ブルース・スプリングスティーン自伝・その2

前回の続き。

ドゥーワップの神

ついに、おれたちは〈I・B・クラブ〉に出演できることになった。南では有名なクラブで、グリーサーの楽園だ。最高のグループがそこで演奏した。ドゥーワップのヒット曲を出しているような本物のグループが。ニッキー・アディオはおれたちの地元ではドゥーワップの神だった。そのファルセットは多くの木綿のパンティを濡らし、悪魔の背筋を凍らせたはずだ。彼は本物であり、クラブに集まる保守派のキングだった。彼がキャディラックスの「グローリア」を歌うときには、グリーサーの教会の信徒が勢ぞろいしたものだ。ダンスフロアはいっぱいになり、聞こえるのは硬く盛りあがったシャークスキンの股間が安物のナイロンストッキングをこする音だけだった。(略)
“ブリティッシュ・インヴェイジョン”から数年後の1966年でさえ、グリーサーのあいだではあいかわらず、ドゥーワップが人気の音楽だったのだ。おれはサント&ジョニーの「ホワッツ・ユア・ネーム」と、ファイブ・サテンズの「イン・ザ・スティル・オブ・ザ・ナイト」を、それこそ何度も歌った。ルート9沿いで生き残るには、何曲かのドゥーワップ・ナンバーは不可欠だった。

[Santo & Johnny じゃなくて Don&Juan かも]

What's Your Name

What's Your Name

  • DON & Juan
  • ポップ
  • ¥200
What Do You Know

What Do You Know

  • サント&ジョニー
  • ポップ
  • ¥150
In the Still of the Night

In the Still of the Night

  • Five Satins
  • ジャズ
  • ¥150

ソウル、ソウル、ソウル

「トライ・ソウル・レビュー」では、初めて黒人だけの観客の前で、唯一の白人グループとして演奏した。
(略)
[前座&バックバンドをやった]エキサイターズは典型的な60年代初期のボーカル・グループで、「テル・ヒム」という大ヒットがあり、おれたちが初めて知り合った本物のレコーディング・アーティストだった。
 その晩の構成は、DJつきのレコードによるダンスパーティーと、ライブ音楽(おれたち)だ。(略)
エキサイターズはスケート場のロッカールームでおれたちと会い、ゴージャスな女性シンガーたちが目の前で裸になって、しなやかな金ラメのガウンに着替えた(坊やたちが心臓麻痺を起こすロックンロール天国!)。それからステージに出て、自分たちのレコードに合わせて口パクをやり、そのあと今度はダンスフロアで、キャスティールズをバックに同じヒット曲を生で歌った。
 おれたちはひたすらソウル、ソウル、ソウルで演奏を終えた。白人のヒッピー坊やたちをうさんくさげに見ていた黒人の観客を、それなりに味方にし、恥をかくこともなくエキサイターズのバックを務めた。その日の午後に、リーダーのハーブ・ルーニーに稽古をつけてもらったのだ。彼は楽譜も読めないティーンエージャーたちの腕前を見ながら、自分のグループのバックをいちおうできるようにしてしまった。その夜、家に帰ったおれたちは、またひとつ経験を積んでいた。
(略)
 [日本製のアンプ付きで69ドルの]おれのケントのギターはとうの昔に、エピフォンの青緑色のソリッドボディに座を明け渡していた。

Tell Him

Tell Him

  • エキサイターズ
  • ポップ
  • ¥150

ティーヴ・ヴァン・ザント

フラバルー・クラブはミドルタウンにあった。中にはいると、喉元から床にまで達する異様にでかい水玉模様のネクタイを巻いてステージに立っている男が目についた。シャドウズというバンドのリードボーカルで、タートルズの「ハッピー・トゥゲサー」を演奏しているところだった。何者かは知らないが、とにかくおかしくて、バンドも息が合っていた。カバーするアルバム選びが絶妙で、アレンジとハーモニーはオリジナルに忠実で正確だった。(略)
シャドウズの五分休憩のときに、フロントマンのスティーヴ・ヴァン・ザントに紹介された。そのころにはキャスティールズの名はけっこう知れていたので、向こうはこっちを知っていた。ちょっと話をして、気が合ったところで、あっちは次の演奏に戻った。こうして最高の腐れ縁が始まった。
 以来、何年にもわたって、たがいのライブに顔を出す仲になった。(略)
 おれたちは会員二名の“褒め合い協会”だった。(略)
こいつとならわかり合える、そう思えるやつだった。スティーヴとおれは、出会ったときから、心と心、魂と魂のつきあいだった。

