みみずくは黄昏に飛びたつ 村上春樹

みみずくは黄昏に飛びたつ

みみずくは黄昏に飛びたつ

比喩

昔、ある評論家が、きっと村上春樹はノートにいっぱい比喩を書きためているはずだ、って言ってたけど、そんなことはない(笑)。そんなノートありません。(略)
[ぱっと]出てきます。必要に応じて、向こうからやってくるみたいな感じで。(略)
ぱっと出てこない時は、比喩は使わない。無理に作ろうとすると、言葉に勢いがなくなっちゃうから。(略)
距離感が大事ですね。お互いにくっつきすぎても駄目だし、離れすぎても駄目だし。そういう風に論理的に考え出すとむずかしい。非論理的になるのがいちばんです。(略)
比喩に関しては、だいたいレイモンド・チャンドラーに学びました。(略)
比喩っていうのは、意味性を浮き彫りにするための落差であると。だからその落差のあるべき幅を、自分の中で感覚的にいったん設定しちゃえば、ここにこれがあってここから落差を逆算していって、だいたいこのへんだなあっていうのが、目分量でわかります。逆算するのがコツなんです。ここですとんとうまく落差を与えておけば、読者ははっとして目が覚めるだろうと。読者を眠らせるわけにはいきませんから。そろそろ読者の目を覚まさせようと思ったら、そこに適当な比喩を持ってくるわけ。文章にはそういうサプライズが必要なんです。

[僕も『多崎つくる』読んだ時に、村上作品のフェラってそういうことだったのかと思ったんだけど、聞き手の川上未映子のそこへのツッコミに対する春樹の反応が完全否定で、ちょっとコワイw]

――(略)村上さんの小説のおけるセックスというものは、何かしら儀式的な、精神的なものの入り口として機能している場合が多い。そこに男性、いよいよ男性がそこに登場した、みたいな驚きがありました。それについても、あんまり意識はせずに?
村上 全然意識はしなかったし、とくに何か違うところがあると僕は感じないんだけどね。何かありましたっけ?
――ありましたよ。つくるが、灰田さんの口の中に射精するんです。
村上 あったっけ? そんなの。夢で?(略)
――はい、夢を見るんです。シロとクロと呼ばれていた女の子と三人でセックスしている夢を。それで、最後の射精がなぜか灰田さんの口の中という。
村上 全然覚えてませんね、そんなこと。
――いま村上さんの無意識に仄かに触れたような感じもあるんですけれど(笑)。ともかく、そういうシーンがあったんですよ。そこで読者は、これまで女性がそういった何か無意識の領域で何かを導いたり、何かの入り口になったりしてきたことはあったけれど、今度は初めての男性相手で、もしかすると、自分自身の影みたいな存在に向かって放ったのではないかと。
村上 全然覚えてないな。だから、たぶん意識もしてなかったんだと思います。

僕が文章を書くときの基本方針

あのね、僕にとって文章をどう書けばいいのかという規範は基本的に二個しかないんです。ひとつはゴーリキーの『どん底』の中で、乞食だか巡礼だかが話してるんだけど、「おまえ、俺の話、ちゃんと聞いてんのか」って一人が言うと、もう一人が「俺はつんぼじゃねえや」と答える。(略)普通の会話だったら、「おまえ、俺の話聞こえてんのか」「聞こえてら」で済む会話ですよね。でもそれじゃドラマにならないわけ。「つんぼじゃねえや」と返すから、そのやりとりに動きが生まれる。単純だけど、すごく大事な基本です。でもこれができていない作家が世間にはたくさんいる。僕はいつもそのことを意識しています。(略)
もう一つは比喩のこと。(略)これは何度も言っていることだけど、もし「私にとって眠れない夜は稀である」だと、読者はとくに何も感じないですよね。(略)でも、[チャンドラーが]「私にとって眠れない夜は、太った郵便配達人と同じくらい珍しい」というと、「へぇ!」って思うじゃないですか。(略)それが生きた文章なんです。そこに反応が生まれる。動きが生まれる。

