ブライアン・ウィルソン スマイル ドミニク・プライア

スマイル

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モダンなサウンド

 ブライアン・ウィルソンのお気に入りだったフォー・フレッシュメンとハイ・ローズは、モダンジャズのコーラスワークをおおいに取り入れていた。その分野の第一人者、ランバート・ヘンドリックス&ロスのサウンドは、ブライアンが作っていたごく初期の音楽にも織り込まれている。リヴァーブを効かせたサーフギターに、モダンジャズの語法を取り入れたヴォーカル。(略)
「〈グッド・バイブレーション〉はモダンだった」とブライアンもかつて、テレビのインタヴューで答えている。「とてもモダンなサウンドのレコードだったんだ」

「サーフィンUSA」

ロスの男子高校生の会話のほとんどを占めていたのは、サーフィンとスケートボード、スキー、そしてカスタマイズされたホットロッドに関する話題。野球やフットボールといったアメリカの主流スポーツの比ではない。(略)特に、サーファーにはどこかアウトサイダー的なところがあり、フットボールの試合にみられるようなマッチョなメンタリティはなかった。(略)
決定的な瞬間が訪れたのは、ブライアンのこんな素朴な問いだった。
 「もしアメリカ中に海があったなら、誰もがカリフォルニアみたいにサーフィンをやれるのに。」
 ブライアンはチャック・ベリーの「スウィート・リトル・シックスティーン」を土台に残りの曲を仕上げた。そこで歌われるのはバギーな水着、メキシコ製の網革サンダル、そして一日中水に入ったあと、自然乾燥してボサボサの長髪(それはサーフィンをしなかったブライアンと違い、本物のサーファーだった弟デニスそのものだった)。そこで描かれるエキゾティックな楽園の風景は全米の若者の心をとらえた。

サヴァイヴァー

 この頃、すでに作曲とレコーディングにしか関心がなくなっていたブライアンは、ビーチ・ボーイズの夏のツアーには参加しなかった。その間、ブライアンは一人、ビーチ・ボーイズのサードアルバム『サーファー・ガール』を録音していた。その陰には、「リトル・デュース・クーペ」でドラムを叩いたハル・ブレインらスタジオミュージシャンの力があったが、実はサヴァイヴァーズも一役買っていた。(略)
このヒット曲満載のLPのヴォーカルパートの多くは、ツアーで不在のビーチ・ボーイズに代わり、サヴァイヴァーズのメンバーによって歌われていたのである。彼らのハーモニーはあまりに完璧すぎた。(略)
サヴァイヴァーズのシングル「ウィッチ・スタンド」は、〔あまりにビーチ・ボーイズに似すぎている〕との理由から、キャピトルがリリースを控えたほどだ。唯一「パメラ・ジーン」だけがリリースされたが、それでさえ、ディオン&ザ・ベルモンツにそっくりだった。

