音楽を迎えにゆく 湯浅学 チャールズ・マンソン

音楽が降りてくる 湯浅学 細野晴臣 - 本と奇妙な煙)の姉妹書。

音楽を迎えにゆく

音楽を迎えにゆく

  • 作者:湯浅 学
  • 発売日: 2012/02/17
  • メディア: 単行本

Eden's Island

Eden's Island

  • アーティスト:Ahbez, Eden
  • 発売日: 2005/01/04
  • メディア: CD

耳で見ろ目蓋の裏側で聴け

サイケデリック・ロック

ロックに意識拡張のメッセージ/表現が如実に含有される以前から、すでに意識拡張(サイケデリック)は、音楽、文学、映画、美術、各方面で多彩な展開によってもたらされていた。ビートニクの人々は、後のヒッピー以上の厭世観や虚無感を持って意識拡張を試みていた。彼らの多くは連帯感などとは無縁だった。修行僧のようでさえあった。ドラッグは社会変革の道具というより、精神的加速剤だった。ビートニクたちの発言や活動はアナーキーであることが平等主義に繋がるとの思考を喚起させた。彼らはいずれも孤独なボヘミアンたろうとした。誰もが自分自身の意識拡張、精神的変容における自由を自己管理すべきであり、ドラッグは大衆にとって開かれたものとして指導されるべきだ、とビート詩人のアレン・ギンズバーグは考えていた。
 意識拡張という面で、ビートニク世代に生み出された音楽には前例のないものがいくつもある。“クール”な感覚とも別の、異形の詩情が突然提出された。
 たとえばイーデン・アーベッズの『Eden's Island』(60年)。マンハッタンの不良詩人たち=ファッグス。それにムーンドッグの50年代末か60年代中期にかけての一連の作品は“サイケデリック・ロックの先輩”として重要だろう。エキゾチックで神秘主義的で呪術的なムーンドッグはリズムの多彩さ、カエルの声やモノローグを織りまぜてのサウンド面での特異性、超然たる虚無僧的野趣と技巧の鋭さとの混在など、ギミックと野放図な音響効果を数多く成した60年代のサイケデリック・ロックに通じる異空間創出力を有している。フォーク系のゆるやかなサイケデリック感覚とは同質のほのぼのとした覚醒作用がある。
 アメリカでのフォークの隆盛はビートニクの生息するシーンとリンクしていた。詩作によって意識に刺激を与えようとする者たちだったからこそ、ハリー・スミスの『Anthology Of American Folk Music』にうごめく異形の呪詛や突飛な言語感覚に敏感に反応したのだ。
 ビートニクの詩的覚醒感とそうした古典の中に封印された奇想の言語感覚を自己流で再拡張しようとボブ・ディランは密かに社会派のレッテルの裏側で、感覚を磨き続けていた。ビートルズの出現によって大きく変転したポップ/ロックンロール状況をしかと受け止め、フォーク・シンガーという呪縛からの脱出と、新たな意識拡張作品の創作を同時にボブ・ディランは推進した。64〜66年のディランの加速ぶりは、ドラッグの影を(おそらく意図的に)投射してみせつつ、イメージの飛躍と饒舌な隠喩の渦で前代未聞の意識拡張詩人誕生を強烈に印象づけた。それはビートニクとヒッピー・ムーヴメントの橋渡し、大きな変化の到来を告げるものだった。
 英国勢の米国襲来に刺激されて64〜65年に野放図に誕生したワイルドなバンド群には、まだLSDの影がない。彼らの暴力的性急さ、覚醒感は多分にアンフェタミン的である。意識を加速させとめどなく目覚め続けてゆく。重要なのは拡張ではなく、あくまでも速度。ガレージ・パンク・バンドは大胆な愛情表現を暴走させ、自爆に至ることをまるで快楽のように感じさせる。
(略)
 逆に作り手の意図にはまったくサイケデリックなイメージも主張もなかったにもかかわらず、ヒッピーのあいだで“アシッド・ロックの傑作”としてもてはやされてしまったドクター・ジョンの『グリ・グリ』のような例もある。これはニューオリンズヴードゥー教の儀式を題材にした、望郷の念あふれる民俗ロックとでもいうべきもの。ドクター・ジョンはそもそも汚くてだらしがないヒッピーなど大嫌いだったのだ。

