ザ・ビートルズ史<誕生> 下・その3

前回の続き。

ザ・ビートルズ史 下

ザ・ビートルズ史 下

そのころ、ジョージ・マーティンは……

 七月の最終日あるいは二日前頃まで、ジョージ・マーティンからは何の連絡もなかった。(略)彼はそれよりも目の前に心配事を抱えていた。
 それは、スパイク・ミリガンによる大型戦争映画『戦場にかける橋』のパロディ作品に関する一件だった。(略)映画の制作サイドがその噂を聞きつけ、もしパロディLPを発売するなら訴えると言ってきたのだ。すべてが絶望的に思えたが、マーティンの提案で舞台をビルマクワイ河からウェールズのワイ河へ移し、LPタイトルを《ブリッジ・オン・ザ・リバー・クワイ》から《ブリッジ・オン・ザ・リバー・ワイ》へ変更することになった。そして、そのためにマーティンとエンジニアは、曲中で歌われているすべての「KWAI」のうち子音の「K」の部分だけを、マスターテープからかみそりの刃で切り落とすという編集作業を余儀なくされたのである。結果として、映画に登場する悪名高い橋を建設するのと同様に、非常に労働力を要するアルバムとなった(しかも売れなかった)。
(略)
 悲しいことに、ジョージ・マーティンは方程式どおりにやると失敗する傾向があった。『コンパクト』に出演中の俳優レオ・マグワイアを気取ったポップ・スターに仕立てようという企画は大失敗で、数日で結果ははっきり出た。一方で、彼独自の発想で動けば、業界のほかのプロデューサーたちよりはるかに飛躍を遂げることができた。(略)
オーストラリアのマルチ・アーティスト、ロルフ・ハリスと、驚異のレコード〈サン・アライズ〉をレコーディングしていた。
 このレコードは、マーティンが得意とする、革新的なスタジオ技術の発明を形にした一例である。オーストラリアの先住民アボリジニ木管楽器ディジュリドゥがなかったため、マーティンはチェロ二本とコントラバス、ピアノ、そしてロルフ・ハリスの声でその音色を再現して見せたのだ。(略)ロルフ・ハリスの声を二重三重にダビングすることで豊かな音質で感動的なハーモニーを構築する。(略)「ワールド・ミュージック」という言葉が誕生する20年も前に、ジョージ・マーティンはオーストラリアの内陸部に住むアボリジニの正真正銘の音楽……に表面上聴こえるものを、セント・ジョンズ・ウッドのスタジオで、四時間の濃いレコーディングの中で作り出したのである(B面も同様に)。そして大衆は、彼の音楽をここでもまた高く評価した。レコード・セールスの伸びはゆっくりだったが、1962年12月、ジョージ・マーティンにとって二度目の一位獲得に立ちはだかるのは、エルヴィスだけとなっていた。
 この間、ビートルズはずっと記憶の彼方に葬られていた。アビイ・ロードでのレコーディングから二ヶ月が経っていた。

ピート解雇

[三人から嫌な役目を押しつけられたブライアン、だがリンゴにいい印象がなかったので、他のドラマーに声をかけたりしているうちに、ピートの耳に入り]
ビートルズでぼくを交代させる動きがあるのかい?」(略)ブライアンは頬を紅潮させて口ごもりながら否定した。
(略)
[ブライアンは]ピートをほかのグループに加入させて、そのグループのマネージメントを買って出る[という戦略に、それが手持ちのマージービーツ。NEMSに呼び出されたピートとニール、ブライアンはピートにリンゴとの交代を宣告、代わりに別のグループのリーダーすると言った。]
 ニールは状況をすべて理解した。(略)「彼はピートをクビにしたくはなかったと思う。(略)[三人が]ブライアンに汚い仕事をやらせたんだ」
(略)
 結局、その夜ピートは来なかった。ほかの三人に会うのがつらいのと、これ以上彼らと一緒にやることの意味が見出せなかったからだ。だがニールは違った。彼は変わらず仕事に行き、黙っているつもりもなかった。「みんなぼくのほうを見て、『えーと、ピートはどんな感じだった?』と言うのでぼくは『ピートがどうかなんてどうでもいいだろう。お前らこそどう思っているんだ?』と言ってやった」
 ジョン、ポール、ジョージはもう二度と「ネル」に会えないことを恐れていたので、木曜夜に彼がチェスターにやって来たことでずいぶん安心したのだ。彼らも知っているとおり、ニールはできた人間で、今回のことは、彼がベスト家と家族ぐるみの関係を維持しながらビートルズの片腕としても働くという、強靭な精神力を彼らに再認識させた。