音楽ではなくメッセージ

 「レコード業界が変わっていくことを示した二枚のレコードが出た」とヴァン・ダイク・パークスは言う。
 「一枚はボブ・ディランのファースト。そしてもう一枚はイギリスのグループ、ローリング・ストーンズが発表した《12×5》だ。音楽の将来を考えていた者にとっては大きな衝撃だったよ。そこから鳴っていたのは堅苦しい音楽ではなく、メッセージだった。そのメッセージに多くの人間が共感したんだ。カウンターカルチャー的な資質があったことも共感を呼んだ理由のひとつだが、それ以上に音楽的な可能性があった。僕にもそれはわかったし、音楽に詳しくない者でも音楽と一体になることができた。なぜなら、その本質は音楽ではなくメッセージだったからだ。媒介ではなく、メッセージだった。その後、才能のある者がどんどん現れるようになったが、最初は彼らもメッセージに興味を持っていたんだ。」(略)
『ザ・TAMIショウ』の頃までには、明らかに時代は変化していた。しかもものすごいスピードで。その年の初めにはビートルズアメリカを席巻
(略)
 ワトゥーシとは、フルーグ、マッシュポテト、サーファーストンプといったロックンロールのダンスが規則に縛られないフリースタイルになる以前のあらゆるダンススタイルを、もっと過激で手に負えなくしたようなものである。ロス一帯のガレージバンドの多くは、ローリング・ストーンズの自由奔放な無秩序さを真似るようになっていた。そこにボブ・ディランのプロテストソングとビートルズのポップさをかけあわせた、フォーク界の脱落者たちによる新たなバンドも生まれようとしていた。ザ・バーズである。
 ビーチ・ボーイズ初のナンバーワンシングル「アイ・ゲット・アラウンド」のこんな一行が、1964年という年の制御のない奔放さを要約している。
 〔同じ通りを行ったり来たりじゃうんざりだ/ヒップな連中が集まる新しい場所をみつけなきゃ〕。(略)
保守的だった50年代の規則や制約はあっという間にとりはずされた。
(略)
[だがビーチ・ボーイズはパパが選んだキャンディストライプのシャツ]
新しい時代が迫っている今、グループはそういったイメージから脱却すべきギリギリのところに立たされていることに、ブライアン・ウィルソンは気づいていた。だからこそ彼は『ザ・TAMIショウ』の映画上映から半年後、ビーチ・ボーイズのパートをカットさせた。古いイメージを繰り返し映し出されることを嫌がったのだ。

トニー・アッシャーとテリー・ギリアム

「グッド・バイブレーション」の歌詞は、『ペット・サウンズ』収録曲の大半同様、ブライアンとトニー・アッシャーの共作だ。トニーは当時、カーソン・ロバーツ社で広告用ジングル曲を書くコピーライターだった。
 「カーソン・ロバーツは才能のある人材を数多く育てた会社だった」とアッシャーは言う。
 「たとえば、アートディレクターには『空飛ぶモンティ・パイソン』に携わる以前のテリー・ギリアムもいた。世間は彼が突如として、あの独特の切り抜きアニメーションで出てきたと思っているだろうけどね。ものすごい長髪だった。60年代、広告代理店に勤める人間だということを抜きにしても、あそこまで長い髪をしてたのはテリーくらいだった。持って生まれた才能というか、天才的だったが、どこか得体の知れないところがあった。でも楽しい奴だった!仕事は本当に楽しかったよ。」

進歩したR&B

『ペット・サウンズ』が抱える陰鬱な世界。長いことそんな闇と向き合ってきたブライアンにとって、「グッド・バイブレーション」が出来たのはごく自然な反動だったのかもしれない。実際、ブライアンは彼なりのR&Bナンバーを作り上げたのだ。ブライアン自身、プライスに「どこかR&Bだけどモダンな曲を作りたかった。<グッド・バイブレーション>は進歩したリズム&ブルースだ」

セレブレイト?スリー・ドッグ・

セレブレイト?スリー・ドッグ・

Danny Hutton "Funny How Love Can Be"

