ブルース・スプリングスティーン自伝

ラジオマン

 今夜は木曜の夜、ゴミあさりの夜だ。おれたちは動員されて出動態勢を整えている。祖父の1940年式のセダンに乗りこみ、わが町の歩道にあふれるゴミの山をひとつ残らずあさりにいくのを待っている。まっさきに向かうのは、ブリンカーホフ・アベニュー。金持ちの通りで、ゴミも最上だ。狙うのはラジオ、どんな状態でもいいからとにかくラジオ。(略)
コードや真空管でいっぱいのこの“部屋”で、おれは祖父の横にじっと座る。祖父が配線し、はんだづけをし、だめな真空管を取り替えるあいだ、祖父と同じ瞬間をひたすら待つ。ゴミの山から拾ってきたラジオの死骸に電気のささやきが、ブーンという美しい空電音が、温かい夕焼けの光が、祖父とおれの血が、ふたたび流れだす瞬間を。(略)
遠くの日曜説教師の声や、ぺらぺらしゃべるコマーシャル、ビッグバンドの音楽、初期のロックンロール、連続ドラマ、そういうもののガリガリした音で満たされる。(略)
 よみがえったラジオはどれも、夏になると町はずれのあちこちの畑に出現する季節労働者のキャンプで、一台五ドルで売られる。ラジオマン。南部の黒人を主体とする季節労働者のあいだで、祖父はそう呼ばれていた。(略)
わが家はここからの上がりでどうにかやりくりしていた。
 うちはかなり貧乏だったが、おれはとくにそう思ったことはない。服も、食べるものも、家もあった。もっと貧しい友だちは、白人にも黒人にもいた。両親には職があり、母は法律事務所の秘書を、父はフォードの工員をしていた。

カトリック・スクール

 50年代のセント・ローズの修道女たちは相当に手荒なまねをした。おれは一度、何かの罰として、八年生から一年生に落とされたことがある。一年生の机の後ろに座らされ、じっくり反省させられた。勉強から解放されて喜んでいると、誰かのカフスボタンが壁に日射しを反射しているのに気づいた。その光が天井へ這いあがるのをうっとりながめていると、担任の修道女が、最前列中央に座っている肉づきのいい生徒にこう言った。「このクラスで先生の話を聞いていないとどういう目に遭うか、お客さんに教えてあげなさい」その一年坊主は無表情な顔でおれのところへやってくると、瞬きをする暇をあたえずパシンと、おれの顔を思いきりひっぱたいた。おれは今起こったことが信じられなかった。愕然とし、まっ赤になり、屈辱感でいっぱいになった。
 グラマースクールを卒業するまでには、いろんな目に遭った。手の甲を物差しでひっぱたかれたり、息ができなくなるまでネクタイを引っぱられたり、頭を殴られたり、暗い物置に閉じこめられたり、そこがおまえにふさわしい場所だとゴミ箱に押しこまれたり。50年代のカトリック・スクールでは、どれもふつうのことだったが、嫌な後味が残った。おかげでおれは、自分の宗教から永久にはぐれてしまった。
(略)
 セント・ローズの生徒だったあいだじゅう、心身ともにカトリシズムの重圧を感じていた。八年生の卒業の日、そのすべてをあとにした。終わった、二度とごめんだ、自由だ、自由だ、とうとう自由になったと、そう思った……そう信じた……かなりのあいだ。しかし歳を取るにつれて、自分の考え方や反応のしかた、ふるまい方に、そういうものが現われてきた。“いったんカトリックになったら、いつまでもカトリック”なのだと、呆然として、しょんぼりと悟った。それで自分をごまかすのをやめた。おれは自分の宗教にはあまり関わらないが、どこかでは………心の奥では、まだその一員なのだとわかっている。
 これがおれの歌の端緒になった世界だ。カトリックの教義には、おれの想像力と内面を反映する詩と危険と闇があった。すばらしいけれど厳しい美の国、空想的な物語の国、想像を絶する罰と限りない報いの国、それをおれは発見した。それはおれが“形づくられ”たとも、“はめこまれ”たとも言える、輝かしくも痛ましい場所だ。その国は白昼夢となってこれまでずっと、おれの横を一緒に歩いてきた。

