ザ・ビートルズ史<誕生> 下 マーク・ルイソン

ザ・ビートルズ史 下

ザ・ビートルズ史 下

 

ザ・ビートルズ史<誕生> 上 その2 - 本と奇妙な煙

からの続き。

ウィンク

ビートルズのおかげでいろんな揉めごとが起こった。女の子をダンスに連れて来たテディ・ボーイたちは誰も彼もが嫉妬でカッカして、そのうえジョンが大げさにウィンクして見せたりするから、彼らの怒りは頂点に達した」
 大げさなウィンクは、ジョンがステージ上から放つ取っておきの新兵器で、ウィンク一つで皮肉や挑発が最大限に伝わる。ジョンのウィンクはミュージック・ホール風だ。挑発を込め、偉そうな態度で、顔の片方を突き出し、口の片側だけを大きく開けるようにしてウィンクするのだ。これは効果てきめんで、会揚が険悪な雰囲気に包まれていないときでも、ウィンクを引き金に喧嘩が起こることもあったほどだった。大乱闘に発展しても、強度の近視でよく見えていないジョンにとっては、ぼんやり霞んだなかでみんなが暴れている程度にしか感じられなかった。

虹の彼方に

 興奮をあおる曲の一つが〈虹の彼方に〉で、この曲が始まると、女の子たちが大騒ぎになること間違いなしだった。(略)[不思議な選曲に思われるが、実は]ジーン・ヴィンセントが歌っていたからだ。ポールはオリジナルとジーン・ヴィンセントのバージョンの中間を行くような歌い方をし、冒頭の「サムウェア」の高音のあとにドキリとするような間を置き、そのあと甘く優しい歌声で音階を下降させる。キャバーンに集まる女の子たちは、ポールのこのときの姿を何度も目にしてよく知っていたはずだ。ポールは目を大きく見開き、首を傾け気味にして顔を上げ、その視線は観客の頭上を通り越して、トンネル状の空間のいちばん向こうの端のレンガの一つに定められるのだ。
 時々ジョンが加わって素晴らしいハーモニーを聴かせたが、だいたいいつもはからかい役にまわっていた。(略)「何てこった、奴はジュディ・ガーランドのつもりだよ!」と叫んだという。ポールはジョンが自分の背後で手足の不自由な人や「ノートルダムのせむし男」の真似をしたり、歌の邪魔をしようとギターでおかしな音を出したりしていることを承知しながら歌い続けなければならなかった。それでも、ポールが曲の途中で歌うのをやめると、ジョンは自分は何も知らないというそぶりで、ステージ上を見まわすのだ。

 24歳だったイック・ブラウンは、ジョンが休憩から戻るのが遅れたときに、ポールがマイクを通して「カジモド、ステージに上がれよ!」と言い、ジョンが極端に背中を丸めて「せむし男」の真似をしてみんなを笑わせたことを懐かしく思い返している。

ベース

 ポールはスチュの楽器を使って目を見張るほどベースがうまくなったことがあだとなって(略)望まない役割を背負い込む羽目になってしまった。(略)
[ジョージ回想]「ぼくはこう言ったんだ。『ぼくら三人のうち誰か一人がベースの担当になるんだろうけど、ぼくではないね』って。ジョンも『俺もやらないよ』と言った。ポールは反対している様子でもなかった」。ポール本人は、自分には選択の余地が残されていなかったと言う。「もしスチュアートがやめていなければ、ぼくはみずから進んでベースを選んだとは思えない。わざわざベースを選んで弾き始めるなんて、絶対にしなかったね。やっかいな役割を押しつけられたんだ」

スチュワート、最後のステージ

 スチュ本人が認めるところによると、ポールは最後までスチュに対してつらくあたったという。「最後の日はぼくのほうがポールにひどく冷たくしてやった。それでも、ステージ上のポールと目が合ったら、ポールが泣いているのがわかった。相手との距離が急激に縮まるのは、そういうときだよね」
 アストリットの記憶では、それまでの意地悪や嫌がらせを許してほしいという言葉が何度も交わされ、みんなが泣いていたという。(略)
ユルゲンはパリに行っていて、アストリットにはスチュがいて、そのうえビートルズハンブルクを去ると思うと、クラウスは非常に感傷的になり、自分もリバプールへ行くのでメンバーに加えてほしいと頼んだ。(略)
 みんなでぐでんぐでんに酔ってて、ぼくはジョンにビートルズのベース奏者になりたいんだと言ってみた。ジョンは「クラウス、話はわかったけど、ポールはもうベースを買っちゃったから、ベースを弾くのはポールだ」と言った。僕の願いが聞き入れられれば、ビートルズは再び五人編成になって、全く別の展開になっていただろう。

