タコの心身問題――頭足類から考える意識の起源

 
タコの心身問題――頭足類から考える意識の起源

タコの心身問題――頭足類から考える意識の起源

 

高コストなニューロンをなぜ使うのか

 神経系があると何ができるのか。(略)[情報伝達は]神経系がなくても可能である。むしろ生物にとって細胞間の情報伝達はありふれている。神経系にできるのは、特殊な種類の情報伝達だ。第一に、神経系の情報伝達は速い。(略)神経系を持っていない植物は、動物のように速く動くことはできない。また、ニューロンから出る「糸」は長く伸びることができるため、すぐ隣のニューロンだけでなく、脳内、あるいは体内のかなり遠くのニューロンにつながることができる。つまり、遠くにある特定のニューロンに影響を与えることもできるわけだ。細胞は元来、近隣の不特定多数の細胞に一斉に情報を伝えることしかできず、また近隣の不特定多数の細胞から情報を受け取るしかなかった。しかし、進化によって、そうではない新たな情報伝達が可能になったということだ。

(略)

私たちの神経系を構成するニューロンでは絶えず電位の変化が起きている。まるで多数の音が同時に奏でられるシンフォニーのように、多数の異なった電位変化が協調して起きる。(略)
 これだけ複雑な活動を常時続けるには、当然、「コスト」がかかる。ニューロンをはたらかせ、維持するためには、大変な量のエネルギーが必要になる。(略)

エネルギーの四分の一近くを、ただ脳の正常な活動を維持するためだけに消費している。(略)

 高いコストがかかるにもかかわらず、わざわざこの機械を持つ価値はどこにあるのだろうか。そもそも何のためにこのようなものがあるのか。私は、今のところ、この問いに関しては二つの見方が存在すると考えている。(略)

一つ目は、「神経系とはまず、知覚と行動を結びつけるもの」という見方だ。(略)

脳は行動を制御するために存在する。そして、行動を適切に制御するには、自分の「したこと」と、「見た(触った、味わった)もの」とを結びつけるしかない、と見る。感覚器は、周囲で何が起きているか、という情報を取り入れる。神経系は、その情報を利用して、次に何をするべきかを判断する。仮に、この見方を「感覚-運動観」と名づけることにしよう。(略)
 この見方は私たちの直観にも合うし、他の見方などあり得ないようにも思える。だが、実際にはもう一つの見方があり得るのだ。それに気づく人はあまり多くない。(略)

もう一つ重要なことを、神経系はしている。むしろ動物にとっては、こちらの方が重要かもしれない。(略)

それは、「行動を生み出すこと」である。神経系は行動を調整するだけではなく、行動そのものを生み出してもいる。そもそも、私たちはなぜ行動することが可能なのか。

頭足類の進化

 タコをはじめとする頭足類は皆、「軟体動物」である。(略)

突如として、「見つけ次第、殺して食う」という者たちに取り囲まれるようになった。その状況に(略)軟体動物が採ったのは、硬い殼をつくり、その中か、下で生きるという方法だった。頭足類も、歴史をさかのぼると、そうした殼を持った初期の軟体動物に行き着くだろう。先の細くなった帽子のような硬い殼の下で、海底を這い回っていた動物だ。

(略)

 カンブリア紀に入ってから時間が経つと、殼を持った軟体動物の中には、海底を離れて、海中へと進出する者が現れた。(略)

殼は(略)浮力を得るためにも使われるようになった。中に気体を充満させることで浮力が得られる。(略)

 一度、高く浮かび上がってしまえば、這うための足は無用のものとなる。そこで、飛行船と化した頭足類は、足の代わりにジェットエンジンのような推進装置を備えるようになった。漏斗と呼ばれる器官から水を勢いよく吹き出すことで前進する。(略)這うことから解放された足は、物をつかみ、操ることに使えるようになった。(略)

