民主主義の死に方:二極化する政治が招く独裁への道

見えにくい民主主義の崩壊

多くの場合、民主主義は見えにくいプロセスによって少しずつゆっくりと浸食されていく。
 たとえばベネズエラ(略)ウゴ・チャベスが政治エリートを「腐敗している」と激しく非難(略)[政府から無視されているという]市民の怒りを巧みに利用し、一九九八年に大統領に当選した。(略)
 公約に掲げた大改革を始めたとき、チャベスはそれを民主的に進めた。一九九九年、彼は新たな憲法制定会議を開くための自由選挙を行ない、圧倒的多数の議席を獲得した。(略)
 チャベスが独裁主義への最初の明らかな一歩を踏み出したのは、二〇〇三年になってからのことだった。その年、国民の支持が薄れはじめると、野党は大統領の罷免を求める国民投票を実施しようとした。チャベスはそれを一年後に延期し、そのあいだの原油価格の高騰を背景になんとか信任を勝ち取った。二〇〇四年、政府はこの国民投票の請願書に署名した人々をブラックリストに載せるとともに、最高裁判所を実質的に支配した。
 チャベスは次々と非民主主義的な政策を進めていった。しかし、二〇〇六年の大統領選で圧倒的な勝利を収めたことによって、民主主義という名の“上辺”はなんとか保たれていた。二〇〇六年以降、チャベス派はさらに抑圧的になり、大手テレビ局を閉鎖し、反政府系の政治家、裁判官、著名人らをあいまいな容疑で逮捕・追放し、無期限に政権を維持できるように大統領の任期制限を撤廃した。
(略)
 いま、民主主義はこのように死んでいく。今日の世界では、ファシズム共産主義、あるいは軍事政権などによるあからさまな独裁はほぼ姿を消した。
(略)
 選挙というプロセスを挟んだ民主主義の崩壊は、恐ろしいほど眼に見えにくい。(略)
 政府が明らかに“一線を越えて”独裁政権になる瞬間を特定することはできない。クーデターも起きず、緊急事態宣言も発令されず、憲法も停止されない。(略)そのような状況下では、政府の職権乱用を非難する人々はときに、大げさだと笑われたり、嘘つきのレッテルを貼られたりする。

 イソップ寓話集「馬と鹿と猟師」

馬と鹿のあいだで喧嘩が起きると、馬は猟師のところにいき、鹿を懲らしめるのを手伝ってくれと乞うた。猟師は同意し、こう言った。「鹿を倒すことを望むなら、この鉄の器具をきみの顎につけさせてくれ。そうすれば、おれはこの手綱できみを導いていける。それと、この鞍を背中に置かせてくれ。そうすれば、敵を追うときにおれがしっかりつかまっていられる」。馬がその条件に同意すると、猟師はすぐに馬に鞍と手綱を取りつけた。猟師の助けを借りた馬は、すぐに鹿を退治することができた。馬は猟師に言った。「さあ、すぐに降りて、口と背中からこいつを外してくれ」。猟師は「友よ、そんなに急ぐなよ」と笞えた。「このほうがずっといい。ハミと拍車をつけたままきみを手元に置いておくことにするよ」