ダッチマン

 おれの曾祖父は、ダッチマンと呼ばれていたから(略)ニューアムステルダム(現在のニューヨーク)から南下してきた、迷えるオランダ人の子孫だろう。だから、うちはオランダ起源のスプリングスティーンという姓を名乗っているが、ここは断然、アイルランド系とイタリア系の血が出会うところだ。(略)
 最近おれはおふくろに、どうして三人ともアイルランド人と一緒になったのさ、と尋ねた。するとおふくろはこう答えた。「イタリアの男はやたらと威張るから。そういうのはもうたくさんだったの。あたしたちは男に威張りちらされたくなかったわけ」それはそうだろう。威張りちらしたことがあるとすれば、それはむしろ、いくぶん人目を忍びながらではあれ、ゼリッリ家の三姉妹のほうだったのだから。

親父

 おれは親父のお気に入りではなかった。男というのはそういうものだと、子供心に思っていた。よそよそしくて、打ち解けず、大人の世界のことで忙しいのだと。(略)
無視されるなら、存在していないのだ。(略)
もしかしたらもっとタフに、もっと強く、もっと運動や勉強ができるようにならなくてはいけないのかもしれない。もっとましな人間に……だが、それは誰にもわからない。
 ある晩、親父がリビングでちょっとボクシングを教えてくれたことがある。おれは親父が関心を示してくれたことがうれしくて、熱心に習った。最初は順調だった。だがやがて、親父がおれの顔に平手でパンチを何発か入れ、それが少しばかりきつく当たった。ひりひりしたぐらいで怪我はしなかったが、それは一線を越えていた。何かを伝えられているのがわかった。おれたちは親子という関係を超えた暗い冥界に踏みこんでいた。おまえは侵入者だ、よそ者だ、そう言われているのを感じた。家庭内の競争相手だ、とんでもない失望のもとだと。おれは悲しくなり、へたりこんだ。親父は愛想をつかして離れていった。(略)
[ボビー・ダンガンは]土曜日の晩は父親と一緒に、〈ウォール・スタジアム〉へストックカー・レースを見にいっていた。(略)
タイヤがけたたましい悲鳴をあげる、あのハイオクタンのパラダイスヘ。
 そこではガレージで造ったアメリカ車に乗る地元の狂人たちが、ひたすら轟々とサーキットをまわるか、はたまたフィールドの中央でたがいの車をめちゃめちゃにぶつけあう。そしてそれを見ながら家族が絆を深めるのだ。
(略)
ゴムが焦げる、あの愛のサーキット。(略)おれは親父の愛とホットロッドの天国の、どちらからも追放されていたのだ!
(略)
おれの中にいやというほど、自分の姿を見てもいた。雄牛のような体をして、いつも作業着を着ているので、たしかに肉体的には強かった。晩年には何度も死を撃退している。だが、心の内には怒りだけでなく、やさしさや、臆病さ、内気さ、夢見がちな不安定さも秘めていた。それはどれもおれの外面に表われている性質で、親父は息子のそういう自分そっくりな点が気にくわなかった。腹立たしかった。そういうやつは“やわ”だった。親父は“やわ”が大嫌いだった。もちろん自分も“やわ”に育ったのだが。おれと同じでママっ子なのだから。
(略)
 ある日おれが学校から帰ってくると、親父はキッチンのテーブルで泣きだした。話を聞いてくれる相手が欲しい。自分には誰もいない、というのだ。たしかに、45歳で友人のひとりもなく、親父の不安定さのせいで、うちにはおれしか男がいなかった。親父はおれに心の中をぶちまけた。おれはショックを受け、いたたまれなくなったが、妙にいい気分でもあった。親父はおれに自分をさらけ出した。めちゃめちゃな自分を。