頭足類は、海底から水中へと浮かび上がることで、他の動物を食べて生きるという道が拓けた。つまり自らが捕食者となる可能性を手にしたということだ。実際、頭足類はその方向に、急速に多様に進化していくことになる。

(略)

 [再度、大きな進化]

恐竜の時代の少し前のことだ。一部の頭足類が殻を捨てた。(略)攻撃に対しては弱くなるが、その代りに行動の自由度は高まる。

(略)

タコには硬い部分というのがほとんどない。硬い部分で最も大きいのが目と口である。おかげで、直径が眼球よりも大きければ、かなり小さい穴でも通り抜けることができる。身体の形はほぼ無限に変えることができるのである。

(略)

もう一つの変化も同時に起きた。一部の頭足類が賢くなっていったのである。(略)

他のどの無脊椎動物と比べても、頭足類の神経系の規模は異常に大きい。

 タコは賢い

 頭足類と哺乳類では、生き方があまりに違っている。だから、両者の脳神経系を比較することは非常に難しい。タコを含む頭足類は非常に優れた目を持っている。目のつくりは、大まかには私たち人間のものと同じである。(略)

だが、目の背後にある神経系のつくりは、タコと人間では大きく違っている。(略)

[哺乳類、鳥類、魚類などは類似がある、つまり]脊椎動物であれば、脳の基本構造はだいたい同じ(略)

ところが脊椎動物の脳とタコの脳を比較しようとすると、まるで対応がつかない。(略)

しかも、タコの場合、持っている(略)ニューロンの多くは腕の中にある。そう考えると、タコがどのくらい賢いかを知るのに、脳、神経系を直接見てもあまり意味はないと言える。

(略)

 実験室内でテストを受けさせてみると、タコは総じて良い成績を取る。(略)簡単な迷路くらいなら、すぐに通り抜けられるようになる。二つの場所を見せられて、どちらが自分の元いた場所か目に見える手がかりを利用して判断するということができ、また、その場所に行くための正しい経路を見つけ出すこともできる。瓶の蓋を回して開け、中の食べ物を取り出すということも学習できる。ただ、タコはどの場合でも学習が早くはなく、時間がかかる。

(略)

タコは、水槽のような狭いところに閉じ込められている状況にもうまく順応できる。そして、自分を捕らえている人問と何らかの交流をすることもできる。野生のタコは単独行動を取る動物である。(略)

ところが実験室などに入れると、タコは自分の置かれた新しい環境がどのようなものかを即座に理解するように見える。たとえば、水槽などに入れたタコは、自分に関わる人間一人ひとりをすぐに識別するようになる。そして、相手が誰かによって違った態度を取るという。

(略)

 タコの行動について研究機関で調査したこともある哲学者、ステファン・リンキストはこう言っている。「相手が魚であれば、彼らは自分たちが水槽という、不自然な場所にいるということをまったく理解していない。しかし(略)[タコ]は、自分が特殊な場所にいることも、人間がその外にいることも理解する。自分が捕らえられていると認識し、その認識が行動のすべてに影響を与える」リンキストの飼育していたタコたちは、水槽に入れると、中を動き回り、いろいろなことを試し始めたという。困ったのは、水槽についている水の流出弁をタコたちが腕の先で触って詰まらせたことだ。意図を持ってそうしていることは明らかだった。おそらく、水槽の水の量を増やそうとしたのだろう。当然、水は水槽からあふれ出し、研究室は水浸しとなった。

(略)

 タコは見慣れないものをただ弄ぶだけでなく、有効に活かすこともある。二〇〇九年、インドネシアのある研究者グループは、野生のタコが半分に割れたココナツの殼を二つ抱えて歩いているのを発見して驚いた。なんと、その殼をタコは持ち運び可能なシェルターとして利用していたのだ。殼は綺麗に真っ二つに割れていたので、間違いなく人間が二つに割ってから捨てたものだろう。タコは偶然それを捨ってうまく役立てたわけだ。持ち運ぶ時には、一方の殼をもう一方の殼の中に入れることもある。それを身体の下に抱えて海底を歩くのだ。その姿はまるで竹馬か何かに乗っているようだ。殼を二つ合わせて球にし、自分がその中に入ることもある。捨てられたものを拾って、シェルターとして利用する動物は数多くいる(ヤドカリはその好例だ)。また、捨ったものを道具にして食べ物を手に入れる動物もいる(チンパンジーやカラスなどを例にあげることができる)。(略)