Harry Smith Project: Anthology American Folk

Harry Smith Project: Anthology American Folk

グリ・グリ

グリ・グリ

ヘルター・スケルター」とチャールズ・マンソン

 1934年11月にシンシナティで生まれたチャールズ・ミルズ・マンソンは、12歳で少年救護院に収監されて以来、窃盗その他で逮捕と収監をくりかえしていた。61年から67年までの“世間の激動時代”は獄中で過ごした。催眠術や魔術、フリーメイソンサイエントロジー、精神医学などを研究する一方聖書を愛読し、歌手を志し、自作曲を作りギター弾き語りで囚人仲間に聴かせていた。(略)
[出所後は盗みをしながら放浪。ヒッピー歌手として街頭で歌っていた]
LSDを体験し、各種の珍妙な弁舌と人並はずれた精力を発揮し家出少女などを仲間に引き入れて、黒く塗り直したバスでカリフォルニアを放浪した。このバス・ツアー中にビートルズのアルバム『マジカル・ミステリー・ツアー』を聴いたマンソンとその仲間(つまりファミリー)は自分たちのバス生活そのものを“マジカル・ミステリー・ツアー”と呼ぶようになった。
(略)
 68年夏ごろマンソンは、前年12月にマハリシ・ヨギにやられていたビーチ・ボーイズのデニス・ウィルソンと知り合う。デニスの豪気のおかげでデニス邸にマンソンはファミリーともども入りぴたり、テリー・メルチャーはじめ周辺業界人に取り入ることにもなる。デニスはファミリーの女の子たちをツアーに同行させたりマンソンに資金援助したり、曲を合作したりした。
(略)
 『ホワイト・アルバム』がマンソンの耳に届いた69年初めには、自己内部の憎悪を育んだ後、西欧文明そのものの終焉およびアメリカ合衆国の大変節へとマンソンの思考は傾斜し、そのための対処、準備を進行している最中だった。
(略)
ヘルター・スケルター」を聴いてマンソンは、自らの予言、妄想の具体像としての最終戦争のイメージを結実させた。
(略)
 ブラック・パンサーをはじめとするアメリカ黒人武装集団が、そう遠からぬうちに各地で蜂起し、何百何千万もの白人を殺害する。黒人対白人は血で血を洗う激戦の末、黒人が勝利しアメリカ政府の統治も黒人の手にゆだねられるところとなる。しかしさらに40〜50年後には、黒人たちは自らアメリカを中心とする世界の国の多くを統治することの不適さ(能力不足など)に気づく。そこで黒人たちは自分たちの“超知覚力”によってカリフォルニアのデス・ヴァレーの洞穴の中で黒人対白人の最終戦争をしのいでいた真の覇者たるチャールズ・マンソンに、その世界の覇権を譲り渡すことに賛同する、であろう。というのがマンソンの“ヘルター・スケルター”とその後の世界像だった。
(略)
ヘルター・スケルター”がイギリスの縁日によくあるすべり台のことであるのもマンソンは知らなかった。知る必要もなかったわけだが。ただし歌詞の中の“I'm coming down fast but I'm miles above you”は、迫りくるブラック・パワーの恐怖、人種間闘争の危機感と自分たちとの関係性を象徴している、と感じたようだ。
 かねてより聖書を愛読していたマンソンは「レボリューション9」をヨハネの黙示録第九章と対照させ、ビートルズが黙示録に登場する“人類の三分の一に死をもって報いる四人の使徒”であり、「ヘルター・スケルター」をはじめとする『ホワイト・アルバム』によってマンソンとファミリーの面々に、大破壊と殺戮の危機を知らせた、と考えた。「レボリューション9」の中に、「チャーリー、電報をくれないか?」という言葉を聴き取ったり、この曲をかけながら、“Rise!”と叫んだりした。後に、テート殺害の翌日に起きたラビアンカ夫妻殺人事件の現場の壁にも血で“Rise"と書かれていた。(略)
「ピッギーズ」のピッグはブラック・パンサーが警官(権力側の人間)の呼称としてかねてより使っていた言葉であり、マンソンはこの歌の歌詞の中の、ブタどもは“a damn good whacking(たんまり殴る)”されねばわからない、というフレーズがことのほかお気に入りだったそうだ。ファミリーによる一連の殺人事件の現場には、いずれも“PIG”の文字が印され(マンソンたちは犯行がブラック・パンサーの仕業であるように見せかけることも考慮してこう書き残した)、ラビアンカ夫妻の死体には「ピッギーズ」の歌詞の最後の行になぞらえたかのようにナイフとフォークが突き立てられていた。(略)
[68年麻薬売人の黒人を射殺してしまったと思い込んだマンソンはブラック・パンサーの報復を恐れ]
アジトに武装トロール隊を配備する。これがファミリーの武装強化のきっかけとなる。(略)
当時、ブラック・パワーに脅威を感じることは、政府の情報操作のかいあってマンソンのみならず、白人社会全体に広がっていた。つまり“最終的には黒人側がマンソン様に世界を差し出す”という超御都合主義的展望は、マンソンの黒人に対する強い恐怖心の裏返しそのものだったのである。マンソンがほかならぬ『ホワイト・アルバム』を気に入ったのも、二つ折りジャケットの(写真以外)“すべてが白い”せいだったことが大きく影響しているとの見方もある。