グリニッチ・ヴィレッジ

 ニューヨーク・シティ………バンドが富と名声を得るところだ。そこに食いこむしかない。テックスが何本か電話をかけ、なんと、グリニッチ・ヴィレッジの〈カフェ・ホワッ?〉で、土曜昼のオーディションに出られることになった。
(略)
 夢は実現しなかった。だが、ヴィレッジでの経験はでかかった。そこにいたのは無名バンドばかりだったが、どこもおれたちよりうまかった。(略)
 ジミ・ヘンドリックスが〈ホワッ?〉で演奏してから、ほんの一、二年後、キャスティールズは、毎週土曜と日曜に、同じマクドゥーガル通りの隣の会場で連続公演中のファッグスと並んで演奏するようになっていた。マザーズ・オブ・インヴェンションは角を曲がった〈ウォーウィック・シアター〉でやっていた。スティーヴとおれは、ニール・ヤングが初めてのソロ・アルバムのプロモーションをしているのを見かけたこともある。ちっちゃなフェンダーのアンプに差したトレードマークの黒いギブソンが〈ザ・ビター・エンド〉の壁に鳴り響いていた。おれたちはたいして注目されなかったが、マンハッタンのはずれから来たローティーンの女の子たちだけは追っかけになって、よく顔を見せてくれた。1968年のグリニッチ・ヴィレッジは、広くて、自由な世界だった。

ラクル・ギブソンの正体

[1968年]長くて濃密なブルーズどっぷりのジャムが当時のはやりで、おれはこんな時代を待ち望んでいた。テックスの海兵隊あがりの友だちが(略)[使っていない]ホロウボディのギブソンをさっそく出してきた。見たこともないほど長いネックだった。
 おれはそれを家に持ち帰り、きれいに掃除して、弦を張った。不思議なギターだ。だいぶ離れたところに特大のペグがあって、弦を巻くのもやっとだった。ダンエレクトロのアンプにつなぐと、すごい!……エリック・クラプトンサイケデリック・ペイントSGと同じ、厚みのあるどっしりとした音を吐き出した。「サンシャイン・オブ・ユア・ラブ」のギター・サウンドが狭い練習部屋にあふれ、おれは別次元に運ばれていった。このニュージャージーでは、誰も……誰もこんな音は出せない。
(略)
ある夜、ギターに詳しいどこかの若いやつが、おれの“ミラクル”・ギブソンの“奇跡”の正体を明かした。そいつはつかつかと近づいてきて、ギブソンの古い六弦ベースにギターの弦を張ってソロで使うなんて、すごいことを思いついたねと褒めた。おれはクールにうなずいたが、嘘だろ……六弦のベースだったのかよ!と思っていた。(略)どうりで音は濃厚だし、指板がありえないところについているわけだ。結果オーライ!
 このころ、アコースティックな曲も書き始めていた。〈オベーション〉の12弦アコースティックギターを買い、ドノバンやディランに影響を受けた“進歩的[プログレッシブ]”な曲調のオリジナル曲を書き、地元のコーヒーハウスで歌ったりしていた。別の場所ではギターを轟かせてブルーズをやっていたわけだ。

