ブライアン・ウィルソン スマイル・その3

前回の続き。

スマイル

スマイル

のちの、スリー・ドッグ・ナイト

[ダニー・ハットンらのグループをブライアンがレッドウッドと命名]
不幸にも、このレッドウッド・セッションも、ブライアンに音楽的追求を許さない、ビーチ・ボーイズの閉塞主義の犠牲となってしまった。(略)
[仕上げ寸前にツアーから戻ってきた]マイク・ラヴは僕らを家の外に呼び出すと、こう言った。『いいか。これからは僕らがスタジオを使わなきゃならない。君たちがレコーディング中なのは知ってるが、僕らもアルバムを完成させなきゃならないんだ。君たちのシングルを終わらせたければ、それだけは許すよ。』」
(略)
 『スマイル』を亡きものにしてしまった陰湿な空気が、ブラザー・レコードまでをも亡きものにしようとしていたことについて、チャック・ネグロンは自伝『スリー・ドッグ・ナイトメア』の中でかなりのスペースを削いて説明している。「ビーチ・ボーイズがブライアンの言うことに耳を貸し、僕らと契約していたら、もう何百万ドルという印税分を儲けていたはずだ。」
(略)
「[マイク・ラヴがやってきた]途端、空気が変わった。僕にはマイクはとても高圧的で利己的な男に見えた。(略)僕は場を和やかにしようと思い、マイクが着ていた高額そうなカシミアのコートを褒めた。『素敵なコートだね』と。するとマイクは僕の方を向き、人を見下したような口調でこう言った。『君も正しいことをやり続けていれば、もしかすれば、こういうのが買えるようになるかもしれないさ。』」
(略)
 「マイク・ラヴとカール・ウィルソンとアル・ジャーディン(略)はブライアンをコントロールブースに連れて行くと、とことんやりこめた。それはとても残酷で悲しい光景だった。ダニーもコーリーも僕もスタジオにいたので、ガラス越しにすべてを見ていた。ブライアンは幼い子供のように萎縮していた。口調は穏やかで声も荒げてはいなかったが、内容は感情的で厳しいものだったに違いない。喋るのは彼ら。子供を押さえ込み、支配しようとする親のようだった。ブライアンが動こうとすると、前に立ちはだかり、逃げさせまいという感じだった。会話は聞こえなかったが、もし読唇術ができたなら『あんな奴らのことはどうでもいい。あの曲が欲しいんだ』とでも言っていたのだろう。ブライアンは今にも壊れそうに見えた。ブースから出てきた彼の頬には涙がつたい、うなだれ、肩をがっくりと落としていた。親にこっぴどく叱られたあとの子供みたいに。(略)彼は泣きながら僕らに言った。『続けられなくなってしまった。曲を彼らに渡さなきゃならない。彼らは家族だ。僕は家族の面倒を見ないと。その彼らがあの曲が欲しいというんだ。君たちがアルバムを作り終えたいならいくらでも金を出す。でもプロデュースはできない。彼らがそれを許してくれないんだ。』」
[レッドウッドはその後、スリー・ドッグ・ナイトとしてヒットを連発。]

セレブレイト?スリー・ドッグ・

セレブレイト?スリー・ドッグ・

サーフズ・アップ

[ラジオドキュメンタリー『アース・ニュース』でブライアンは]
「1967年初め、僕は《スマイル》とタイトルをつけたアルバムを作ろうとした。ヴァン・ダイク・パークスという男と共同で、僕が作曲を担当した。その過程で〈サーフズ・アップ〉という曲が書けた。僕はそれをピアノ一台でロックに関するドキュメンタリー番組で演奏した。そのドキュメンタリーで歌った〈サーフズ・アップ〉はアルバムに入ることはなかった。そのほかの曲もガラクタ同然になってしまった。なぜなのかはわからない。わからないが、アルバムに入れたくないと(僕たちは)思ったんだ。グループは解散してしまうところまでいき、実際、それ以降はばらばらになってしまったんだ。」

