音楽が降りてくる 湯浅学 その2

前回の続き。

音楽が降りてくる

音楽が降りてくる

 

エコーからさぐるアメリカ南部への道

フィル・スペクタージョージ・ハリスン

 ポールの“基本に戻ろう”との誘いに乗るのは気が進まなかったものの、ブルースやゴスペルの色あいを強く出せる様式への傾斜には抗えぬものがあったということでもあろうが(略)“あの人”ならポールの色と臭気を弱めてくれるに違いないとの願いもあったがゆえに『レット・イット・ビー』のオーヴァーダビングにも参加したのではなかったか。ジョージは“あの人”の作り出すストリングスの響きにインド音楽、特にインドの映画音楽との共通性を感じていたとも考えられる。
(略)
 一方“あの人”フィル・スペクターは、ふやけたロックに対する怒りを含めて最もハードなリズム&ブルースだったアイク&ティナ・ターナーを特上の分厚い怒濤の音の波に乗せたが、66年当時、それはほとんど理解されなかった。
(略)
「リヴァー・ディープ・マウンテン・ハイ」は激しすぎた。高音圧のゴスペル、教会内部の暴風雨のようなエネルギーを暴発させ、限界を突破してみせたこのノイズの塊=大傑作。アメリカではまったく不発の88位。ところが、イギリスではあっという間にチャートの3位まで上がり、この曲をメインに据えたアルバムも発売された。
 だからといってスペクターの気が晴れたわけではなかった。(略)入魂作「リヴァー・ディープ・マウンテン・ハイ」の敗北でスペクターは新たな策を考えることになった。
 チェックメイツ・リミテッド『黒い涙』がしんみりと力強いのは、スペクターにしてはめずらしい“再生”と“新生”という決意がどこかにあったからではないか。(略)かつての“ウォール・オブ・サウンド”をなぞったものではなく、くぐもったパワーではなく、より巨大化し色彩を増した新たなサウンド探究の意欲を感じさせる作品だ。
 スペクター組の音響番頭だったラリー・レヴィンはA&Mスタジオで録音された『黒い涙』ももちろん手がけているが、これについて「フィルも古いやり方を捨てていた。ゴールド・スターを離れたとき、ウォールも終わったんだよ。だけどやっぱりデカさとエコーは欲しがっていたから、不本意な(エコー)チェンバーを使って何とかしなければならなかった」と語っている。
 これまでに煎じつめてきたモノラル録音のパワフルな響きと、ステレオ録音のカラフルな演出力、その結合はスペクター・サウンドの複雑化、録音場所の変化に対応していく柔軟な姿勢を生み出した。ジョンの「インスタント・カーマ」はその好例だ。60年代の様式美のアウトドア化というべきものが新たなスペクター・サウンドを生んでいく。
(略)
 スペクター・サウンドの要はリズム・セクションと歌のパワーである。むしろ全員をそこに集約していくような面がある。エコーはそのための渦の発生装置にもなりうる。そこが60年代サイケデリック・ポップとの大きな違いである。スペクターのエコーは歌とビートを浮遊させない。全体を音響的に強化させるため、音楽の場の力を止揚するためのエコーである。自分たちの声の束がその残響によって高揚し、その底をぬってゆくオルガン、各自の身体が打ち鳴らし発する打撃音、それらが渦を作るゴスペルの内部である教会。つまりゴスペルはエコーとともにあったのだ。合唱と手拍子、足踏みによる交響楽。“祈りとしての自己流ゴスペル”はなおさら求心的なサウンドを際立たせもするだろう。
(略)
 さらにまた、合唱やコール・アンド・レスポンスとはあまり縁がなく、あくまで個人的、私小説的な音楽の主であるボブ・ディランの中のブルース/ゴスペル・ルーツ、“祈り”的要素を強引に提示してみせたのがルー・アドラーのプロデュースによる『ゴスペル・クワイアで歌うボブ・ディラン』で、ゴスペルをポップ化の荒技として用いるというこの実験のアレンジャーは、スペクター・プロデュースの大ヒット作ライチャス・ブラザーズ「ふられた気持」他で腕を振るったジーン・ペイジ

