ザ・ビートルズ史<誕生> 下・その2

前回の続き。

ザ・ビートルズ史 下

ザ・ビートルズ史 下

BBCラジオ

[ついにスーツが完成]
 ステージでスーツを着用したのはその翌日、マンチェスターのプレイハウス・シアターでBBCラジオの初収録を行った日だった。番組名は『ヒア・ウィ・ゴー』(略)
[司会のレイ・ピーターズがジョンの歌う〈メンフィス、テネシー〉を「リズム&ブルース・バージョン」という聞き慣れない言葉で紹介]
ジョンの歌った〈プリーズ・ミスター・ポストマン〉が初めて電波に乗ったとき、それは「タムラ・レーベルの曲」が最初にBBCラジオで放送された瞬間でもあったのだ。誰も気づかないうちに(当時気づいていればなお良かったが)、ビートルズデトロイト発の「モータウンサウンド」をイギリスの一般リスナーに解禁していたのだ。
(略)
ビートルズの三曲は六分間だけ全国放送に乗り、彼らは最善のパフォーマンスを示すことができた。デッカのオーディションよりも活気にあふれ(略)初めて見る観客の心を、最初からしっかりつかんでいた(略)三曲終わった頃には女の子たちが絶叫していた。
 ピートの自宅のスピーカーから流れる演奏は最高で、彼らの人生のなかで思い出深い瞬間となった。
(略)
 スーツは番組放送後、人目につかないように隠された。ブライアン・エプスタインは、時期をみて、彼らのニュー・ルックをリバプールに華やかに披露したかったのだ。おそらくは四週間後のイベント「ファンのためのビートルズ」で。

ニールのバン

 ニールはビートルズのバンを目立たないようにしておくつもりだったが、残念ながら車体には口紅でラブ・メッセージや、たまに悪口まで落書きされるようになってしまった。終演後、珍しくジョン、ポール、ジョージが酒も夜遊びもせずに帰る日があると、リンディやその友人ルー・スティーンなどウールトンやアラートンに在住の女の子たちは、そのバンでビートルズと一緒に送ってもらえる。ルーの記憶によると、楽器や機材をすべて後部に積んでから、彼女たちは車内によじ登るのだった。
 運転手はネルで(彼はとってもいい人だった)、ほかにはジョン、ポール、ジョージと私たち。ピートがどこにいたのかはわからないわ。性的なことは何もなく、キスさえもなし。私たちを降ろしてくれると彼らは「じゃあね!」と言うだけ。14歳の私たちにとって彼らは一世代も上の大人で、そのなかの一人と寝ようなんて考えもしなかったわ。あの時代、そんなことするのはよほど無謀か勇敢な女で、私たちの大半は卒業してもバージンよ。それにバンに乗るのは楽しかった。ライブを終えたあとのビートルズはいつも死ぬほど面白くて、かなりぶっ飛んでいたわ。
(略)
[シンとトッドが現れると]周囲は嫉妬心から二人を迷惑がり、きつい言葉を浴びせたり、時には悪態をつくこともあった。[ブライアンも二人の存在を隠すようにプレッシャーをかけ始めた]

マル・エヴァンズ、ファッション

 ビートルズの新しいファンのなかでひときわ異色だったのが、長身のマルコム(マル)・エヴァンズだった。郵政公社で働く26歳の電話技師で、エルヴィスのファン(略)
 マルはどこにいても目立つ。188センチで物腰が優しく、眼鏡をかけ、ジョン、ポール、ジョージは彼がリクエストするエルヴィスの定番曲をすぐに演奏した。(略)
曲紹介で彼らはいつも、マルの名前で言葉遊びをした。たとえば「この曲は、造反者[マルコンテスト]に捧げます」とか、「この曲は、機能不全[マルファンクショニング]の人に」、あるいは「この曲は、悪臭のする奴[マルオードラス]に」という具合に。
 こうして1962年の春になると、ビートルズは地球制覇には至らずとも、リバプールの地下にある一軒のクラブは制覇していた。それも驚異的な統治力で。(略)いつしか周辺のグループはビートルズの喋りを真似するようになっていった。(略)
 この現象は、誇大広告などの「やらせ」で起きたものでも、コマーシャリズムによって美化されたものでもなく、確実に独自に発展していったものだ。人々はごく自然に、彼らの真似をするようになっていた。ボビー・ブラウンはこう回想する。(略)
彼らの影響で、ほとんどの女の子たちは黒を着るようになったんです。黒のタートルネックのセーター、黒のストレート・スカート、黒の靴下にフラットシューズ。(略)その後、ポールがコーデュロイのコートを、ジョンがコーデュロイのジャケットを着てくるようになると、みんなコーデュロイを着たわ。私もグリーンのコーデュロイのドレスを買ったもの。
 それから私は髪の毛をブロンドに染めました。(略)ビートルズはブロンドが好きだったから、かなり多くの女の子たちがブロンドに染めていたわ。