徴兵回避

[ついに召集令状が……]
1968年には、徴兵回避の情報が巷にあふれていた。(略)
 手順はこうだ――
 ステップ1 書式にぐちゃぐちゃに記入しろ。陸軍入隊の書式に自分の名前さえまともに書けない薬中、ゲイ、おねしょが治らない心神喪失者の気がぜんぶあるふりをしろ。
 ステップ2 相手を信じさせろ。ぶつぶつ言い、けつまずき、柳腰をしならせ、指示は聞かない。STPでもLSDでも、手当たりしだいやりまくる危ないやつで、ヒッピーのつまはじきになりきれ。部隊の士気をぶち壊し、規律を腐らせそうだから、役に立つどころか足を引っぱるのが関の山だ。こんなのを入隊させるなんて冗談にもならんから、とっとと帰れと言わせろ。
 ステップ3 前もって、そこそこのバイク事故を起こし、実際に脳をぐらぐらに揺らしておき、医学的な危険があるから出征できないと主張しろ。その点だけは書式に正直に書き、家に帰って“4F”――不合格――の通知を待て(おれは三つぜんぶ試し、けっきょく、思惑どおりの評価をもらった)。
 その日の朝、おれたちはほとんど黒人の若者ばかりでいっぱいのバスに乗り、アズベリー・パークからニューアークヘやってきた。ほとんど誰もが徴兵逃れの策を持っていた。(略)
 徴兵検査が終わり、陸軍をさんざんばかにしたあと、長い殺風景な廊下の突き当たりに小さなテーブルが置いてあった。そこに退屈顔の若い兵士が座っていて、人生最悪の告知をする。「残念ですが、あなたは兵役には不適格と判定されました」
(略)
 その後、一枚のチケットを渡される。言うことを聞いてここまで足を運んだ謝礼として、通りの二ブロック先のレストランでただで食事ができるわけだ。おれたちはスキップをしてそこへ行った。(略)
かび臭い硬材の長いテーブルにつき、臆病者どうし、人生でいちばんまずくて、最高の食事を食べた。
(略)
わが家のキッチンのドアをあけ、親父の前に行った。おふくろを呼んでから、どこにいたのかを言った。心配させるといけないし(略)今まで隠していたのだと。徴兵検査に落ちたことも伝えた。親父はよく「陸軍がおまえを連れてってくれる日が待ち遠しい」と軽口をたたいていたが、このときはキッチン・テーブルにつき、煙草の灰をぽんと落とし、ひと口吸い、口からゆっくり煙を吐くと、ぼそりと言った。「よかったな」
 年を重ねるにつれ、ときどき、おれの代わりに誰が行ったのだろうかと思うようになった。誰かが行ったのは確かだ。そいつはどうなったのか?生きているのか?おれには知る由もない。あとになって、『7月4日に生まれて』の著者、ロン・コーヴィックや、ベトナム戦争退役軍人会の創設者のひとり、ボビー・ミューラーに会った。ふたりとも身を挺して戦い、車椅子で戦地から帰還したのち、熱心な反戦活動家になったわけだが、おれはそのふたりに義務感と連帯感のようなものを感じた。それは生き残った者が抱くやましさのひとつの形なのかもしれないし、全国民の感情を揺さぶる戦争時代を駆け抜けた世代に共通する経験なのかもしれない。

ティール・ミル

“チャイルド”の名前が別のバンドに使われているとわかり(略)新しいバンド名を考えることになった。(略)
ティール・ミル(製鋼工場)を押したのは、たしかマッド・ドッグだったと思う。おれたちの方向性と合っていた。ブルーカラー、重厚な音楽、やかましいギター、南部の影響を受けたロックサウンド。それらを混ぜ合わせて、プログレッシブを少々加えてオリジナル曲を作れば、スティール・ミルのできあがり(略)レッド(鉛)ツェッペリンのように……原始メタルを基本にして、胸をはだけてやる原始ロックだ。
 おれたちはそのバンド名で、ディストーションを駆使したコンサートを始め、しだいに多くの客を集められるようになった。(略)
リッチモンドで大いに名前が売れ、バンド名がついたアルバムは一枚もないのに、南部でやったコンサートでは三千人を集めた。(略)二都市で四半期ごとに演奏し、入口で一ドルの入場料を取って何千ドルも家に持ち帰れる
(略)
[70年LAで勝負してみることに。トラックとステーションワゴンで大陸横断。無免のブルースも交代して運転]
マトリックス〉というクラブでオーディションを受け、今度は仕事をもらった。ボズ・スキャッグス、エルヴィン・ビショップ、チャーリー・マッスルホワイトの前座をやり、《サンフランシスコ・エグザミナー》紙で音楽評論家フィリップ・エルウッドから、正真正銘の激賞をいただいた。(略)「無名のバンドにこれほど圧倒されたことはない」
(略)
[次にステージにあがったのは]
グリンというバンドで、リードギターニルス・ロフグレンハモンド・オルガン用のレスリー・スピーカーを通してギターをかき鳴らし
(略)
ビル・グレアムのフィルモア・スタジオでデモ・レコーディングをしないかと持ちかけられた。(略)
俺たちはデモまでしか進めなかった。契約にこぎつけられなかった。
[うまいやつが沢山いるLAでは食えないと、再度、地元に帰ることに]
勝手知ったる土地に戻ってほっとした。おれたちは演奏し、金をもらった。なんて心地いいのか。トラックでニュージャージーに戻り、勝ち誇る英雄のように演奏した。勝利の証拠は……おれたちの……おれたちの……レビューだ!ニュージャージーのワルどもが西海岸の意気地なしにロックの何たるかを教えてやったと、大手紙の音楽批評家も書いているとおり、全国に名が知れ渡ったのだ?信じないなら、《アズベリー・パーク・プレス》にも載ったから読めばいい。イサカに帰還したオデュッセウスのようだと書いている。(略)
そして、腰を据えてバンドの改造を考えた。(略)
 今こそ同胞のスティーヴ・ヴァン・ザントに声をかけるときだ。仲は良かったが、ふたりともバンドのリーダー兼リードギタリストだから、同じバンドで演奏したことはなかった。スティール・ミルはそこそこ名をあげていたから、しばらくベースを弾いてやってもいいと思ったのだろう。おれたちはふたりで北の楽器店に車で行き、スティーヴはアンペグの“シースルー”・ベースとアンプを買った。(略)
ティーヴがベースを弾きはじめると、独特の弾き方と古くからの友情がバンドに新しいスピリットをもたらした。
 おれたちは元のどさまわりの日々に戻った。AからBへ、ニュージャージーからリッチモンドへ、それを繰り返す。
(略)
[スティーヴは]ボーカルとしても、心地よいハーモニーをつけてくれた。おれはずっと歌に自信がなかった。あまりいい声でもないし、音域も足りないと思っていた。
(略)
 スタイルの面では、おれはスティール・ミルのヘビー・ロック、ルーツンブギーの枠に収まりきらなくなっていた、ヴァン・モリソンジョー・コッカーの『マッド・ドッグス&イングリッシュメン』などを聴いていて、ソウル・ルーツに戻ろうかと考えていた。マッド・ドッグとスティーヴに、おれと一緒にまったくちがう領域に進まないかと話してみた。管楽器とシンガー合わせて10人編成の拡大ロックンロール・バンドを組み、オリジナルの新曲だけをやろうぜ。