ダニー・ハットン

ソウルフルなポップシンガー、ダニー・ハットンにこの曲[<グッド〜>]を歌わせ、レコーディングさせることにした。(略)
 「本当のところ、ブライアンが何を考えていたのかはわからないが、とにかくそのテープを持って帰れと言われた。(略)
彼の家へ行き、信じられないような、素晴らしい音楽のエネルギーにすっかり引き込まれてしまった。ブライアンは『中に入って。僕が今つくっている音楽を聴いてほしいんだ』と言ってくれた。そんな風に始まったんだよ。」
(略)
[ダニーの]「ファニー・ハウ・ラヴ・キャン・ビー」はキーチェンジを繰り返し、ヴォーカルの巧みなトリックを織りこんだ実験的な曲だ。まさにブライアンが作りたいと思っていたレコードだったのだ。
 「RCAでの(〈ファニー・ハウ・ラヴ・キャン・ビー〉の)セッションにはザッパがやってきたよ」とハットンは当時を振り返る。
 「曲を聴いた瞬間、彼の頭の中の電球がピカッと光ったんだ。曲を聴けばわかるとおり、紛れもないザッパ・ワールドだ。当時の彼のグループはドゥワップ/ブルース風のグループだった。最初、僕はラヴィン・スプーンフルみたいなオートハープを弾いていた。いろいろと試しているうちに、オープンコードを鳴らしてから押さえると、すごくいい感じの反響音が残ることに気づいたんだ。〈ア・ハード・デイズ・ナイト〉に触発されたというのもあるよ。あのオープニングの〔ジャ〜ン〕というコードさ。そんな時、アイヴィ・リーグのゆったりとしたきれいなバラードをみつけたので、自分なりに手を加え(略)B面の〈ドリーミング・イズント・グッド・フォー・ユー〉ではスティーヴン・スティルスがバックでコーラスをつけているんだ。」

デレク・テイラー

 「ダニーはMGMで働いていて、(ディランのプロデューサーである)トム・ウィルソンと、ダニーの広報官だったデレック・テイラーに引き合わせてくれたんだ」とヴァン・ダイク・パークスは言う。(略)
ダニーは最高の男だ。ヴォーカルをトリプルトラックで多重録音したのは彼が初めてだったよ。メアリー・フォードとレス・ポールが何年も前にやっていたのは例外にしてね。」
 「デレックはビートルズとの仕事を辞めた直後で、9000サンセット・ブルヴァード・ビルディングに事務所を構えていた。ヒップで、常にみんなの注目の的だった」とハットンは言う。
 「ちょうどバーズを獲得し、前途洋洋としていた頃だ。本当に信じられないくらい魅力的な男だった。すごいやつだったよ。」
 クロウダディ誌の編集者だったポール・ウィリアムズは、60年代なかばの音楽業界におけるデレック・テイラーの活躍を目撃した一人だ。
(略)
 「ビートルズの元を離れ、ロサンゼルスにやってきた彼は広報業務を請け負う会社を設立したんだ。実に画期的なことだったよ。バーズやビーチ・ボーイズをそれまでのヒットシングル中心の客層でなく、違う客層にまで広める上でデレックの力は大きかった。当然、彼らがイギリスで大成功できたのも彼のおかげだ。
(略)
 父親マリー・ウィルソンの昔ながらのやり方から、サンセット・ストリップの自由な空気の中から生まれた新たなマネージメントへと、ブライアンの関心が急速に移っていったのにはダニー・ハットンの存在が大きかった。