名前を変えろ、『奴ら対ぼくら』

[ボブ・ウーラーは]弱気になって愚痴をこぼすブライアンの様子を覚えている。「彼はこう言っていた。『私の何が間違っているんだ?どうしてレコード会社の人間は反応しないんだ?』と。
(略)
ブライアンが繰り返し忠告されていたのは「ビートルズの名前を変える」ことだった。(略)
[ボブ・ウーラー談]
「ブライアンは奴らから『ビートルズとはどういう意味だ?』と聞かれ、綴りを書いて説明すると『何て変な名前だ!』と反応されたという。『みんなに言われるんだ。ビートルズという名前に意味がないのなら名前を変えるしかない、って』とブライアンが言うので、私は彼に、『ビートルズ』は確実に有効な名前だ、地元の音楽シーンで有名なだけでなく、短い名前だからポスターに載るときは大きく印刷されるぞ、と言って安心させた」
 ビートルズはこれらの知らせに肩を落とした。(略)
エンバーに断られた今、もうレコード会社は残っていなかった。残っているのは小規模レーベル(略)
ジョンとポールはいつも、時にはジョージも一緒に、ロンドンのユーストン駅から電車で四時間以上かけて帰って来るブライアンを、ライム・ストリート駅を出て坂を降りたところにある薄汚いカフェ「パンチ&ジュディ」で座って待っていた。エピーが悲しそうな顔で入ってくると、良い話が持ち帰れなかったことがすぐにわかる。
(略)
ジョンはこう言っている。「彼はロンドンから戻ってきても、ぼくらの顔をまともに見ることができなかった。もう20回くらい断られているからだ。(略)
その頃には、ぼくらと少しは親しくなっていたから、彼がほんとうに傷ついていることがわかった。彼は精一杯やってくれていた……あちこちまわって、みんなにお世辞を言って機嫌をとって」
 これは、あとから振り返って出た言葉だ。ボブ・ウーラーは、ビートルズがブライアンの失敗に苛立ち、「ジョンは時々彼に対して冷静さを欠くこともあったが、どうにもならなかった」ことを記憶している。ジョンもそれを認めている。「確かにブライアンとは何回か、些細な喧嘩をした。彼は何もせずに自分たちばかりが働いている、とよく言っていた。でもそれは口で言っているだけだよ、ほんとうに。彼がどんなに苦労しているかはわかっていた。状況は『奴ら対ぼくら』だったんだ」(略)
 ジョンとポールは、自分たちの成功の可能性について、人前では悲観的だった。「成功するなんて全く思っていなかった」とジョンは二年後に振り返っている。

お披露目

 休憩のあいだにビートルズはレザー一式を脱ぎ捨て、ボブ・ウーラーは彼らを再びステージに、大々的なアナウンスを行って呼び込んだ。「ビートルズ、新しいスーツで登場です!」。(略)
その瞬間を目撃したのはおよそ650人(略)「スーツで登場した瞬間、みんな絶叫したわ。あまりにハンサムだったので」とバーバラ・ホートンは回想する。(略)
 ルー・スティーンは自宅からカメラを持参して、初めて新しいスーツが登場したキャバーンの様子を撮影した。(略)ルーは、胸ときめく憧れの「彼」を写真に収めた。それはそのときドラムに座っていたポールである。後ろでぼやけているが、汗で髪は貼りつき、上着を脱いでネクタイを緩め、シャツのボタンを外し……彼はあまりの楽しさと、レンズを向けているのがかわいい友だちのルーであることに、口を大きく開けて笑っていた。
(略)
リンディ・ネスはこう記憶している。「彼らは『ぼくらはこれからハンブルクで七週間演奏してくるけど、いないあいだも、ぼくらのことを忘れないでほしい。手紙をくれると嬉しいな』と言って、クラブの住所を教えてくれました。(略)私たちはみんなで分担して、スージーはジョージに、ルーイはポールに、私はジョンに手紙を書いて、みんな返事がもらえたわ」