いろいろなものを組み合わせて巣をつくる動物はたくさんいる。だが、組み合わせたものを分解して持ち歩き、あとでふたたび組み合わせる動物となると、他になかなか例はない。 

 タコの神経系

タコの神経系は部分ごとに機能する場合と、脳の司令の下、中央集権的に機能する場合の混合のようなかたちで働いているらしい。

(略)

タコには約五億個のニューロンがある。なぜそれほど多いのか。(略)

神経系は非常にコスト高な機械である。頭足類はなぜ、このようなコスト高な機械を持つという、特異な進化を遂げたのだろうか。

(略)

身体から硬い部分がほとんど失われたことで(略)動きの自由度は格段に高まったが、混乱を生じさせず、一貫性のある行動が取れるよう制御することは容易ではない。(略)

身体の制御のためだけでも、いまタコが持っているような膨大な数のニューロンが必要だったと思われる。

 タコの心臓

 タコの心臓は一つではなく、三つだ。また、その心臓が送り出す血液は赤ではなく、青緑色をしている。酸素を運ぶのに鉄ではなく、銅を使うからだ。

 タコにおける「自己」と「環境」の境界

 タコの置かれている状況はいわばハイブリッドだ。タコにとって、腕はそれぞれが「自己」の一部だと言える。目的をもって動かし、外界の事物の操作に使うことができるからだ。しかし、身体全体を集中制御する脳から見れば、腕はどれも部分的には「他者」ということになる。自分が司令していない動きを勝手にすることもあるからだ。

(略)

 タコの行動においては、人間のような動物では明確に区別されている、少なくともそのように見える要素が混ざり合っていることがあるようだ。たとえば、私たちが行動をする時、「自己」と「環境」の間の境界は通常、非常に明確になっている。

(略)

自分の意思とは無関係に動く物体が周囲に存在したとすれば、それは、その物体が自分の一部ではないという意味になる(略)。しかし、あなたがタコになったとしたら、この境界は曖昧になる。自分の腕であっても、思いどおりに制御するのは途中までで、そのあとは腕が何をするかただ見ていることになるのだ。
 だが、このたとえ話は本当に正しいのだろうか。これは、私たちの脳が私たちにとって中心をなす存在であるのと同じく、タコの脳もタコの中心をなしているという前提での話になる。おそらく、この前提が誤りなのだろうと思う。

短い寿命

寿命の短さを知ってから、頭足類の大きな脳は私にとってさらに大きな謎となった。生きるのがわずか一年、二年なのに、これほど大きな神経系を持つ必要がどこにあるのだろうか。知性のための機構を持つコストは高い。それをつくるコストも、機能させるコストも非常に高くなる。大きい脳があれば学習ができるが、学習の有用性は、その動物の寿命が長いほど高くなる。寿命が短ければ、せっかく世界について学んでも、その知識を活かす十分な時間がない。ではなぜ、学習のために投資をするのか。
 進化が大きな脳をつくる実験をしたのは、脊椎動物以外では頭足類だけだ。哺乳類も、鳥類も、魚類も、ほとんど頭足類よりはるかに長く生きる。

(略)

私が頭足類を観察していた場所の近くには、岩陰に暮らす奇妙な姿の魚がいる。この魚の近縁種の中には、二〇〇年も生きるものがいるらしい。二〇〇年だ。なんという不条理だろう。特に目立った特徴もない地味な魚が二世紀も生きるというのに、壮麗なコウイカや好奇心旺盛な知性を持つタコたちは二歳になる前に死んでしまう。 

 

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