Dylan's Gospel

Dylan's Gospel

『スマイル』の幻想 ビーチ・ボーイズ

 「現在、ブライアン・ウィルソンが作っているものは“ビーチ・ボーイズ関連の”作品ですけど“ビーチ・ボーイズの”作品とはいいがたいものですので、みなさんご注意ください」とでもいいたげなやつらにブライアンは囲み込まれていた。が、ブライアンは急には止まれなかった。ビートルズの『ラバー・ソウル』のアメリカ盤(に決まってんだろ)を聴いてブライアンはエレキ・ギター・コンボを捨てる決心をつけた。ビートルズが『リボルバー』を出すころには、『グッド・ヴァイブレーション」はすでにいく通りもたんまり録音され、仕上げ段階に入り、『スマイル』のためにヴァン・ダイク・パークスとあーでもないこーでもないと吸ったり飲んだりまた吸ったりしていた。『リボルバー』をブライアンは、よく覚えていないかもしれない。
 『サージェント・ペパーズ』が世に出た1967年6月には、ブライアンは『スマイル』の制作をすでに中止していた。『サージェント・ペパーズ』の素晴らしさにショックを受けたから『スマイル』をオクラにした、というのは後から作った“理由のようなもの”だろう。『サージェント・ペパーズ』のようなものではなく、ブライアンの作ろうとしていたものは強いていうならむしろフランク・ザッパ率いるマザーズ・オブ・インヴェンションの『アブソリュートリー・フリー』のほうが近かったのかもしれない。(略)ポール・ウィリアムズとの対談のなかで、デイヴィッド・アンダールは『スマイル』の『スマイル』たる所以は音楽によるユーモアの探求と創出にあり、と強調している。
 「英雄と悪漢」はアルバムの核を成すリフレインが山となり谷となる“ミュージカル・コメディ”として構想されたものだが、それは『スマイル』のなかの一曲ではあるが、『スマイル』全体が「英雄と悪漢」の拡大されたものとして構想されていたのではないか。ミクロのなかにマクロがある。小宇宙と大宇宙が相互に入れ子になっているような音楽パノラマ。そこには自然と人間の理想的関係、アメリカ人としての不可思議な社会観、人間という存在の奇妙さなどが描出されるはずだった。
(略)
アメリカという国をレンズにして世界を見つめ、自分の内側を見つめ、それを音楽にして投射することに没頭するうちに、自分の内側からこちら側を見ているやつがいることにある日気づいただけなのかもしれない。
(略)
「グッド・ヴァイブレーション」の初期型(1966年春ごろのものか?)がある。
  彼女はすでに僕の頭の中にいる
  僕は彼女の瞳だけを見ているよ
  何かをとらえたんだ 説明はできないけど
  僕は何かをとらえたよ