スチュアートの死

 [スチュの母]ミリーの記憶によると、最初にこのことを知ったビートルズのメンバーは、三人がハンブルクに向かったあともリバプールに残っていたジョージだったという。(略)家の玄関でジョージが泣き崩れたんです。子どものように泣きじゃくっていました。
(略)
ハンブルク空港ターミナルでブライアンとジョージを待っているとき、彼らはアストリットとクラウスの姿を見つけた。二人はミリーを迎えに来ていたのだ。「スチュは?」……そう尋ねる彼らに、アストリットが彼の死を伝えたのはここ、この瞬間だった。「ポールは落ち着かせようとしてくれました。彼は私に腕をまわして残念でならない、と言ってくれました。ピートは涙を流して、そこに座って目を泣きはらしていました。ジョンはヒステリーを起こしました。(略)彼が
笑っているのか泣いているのか判別できませんでした。覚えているのは、ベンチに座って背中を丸めて、体を震わせて、体を前後に揺すっていたジョンの姿です」(略)
「ジョンはスチュアートの死を知ったとき、笑ってはいないんだよ。世間はそう決めつけているけれど」とポールは主張し、彼の精神状態ははるかに複雑な状態にあったことを指摘している。
 一方、ポール自身にとってスチュアートの死は、違う意味でつらかった。(略)二年以上、彼はみんなの前でスチュアートをからかい、嘲り、怒らせ、馬鹿にしてきた。ジョンとスチュの友情への嫉妬心が、決着のつかないままになっていた。(略)二月にスチュアートがリバプールに帰っていたときも、ポールに会うのは避けていた。
(略)
 厳しい試練だったスチュの葬儀を終えてリバプールから帰ってきたアストリットに、ジョンとジョージは会いに行った。(略)
 アストリットは二人にスチュアートのアトリエと、そこで撮影した彼の写真を見せた。彼の顔半分が屋根裏窓からの明かりによって照らされ、もう半分が影になっている写真だ。ジョンが「俺もそこで写真を撮ってもらえないかな?」と言ったので、アストリットはそうした。ジョンは全く同じ場所に立ち、亡き友と同じポーズをとる。アストリットは、角度がぴったり合うまでジョンの頭の向きを変えるように指示を出し、心動かす絵をとらえるようにシャッターを押した。それが、当時も今も多くを物語るであろう、あの写真だ。
 この日、さらに何枚か目を見張るほど素晴らしいポートレイト写真が撮影された。
(略)
アストリットに、ジョージとジョンはスター・クラブの演奏を見に来るよう説得していた。「スチュアートのいない彼らのステージを初めて見たとき、彼らは私を笑わせようと、あらゆることをやってくれました」とアストリットは回想する。「ジョンはその夜、それまでスチュアートが歌っていた〈ラブ・ミー・テンダー〉を歌ってくれたんです」

契約、〈ラヴ・ミー・ドゥ〉

 ついにやった!ブライアンは興奮を爆発させた。レコード契約の獲得(略)の知らせを早く伝えたくて[ハンブルクに電報](略)
おめでとうボーイズ EMIからレコーディングの要請あり 新曲を練習されたし
(略)
[ジョンとポールはこれを]「新曲を作曲されたし」と解釈することにし[作曲チームが復活](略)
もう二年も一緒に曲を作っておらず、ほとんどが昔の曲だった。(略)
 三週間後にハンブルクを発ったとき、彼らは二曲を、6月6日のロンドンに持ち込むために仕土げていた。(略)
最初の頃の作品のなかでは、これまで注目していなかったが〈ラヴ・ミー・ドゥ〉がベストだと感じた。ポールが中心になって、バディ・ホリーに夢中だった1958年に作った曲だ。(略)
62年バージョンは「マウス・オルガン」、つまりハーモニカだ。(略)
[63年にジョンは]「ちょうど〈ヘイ!ベイビー〉が出た直後だった。(そして)自分たちはハーモニカをレコードに入れる初のイギリス人グループになりたいと願っていた」。こうしてハーモニカは完全に〈ラヴ・ミー・ドゥ〉のサウンドを塗り替えたのだ。
 もう一つの重要な変更点は、テンポである。当初は陽気なバディ・ホリー風のリズムだったが、それをスローにして、曲のブルース・フィーリングに合わせている。
(略)
 〈ラヴ・ミー・ドゥ〉から一週間ほど経って、新たに〈P.S.アイ・ラヴ・ユー〉という新曲が生まれた。これはポールの作品だが、ジョンは「多少手助けをしたと思う。ポールはシュレルズの〈ソルジャー・ボーイ〉みたいな曲を作ろうとしていた」と付け加えている。