リンゴ、傷つく

[62年9月4日]
リンゴが突然おかしくなったのだ。「ぼくはバスドラムハイハットを打ちながら、片手にタンバリン、もう片方の手にマラカス一本を持った状態でシンバルまで叩いていた。(略)
[リンゴはジョージ・マーティンの威圧的態度にパニックになり]全身で何でもかんでも叩き始めたのだ。(略)
誰もが彼のプロらしからぬ演奏をあざ笑ったに違いない。ビートルズの前のドラマーは一言も喋らなかったが、今度のは頭がおかしい、と。(略)[5年後ジョージ・マーティンは]「リンゴにはあまり高い評価を下さなかった」ことを認めた。(略)[ほかにも理由はあった]リンゴはドラムロールが叩けないと見抜いていたのだ。
(略)
[62年9月11日]
 四人が第二スタジオに入ると目に入ってきたのは、すでにセッティングされたドラム・セットと、準備万端整えたドラマーだった。「セッション・マン」との演奏を強要されることの悪夢は、ピートをクビにしたことで払いのけたはずなのに、それが再び彼らを襲い、その犠牲になったのはリンゴだった。
(略)
 リンゴはひどく傷ついた。「すごくうろたえた。ものすごくうろたえたよ。悩みそがぶっ飛んだ」。彼はすべてがまやかしであることに苛立っていた。レコード業界は噂に聞いていたとおり、匿名のミュージシャンに演奏させて、これこそが彼らのサウンドだ、とうそぶくようなインチキな世界だったのだ。リンゴはこの屈辱を許さないし、忘れないし、ジョージ・マーティンを名指しで非難した。「不信感を持たれたことにショョクを受けた。あいつのことは何年も許せなかった」。ほどなくしてリンゴはジョージ・マーティンと、仲良く純粋に温かい言葉をかけ合える永遠の仕事仲間になったが

デビュー・シングル

ジョージ・マーティンが自分の意見が退けられたことに怒り、成功など期待せず、ほとんど手助けしなかったものである。(略)
[<ラヴ・ミー・ドゥ>がリンゴが叩いたバージョンだったのが]意図的だったのか手違いだったのかは、ジョージ・マーティンもロン・リチャーズも思い出すことができない。(略)
[契約にあった、最低6面を録音は、既に完了していた。ビートルズは認識していなかったが]
場合によっては彼らのファースト・シングルが、ラスト・シングルになっていたかもしれないのだ。
(略)
[EMI社内に協力体制はなかった]
ジョージ・マーティンは、同僚のA&Rマネージャー、営業部長、宣伝担当者たちに「ビートルズ」という名前を出したとき、爆笑されたという。「確かに」と彼は認める。「それは馬鹿げた名前だった。みんな、それは私の『グーン・ショー』風のジョークで、また私がパロディのレコードを作ったんだろうと思った。誰一人として<ラヴ・ミー・ドゥ>が売れるなんて思っていなかった。ビートルズへの無関心は、マーティン本人にも言えることだった。アードモア&ビーチウッドから発売をごり押しされただけで、好きでもないレコードをあえて売り込むつもりなどなかったのだ。
(略)
『ニュー・レコード・ミラー』またしてもハーモニカだ。〈ラヴ・ミー・ドゥ〉はハーモニカで幕を開け、この奇妙な名前のグループは、その後で歌に入る。かなり控え目な演奏ではあるが、ボーカル・ハーモニーのやや変わった組み合わせを楽しんでいる。聴かせどころは十分にあるが、中盤あたり、特にハーモニカ・ソロがしばらく続くところでだらけてしまう。だが悪い曲ではない。B面は、やや貪弱なアレンジをグループでかなりオーソドックスに演奏。曲自体は十分魅力的だが、我々の興味を引くほどの面白い展開はあまり出てこない。(ライター名なし、評価は鐘三つで「標準」の意味)
(略)
『マージー・ビート』(略)「〈ラヴ・ミー・ドゥ〉は幾分単調だが、この手の曲はじわじわと良さがわかってくるもので、最初に聴いたときはがっかりしたが、聴くたびに好きになっている。二曲中、〈P.S.アイ・ラヴ・ユー〉のほうがお気に入りだ」
(略)
[リバプールでの売れ行きに、ブライアンが1万枚買い占めたという悪意ある噂が広まる。だが当時のチャートは各店のベストセラー30枚に1位30点から30位1点を振り分け、各店の合計点数で作っていたので、ブライアンの店でどれだけ売ろうが全く意味はなかった]

