに達する。「俺にはあんな大金手に入るはずがないよ」とジョンはコーコに嘆いた。「俺たちには、ポールみたいにイーストマンの親父の後ろ盾がないからな」
(略)
「隠退」直前のテレビ出演で、ビートルズの楽曲の中で時代を超えて歌い継がれていく可能性がいちばん高い曲は何だと思うかと尋ねられ、〈エリナー・リグビー〉と〈ヘイ・ジュード〉を挙げたが、それはどちらもポールの曲だった。
(略)
「みんながカバーするのはポールの曲ばかりなんだ」と、ジョンはうらめしそうにヨーコに言ったものだ。「俺のはだれもカバーしない」。

ジョンの死

リンダはたまたまメアリーとステラを学校に送って行って留守だったので、家にいたのはポール一人だった。リンダが戻ってくると、ポールが玄関前に突っ立っていた。「彼を見たとたんに、何か恐ろしいことが起こったとすぐわかりました。あんなポールは見たことがなかった。動転した様子で……泣いていました」
 ポールが最初にしたことは、弟のマイケルに電話することだった。近々発売予定のマイケルの著書『サンク・U・ヴェリー・マッチ』には、フォースリン・ロード20番地でマイクが撮影したジョンの写真が何枚か入っていた。肘掛け椅子にポールと向かい合って座り、一緒に作曲している写真では、当時嫌がっていた角縁の眼鏡をかけてすっかりくつろいでいる。マイクは昔から「ポールの弟」というよりもジョンの方に近い気性で、知らせを受けて同様にショックを隠せなかった。
(略)
 午後、ポールはヨーコからの電話を受け、二人だけで話をした。ポールの目にはまた涙があふれてきた。「ジョンは本当にあなたのことが好きだったわ」とヨーコが言ったからだ。頭の中には、マーク・デイヴィッド・チャップマンに対する「バカヤローったらバカヤロー」というフレーズが、まるで歌詞さながらに繰り返し流れていた。

ピート・ベスト

音楽界を離れ、20年間、リヴァプールで最も悲愴な目をした地方自治体職員として過ごした。
 だが、ビートルズがデッカに提出するテープを制作したとき、ベストは、まだ在籍していたので、『アンソロジー』に使用された10曲に対する印税の分け前が彼にも支払われるべきであった。彼を解雇するのに一番乗り気だった人物からの電話で、彼は初めてそのことを知った。解雇の一件以来、二人が初めて会話を交わした瞬間だった。
 「間違ったことを正す必要がある」と、ポールは彼に伝えた。「君に支払うべき金がここにある。受け取るかどうかは君次第だ。約800万ポンドある」。ベストは、それを受け取った。