Hey Baby

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Soldier Boy

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ジーン・ヴィンセント

 ジェリー・リー・ルイスを渡英させた男、恰幅のいいマネージャー兼興行主のドン・アーデンは、今度は牧師になっていたリトル・リチャードをアラバマの教会から引っ張り出し全英オータム・ツアーと短期間のハンブルク・ツアーへ送り込み、さらにジーン・ヴィンセントハンブルクへ送り出していた。(略)
ビートルズは彼と4日間だけ滞在が重なり、初めてアメリカのスター歌手に会えたことで興奮していた。(略)
ぼくら4人にとってどれほど感動的なことか、みんなには想像できないだろう。崇敬のあまり体が凍りついていたよ」[とジョン]

ジョージ・マーティン

 レコーディングを開始したのがロン・リチャーズであることは間違いない。マーティンがほとんど立ち会わないことを、ブライアンが知らされたかどうかは不明だ。もし知ったとしたら、落胆し、軽く見られたと感じただろう。
(略)
 だがジョージ・マーティンにとって〈ベサメ・ムーチョ〉はどうでも良かった。(略)彼がレコーディング中のスタジオに現れたのは、彼らが〈ラヴ・ミー・ドゥ〉をやっているときだったようだ。おそらく、テープ・レコーダーを操作していたクリス・ニールに呼び出されたと考えられる。ニールの記憶によると、「彼らは何曲かやって、ノーマンもぼくも大して感銘を受けていなかった。すると突然、粗野なサウンドが我々の頭のなかに一つのコードとして聴こえてきた。それが〈ラヴ・ミー・ドゥ〉だ。ノーマンがぼくに『おい、ジョージを下の食堂から連れてきて、彼の意見を聞いてみよう』と言った」。(略)
「私が〈ラヴ・ミー・ドゥ〉を選んだのは、主にハーモニカのサウンドがあったからだ」とマーティンは回想する。「生々しいハーモニカが大好きだった。ソニー・テリーとブラウニー・マッギーのレコードをリリースしたこともあるくらいだ」
 マーティンはハーモニカが好きだったが、〈ラヴ・ミー・ドゥ〉を特別に気に入ったわけではなく、すぐにアレンジ上の問題点に気づいた。(略)ジョンが「ラヴ・ミー・ドゥ〜」とタイトル・フレーズを歌うとき、最後の単語「ドゥ」を終わらせるとほぼ同時にハーモニカを吹き始めるところだった。(略)コントロール・ルームから下へ降りて、ビートルズに初対面の挨拶をし、問題点を指摘した。ポールはこのように記憶している。
 ジョージ・マーティンが「ちょっと待て。そこに重なる部分がある。別の人間が『ラヴ・ミー・ドゥ〜』と歌わないとこの曲は『ラヴ・ミー・プァ〜』になってしまう。ポール、『ラヴ・ミー・ドゥ〜』のところを歌ってもらえないだろうか?」と言った。
 まいった……ぼくは緊張して口から内臓が飛び出しそうだった。生でレコーディングをしているのに、ここに来て突然、初めてのレコードでとてつもない重責を負わされたわけだ。それはすべての音が消えるところで、バッキングも止まり、自分にすべての注目が向けられて、ぼくは(震えた声で)「ラヴ・ミー・ドゥー」と歌った。あの音源を聴くと、今でも自分の声が震えているのがわかるよ。