リトル・リチャード

 地元の人気者から全国区への第一歩を踏み出したこの転換期、まさに天与のタイミングで、ビートルズのもとに黄金のアイドルが舞い降りた。(略)
11月にはハンブルクでおよそ二週間一緒に過ごすことになった。
 リトル・リチャードことリチャード・ペニマンは、やることすべてがヒーローそのものだった。ツアーのチケットを買って観に来る観客は、かすかな不安を抱いていた。果たして期持どおりに往年の大ヒット曲が聴けるのだろうか。彼の宗教的な言葉は世俗の若者たちにどう受け止められるのだろうか。1957年に牧師になって神の福音を伝えるためロックを絶って以来、リトル・リチャードはゴスペルしか歌わず、1959年以降はヒット曲もなかった。今回のツアーに同行したバック・ミュージシャンを見ても、彼がイギリスに来る目的は神の言葉を説くためだと推察できた。オルガン奏者のビリー・プレストンロサンジェルス出身の16歳で、少年の頃から才能を発揮して教会とゴスペル音楽に没頭してきた。(略)。
 ツアー興行主のドン・アーデンは、彼が「ロックを歌う」ことを条件に契約していた。リチャードによると、自分を世俗的手段で誘惑すると神はアーデンを罰することになると前置きしたうえで、ツアーの条件に同意したという。
(略)
 ツアー初日、リトル・リチャードの一曲目はゴスペルだった。二曲目もゴスペル、三曲目もゴスペル。だがそこから彼は、手短かにロックのヒット曲メドレーを披露した。そして、この日と次の公演のあいだに、すべての邪悪は控室に消えてしまったのかもしれない。なぜならツアーの二目目、リトル・リチャード伝道師は、弟子たちが心から欲していた「ロック」を客席に与えたからだ。全編ロックではないが、全編ゴスペルでもなく、人々に元気を与える過去の偉大なヒット曲の数々――〈ロング・トール・サリー〉〈ルシール〉〈リップ・イット・アップ〉〈女はそれを我慢できない〉などがフルバージョンで演奏され、その構成のままツアーは進行していった。ショックで頭がおかしくなったのはビリー・プレストンである。彼がそれまでに同行した唯一のツアーはマヘリア・ジャクソンとジェイムズ・クリーブランドとの共演だったので、今回は(リチャードのバックを務めていたサウンズ・インコーポレイテッドと共に)ステージで叫びながら復活を遂げる元聖職者のペニマンを、目を丸くして見つめるしかなかった。白のぶかぶかのスーツで激しいアクションを決め、女のような化粧をして、人生の喜びを「悪魔の音楽」に乗せて狂ったように叫び、グランドピアノの上で踊ったかと思うと、死んだように崩れ落ちて観客を脅かす……そしてやきもきする沈黙を破るように金切り声を上げて〈グッド・ゴリー・ミス・モリー〉を歌い、電気ショックでよみがえった悪魔のごとく跳ね上がるのだ。
(略)
「奴らをシビれさせてやったぜ!」と彼は公演後、『マージー・ビート』のアラン・スミスに言い放った。
(略)
リチャードは舞台袖からビートルズの演奏を見つめており、ビートルズもブライアンも彼の感想をいち早く知りたかった。(略)「優秀、非常に優秀」というほめ言葉が返ってきて、ブライアンはこれを宣伝文句として使うことができた。だがほんとうの大当たりは、アラン・スミスが彼のノートに走り書きしたリトル・リチャードの言葉である。それは「ビートルズは最高だ!奴らを見なければ白人だなんて絶対に思わない。奴らには本物の黒人サウンドがある」という無条件の称賛だったのだ。
 リチャードが自分の出番になり(略)ステージに立つと、演奏中のリチャードの写真に写り込もうと、ビートルズは一人ひとり順番に反対側の舞台袖からマイク・マッカートニーにポーズをとっていた。あいにく写真は失敗するが、リチャードはリンゴのほうに何度も笑顔を見せていた。それは「君が気に入った」ことを示す笑顔だとマイクは言う。それは、リバプールのミュージシャンたちにとっては衝撃だった(なかには心が折れるほど落胆した者もいた)。彼らの偉大なロック・アイドルが実はあまり「男らしく」ないことがわかったのである。彼はバックステージでまるで女王のようにふるまい、男の子たちにみだらでわいせつな言葉をかけ、彼の大きな聖書(誰にも見せたことがない)に走り書きをし、明らかに「あちら側」の人間だったのだ。
 楽屋裏には50人ものロック・ミュージシャンたちが出たり入ったりし、楽しく騒々しい空気が流れていた。(略)
そしてピート・ベストを八月にクビにして以来初めて、彼とここで顔を合わせたのである。ビートルズがステージに出るとき、リー・カーティス&オール・スターズはステージを降りるところで、すれ違ったピートは何も言わず目も合わせなかった。
(略)
その写真は重要な一枚となった。ひざまずくジョンがリチャードの左手を握りしめ、ジョージとリンゴとポールは彼の右手を取り、全員が笑顔だ。
(略)
そしてリトル・リチャードは偉大なアメリカ人らしく、自分の住所を書き添えてくれた。(略)「ジョンヘ、神のご加護がありますように、リトル・リチャード。カリフォルニア州ロサンジェルスバージニア・ロード1710番地」