移籍

あいかわらずツアーは忙しかったが、もはや彼らを歓迎するのは『ぺット・サウンズ』でビーチ・ボーイズのことを知ったヨーロッパのオーディエンスくらいなもの。プログレッシヴなロック全盛のアメリカにおいて、『スマイル』をお蔵入りにし、モンタレー・ポップ・フェスティヴァルも辞退してしまった彼らには、甘ったるいバブルガムミュージックのイメージしか残っていなかった。(略)
キャピトルとの契約終了後も、彼らを引き取ろうとするレーベルはなく、CBS、MGM、ポリドール、ドイツ・グラモフォンから断られてしまう。金銭的にも底をついたマーリー・ウィルソンはほとんどダダ同然の金額で(しかもブライアンの許可なしに)、旧作の出版権をキャピトルに売り払ってしまった。1969年当時にしてわずか70万ドル。2004年の価値に換算すれば、2500万ドルはくだらなかったにもかかわらず!
(略)
[どん底ビーチ・ボーイズを救ったのは、ワーナーのA&Rを任されていたヴァン・ダイク・パークス]
 キャピトルは契約上最後となるこのアルバム制作のために、ビーチ・ボーイズに金を渡していた。しかし実際にその金で彼らが作っていた曲は、ワーナー・ブラザーズ移籍後に出る『サンフラワー』に収められることになった。(略)そのうち何曲かは、ワーナーからの二枚目『サーフズ・アップ』にまで持ち越された。
(略)
ライヴではブライアンが最も実験的だった時期に生まれた曲が数多く演奏されるようになった。(略)
1967年夏、もしモンタレー・ポップ・フェスティバルに彼らが出ていたら、演奏したであろう内容と同じだった。
[それにより評判も上がり]ついに「サーフズ・アップ」がリリースの運びとなる。
 ヴァン・ダイク・パークスはこの180度の方向転換を聞き、こうコメントした。「当時、僕はクビにされたんだ。というより、ビーチ・ボーイズとの関係を解消し、自分から辞めたんだ。それから七年経って、彼らは〈サーフズ・アップ〉をリリースしたわけさ。」
(略)
[ブライアンの曲が1曲だけの『オランダ』]
「A&R会議の場でモー・オースティンは《オランダ》を〔リリースしかねる〕と言い切ったんだ」とヴァン・ダイクは言う。
「モーは僕に言った。『ブライアン(が参加すること)を保証してくれるかな?』僕は『もちろん!』と答えた。(略)
[ブライアンが《オランダ》に関わっていないことがモーにわかっていた]
そこで僕は『家にあるテープがきっと役に立つと思う』と提案したんだ。翌週、提出されたその曲に彼らは大喜びだった。『最高だ!これだよ!』とね。」
[73年に発売された「セイル・オン・セーラー」はロサンゼルスでは一種のアンセムソングとなった]
(略)
69年に交わしたワーナーとの契約の中で、ビーチ・ボーイズは『スマイル』を早急にリリースするための前払金として5万ドルを保証されていた。実際、『スマイル』があったから、彼らは契約にありつけたのだ。(略)
 アルバム三枚分の新作と呼べる作品をワーナーからリリースしたのち、カール・ウィルソンとエンジニアのスティーヴン・J・デスパーは『スマイル』のテープを組み立てて、アルバムにしようという勇気のある行動に出た。(略)
しかしブライアンにとっては、そう簡単に割り切れる問題ではなかった。(略)
[発表のタイミングを逃し]
『スマイル』の興奮は、とっくの昔にどこかへ消えてしまっていたのだ。70年代に入り、ブライアンはその思いをこんな哲学的な言葉で言い表している。
「僕らのルネッサンスは訪れているはずだ。間違いなく。」
 何もかもが気に入らない。ブライアン・ウィルソンはついにワーナー・ブラザーズとの契約に終止符を打った。