キュナード・ヤンクス

 大西洋ルートを定期航行するリバプールの商船乗組員たちは、船会社の名前からキュナード・ヤンクスと呼ばれ、地元リバプールの人たちの日常を形作ったという点では重要かつ興味深い歴史を持つが、伝記や評論で常々語られてきたこととは異なり、ビートルズの音楽にはほとんど、あるいは全く影響をおよぼしていないのである。(略)
ビートルズの演奏する音楽は発祥はアメリカだが、メンバーの手元に届いたのはイギリスのレコード会社の認可を受け、イギリスでプレスされ、NEMSなどの小売り店で販売されたレコードを通してのことである。リンゴ・スターは確かに、アメリカ帰りの船から直接手に入れる伝手を持っていたので、イギリス国内では手に入らないようなカントリーやブルースのレコードを豊富にコレクションしていたが、ビートルズはそうではなく、ほかの多くの(すべてとは言わないまでも)リバプールのグループについても同じである。ボブ・ウーラーは次のように話してその点を強調している。「ビート・グループが、キュナード・ヤンクスがアメリカから持ち込んだ曲を演奏していたという証拠はない。そう証拠は全くないんだ」。ポール・マッカートニーもまた、ビートルズアメリカのレコードを知っていたこととキュナード・ヤンクスとは何の関係もないと語っている。

ニール・アスピノール

ピートの親友で、ベスト家の下宿人であり、母の恋人であり、ジョージとポールの同窓でもあるが、その彼が、苦労して通信講座を受けていたにもかかわらず会計士補としての定職を捨て、新しいバンを買ったのである。ビートルズは専属のドライバー兼アシスタント(略)を持つリバプールで唯一のグループとして、本格的なスタートを切ろうとしていた。
(略)
ジョンはニール・アスピノールとすぐに非常に気が合った。同じくジョージも、リバプール・インスティテュート時代から隠れてタバコを吸う仲間同士だった。ポールはそこまで親しくはなかったが、彼とは相性がよかった。メンバーは普段、ネルと呼んだ。ネルとは、ニールの子どもの頃からのニックネームだ。彼がどれだけビートルズの仲間内にぴったり収まっていたかは、彼がビートルズの話をするときに「ぼくら」と言っていることからも明らかだ。もちろん演奏はしない。しかし、たちまちのうちにメンバーには必要不可欠な存在となった。無口なピートの親友ではあるが、ジョン、ポール、ジョージと同じように粘り強い面も持ち合わせていた。彼らにとってニールは「ぼくらのなかの一人」となり、ジョンは彼が自分に対しても毅然と立ち向かってくる同等の立場の人物であると認めている。ニールはビートルズのただの運転手ではなく、ただのローディでもない。彼らの仲間であり、彼らを守る存在でもあったのだ。メンバーとは共通する特徴がたくさんあった。頭が切れて、無遠慮で、精神的にたくましく、いつも元気で、面白く、頑固で、よく喋り、誠実で、正直で、ニコチン中毒である。ニールの約7ポンドの週給は四人で分担していた。

停滞。チャンスはいったいどこにあるんだ?

 いい時代だった……が、メンバーの心のなかには、これほど安易にうまくいっていいのだろうかという思いが芽生えていた。確かにトップには立ったが、退屈だった。(略)彼らは毎週毎週同じ曜日に同じ会場をぐるぐるまわって演奏するだけだった。ほかのグループならそれで十分満足だったろうが、ビートルズはそうではなかった。(略)
[ボブ・ウーラー談]
ビートルズは1961年の夏には、ほとんど解散すれすれのところまで行っていた。このままでは、何の進展もないと感じていたんだ」。驚くべき証言だ。
 ポールはビートルズにはもっと宣伝が必要だったと語っており(略)
40年間誰もマージー川を泳いで渡ろうとする人がいないというだけでニュースになるならば、自分たちが実際に泳いで渡って見せれば、新聞で最大級の扱いを受けるだろうと目論んだのだ。(略)
[実行に移したかは不明だが]
「どんな派手なことができるか、みんなで知恵を絞ったんだ。ぼくらにはマネージャーがいなかったから、何かできそうなことを考えながら、ただ目的もなく過ごしてた。メンバーの誰か一人がマージー川に飛び込んで泳ぐとかね……」
 ぼくらにはマネージャーがいなかった……問題の核心はまさにそこにあった。(略)新しいチャンスを勝ち取って道を切り開いてくれる誰かが必要だったのだ。
(略)
ジョンとスチュは頻繁に手紙を書き合った。ジョンはビートルズにファンクラブができたと知らせる一方で、活動に何も進展がないと言って苛立つ気持ちを綴っている。「レコーディング契約さえ結べたらな。何か大きなことはきっと起こる。でもチャンスはいったいどこにあるんだ?」。