ビリー・プレストン

初っぱなからぼくはビートルズが大好きになった。おそらくぼくが彼らにとって最初のアメリカ人のファンであり友人だろう。ジョンは偉大だった。面白くて、非常に賢くてしかも抜け目がない。
(略)
 彼は時間を作ってぼくにハーモニカを教えてくれた。〈ラヴ・ミー・ドゥ〉を教わったので、そのお礼にぼくは、彼とジョージ、ポール、リンゴがきちんと食事をとれるようにしてあげた。
(略)
ビリーは16歳(しかもジョンによれば「見た目は10歳」)にもかかわらず、ヨーロッパで最低の治安を誇る通りに立つこのクラブで、頭のいかれたロック・アーティストのストリップを間近で見ながら、朝の三時にハモンド・オルガンを演奏していたのだ。だが内面は傷つきやすい少年であり、ビートルズはそんな彼の盾にもなっていた。常に彼の様子を見守り、彼のお気に入りである〈ラヴ・ミー・ドゥ〉と〈蜜の味〉を演奏してやり、ジョージはビートルズの演奏にオルガンも加えようと彼をステージ上に誘ったこともあった。ビリーは一緒にやりたかったが、恐くてできなかった。このことがもしリトル・リチャードの耳に入ったら「烈火のごとく怒った」はずだからだ。