Electric Newspaper

Electric Newspaper

歪みとドローンの詩情を求めて

ヴェルヴェット的“音響”の背景

 ドラッグを大量に使用して自己拡張しすぎた暴力的ロックンロール・バンドというイメージはたしかにヴェルヴェットにはついてまわる。しかしそれは日常の中に非日常を見出そうという想像力の結果である。ヴェルヴェットには、愛と平和への希求や一方的な愛情表現、夢想と現実の溶け合った快楽への期待などがまったくない。混沌を感じさせる即興部分の乱雑な展開が、フリークな印象を高めているのかもしれない。
(略)
 ESPディスクから66年にリリースされたオムニバス『The East Village Other,Electric Newspaper』がヴェルヴェットとしての初音盤化作品となったことは、象徴的である。ここに入っているヴェルヴェットの曲のタイトルは「Noise」、演奏時間は1分6秒。しかしどれがそれなのか判然としない。会話や独白の中にうもれるように編集されている。
 このアルバムは“電気新聞”の名のとおりニューヨークのアンダーグラウンド新聞=『The East Village Other』(通称EVO)の紙面を音で表現し直そうという試みだ。(略)
その新聞ならではの人選で、マリオン・ブラウン、イスマエル・リード、アレン・ギンズバーグアンディ・ウォーホルやその仲間のジェラルド・マランガやイングリッド・スーパースターらがこのアルバムに参加している。
(略)
ヴェルヴェットと同時代に活動した同じニューヨークの珍奇なロック・バンドも当然ここからいくつもリリースされている。
 とりとめのない世界を描出したパールズ・ビフォア・スワインや屈折したフォークのホーリーモーグルラウンダーズ、ファグスやゴッズなどである。おそらく契約が他で成立しなければヴェルヴェットもESPからリリースされていた可能性は高い。プロデューサー=ウォーホルの“ポップ・アート”志向がそれを拒んだか。(略)
とりわけゴッズはヴェルヴェットをさらに不器用でヤケクソにしたようなロックで、シンプルで未整理な演奏の中からコード感とメロディを浮上させる、というやり方にヴェルヴェットと共通する点が多く見られる。とはいえ、そこにはヴェルヴェットのような音響計画はまったくない。しかし、基本は同根。だとすれば、その違いはどこから生じるのか。その鍵を握る存在、それがジョン・ケイルである。
(略)
 同じ年(42年生まれ)の二人。リードは10代にドゥーワップやR&B、ロカビリーに夢中になり、大学時代にジャズの洗礼を受けている。曲を自分で書き始めたのは10代中頃のことだ。大学時代に同じ寮にいたスターリング・モリスンと組んでいたバンドは、おそらくロックンロールやR&Bのヒット曲をカヴァーするようなダンス用エレキ・ギター・コンボだったのだろう。
 片や、3歳でピアノ、5歳でヴィオラを習ったというケイルは早熟な音楽家だった。リードとモリスンが大学でエレキ・バンドをやっていた頃、ケイルはクセナキスに師事していた。そこで新しい交響曲を書こうとはせずに、概念芸術やドローン(持続低音)による音響の探求へとケイルの興味は向かう。ラ・モンテ・ヤングのグループ=永久音楽劇場にケイルが参加したのは62年。(略)
トニー・コンラッドとケイルはここで亀の飼育用水槽にとりつけられていた酸素供給用モーターの音をアンプで増幅し、その音のうなりにピッチを合わせて即興演奏を繰り広げていた。他のメンバーもそれに合わせて演奏していった。全員でモーターの出す持続音のうねりとうなりを拡大していく。水槽用モーターだけではなく、ヤングは様々な発信器による電子的ドローンを用いていった。
(略)
 ヤングの活動に参加する中でケイルは音を発することによって生じる聴覚の拡張に音楽の新たな可能性を見出そうとしていた。音楽聴取の方法を改変するアプローチでもあった。簡素で限られたフレーズをひたすら反復するミニマル・ミュージックのやり方とそれは異なっていた。ドローンと倍音による快感、幻想、不安、刺激、安定感や破壊力の研究実験をケイルは繰り返した。それはヴェルヴェット参加後も続いた。
(略)
 ケイルのドローンと倍音実験の場としてヴェルヴェットはより開かれた形態だった。あまりにもポップな音楽では無理がある。言葉に音が引きずられ気恥ずかしさを覚えるのも困る。リードの声にある歪み、少しひしゃげた感触、それとリードの作り出す詩の世界に、他では得難い倍音効果をケイルは見出したのではないか。
 モリスンは、「ヴェルヴェッツは、四人だけでフィル・スペクターサウンドに挑むようなことをやっていた」というようなことをいっていた。
(略)
 ケイルはヤングとの共演の中で、厳密さを求めるあまり音楽が演奏の場や聴衆を限定し過ぎるようになってしまったことに少なからぬ疑問を持った。日常生活にもっと適応可能なアプローチの探求、あるいは生活空間と芸術空間に隔たりを作らないジョン・ケージのようなやり方の応用を考えるようになった。そのためにロックは格好の素材だった。
 直接本人を知る以前、ケイルはウォーホルの活動に疑問を抱いていた。同じモチーフを繰り返し使うウォーホルの作品は、ミニマル・ミュージックの手法を安易に真似たものではないかとさえ思っていたという。(略)
 ステファン・ショアの写真を中心に、関係者からのウォーホルヘの随想を集めてまとめた本『The Velvet Years: Wahol's Factory 1965-1967』の中でケイルは「ウォーホルヘの疑念は実際に交流していくうちに晴れた」と述べ、ウォーホルのポップさとは「生活全般に自らの芸術作品を適用させて、普遍性を獲得しようという努力によって生まれたものだ」と評価している。
 ウォーホルにとってヴェルヴェットは、お気に入りのバンドというだけではなく、現状に切り込んでいける説得力と前例のない異形の魅力を兼ね備えた“ポップな作品”だったのである。実はウォーホルのその認識は、リードとではなく、ケイルと近いものだった。
 ドアーズやラヴやホーリーモーグルラウンダーズさえリリースしたエレクトラに断られたヴェルヴェットをあえて引き受けたヴァーヴ側プロデューサーがサン・ラーやボブ・ディランを手がけてきたトム・ウィルスンだった巡り合わせの妙もある。ウィルスンは常に「未知の魅力を感じさせるもの以外やる気がしない」と語っていた人である。