初めてのレコード

スチュアート・サトクリフビートルズ初のレコードの初回プレス盤を送ってきたのも、この週だったと思われる。(略)
[バックで演奏しているだけだが]ビートルズは、自分たちのレコードを初めて手にして聴くという、またとない感動を味わっていた。(略)
シェリダンの写真がジャケットの表と裏の両方に載り、ビートルズは写真もなければ名前すら載っていなかった
(略)
 ジョージがスチュに宛てた心温まる手紙のなかには、レコードを受け取ってどれだけ嬉しかったかが書かれており、できればあと一二枚送ってほしいと言って五ポンドが同封されていた。「(略)みんなが素晴らしいと言ってるよ。ほかのグループの奴らには、してやったりという気分だね。だって、ぼくらがものすごいことをしても、たいていの人には信じてもらえなかったと思うんだ。それに、誰が何と言おうと、ビートルズが本物のレコードで演奏しているんだからね。ただ、どうして『ビート・ブラザーズ』なのかがよくわからないんだけど」
 ビートルズ(特にポール)が〈マイ・ボニー〉を嫌っていたことはのちに明らかになる。しかしこのときは、自分たちの演奏がレコードになったことに興奮していた。「何日間もひたすらそのレコードをかけ続けてた」と、ジョージは二年後に『NME』に語っている。当時ティーンエイジャーだったジミー・キャンベルは、ポールが「ぼくらのレコードだ!」と叫びながらエイントリ・インスティテュートの階段を駆け上ってきたことを覚えている。「ポールはDJ(ボブ・ウーラー)にそのレコードをかけさせて、スピーカーから流れる自分の演奏する音を聴きながら、そこいらじゅうを跳ねまわってた。ほんとうに大喜びだった。みんな、聴いてくれ!ってね」

エプスタイン登場

ウーラーは面識はなかったが、訪問者を見てすぐにNEMSの店主だとわかった。ブライアン・エプスタインは地下の穴蔵に響きわたるけたたましい音が途切れるのを待ってから彼のほうへ体を乗り出し、王立演劇学校で学んだ非の打ちどころのない話し方で、ステージ上にいるのがビートルズか、〈マイ・ボニー〉のレコードを出したグループかと尋ねた。ウーラーは確かにそうだと言った。「彼らがそうです。レコードを出したのは彼らです」と答えたのだ。

ボーイズ

 1961年の秋から冬にかけて、ファンの数は急激な上昇曲線をたどるようにして増えていった(略)
 当時18歳のジェフ・デイヴィスはジャズ・ファンだったが、あるランチタイムにたまたまビートルズのステージを観て、それまで持っていたロックへの偏見がどこかへ吹き飛ばされてしまった。(略)
 ぼくのお気に入りの一曲は<マネー>だった。彼らはいつもイントロを変えて演奏してた。長いイントロを演奏することもあって、それからあのジョン・レノンのボーカルでいきなり「人生で最高なものはタダだ」と始まるんだ。それまで誰も、あんなふうに歌ったことなんかなかったよ。すごく猥雑で恐ろしい感じで、その野卑なところがまたいいんだ。あの「どうでもいいや」みたいな態度や、彼らのスタイルや、曲と曲のあいだに飛ばすジョークが格好良かった
(略)
[リンダ・スティーン談]
 ジョンはちょっと付き合いにくい人でした。いい人なんだけど、神経質なところもあって。ポールはかわい子ちゃんタイプ。私はポールがいちばん好きで、あのクリクリした目がたまらなかった。それに近づきやすい雰囲気を持っていて、決して人を突き放すような冷たさはありませんでしたから。ジョージはまだ若くて、どこかいたいけな感じがしました。ピートは「俺は格好良くてギンギンのセックス・シンボルだけど、今は話しかけてくれるなよ、ドラムを叩くのに忙しいんでね」という雰囲気を醸し出していました。彼はニコリともしませんでしたけど、ジョン、ポール、ジョージはよく笑いが止まらなくなったり、吹き出して大笑いになったりすることもありました。
(略)
彼らがグーンズに夢中になっていることはすぐにわかった。ジョンとポールはお互いにグーンズの声を真似て話していたから(略)
 ビートルズが自分たちの書いたオリジナル曲を演奏し始めた当初は、どこかよそよそしさというか、垣根のようなものを感じた。新しい曲が演奏されるときは、いつもちょっとやっかいなんだ。でも、そのうちすっかり夢中になってしまうんだけど。彼らはそうやって先入観を打破していったんだ。
(ジェフ・デイヴィス)
(略)
〈ヤング・ブラッド〉も、ジョンが歌いながら変な顔をする曲でした。「それで、君の名前は?」と歌うところで必ずおかしな顔を作っていました。そしてギター・ソロになると、よく足の不自由な人を真似てステージを歩きまわっていました。(ルー・スティーン)