民謡とエチオピアの関係の不思議

それらの中にスーダンのポップスがあった。なめらかに回るこぶしを効かせた歌が、複数のヴァイオリンとアコーディオンなどによるバンドの演奏にのせて朗々と流れる。驚いたのはその節回しだった。河内音頭にそっくりなのだ。そのころよく聴いた盤にアブドゥル・アジーズ・エル・ムバーラクという人の87年にイギリスから出たレコードがあった。日本の音楽に奇数拍のアクセントを加えた跳ねるビートが新鮮に感じられた。ペンタトニックで構成されたメロディには親近感しか湧かなかった。それ以前からよく聴いていた他のアフリカ諸国、ナイジェリアやザイールや南アフリカの音楽とはまったく違う、これもアフリカか、という感慨は深かった。日本人にとってこれは自分たちの血の奥にあるものに響く親しみだと思った。
(略)
[レコード店主に]もっと近いのだとエチオピアがありますよ、といって推められたのが、移民してアメリカで録音したアスター・アウェケという女性とエチオピアのヒットがヨーロッパにまで及んで人気者になったマハムド・アハメドという男性歌手の『エレ・メラ・メラ』というアルバムだった。(略)
[アハメドの]盤はベルギーのクラムドというレーベルからのもので、エチオピアのアディス・アベバで1975〜78年にかけて録音したものと裏ジャケットに記されている。A面に針を下ろすと短調のリフレインを奏でるサキソフォンが怪しく誘う。七拍子に乗せた伸びやかな歌声がひたむきだ。(略)
妖しい誘いの曲調が統いたが歌声は端正で細かいこぶしが効いている。草原を渡るような勇壮なところはない。明朗な曲も五拍子化された河内音楽のようだったりして聴くほどに不思議度は増した。(略)[ヒット曲の「エレ・メラ・メラ」は]タイトルのイメージからすると日本人には男性が恋情をつのらせているようにしか思えないのだが、これが大違いであった。「五木の子守唄」にすごくよく似たメロディなのだ。こぶしを効かせて六拍子のミディアム・テンポで歌い込むアハメド短調がもの悲しさをかもし出しながらも踊ってしまうだろう。軽妙なところは一つもない。キーボードの指さばきさえ細かくこぶしを回しているように聴こえてしまう。これでお囃子を入れたらますます哀感が高まる。ペンタトニックの、というより和式にしか聴こえぬ節回しを日本人にはなじみのない拍子で歌い込む異国人。こんな音楽は他に聴いたことがなかった。聞き終わっても爽快感がない。むしろさくらと一郎の「昭和枯れススキ」を聴いたときの気分に似ていた。スーダンの音楽はもっとカラッとしていた。エチオピアにはおそらくいろいろ事情があるのだろう、とそのときは思った。日本的なものとの親近性ということではこの「エレ・メラ・メラ」はたくさんの要素を持っていた。日本の近隣アジア諸国には、むしろこのような曲調のものは少ない。歴史上この和式の悲哀感がなぜエチオピア音楽と通じているのか、手がかりはほとんどなく、その後のワールド・ミュージック・ブームの中でもエチオピア音楽はあまり紹介されることなく時は過ぎていった。
(略)
[それから10年余、フランスからエチオピアのポップスをまとめた『エチオピーク』というシリーズが出た]
エチオピアの大衆音楽も米英欧のポップスの影響を強く受けている。特にアメリカのジェームズ・ブラウンをはじめとするソウル、ファンクの影は色濃い。もともとある土着的なメロディと三拍子四拍子六拍子が溶け合ってゆくビートを、頭ではなく後の拍子にアクセントを置くソウル・ミュージックやジャズのアフター・ビートの感覚と融合させている。世界的に稀なダンス・ミュージックの数々がこのシリーズではたっぷり聴ける。ダミ声が浪花節を思わせるアレマイユ・エシェテ、アベベ・テセッマのような人を聴いていると、エチオピアがものすごく身近な国のような気がしてくる。
(略)
 今年[2010年]出た『エチオピーク』シリーズの『モダーン・ルーツ1971-1975 エチオ・ポップの秘密』にはポップ界のスターたちがエチオピア伝統音楽に新しい解釈を加えたというものが数々収録されているが、古さを新しくした結果、逆に古さの多彩さが浮き彫りになっている。エチオピアのルーツにアラブ圈、トルコ、エジプトの音楽があることは確実だろうし、ナイル川上流のヌビア人周辺の音楽との共通点も少なくない。しかし北東アフリカでエチオピアだけがこぶしとメロディに日本的な民謡や俗謡に強く似た哀感と陽気な感傷とでもいうようなものが濃く含まれているのが不思議なのである。
 さらに『エチオピーク』シリーズの、ティグレー地方の曲を収めた『ティグリーニャ・ミュージック』では農村のさらにヘンテコな悲哀が素朴な音でありながら都市部以上に複雑なリズムで奏でられるという、どこにも類型のない音楽がたっぷり聴ける。いったいアフリカの東側はどうしてこうなのだろう、謎は日々深まる(略)
そういえばエチオピアの隣国ケニアのインド洋側のモンバサでは1960年代から、大正琴が独自にエレクトリック化されて使われているのだった。


エレ・メラ・メラ

エレ・メラ・メラ