致命的な同盟

カリスマ的なアウトサイダーが現われ、旧体制への抵抗によって人気を得たとき、力を失いつつある主流派の政治家たちは、その人物を自分の側に惹き入れようと考えたくなるものだ。
(略)
 一九二〇年代はじめのイタリア(略)古くからのリベラル体制が崩れようとしていた。五期にわたって首相を務めてきた老齢のジョバンニ・ジョリッティは[議席過半数確保に失敗](略)ヤケになった彼はまわりの反対を押し切り、早いタイミングで選挙に打って出た。ファシストの大衆人気を利用しようと考えたジョリッティは、始まったばかりのムッソリーニの運動を支援(略)が、この戦略は失敗に終わった。(略)彼が率いる寄せ集めの集団に正当な地位が与えられ、それがのちの台頭へとつながることになった。
(略)
[92年ベネズエラ]
若い陸軍士官のグループがカルロス・アンドレス・ペレス大統領に対するクーデターを試みた。ウゴ・チャベス率いるこの反逆者たちは、南米解放の偉大な英雄であるシモン・ボリバルにちなんで自らを「ボリバリアン」と呼んだ。
 クーデターは失敗に終わった。逮捕されたチャベスはテレビカメラのまえに現われ、支持者に武器を捨てるように告げた(「自分たちの使命はいまのところ頓挫した」という彼の宣言は後世まで語り草になった)。すると多くのベネズエラ人、とりわけ貧困層チャベスを英雄視するようになった。一九九二年一一月に二度目のクーデターが失敗したあと、投獄されたチャベスはそれまでの方針を変え、選挙を通して権力を追い求めることを決めた。そのためには、彼には助けが必要だった。
 元大統領のラファエル・カルデラ(略)の政治家としてのキャリアは終わりに近づいていた。(略)しかし当の本人は、七六歳になってもまだ大統領に返り咲くことを夢見ていた。そんな彼にとって、チャベスの登場は最後の命綱のようなものだった。チャベスがはじめてクーデターを起こした夜、カルデラ元大統領は[反体制派の理念に賛同](略)
 この見事な演説が、カルデラの政治家としてのキャリアを復活させた。チャベスを支持する反体制派の有権者たちをうまく取り込み、カルデラは国民からの支持を広げていった。そして一九九三年、彼は大統領に返り咲いた。
 カルデラから大々的に賞賛されたことによって(略)チャベスには新たに信憑性が与えられることになった。(略)
[カルデラは]半世紀近くまえに自身が設立したCOPEI党を離れ、独立候補として大統領選に出馬した。(略)
[これにより]既存の政党システムは消え去り、将来的にアウトサイダーが政治の世界に入り込むための道が拓かれることになった。チャベスがついにその道を歩いたのは、五年後のことだった。
 一九九三年当時、チャベスは(略)まだ拘置所に収監されており、反逆罪のための裁判を待っていた。ところが一九九四年、いまや大統領になったカルデラチャベスの容疑をすべて取り消した。(略)
 多くのベネズエラのエリート政治家と同じように、カルデラチャベスの人気をつかの間の流行だととらえていた(略)しかし、カルデラは大きな過ちを犯した。正式な裁判のあとに恩赦を与えるのではなく、すべての容疑をただ取り消したことによって、チャベスをクーデターの元リーダーから有力な大統領候補へと一夜のうちに変身させてしまったのだ。