善意の独裁体制

 おれたちはブルース・スプリングスティーン・バンドのシンガーのオーディションをひらいた。(略)
 高校生のパティ・スキャルファという応募者とも電話で話し、今回は巡業になるし、若いレディーは学校を休んじゃいけないなんて父親じみた忠告までした。
(略)
 おれは民主制とバンド名はスティール・ミルとともに死んだと宣言した。おれがバンドを率い、演奏し、歌い、バンドが演る曲をぜんぶ書く。それだけの仕事と責任を背負うなら、実権を握っても罰は当たらない。意思決定をめぐって言い争うのも、誰がおれの音楽の方向性を決めるのかといった点でごたごたするのもごめんだ。よけいないさかいを避けて、“霊感[ミューズ]”に従う自由が欲しかった。今後は責任を人にまわさない。金がまわってくるかどうかは知らないが。
(略)
 おれは善意の独裁体制を布き、創作の意見はおれが定めた枠組みの範囲内にかぎり歓迎されるが、契約書の署名欄に書くのも、レコードに記されるのもおれの名前だ。あとになって揉め事が出てくれば、ぜんぶおれのところにやってくる。だから、最後の決断はおれがする。

ボブ・ディラン

ボブ・ディランは“建国の父”だ。『追憶のハイウェイ61』、『ブリンギング・イット・オール・バック・ホーム』はすごいだけのレコードではない。おれが住んでいるところの真の姿を、初めてまざまざと見せてくれた。幻想と偽りのベールをはぎ取り、闇も光もこめられている。腐敗と腐食をおおい隠すつまらない礼儀や決まりきった日常に、ディランはブーツを突っこむ。ディランの表現する世界は、おれの小さな街にもすべてあり、孤独な家庭に光を投げかけるテレビにも広がっているが、解説もなく静かに流れている。ディランはおれを鼓舞し、希望をあたえる。ほかのものが怖くて口にさえできない疑問を、15歳の少年少女にはなおさら怖い疑問を投げかける。「どんな気持ちだ……ひとりきりでいるのは?」地割れのようなギャップが世代間にあき、みんな不意に孤独を感じ、脈々とつづいてきた歴史の中に見捨てられ、羅針がくるくる回転し、心が宿なしになったような気がしている。だが、ディランは真北を指し示し、灯台になり、荒地となったこのアメリカで進むべき針路を教えてくれる。
(略)
 ボブがケネディ・センター名誉賞を受賞したとき、ボブのために「時代は変る」を歌う機会があった。その後、ふたりきりで裏の階段をおりているときに、来てくれた礼につづいて、ボブはこんな言葉をかけてくれた。「おれにできることがあれば何でも言ってくれ……」おれは考えて、こう答えた。「冗談はよしてくれ。もうしてもらった」若いミュージシャンだったおれはそういう境地を目指していたのだ。経験、そして自分が暮らしている世界を映し出す声になりたかったのだ。

次回に続く。