ザ・リバー

 妹のヴァージニアは17歳で妊娠し、六ヵ月になるまで誰もそれに気づかなかった。高校を最上級年で中退して家で勉強し、赤ん坊の父親でボーイフレンドのミッキー・シェイヴと結婚した。(略)革ジャンを着た、雄牛乗りをやる、レイクウッドの喧嘩っ早いグリース族だった。60年代の終わりには競技ロデオに参加して、ニュージャージーからテキサスまで転戦した(略)
動じない妹は、ごたごたが片づいたあと南のレイクウッドヘ引っ越していき、かわいい男の子を産み、両親と同じ労働者階級の生活を始めた。
 ヴァージニアはそれまで湯を沸かしたことも、皿を洗ったことも、床を掃除したこともなかったが、このうえなくタフな女になった。(略)ミッキーは建築の仕事に就いたが、70年代終わりの不景気でジャージー中部の仕事がなくなって職を失い、地元の高校の校務員になった。妹は〈Kマート〉の店員として働いた。ふたりは立派な若者をふたりと、美人の娘をひとり育て、今ではたくさんの孫がいる。(略)
「ザ・リバー」はその妹と義弟のために書いた曲だ。

おふくろ

 おふくろは仕事へ行く。一日たりとも休まない。病気になることもない。嫌になることもないし、愚痴もこぼさない。おふくろにとって仕事は重荷ではなく、元気の源であり、喜びなのだ。
(略)
 正直さ、一貫性、プロ意識、親切、思いやり、礼儀、気配り、自負、名誉、愛、家族を信頼し大切にすること、社会参加、自分の仕事への喜び、生きることへの不屈の欲求。そういうことをおふくろはおれに教えてくれ、おれはそれに応えられるように努力してきた。
(略)
おふくろは謎だった。わりと裕福な家庭に生まれて、いろんな贅沢に慣れていたのに、結婚してすっかり貧乏になり、奴隷のような身分になったのだから。
 伯母たちに聞いた話だと、ひどく甘やかされていたので、幼いころは“お姫さま”と呼ばれていたらしい。指一本持ちあげることもしなかったという。はあ?おれたちの話してるのは同じ人物のこと?だとすると、それはおれの会ったことのない人だ。親父の家族はおふくろを使用人のようにあつかった。
(略)
 わが家にはデートもレストランもなく、夜に街へ出ることもなかった。親父にはふつうの家庭持ちのような社交生活をする意欲も、金も、健康もなかった。(略)
おふくろはよくロマンス小説を読み、ラジオの最新ヒット曲に夢中になった。親父のほうは、ラジオのラブソングなんてのは人を結婚させて税金を払わせるための政府の策略だ、とまで言った。おふくろもふたりの姉も、人間というものをどこまでも信頼していて、箒の柄とでも愉快に会話できるほど社交的だ。親父は人嫌いで、たいていの人間を避けていた。酒場ではよく、カウンターの端にひとりでぽつんと座っていた。自分が信じるのはけちな金を狙うペテン師だらけの世界だ、と言った。「善人なんかいやしないし、いたからってなんだというんだ」

ドライブ

 あのころ、金がなかったら家族の娯楽はひとつしかない。“ドライブ”だ。ガソリンは安かった。1ガロン26セント。だから毎晩、祖父母とおふくろと妹とおれは、町はずれまで通りを流した。それはわが家の夜ごとの楽しみであり、習慣だった。暑い晩には大型のセダンの窓を大きくあけたまま、まずメイン・ストリートを走り、それから町の南西のはずれのハイウェイ33号線のきわまで行き、そこで予定どおり〈ジャージー・フリーズ〉のアイスクリームスタンドに立ち寄る。
(略)
妹とおれは車のボンネットに座って幸せのあまり黙りこみ、物音はすべてジャージーの湿気に包まれ、そばの森で嗚くコオロギの声しか聞こえない。黄色い屋外照明はネオンの炎の役割を果たし、何百もの夏の虫がひらひらくるくる飛びまわる。
(略)
北のはずれまで行くと(略)町の電波塔がそびえている。[明るい赤色の航空標識灯が縦に三つ](略)
車のラジオが50年代末の浮世離れしたドゥーワップサウンドで輝くと、おふくろはよくこう説明してくれた。(略)
縦に並んだ三つの光は、巨人の上着についている赤い“ボタン”が光っているだけなのよと。(略)
アメリカのポピュラーソングの美しいサウンドケネディ暗殺という嵐の前の平和。静かなアメリカ、恋人を失った悲しみが電波に乗って漂うアメリカ。
(略)
 もう少し大きくなると、東へ突き出して夜の海に消えている暗いマナスカン突堤の石積みの上を歩いていった。突端からまっ暗な大西洋を見渡しても、遠くできらめく夜釣りの船の明かりが水平線のありかを示しているばかりだった。耳を澄ませば、はるか後ろの海岸で波がリズミカルに砕け、石積みに打ち寄せる海水が砂だらけの素足にかかる。モールス信号が聞こえた。暗く広大なその海のかなたから届く福音が。夜空には星々が明るく燃え、それがひしひしと伝わってきた……何かがイギリスからやってくるのが。