ポール、二股かけられる、しかも二番手

 ポールのもう一人のガールフレンドはアイリス・コールドウェルだった。ロリー・ストームの妹でユーモアにあふれたブロンド美人、しかもジョージの初恋の人(略)
アイリスは言う。「私よりも、彼のほうが私に夢中でした。私はリバプールのグループで安く使われるようなギタリストでは満足できなかったんです」。アイリスはプロのダンサーとして活動を始めており(略)ポール同様に忙しかった。
(略)
アイリスの遠征中にはポールがセリアと会っていたように、アイリスもまたフランク・アイフィールドと密会していた。
(略)
[ポールがアイフィールドのコンサートチケットを持ってきた時、アイリスは]二股をかけていること、しかも、健康的に日焼けしたリーゼント・ヘアの24歳でアメリカでも売れている国際的なスターが彼女の本命で、ポールが実は二番手であることを、うまく伝えられなかった。
(略)
「フランクはとても女性的なスタイルが好みで(略)ポールはタイトなスカートに髪を結うほうが好きだったので、フランクに気づかれないように、そっちのスタイルで出かけたんです」。すべてはうまくいっていた。アイフィールドがコンサートの終盤、舞台袖に引っ込むふりをしてアンコールに戻り、ジム・リーヴズのヒット曲〈ヒール・ハフ・トゥ・ゴー〉を歌うまでは。彼はフットライトの前に出て、二列目で手を握ってもじもじしている若いカップルに真正面から、その曲の最後のフレーズ「そこにいる君の友だちに伝えればいい、そいつとはさよならだ」と歌ったのだ。アイリスの記憶では「ポールは『ずうずうしい野郎だ!ずうずうしい!』と言っていましたが、私は彼に『嫉妬してもしょうがないじゃない、ポール、わかっていないのね。これはショービジネスなのよ。プロとはこういうものなのよ』と言いました」。

おとなしいビートルズ

 この頃からビートルズは、演奏中に多少おどけて見せる瞬間はあるものの、確実に自制するようになっていた。テレビ・デビューを果たしたこの時期、フロントの三人はステージでの立ち居振る舞いを改めようとしていて、見るからに動きが地味になっている。それはブライアンの指示ではなく、彼らが自分たちで考えたことだった。もう十分すぎるほど「マック・シャウ」してふざけてきたので、何か違うスタイルを試したいと考えたのだ。ジョンはこう説明する。「徐々にぼくらはクールダウンしていき、消費エネルギーを控えるようになっていった。ぼくらの選択肢は、踊りまわるか、破壊するか、演奏するかしかない。そこで演奏に集中することにした」
 それでもまだ曲間にはふざけるし、ジョンはあいかわらず身障者の真似をしたが、演奏中のジョンは(マイクに向かうときと離れるとき以外は)不動で両足を広げて地につけ、胴体と首だけを機械的に動かすだけになった。ジョージも、みずから「リバプール・レッグ」と呼んでいた、無意識のうちに足を蹴る動作以外は動かない。ポールの足はあいかわらずビートを叩き出し、多少は動きまわるが、それだけだった。
(略)
グラナダ局のレスリー・ウッドヘッドにとって(略)彼らの変わり様はショックだった。キャバーンで見たビートルズに比べると「驚くほどおとなしい」と感じられたのだ。

〈アイ・ソー・ハー・スタンディング・ゼア〉

メロディと曲構成がポールの頭のなかに滑り込んできたのは月曜の夜遅く、NEMSエンタープライズ主催の「ショーダンス」を終えてウィドネスから帰宅する車中だった。こんなにも完成した状態で音楽が降りてきたのは初めてで(略)ハリケーンヴィルに着くや否や、アコースティック・ギターをつかんで作曲し始めたのだ。(略)
これまで人が作曲する様子を見たことがなかったロリー・ストームにとって、それは魔法のような瞬間だった。彼はポールにその曲を自分だけにもらえないかと尋ね、ポールはイエスと答えたと、ヴァイとアイリスは一貫して断言している。
(略)
「私たちのことを歌っている気がしました」とセリアは考えている。(略)この曲は私にとってロンドンの二人旅の永遠の思い出になりました。