VELVET YEARS 1995

VELVET YEARS 1995

生きることがそのまま現状打破

ボブ・ディラン・2

 すごく昔の話だが俺の記憶では1971年12月の初め頃、中学三年生だった俺は学校へ行く前に毎朝TBSの『ヤング720』の後番組(タイトルを忘れた)を見ていた。(略)
動くエンケンさんを見たのもこの番組が最初だった。その日はやたらにゴワゴワの長髪の男が出ていた。目つきが鋭い。朝のさわやかさの一切ない容姿は野良猫のようだった。しやべり方はぶっきらぼうだが、無口なわけではなく、自分の思いを伝えようとするひたむきさに俺は魅かれた。その男は泉谷しげるといった。歌った曲がなんだったのか記憶は遠い。それよりも印象に残った発言があった。「岡林信康の『私たちの望むものは』とか五つの赤い風船の一連の曲とかああゆう歌詞は、書き言葉だと思う。俺たちが普段使っているのとは少し違う言葉だ。それは俺の歌いたい歌とは違う。でも日常的に使っているような“だからよお”とか“おめえなにやってんだ”という言葉遣いでは歌いにくい。かしこまった活字のような言葉ではなく、立ち小便しているような会話文でもない、歌の言葉を生み出したい。それをもっと探求したい」。
 という内容のものである。書き言葉がダメだとかイイとかそういうことではなく、自分の音楽には合致する様式とそうでないものがあるのだが、自分としては、自分のことを“私”というのは違和感があるし、もしそのような一人称を使うとすれば照れ隠しや揶揄が含まれる場合である、というようなことを泉谷しげるはいっていた、と思う。歌詞とは単に伝える内容によってのみ作用がもたらされるものではない。意味とは歌詞の描写の中味にのみ存在するのではなく、歌手の声の質や量、呼吸の様式、それらが音とリズムとに合体したり、溶解したりすることによって生じるものだ。(略)
だが、実際にはその前提はしばしば無視されてしまう。社会学的にしろ音声学的にしろ、音楽を歌い手や演奏者から切り離すことは、分析するうえでは避けて通れぬものだと、多くのものがいいはるだろう。ならば歌い手としては、その分離のスキを与えぬようにすればよい、ということなのではないか、とボブ・ディランの『ネヴァー・エンディング・ツアー』について俺は思った。俺の歌は俺のものだと。

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