言葉の響き

言葉の響きって大事なんです。具体的なフィジカルな響き。たとえ声に出さなくても、目で見て響かなくちゃいけない。(略)
目で響きを聞き取れないとダメなんです、作家は。文章を書いていて、それを読み直して、声に出してではなく、目で響きを感じる、これがすごく大事です。だから、僕はいつも「音楽から文章の書き方を学んだ」というけど、それは本当のことで、目で見て、その響きを感じて、その響きを訂正していって、よりきれいな響きにしていくということを大事にしています。句点、読点もリズムじゃないですか。そういうのもすごく大事なんだ。

女の子に手を引かれた思い出

僕が中学校とか小学校高学年の頃、不思議にね、女の子に手を引かれた思い出があるんです。突然女の子がやってきて、僕の手を取って、どこかに連れていく。(略)
[付き合ってるとかじゃない]クラスの女の子。(略)わりにかわいい女の子。それが「村上くん、ちょっと」という感じで手を引いて、僕をどこかに連れていく。たぶんなにか用事があったと思うんだけど、それがどんな用事だったかよく覚えていない。そういうのが二、三回あったかな。(略)
僕の場合、とくに女の人にモテたとか、不特定多数の女子に人気があったとか、そういう経験はまったくない。自慢じゃないけどない。でもそういう、どこかの女の子に、手を引いてどこかに導かれていくという記憶だけはわりにしっかり残っているんです。(略)
[快/不快でいうと]わりにいい感じだと思う。今でもまだその女の子の手の感触は残っているから。そんなたいした体験じゃないんだけど。
――いえ、これは重要な体験ですよ。女性の存在の原型として、村上さんには導かれる体験があった。(略)書く段においては、基本的にそういう存在として、村上さんの中にあるわけです。
そう言われれば、女の子が突然現れて、僕の手を引いてすっとどこかに連れていくという感覚は、僕の中に残っているかもしれない。そういうことはあるんだという感覚が、原体験として。

自分の影に触れる

ジョセフ・コンラッドがどこかで書いていました。作家は、自分ではすごくリアリスティックに物語を書いているつもりでいて、いつの間にか幻想的な世界を書いてしまっていることがある、と。つまりそれはどういうことかというと、コンラッドにとって、「世界を幻想的に非論理的に神秘的に描くこと」と、「世界は神秘的で幻想的であると考えること」はまったく別のものなんだということなんです。そういう自生的な乖離がある。(略)
例えば僕は、「この世界が神秘的で幻想的な世界だ」とはとくに思ってはいません。超自然的な現象もとくに信じないし、怪談とかオバケとかそういうこともとくに信じない。(略)
でも、僕にとっての物語をどこまでもリアリスティックに描いていこうとすると、結果的にそういう非整合的な世界を描くことになってしまいます。わけのわからないものがどんどん登場してきます。それが、「世界を神秘的、幻想的と考える」ことと「世界を神秘的、幻想的に描いてしまう」ことは別の話だという発言の意味です。(略)
その乖離というか、落差みたいなものの中に、自分の影が存在しているんじゃないかと僕は思っています。だからこそ、乖離というものが僕にとってはとても大事な意味を持ちます。僕が小説を書くときにやっているのは、僕のまわりにある世界を少しでもリアリスティックに、写実的に描こうという、それだけのことです。(略)
[でもそうすると幻想的なものが出て来て、人によっては]おとぎ話みたいなものじゃないかと考えてしまうわけだけど、僕にとってはそれは、どこまでもマジにリアリスティックなものなんです。(略)
その乖離はどこからなぜ出てくるのか、それを知ることが、自分の影を見ることの手助けになるのではないかというふうに僕は思っています。
(略)
その意味は分析の中にあるのではなく、行為そのものの中にあるんです。(略)僕にとっては、行為総体が分折を含んでいなくてはならないんです。行為総体から切り離された分折は、根を引っこ抜かれた植物のようなものです。(略)
だからできるだけスタティックな分析には手をつけないようにしている。それよりは物語のダイナミズムの中で、できるだけ流動的にものごとを眺めようとしています。
(略)
現実の側だけから物語を解釈しちゃうと、ただの絵解きになっちゃいます。