ダム・エンジェル・ガゼット

 僕を含めたダム・エンジェル・ガゼットの編集者たちが好んだのは(略)『ペット・サウンズ』と『スマイル』期(略)ラモーンズキース・ムーンにも通じるサーフィン期
(略)
[95年、ブライアン・ウィルソン・トリビュート・コンサート]
ダリアン・サハナジャ、ニック・ワルスコ、プロビン・グレゴリーによるワンダーミンツがステージに立った。ダム・エンジェル・ガゼットのスタッフである三人は本業のミュージシャンとして、「ザッツ・ノット・ミー」を演奏した。「サーフズ・アップ」の演奏にさしかかった時、ブライアンが旧友であるロドニー・ビンゲンハイマーに付き添われて楽屋に戻る途中、偶然、彼らの演奏を耳にした。ブライアンは言った。
 「もし66年当時にあいつらがいたら、《スマイル》のツアーをできたのにな。」
 自分が書いた曲の中でもとりわけ難しいとされる曲が、これほど見事に演奏されたことは、ブライアンの心を解くきっかけになった。やがてワンダーミンツブライアン・ウィルソンにその才能を認められ、彼のツアーグループの重要な一角を担うことになる。
 ワンダーミンツにとって、そこにたどり着くまでは長い道のりだった。ダリアンとニックは80年代初めから、『ぺット・サウンズ』に影響された音楽を自宅のガレージでつくり続けてきた。

スマイル DVD

スマイル DVD

『スマイル』再構築

 2003年から2004年にかけて進められた『スマイル』再構築のプロセス。なかでも最も興味深かったのは「ドゥ・ユー・ライク・ワームズ」の歌詞を完成させる作業だった。(略)ダリアンはフランク・ホームズがこの曲の歌詞を手渡されたという話を噂で聞いて知っていた。
(略)
 「ブライアンがあのセクションをあのままにしておくわけがない、とずっと感じていたんだ。ブライアン・ウィルソンを聴き続けてきた者として、どうもしっくりこなかった。そこで曲を全部通して演奏した時、僕は彼の反応を注意深くチェックしていた。顔の表情とか。そしてこの曲にきた時、単刀直入にこう聞いたんだ。『ブライアン、このセクションには何か入れる予定があったのかな?」(略)最低限の抵抗を示す、いつもの反応が返ってくるのかと思っていた。すると驚いたことに、こんな答えが返ってきたんだ。『ああ、ここにはインド風のチャントとメロディがあったんだ。』」
(略)
[デヴィッド・リーフに連絡し資料を収集]フランク・ホームズがイラストを描く際のベースにしたという手書きの歌詞のコピーもあった。書かれたのは1966年。
(略)
ブライアンが『OK、じゃあ、もう一度曲を演奏してくれ』と言ってメロディを口ずさみ始めた。すごくクールなリズムだった。そこで僕は歌詞カードを取り出し、ブライアンに見せた。ブライアンは僕の手からそれを奪い取ると、じっくりと読んでいた。僕は座っていた椅子の手すりを思わず握り締めた。すると彼が歌いだしたんだ。歌詞の最初の部分にメロディをつけて。身震いがしたよ。」
(略)
ところが一箇所、どうしても読めない言葉がある。(略)するとメリンダが『ヴァン・ダイクがわかるかも』と言ったんだ。するとブライアンはすたすたと電話のところにいき、番号をかけ始めた。彼はヴァン・ダイクの電話番号をそらで暗記してたんだよ!『やあ、ヴァン・ダイクか?ブライアンだ。〈ドゥ・ユー・ライク・ワームズ〉っていう曲があっただろ?』(略)『beaded chering と behind の間の言葉は何だ?』
(略)
ブライアンは体を前後に揺らし、膝を叩き、曲に入り込んでいた。シンプルだがトリップ感のある音楽。僕は完全に圧倒されてしまっていたよ。(略)[15分後]ヴァン・ダイクに電話を入れると、さっきメールしたという。数分後、メリンダがプリントアウトしたメールを持ってやってきた。それによれば、抜けている言葉は Indians だという。やった!完璧につじつまも合う。翌日[ブライアンに調子を訊ねると](略)『いいよ。ヴァン・ダイクが15分後に来るよ。』」
 「ドゥ・ユー・ライク・ワームズ」を覆っていたベールが外れたことで、ついにブライアンは『スマイル』のプールに飛び込む勇気を持てたのだ。
(略)
僕の本心としては、ヴァン・ダイクが関わってこそ、《スマイル》は《スマイル》に成り得ると考えていたから、当然、興奮したよ。これでオフィシャルなものになる、とね。

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