アメリカの民主主義を護る門番

[トランプ以前にも]
知事時代のヒューイ・ロングは(略)賄賂と脅迫の合わせ技で州議会、裁判所、メディアを服従させた。州憲法の存在を知っているかと野党議員に尋ねられたとき、ロングは「いまは私が憲法だ」と答えた。(略)
ロングは大統領選挙に出馬する意欲をみせ(略)実際、ルーズベルトはロングのことを深刻な脅威だとみなしていた。
[ロングが暗殺され脅威は消えた]
(略)
あからさまな人種差別を唱えるアラバマ州知事のジョージ・ウォレス(略)は次のように宣言した。
憲法よりも強力なものがある……人々の意志だ。そもそも憲法とはなんだろう?それは人々が作り上げたものであり、そのもととなる動力源は人々なのだ。だから人々が望めば、憲法を廃止することもできる。
(略)
 このように、アメリカでは古くから多くの独裁主義者が活躍してきた。カフリン、ロング、マッカーシー、ウォレスのような人物が、有権者の30~40%に上る大きな少数派から支持を得るのは珍しいことではなかった。(略)
未来の独裁者から実際にこの国を護ってきたのは、民主主義を保とうとするアメリカの強い姿勢ではなく、むしろ門番として機能する政党のほうだった。
(略)
[1920年]党大会の投票で首位を走っていたのは、レオナルド・ウッド少将だった。彼はセオドア・ルーズベルトの古くからの盟友で、予備選挙では熱狂的な人気を集めており、週のはじめに行なわれた投票でトップの二八七人の代議員を獲得した。
(略)
夜中の一時、「オールド・ガード」の七人のメンバーが部屋に残り、起立投票を行なった。(略)呼び出されて部屋にやってきたハーディングは、自分が大統領候補に選ばれたと知らされてびっくり仰天した。(略)
予備選挙でわずか四%強の票しか得られなかった彼が、一九二〇年大統領選の共和党候補に選ばれたのだった。(略)
いうまでもなく、そんなのは民主主義的なやり方とはいえない。当時、大統領候補は小さな黒幕の集団によって選ばれていた。(略)煙に満ちた部屋が必ずしも優れた大統領を生み出すとはかぎらなかった。事実、ハーディング政権はスキャンダルまみれだった。しかし密室での候補者選びには、今日では忘れられがちな利点もあった――門番として機能し、明らかに不適切な人物が選挙に出たり要職に就いたりするのを防ぐことができた。
(略)
 門番の制度の起源は、共和国としてのアメリカの建国までさかのぼる。(略)
アレクサンダー・ハミルトンが心配したのは、人気投票だけで大統領が選ばれた場合、恐怖や無知を巧みに利用する人物がいとも簡単に当選し、暴君として国を支配するようになるのではないかということだった。
(略)
 そこで起草者たちが考え出したのが「選挙人団」のシステムだった。(略)
それぞれの州の地元の名士からなる選挙人団が作られ、彼らが大統領選びに最終的な責任を持つことになった。(略)
 ところが、このシステムは長くは続かなかった。
(略)
まず、大統領候補の選出方法について憲法では何も規定されていなかった。選挙人団のシステムが始動するのは一般市民の投票が終わってからであり、最初の段階で誰が大統領職を目指すかということには関知しない。ふたつ目の欠点は、憲法が政党についてまったく言及していないという点だ。
(略)
 一八〇〇年代はじめに誕生した「政党」は、アメリカの選挙システムの在り方を変えた。「選挙人団のための代議員を地元の名士から選ぶ」という起草者たちが考えた方法の代わりに、それぞれの州が特定の政党支持者を選出するようになった。そして選挙人(代議員)は政党の代理人となり、門番としての権限は政党に委ねられることになった。以来、政党がその役割を担いつづけてきた。(略)
大統領候補者を選ぶ政党には、危険な人物をホワイトハウスから遠ざけておく能力――さらには責任――が求められる。
(略)
 アメリカ史のほとんどの時期において、政党はオープンさよりも門番の役割を優先してきた。
(略)
党大会のシステムも閉鎖的で非民主主義的だと批判され、つねに改善が繰り返されてきた。一八九〇年代から一九二〇年代のいわゆる「進歩主義時代」には、予備選挙が導入された。
(略)
最終的な大統領候補指名に対して拘束力をもたない予備選挙は、美人コンテストとほとんど変わらないものだった。真の力をいまだ握っていたのは、当時「組織人」と呼ばれていた党のインサイダーたちだった。事実上、候補者にとって、組織人の支持を得ることが指名への唯一の道だった。
(略)
[ヘンリー・フォードは自分の新聞で]銀行家、ユダヤ人、ボルシェビキを激しく非難し、ユダヤ人銀行家たちがアメリカヘの陰謀を企んでいると煽る記事をたびたび掲載した。フォードの思想は世界じゅうの人種差別主義者から賞賛された。アドルフ・ヒトラーは『我が闘争』のなかでフォードの名前を出して褒め称え(略)ナチス政府はフォードに大十字ドイツ鷲勲章を贈った。
(略)
「大成功を収めた貧しい農場の男の子」「歯に衣着せぬ物言いの実業家」として地方に住む多くのアメリカ人に国民的英雄と崇められ(略)
一九二四年の大統領選に(民主党から)立候補することを検討しはじめた。(略)
[他候補を抑え一番人気だったが]
党幹部たちはフォードを激しく拒絶した。(略)
実質的にフォードは競争から締め出されていた。(略)
「訓練も経験も積んでいない六〇過ぎの素人が、大統領選に出るって?」とジェームズ・カズンズ上院議員は言った。「そんなバカげた話はない」
(略)
[暗殺されたロングが仮に出馬していたとしても]おそらくフォードと同じように政党の門番によって道を閉ざされていたにちがいない。
(略)
[68年ロバート・ケネディの暗殺で分裂状態になった民主党党大会、インサイダーたちは予備選挙にも出ていなかったニューバート・ハンフリーを候補に推した。シカゴ党大会へと向かうデモ行進を警察官が攻撃、流血の惨事はテレビ中継され、拘束力のある予備選挙のシステムが導入された]
新しい指名制度では、党のエスタブリッシュメントの承認を経る必要はなくなった。アメリカ史上はじめて、党の門番たちが骨抜きにされ、さらには打ち負かされる可能性が出てきたのだ。