スタジオのモザイク

 1966年のこの段階で、各スタジオが本来備えているサウンドの個性をブライアン・ウィルソンがすっかり熟知していたことは驚きだ。
(略)
 サンセット大通り6650番地にあるサンセット・サウンドウォルト・ディズニーのために指揮者テュティ・カマラータが建てたスタジオだ。タートルズが「ハッピー・トゥギャザー」を録音した他、ドアーズ、セルジオ・メンデス&ブラジル66、そしてバッファロー・スプリングフィールドの「フォー・ホワット・イッツ・ワース」もここでレコーディングされた。ブルース・ボトニックという有名エンジニアを抱え、ディズニー映画『ファンタジア』のようなサウンドを求める者には最適だった。
 一方、シネラマドームの向かい、サンセット大通り6363番地に建つRCAミュージック・センター・オブ・ザ・ワールドはどこよりも精緻を極めたレコーディング機材を備えていた。そしてローリング・ストーンズの「ラスト・タイム」、「サティスファクション」、「黒く塗れ」やバーズの「霧の8マイル」のサウンドを手がけた、業界きっての実験的エンジニア、デイヴ・ハッシンガーを抱えていた。スタジオは大きな洞穴のようで、天井に近い壁はオーケストラ音の衝突を防ぎ、緩和するデザインになっていた。(ヘンリー・マンシーニがRCAで残したレコーディングの数々を想像するとよい。)
(略)
 しかしなんといっても、一番目立っていたのはゴールド・スターだろう。サンタモニカ・ブルヴァード6262番地に建つこのスタジオをおおいに気に入り、有名にしたのは、他ならぬフィル・スペクターだった。オーナーであるデイヴ・ゴールドとスタン・ロスの方針によって科学的にデザインされた独特の反響音。それを駆使するエンジニアはラリー・レヴァーン。(この反響音を理解するには、ザ・フーの名をアメリカで一躍有名にした「アイ・キャン・シー・フォー・マイルズ」の、フェイドアウトするヴォーカル・パートを想像してほしい。)
(略)
 ゴールド・スターで録音された最も音数の少ないレコーディングとしては、エディ・コクランの「サマータイム・ブルース」や「サムシング・エルス」などを想像してほしい。(略)
そしてハーブ・アルパート&ティファナ・ブラスの「カジノ・ロワイヤル」。静かなスタートからクライマックスを迎えるフィナーレまで一貫したクリアなサウンド。どんな時も、音と音の間の空間を保ちながらも親近感があり、ダイナミックなサントラのレコードに不可欠なファンタジーという要素も決して失っていない。
(略)
 ブライアンには建物を見ただけで、そこがどんなサウンドのスタジオなのかがわかった。そうやってそれぞれのスタジオの音をミックスして、一種の音のモザイクを作り上げた。「グッド・バイブレーション」はハリウッドのダウンタウンが訪る最高峰スタジオの数々によって紡ぎ出された音のタペストリーの最たる例といえる。
(略)
 「〈グッド・バイブレーション〉は昔ながらのやり方で作った。五つか六つのスタジオをフル活用してね。〔あ〜彼女が着てるあのカラフルな服が好きなんだ〕という部分の録音はゴールド・スター、〔僕はグッド・バイブレーションを感じてる〕という部分の録音はコロンビア・スタジオだった。その間、マイク・ラヴが素晴らしくポップな歌詞を書き、50年代R&Bハーモニーグループ風の低音パートをつけてくれた。〔僕はグッド・バイブレーションを感じてる、彼女が僕を興奮させるんだ〕というくだりだよ。リフがどんどんキーチェンジをしていき、動きのある曲だった。」
 「まさにポケット・シンフォニー!すべてが変則的だった。ここで変わったと思ったら、また変わり、さらに変わる。ここでハーモニーを乗せろ、この声は消せ、ここで入ってこい、このエコーを上げろ、ここでテルミンだ、このチェロはもう少し大きく!と……人生最大のビッグ・プロダクションだったよ!」
(略)
 「これだと思えるものが出来た時のことは忘れられないよ」とブライアンは興奮気味に語る。「そういう時は、モノラルにダビングしている段階でそれがわかる。その美しさに、体中が快感で震えるんだ。」
 「グッド・バイブレーション」が1966年10月のリリースを迎えるまで、レコーディングには七ヵ月が要された。一曲に対してこれほど詳細にこだわったレコードは、クラシック、ジャズ、インターナショナル、サントラを含め、どんなジャンルにおいても前代未聞といえた。リスクは大きかった。ポップス界では創造性があり、アーティスティックな作品が流行になりつつあった。
 「ビーチ・ボーイズが若者の望む音楽を提供していないことに突然気づいたんだ」とブライアンは1966年、ニューヨークのGO!誌に語っている。
 「レノンとマッカートニーがその新しいサウンドで若者の心を騒がせていた時、僕らは同じ場所から動かずにいた。そこで僕はビーチ・ボーイズにいつまでも失われないような魅力的なサウンドを与えたいと思ったんだ。」 グループにとっての音楽的発展。その道を開いたのは間違いなくビートルズだった。ブライアンはビーチ・ボーイズにもビートルズと同様、どんな変化にもついてきてくれるオーディエンスが欲しかった。

次回に続く。
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