良心的契約

[エプスタインが契約の実例としてデッカかEMIから入手した契約書は、アーティストをがんじがらめに拘束し、利益の半分を搾取する、きわめて屈辱的内容だった]
[契約担当弁護士ハリス談、ブライアンは]契約が絶対に公正でなくてはならないということに、とてもこだわっていました。(略)自分の地位のせいで彼らを好きなように利用していると思われないように
(略)
1962年2月1日から五年間有効の独占契約で、ビートルズが受け取ったすべての報酬のうち10%をブライアンに支払い、一人の一年間の収入が1500ポンドを上まわった場合は(略)20%に増額するという内容だった。
(略)
 さらには、条項(七)として、次の内容も明記されている。「マネージャーはその意思があればいかなるときも自由に、契約下にあるアーティストのメンバーの一部が独立したアーティストとして演奏ができるように、グループから切り離すことができる」。これはおそらく、契約書のサンプルにあった条項をそのまま残しただけのものと思われるが(略)
[アリステア・テイラーによると]ポールは、ビートルズがグループとして成功することを望むが、もし成功しなくても自分は(おそらく一人で)スターダムを目指す、と言ったというのだ。
[最初、ポールだけはエプスタインをマネージャーとすることに反対していた]

デッカ・オーディション

[いつもは爆音を発するアンプがスタジオに適さず、その場の適当なアンプを使うことになり、自分たちのサウンドが出せず]
ビートルズ自身はこの日を「オーディション」と呼んでいたようだが、スタジオ職員にとってこれは本格的な「コマーシャル・テスト」だった。(略)
キャバーンで彼らの実力を十分だと評価したマイク・スミスが、スタジオ環境下でのビートルズを試すためだった。通常なら2〜5曲レコーディングして終わり(略)だが、ビートルズはデッカで15曲もレコーディングしている。それはつまり(もし契約できれば)このセッション・テープからファースト・シングルを、さらにそのあとのシングルもカットする可能性が確実にあったということだ。
(略)
[だが]彼らのマジックは全く効果を発揮しなかった。(略)
ジョンはのちにこの日のことを「ひどかった………ぼくらは恐れをなして緊張していた」と語っている。(略)
ハンブルクでは「マック・シャウ」し、リバプールでは観客の心をわしづかみにするビートルズだが(略)テープに録音された演奏はそれほど熱狂的でもなく(略)活力に欠け、控え目で、抑えつけられ、みずからブレーキをかけたような演奏だったのだ。
 〈ティル・ゼア・ウォズ・ユー〉でのポールの緊張は容易に見てとれた。自分自身をロマンチックなバラード・シンガー、あるいは新進スターで有能なミュージシャンとして売り込もうとでもしたのか、そこにこだわりすぎて歌の歌い方を忘れ、何も伝えることができていない。これはメンバー間で語り草になる曲で、のちにジョンはあまり高かったポールの声を「まるで女の声だった」と言っている。また、ポールは正しい発音を気にするあまり、「そして音楽が流れる」の一節で「ミュージック」の語尾を「ク!」と強調しすぎ、妙にキザな印象を与えてしまった。(略)
のちにジョンは〈マネー〉を「頭のおかしな男のように歌った」と振り返っている[が](略)聴き取れるのは守りに入った抑え気味の歌声で、結局は目的を見失った曖昧なパフォーマンスになっているのだ。
(略)
[ピートの証言では]ジョンの歌か演奏についてブライアンが口を挟んだとき、ジョンはこう怒鳴り返したのだ。「お前は音楽に関係ない。家に帰って金でも数えてろ、ユダヤ人のろくでなしめ」。ブライアンは明らかに腹を立てて、頬を紅潮させて20分ほど部屋を出ていった。それはビートルズにはよくある、重い空気とぎこちなさが広がる瞬間で、全員がうつむいて、それから何事もなかったように物事が進んでいくのだ。
[そして、ジョンは相手を深く傷つけたことをすぐ忘れ、いつもと変わらない良好な関係に戻る]