 独裁者リトマス試験紙

トランプはまだ就任前にもかかわらず、本書で示した独裁者リトマス試験紙の四つの基準のすべてで陽性反応を示した。
 ひとつ目の兆候は、「ゲームの民主主義的ルールを軽視する姿勢」だ。(略)米国で不正投票が起きる割合はきわめて低[いのに](略)選挙期間を通してトランプは、選挙人名簿に登録された何百万人もの不法移民や死亡者がクリントン候補のために動員されていると主張した。(略)
「インチキ者のヒラリーによる選挙の不正操作を止めるために、私を助けてくれ!」。(略)
最後の大統領候補討論会の席でもトランプは、敗北したときには結果を受け容れない可能性があることを示唆した。
 歴史家のダグラス・ブリンクリーによると、一八六〇年以来、有力な大統領候補が民主主義の制度についてこのような疑問を投げかけたケースは一例もないという。南北戦争以前の段階までさかのぼらなければ、メジャーな政治家が「連邦政府の正当性を認めない」などと訴えた例はなかった。(略)トランプの言葉には、きわめて大きな影響力があった。(略)有権者の四一%(共和党支持者の七三%)が、選挙の勝利が不当にトランプから奪われる恐れがあると答えた。
(略)
リトマス試験のふたつ目のカテゴリーは、「対立相手の正当性の否定」だ。独裁的な政治家はライバルに犯罪者、破壊分子、非国民というレッテルを貼り、彼らを安全保障や現在の生活に対する脅威だとみなそうとする。トランプはこの基準も満たした。まず、「バーサー」の動きに賛同した彼は、バラク・オバマケニア生まれのイスラム教徒だと主張することによって、大統領としての正当性を疑問視しようとした。結果として、トランプ支持者の多くがオバマを「非アメリカ人」と位置づけるようになった。(略)[ヒラリーにも犯罪者の烙印を押し]決起大会で支持者が「クリントンを投獄しろ!」と叫び出すと、トランプが拍手で応える場面もあった。
 三つ目の基準は「暴力の許容・促進」。(略)これまで一〇〇年のあいだ、アメリカの主要政党の大統領候補者が暴力を支持したことはなかった(略)。選挙期間中、彼は支持者による暴力行為を認めただけではなく、ときにそれを歓迎するかのような態度をとった。(略)抗議者に肉体的に危害を加えた支持者をトランプは擁護した。それどころか、危害を加えることを奨励した。
(略)
 「誰かがトマトを投げつけようとしているのを見たら、そいつを叩きのめしてしまえ。いいかい?私は本気さ。とにかく、ぶっ倒すんだ。裁判費用は私が支払うことを約束する。必ずね」(略)
 「むかしはよかった。ああいう輩がこういう場所に来たら、むかしはどうなっていたと思う?担架で運び出されていただろう。そうさ……顔を殴ってやりたいね、まったく」(略)
 「出ていけ、出ていけ!いますぐ!これはすばらしい。なんて愉しいんだ。最高だな。最高だ。みんなも愉しんでいるかい?USA!USA!USA!そうだ、そいつをつまみ出せ。傷つけないようにしてくれよ。まんがいち怪我をさせてしまっても、裁判では私がきみを弁護する。何も心配しなくていい……(略)
ポリティカリー・コレクトの行きすぎにはもううんざりだ。なあ、みんな、そうだろ?」
(略)
 独裁者を見きわめる最後の基準は「対立相手や批判者の市民的自由を率先して奪おうとする姿勢」である。(略)
選挙のあとに(略)ヒラリー・クリントンは刑務所送りになるべきだと言い放った。
(略)
トランプが基本的な民主主義の原則を脅かそうとしたなら、共和党はそれを止めなければいけなかった。(略)
[それには]想像を絶する行動が必要だった――ヒラリー・クリントンを支援する。(略)
[2016年オーストリア保守派は緑の党を支持することで極右候補を阻止、2017年のフランスでは敗退した保守派が中道左派マクロンへの投票を促し、極右候補を退けた]