〈プリーズ・プリーズ・ミー〉

ジョージは新車フォード・アングリアの滑らかな走りをいち早く試すためほかのメンバーから離れ(略)ジョンとポールはリンディとルーを送ることにして、ニールのバンでリバプールの南端へ。だが女の子たちは家の前で降ろされる代わりに、彼らと一緒に過ごし、ポールの家に行って二人が作曲するのを見ていたのだ。
 〈プリーズ・プリーズ・ミー〉はジョンが、ロンドンから帰って48時間以内に宿し、産み落とした曲だった。
(略)
 ジョンは常々この曲はすべて彼が作曲したものだと言い、ポールもそれを認めているが、制作過程には二人ともかかわっている。62年6月9日深夜、ポールの家の居間で父ジム・マックのアップライトピアノに二人が隣り合って座り、曲に磨きをかけるのをリンディとルーは見ていた。リンディは「冗談を飛ばしたりふざけ合ったりしながら、コード進行に時間をかけていた」と振り返る。15歳の少女たち二人は一晩中そこで過ごし(略)そのうち、レノン=マッカートニーがコードを探って鳴らすピアノの下でうたた寝をしていた。「私たちに、どう思うか聞いてきたんです」とルーは振り返る。「最高よ、と答えました。何しろ彼らの作曲する様子を見るのは最高だったし、私たちがいても気にしていなかった。彼らはいつもそういうことに、全く無頓着でした」
(略)
[6日後二度目のBBCラジオ『ヒア・ウィ・ゴー』出演。まるでリバプールのような観客の熱気]
それもそのはず、観客の約5分の1はブライアンが貸し切りバスで運ばせたビートルズ・ファンクラブの会員だったのだ。彼とジム・マッカートニーはファンを連れてマンチェスターへ行き、帰りはジョン、ポール、ジョージも同乗して帰った。

62年夏

 6月15日の深夜、ジョンはリンディ・ネスと数時間話し込んでいる。そのときジョンは野心を語り「新たなチャレンジ」への必要性を強く訴えた。(略)彼はリバプールに一生いるつもりはなかった。そのことはよく口にしていました。私の記憶では、彼は『もっと大きな場所、田舎ではない場所』に行く必要があると言っていました」
 それはセフトン・パークの休憩所のベンチで、夜空に照らされながら二人きりで繰り広げた会話である。その近くでは、ジョージが口説き落とした彼女と愛車アングリアのウィンドウを曇らせているのだが、ジョンは自分の相手に手ほどきするチャンスが目の前にあるにもかかわらず、ひたすら話し続け、15歳3ヶ月のリンディの言葉に耳を傾けていた。「みんなは私たちが肉体関係にあると勝手に思い込んでいましたが(略)ほんとうは私を守ってくれる存在でした。私は不安で……自分にこれから何が起こるのか不安だったけれど、彼はそんな私を上手に相手してくれました。私は安全な手の中にいて、同時に好奇心も旺盛。いろいろな知識を急激に身につけていた時期でした」
  私たちの会話は、ウールトンで過ごした幼少時代、どこで遊んだかなど。でもあえて説明しなくてもお互いにわかっていました。ジョンと同じように私も小さい頃『ジャスト・ウィリアム』の愛読者だったから。二人で神や宗教、そして絵画について話し合いました。彼は私の絵を気に入ってくれて……私はまだ芽が出かけのアーティストだったけど、彼は自分がその道にちゃんと進まなかったことを後悔しているようでした。私にアート・カレッジに行くように薦めて「俺みたいにヘマをするなよ」みたいなことを言っていました。でもそれほど真剣な会話ではなく、笑いもジョークもあって物真似もしたりね。私はとてもシニカルで、そこが二人の共通点でした。
 この時期、シンシアはほとんどジョンに会っていない。(略)ごくたまにシンシアはビートルズのライブに行ったが、そんなときジョンは大いに彼女を無視した、と周囲は記憶している。また、彼女とジョンは滅多に寝泊まりしたことがなかった。泊まりたくても、家主が就寝前に玄関に鍵をかけてしまうのだ。
(略)
[トッドがシンシアの隣の部屋に引っ越し]
1962年の夏の数週間ジョンとポールは、それぞれのガールフレンドを隣同士の、親の監視の届かない部屋に待たせていたことになる。(略)ビートルズとして舞台に立っていないとき(略)そのへんに座って一緒に作曲していないとき、彼らは同じ建物に押しかけて世俗的快楽のため隣同士の部屋へ引っ込んでいくのだった。そしてジョンとポールは仲が良かった。この時期、二人で一緒に成人向け写真撮影会を企てたほどである。モデルとなったのはガールフレンドたちではなく、キャバーンのランチタイム・セッションが終わっても急いで職場に戻らない、親切な女性二人組だ。(略)ジョンとポールは二人をトップレス(またはそれ以上)で「アート」なロマネスク風ポーズをとって立たせ、ポールが弟にプレゼントしたばかりの(そしてすぐに借りた)カメラを操作して、二人で写真を撮影した。
(略)
ポールは真剣にポール・ジェイムズという名前を考えていた(略)なぜなら、ほぼ、どのスターにも芸名があるからだ。(略)ブライアンは確かに少し長いと感じていたし、ぼくもそう思った。(略)学校ではなかなか覚えてもらえなかったんだ。

次回に続く。