〈マイ・ボニー〉英国発売

[熱烈なファンは輸入盤を既に購入しており、ほとんど売れず。「正直なチャート」を公言するエプスタインはNEMSのチャート偽造を拒否。大量在庫を抱える。だが]
意外なことに、ミミはこれは素晴らしいレコードだと感じていたのだ。ミミはこれを聴いて初めて、ジョンがほんとうにギター一本で生活していけるのかもしれないと思ったという。(略)
[当時の下宿人によるとミミはその]レコードを作ったことをとても誇りにしていた。我々の部屋に持って来て、かけてくれたんだ。『あの子たちがレコードを作ったのよ!』と」

ジョンとエプスタイン

 ビートルズとして何か約束や決めごとをするとき、ブライアンは、ジョンを味方につける必要があることに気づいた。なぜならほかのメンバーはみな、ジョンがどちらの味方かを観察しているからだ。(略)
 必然的にジョンは、ボブ・ウーラーやその他大勢にやってきたことを、ブライアンにもやっていた。それは薬を飲ませて「本音」を出させること。つまり「プレリー」の力で、より深い会話を楽しむのだ。後年、彼はこう明かしている。「ブライアンに薬のことを教えた……彼に話をさせて、どんな人間なのか知りたかったんだ。自分のマネージメントをさせる奴なら、そいつのすべてを、裏も表も知りたい。だからブライアンとはとても親しかったよ。そして彼があるときぼくに、同性愛者であることを告白した。『絶対に人前で、私が同性愛者だと言わないでくれ』と言われたのを覚えている。ぼくは口外しなかった」

レザーからスーツへ

 レザー・ファッションに不満はなかった。ブライアンが一目惚れしたビートルズはそのレザー・スタイルであった(略)
 彼らもまた、自分たちなりに解決策を模索していた。レザーのファッションについてジョンは「リバプールやその近辺ではこれで良かったが、他の場所に行ったとたん、反応が冷たくなった」と回想している。(略)
当時、レザーは流行遅れになっていた。(略)ポールはこう語っている。「いずれにしても、全員で全身レザーなんてちょっと古くさかったんだ。(略)ぼくらは間抜けな集団に思われたくなかった。それでレザーはすべて捨てた」
 ファッションの変化は少しずつ表れたが、それはブライアンだけの意向ではないという。
(略)
ジョン:エプスタインに言われた。「いいか、スーツを着ればこれだけ儲かる」と。わかったよ、スーツを着るよ。金が入るなら風船だって着てやるさ!どうせレザーなんて、大して好きじゃないしね。
 みんないいスーツが欲しかった。格好良くて、シャープで、黒いスーツだ。(略)それでブライアンに一式揃えてもらった。ブライアンに言われて揃えたんじゃない。
ポール:彼(ブライアン)が思慮深い面持ちでこう言った。「大きな仕事が取れても、レザーじゃやらせてもらえない」。それで、ぼくはその考えも間違っちゃいないと感じたんだ。なぜならぼくの持論である「ゲーツヘッドの団体理論」に適合したからね。見た目を揃えるという。そしてモヘアのスーツで揃えることができたので、ちょっと黒人アーティストの気分だった。
 ぼくもみんなと同じようにレザーに愛着があったけれど、モヘアのスーツに方向転換する時期だった。ぼくだけじゃない、みんなあのスーツが気に入っていた。
(略)
ウォルター・スミスは「彼らは下襟が細くなくてはいけないと主張し、ズボンもまた極端に細くしたがった。何度も脚を採寸し直し、彼らの望む細さになるまで三回ほど繰り返した」と語っている。当時、年配の男性はまだ裾に折り返しのあるズボンをはいていたが、ビートルズのズボンの裾はブーツまでまっすぐだ。

デッカ落選

[当日実力を出せなかったこと以外に]
ジョンは年を取りすぎていることにも不安を抱いていた。スターたちはみな若かった。(略)クリフ・リチャードは21歳でジョン・レノンより5日年下だが、すでの4年近くスターとしてのキャリアがあった。「ぼくは年を取りすぎている、チャンスに乗り遅れた、17歳じゃないとだめだ、と思っていた。

次回に続く。