1962年11月16日

[ハンブルクから帰国した翌日の午後三時、EMIハウス]
不可解なことに、その場にいた誰一人としてこの日のことをきちんと記憶していないのだが、おそらくこのミーティングは彼らの人生で最も重要かつ創造的なものであったと思われる。(略)パーロフォンのオフィスで、ジョージ・マーティンビートルズは、レコード制作に向けて互いに協力し合い、新たなアイデアをぶつけ合えるような人間関係を築くべく、全員が満足するには何が必要かを話し合っていたのだ。
 ヒットするか否かを聴き分けるジョージ・マーティンの耳は完全無欠だったが、〈ラヴ・ミー・ドゥ〉では判断を誤り、本人もそれを自覚していた。彼の保証も協力もないままレコードはチャートにランクインし、まだ圏外に落ちていない。それどころか六週目に入ってもまだ上昇を続け、1000枚単位でセールスを伸ばし、業界で注目され始めているのだ(「あの〈ラヴ・ミー・ドゥ〉がそんなに素晴らしいとは思わなかったが、ビートルズとその音楽への反響の大きさには身震いがした」とマーティンは言う)。
(略)
[ジョージは以前4人が拒否した〈ハウ・ドゥ・ユー・ドゥ・イット〉を再提示したが、きっぱりと拒否され]ますます彼らが気に入った。ビートルズに抱いていた「非常にうぬぼれが強い」という印象はさらに強まったが、それが彼のやる気をさらに高めたのだ。
(略)
 マーティンは〈プリーズ・プリーズ・ミー〉をセカンド・シングルにしたいというビートルズの意向に同意し、
(略)
さらに、今度はリンゴにレコーディングでドラムを叩いてもらう、と伝えた。
(略)
そしてジョージ・マーティンは次の提案で彼らを仰天させた。彼はLPを作りたいと言ったのだ。
 それは、まさに心臓が止まるかのような提案だった。ビートルズはまだ一枚しかレコードを発売しておらず、複数のトップ30チャートにランクインしてはいるが、もっとヒットを出しているアーティストでまだアルバムを出していない大物はたくさんいた。しかもパーロフォンの歌手の大半はシングル盤しか出していない。LPの購買層は、ビートルズを好んで聴く層とは異なるのだ。
(略)
彼のように基本概念を超えて音楽を操れる人間はほかにいない。通常なら安全策をとるところでも、直感に従って突き進める異端の冒険者なのだ。これまでにも意表を突いたヒット・レコード、知的好奇心をくすぐり幅広い層を魅了するレコードを数多く作り出し、人々の記憶に植えつけきたジョージ・マーティンが、今、そのノウハウをビートルズに投資し、彼らと一緒に何が作り出せるかを見出そうとしているのだった。[しかもLPの大半をメンバーの自作でと考えていた]
(略)
 『NME』がほのめかしたように、LPはライブ・アルバムになる予定だった。このミーティングから10日後に行なわれた〈プリーズ・プリーズ・ミー〉のレコーディングの際に、ジョージ・マーティンは自分の考えをジャーナリストのアラン・スミスに説明している。「一枚目のLPをキャバーンでレコーディングしようと考えているが、キャバーンを見てからでないと決断は下せない。良い音で録れないならリバプールのほかの場所で収録するかもしれないし、ロンドンのスタジオに観客を呼んで録るかもしれない。彼らはライブ演奏のほうが得意だと言っていた」(略)
(略)
 レノン&マッカートニー作品を受け入れるということは、全く新しい手順でのレコード制作を意味していた。(略)
[従来の方式は]歌手と楽曲、編曲者を探し、彼も含めた三者がオフィスのピアノで適切なキーとテンポを探り、どんなサウンドにするか、どのようなオーケストレーションがふさわしいかなど音楽的な処理方法を話し合い、それからセッション・ミュージシャンを手配し、楽器ごとに譜面を書きおこさせて、やっとスタジオに入るのだ。このような典型的なA&R方式はビートルズには当てはまらない。
(略)
 ビートルズはマーティンを、人間的にもとても気に入っていた。その落ち着いた身のこなし、存在感、ユーモア、才能、上品な声質などをである。
(略)
自分たちのジョージとの混乱を避けるために、彼のことを「ビッグ・ジョージ」と呼んだ。(略)183センチ以上あり、ハンサムで、一流の政治家のような貫禄があった。総合的に見るとフィリップ王子のようだったので「エジンバラ公」と呼ぶこともあり、彼はそれに楽しそうに付き合った。
(略)
マーティンとジュディが列車でリバプールを訪れたのは12月12日(略)ボブ・ウーラーはEMIから来た長身の紳士が「人気のないキャバーンの中を歩きまわりなが手を叩いて、音のエコー具合をテストしていた」のを見守った。この音響に納得がいかず、さらに壁や天井から落ちる水滴の量についての不安、そして総合的な安全性の懸念(ビートルズの演奏中に気絶した女の子がうつぶせの状態でマーティンとジュディの頭上を運ばれる事態に遭遇した)から、マーティンはここは求めている場所ではないという結論に達した。

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