ビートルズ

最初に見つけたのは、トニー・シェリダン・アンド・ザ・ビートルズとかいう代物だった。まがいものだ。ビートルズは、おれの聞いたこともない歌手の歌う「マイ・ボニー」のバックをやっていた。おれはそれを買って聴いた。すばらしくはなかったが、しかたなかった。
 毎日のようにそこへ通ううちに、ようやくそれを目にした。その“アルバム”のジャケットを。古今を通じて最高のアルバム・ジャケット(『追憶のハイウェイ61』と互角)。そこには『ビートルズに会おう』としか書かれていない。それこそおれの望んでいたことだ。半分影になったその四つの顔、ロックンロールのラシュモア山……そしてその髪型……髪型。これはいったいなんなのか?驚きだった。衝撃だった。ラジオではわからなかった。(略)
そんな髪型をするには、尻をひっぱたかれたり、侮辱されたり、危ない目に遭ったり、拒絶されたり、のけ者にされたりするのを覚悟する必要があった。(略)
おれは侮辱は無視し、肉体的な対立はなるべく避け、せざるをえないことはした。仲間は少なく、高校じゅうで二、三人ぐらいだった。(略)
親父の最初の反応は笑いだった。(略)次は、腹を立てた。そして最後に、いきなりこう訊いてきた。「ブルース、おまえゲイか?」
(略)
すべてのビートルズのレコードのために生きていた。(略)[雑誌の写真を見て、それが]自分だと夢想した。自分のイタリア系の癖毛が奇跡のようにまっすぐになり、顔のにきびが消え、あの銀色のぴかぴかのネールスーツに身を包んでいるところを。(略)
まもなくわかった。おれはビートルズに会いたいんじゃない。ビートルズになりたいんだ。

ダンス、初めてのキス

わが家からほんの50歩のところにあるYMCAで、金曜の晩のキャンティーン(10代向けの社交の集まり)にも参加していた。これは学校の修道女たちのお達しにより厳禁されている行為だったから、異教徒に交じって金曜の夜の悪魔の儀式に参加したのがばれると、月曜の朝は、いい子ぶった八年生のクラスの前で、ひどい目に遭わされたものだ。
 このYMCAの薄暗い観覧席の上のほうで、おれは初めてのキス(マリア・エスピノーサ!)と、初めてのダンスフロアでの勃起
(略)
うまくいった晩には、町の反対側にあるセント・ローズのライバル中学(ああ!公立!)の見知らぬ女の子たちと、ずっと踊って過ごしたものだ。あのスモーキーな化粧をした、タイトスカートの女の子たちは誰だったのだろう?
(略)
 ここでおれは初めて人前でダンスをし、ウールのスカートとの接近遭遇のあとのうずくタマを抱え、家までの50歩をひょこひょこ歩いて帰った。お目付役たちは観覧席で目を光らせていて、スローなダンスのあいだは、少しでもくっつきすぎだと思えば、持っている懐中電灯でこちらを照らした。だが、できるのはそれぐらいだった。一千年の性的渇望が、懐中電灯一本で阻止できるはずもない。最後にポールとポーラの「ヘイ・ポーラ」が、どうしようもなく性能の悪い体育館のサウンドシステムから流れるころには、男も女もみんなダンスフロアに出て、自分にもたれてくる体ならどんな体でもまさぐった。
(略)
金曜日が来ると、おれはぴちぴちの黒いジーンズをはき、赤いボタンダウンのシャツと、赤い靴下、爪先の細くとがった黒のブーツを身につける。あらかじめおふくろのヘアピンをちょろまかして、きっちり押さえつけて寝ているから、前髪はブライアン・ジョーンズの髪のようにまっすぐになっている。

Honky-Tonk Bill Doggett - Live 1972 France

ホンキー・トンク・ア・ラ・モッド!