民主主義を破壊する

ペルーのアルベルト・フジモリははじめから独裁者になろうとしていたわけではなかった。彼は大統領になるつもりもなかった。日系二世の無名の大学総長だったフジモリは(略)上院選のための宣伝になると考え、大統領選挙に出ることを決めた。(略)[既成政党にうんざりしていた有権者が無名候補に惹かれ]フジモリへの支持率が突如として急上昇した。(略)
フジモリは一回目の選挙で二位に入り、国民的作家マリオ・バルガス・リョサとの決選投票に駒を進めることになった。[リョサは]ペルー国民に敬愛されていた。(略)しかしペルーの一般市民たちは、自分たちの懸念に耳を貸そうとしないエリート層とバルガス・リョサが近い関係にありすぎると感じていた。フジモリはポピュリスト色の強い演説を繰り返し、この大衆の怒りをうまく利用した。
(略)
 フジモリ政権は前途多難なスタートを切った。就任から数カ月にわたって、議会ではすべての法案が却下された。(略)フジモリは、議会のリーダーたちと交渉する代わりに、彼らを「非生産的なペテン師」と呼んで厳しく非難した。(略)議会の承認を得る代わりに、大統領令を出して政策を進めるようになった。(略)
大手企業の幹部たちをまえにしたスピーチのなかで、フジモリは次のように疑問を投げかけた。「われわれの国はほんとうに民主主義国家だろうか?……私としては、簡単にイエスとは答えられない。じつのところ、この国をいつも支配してきたのは誰だ?力の強い少数派、寡占企業、派閥、圧力団体ではないだろうか」
 警戒したペルーのエスタブリッシュメントは反撃に出た。フジモリはあるとき、テロリストを収監する余裕を作るために、裁判所の許可なしで数千人もの軽犯罪者を釈放した。これに対し、全国裁判官協会は「甘受しがたい反民主主義的な独裁政治」だと強く非難し、裁判所はフジモリの大統領令のいくつかに違憲の判断を下した。続けて、反対派はフジモリを「独裁主義者」だと糾弾し、メディアは彼を「日本の天皇」と形容しはじめた。一九九一年はじめには、弾劾の話まで持ち上がった。(略)
 包囲網を張られたと感じたフジモリは、倍返しの構えで応戦した。大手企業幹部に向けた演説のなかで、彼はこう宣した。「残っているタブーをすべてぶち壊すまで私は止まらない。ひとつずつ壊してみせるよ。いまこそ勇気を振り絞って、この国の進歩を妨げてきた古い壁をすべて打ち破らなくてはいけない」。(略)
[対立は激化し]
 結局、大統領が議会を殺した。一九九二年四月五日、フジモリはテレビを通して議会の解散と憲法改正を発表。まさかの当選からわずか二年もたたないうちに、当初は勝ち目のほとんどなかったアウトサイダーが暴君に変わった。
 選挙で選ばれた大衆扇動家のなかには、独裁のための青写真を描いたうえで就任する者もいる。しかし、フジモリのようにそうではない者も多い。民主主義の崩壊に青写真は必要ない。むしろペルーの経験が示すのは、予期せぬ出来事の積み重ねの結果として民主主義が崩壊するということだ。つまり、規範を破壊する扇動的な指導者と、脅威を感じた既成勢力とのあいだの報復合戦がエスカレートしたようなときだ。
 崩壊への流れは言葉から始まることが多い。(略)ウゴ・チャベス(略)は対立相手を「腐った豚」「卑劣な寡頭政治家」と罵った。大統領になったフジモリは批判者を「敵」「裏切り者」と呼び、対立相手をテロリズムや麻薬密売に結びつけた。イタリアのシルビオベルルスコーニ首相は、敵対的な裁判官を「共産主義者」と批判した。(略)
もし一般の人々が「反対派がテロリズムと結びついている」「メディアが嘘を広げている」という考えを受け容れるようになったら、反対派やメディアヘの対抗措置がより正当化されやすい状況が生まれてしまう。

 次回に続く。