ホンキー・トンク・ア・ラ・モッド!

Honky Tonk (Part 1)

Honky Tonk (Part 1)

  • ビル・ドゲット
  • ロック
  • ¥150
  • provided courtesy of iTunes

ビル・ドゲット「ホンキー・トンク」

 当時ギターをやろうとするやつがこぞってマスターしようとしたのが、ビル・ドゲットの「ホンキー・トンク」だ。信じられないほど初歩的で、理論上はどんなばかでも理解できるはずで、しかもヒット曲!ツー・ストリングのブルーズ協奏曲、泥くさくダーティなストリップの名曲で、今聞いてもかっこいい。それをドニーが教えてくれ、おれたちはふたりして斧をふるう殺人鬼のようにそれをずたずたにした。ホワイト・ストライプスよりはるか昔に、ふたりでそのブルーズをこてんぱんにした。歌う?……何に?何て?おれたちはマイクも声も持っていなかった。
(略)
1964年のニュージャージーの小さな町では、誰も歌わなかった。バックバンドを持つボーカルグループはあったし、ベンチャーズを手本に楽器だけを演奏する、ボーカルのいないバンドもあった。だが、自分たちが演奏して歌うコンボはなかった。それはビートルズアメリカに来た際にもたらした革命のひとつだ。(略)
それ以前、典型的な地元バンドのセットリストといえば、シャンテイズの「パイプライン」、サント&ジョニーの「スリープ・ウォーク」のほかシャドウズの「アパッチ」、ベンチャーズの「アウト・オブ・リミッツ」、ピラミッズの「ペネトレーション」、キングスメンの「ホーンテッド・キャッスル」など、純粋なインストルメンタル曲ばかりだった。60年代初期の高校のダンスパーティーでは、シェヴェルズのような地元のトップバンドがマイクなしでひと晩じゅう、狂ったように踊る観客にひとことも語らずに、演奏したものだ。

ワイプ・アウト

ワイプ・アウト

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「ワイプ・アウト」

 バート・ヘインズはおれたちのむちゃくちゃなドラマーで、手に負えないやつだった。(略)頼もしいドラマーなのだが、ひとつ妙な弱点があった。「ワイプ・アウト」のドラムビートがたたけないのだ。
(略)
あのころは……早い話が、ドラマーは無事に家に帰りたければ、その晩のどこかで「ワイプ・アウト」をたたかざるをえなかった。パートはそれができなかった。何をしても、いくら努力しようと、彼の手首はその初歩的なリズムをたたくのを拒んだ。(略)
 夜が更けるにつれ、観客の後ろからライバルのドラマーたちが、にやにやしながら声をかけてくる。
 「『ワイプ・アウト』をやれよ」最初は無視しているが、そのうちバートは小声で“うるせえな”と言い返すようになる。(略)「黙れ……黙れ……」そしてついに、「やってやろうじゃねえか」と言う。そこでおれたちは演奏する。で、あの華麗なドラム・ブレイクがやってきた瞬間……バートは失敗する……毎回。スティックどうしがぶつかり、単純なリズムがごちゃごちゃになり、ついにスティックを落っことす。顔がまっ赤になり、ショーは終わる。
 「くそったれどもめ!」
 まもなくバートはドラムスをやめて海兵隊にはいった。ある日の午後、駆けこんできてにやにやしながら、ベトナムヘ行くことになった、とおれたちに伝えた。ベトナムがどこにあるかも知らない、と言って笑いながら。出発の数日前、最後にもう一度だけ、マリオンとテックスのダイニングルームにやってきて、青い制服姿でドラムの前に座り、「ワイプ・アウト」に挑戦した。そのあと、ベトナムクアンチ省迫撃砲にやられて戦死した。ベトナム戦争で死んだフリーホールドで最初の兵隊だ。

次回に続く。