ユーゴ紛争―多民族・モザイク国家の悲劇

22歳のヘラク

どのような刑が自分にふさわしいと思うかと裁判長からたずねられ、静かに言った。
「死刑にしてください」(略)
 戦争がはじまるまで、小学校卒(義務教育は八年制で、日本の中学二年相当)のヘラクサラエボ市内の繊維工場で台車を押す労働者だった。友人の中にはムスリム人も多く、民族(宗教)が違うという理由でトラブルがあったためしはない。断食明け(バイラム)などイスラム教のお祝いの時にはムスリム人の家に招かれたし、セルビア正教のクリスマスには逆に彼らを自宅に呼んだものだった。
 他民族と仲が悪いどころか、姉のリュビンカはムスリム人のタクシー運転手のところに嫁いでいる。父方の祖母はクロアチア人だ。民族が入り混じって共存するボスニアの多くの人間同様、ヘラクも「純粋のセルビア人」ではない。戦争がはじまった後もへラクは(略)ムスリム人やクロアチア人と一緒に、サラエボ防衛のための自警団パトロールに参加していた。
 ヘラクセルビア側兵士になろうと決心したのは、しつこく誘う伯父の「来なければ民族の裏切り者になる」というひとことだった。「セルビア軍に志願すれば、家もテレビも、それに給料ももらえる」というのも魅力だった。(略)
それに伯父は「サラエボに残っていれば、ムスリム人に殺されることになる」とおどかした。
 セルビア側陣地では、元ボスニア内務省特殊部隊隊員のリスト・プスティブクという男から「特殊訓練」をほどこされた。旧ユーゴ海軍での兵役中に小銃の撃ち方ぐらいは心得ていたヘラクだったが、ナイフ一本での格闘訓練には驚いた。人間の代わりにブタが相手だった。あばれるブタを地面に押さえ込み、髪の代わりに耳を持って仰向けにさせ、首の動脈を切る。血しぶきが飛ぶ。血は生暖かい。……ブタ二頭をほふって、ヘラクは「セルビア民族の戦士」に変身した。
 その数日後、はじめて人間を殺した。サラエボ近くのドーニャ・ビオチャ村で捕虜にした六人のボスニア軍兵士だ。ヘラクは命じられて、三人をカラシニコフ銃で撃ち、残り三人は後ろ手に縛ったままナイフで殺した。オスマンという名の男は「たのむ、殺さないでくれ。おれには女房とまだ小さい子どもが二人いるんだ」と何度も叫んだ。ヘラクはだまってオスマンの首にナイフを当てた。上官から忠誠心を試されている、やらなければ自分がやられるとヘラクは思った。
 しばらくしてオスマンは、ヘラクの夢の中にあらわれるようになった。ヘラクは同じ夢を何十回も見た。そのたびに汗びっしょりになって目覚める。タバコをふかし、眠りに落ちると、またオスマンがあらわれるのだった。
(略)
 上官の命令は「アハトブツィはセルビア陣地の間にある戦略的な地域で、セルビアの村として浄化しなければならない。動くものはすべて殺せ。村はムスリム人とクロアチア人だけで、セルビア人はいない。家はすべて焼き払え。仮に生き残ったものがいても、戻れないようにするのだ」というものだった。実際には略奪も目的だ。月給10ドイツ・マルク(約700円)ほどの兵隊たちにとっては、割りのいい「副収入」になる。
 最初の家には子どもを含む五人がいた。タンス預金のドイツ・マルクや金などの装飾品を出させた後、全員を撃ち殺す。電化製品など目ぼしいものを集めていると、外にトラクターが到着した。戦利品を荷台に乗せ、次の家に向かう。ここでは500マルクを分捕った。主人夫婦が「セルビア人」と書かれた身分証明書を出したが、二人とも撃ち殺した。上官は村にセルビア人はいないといっていたし、テレビを持っているような金持ちは、たとえセルビア人でも殺してかまわない、とヘラクは思った。
 三軒目の家に入ると、地下室から話し声がした。降りて行くと女が二人いて「悪いね、うちには何もないよ」という。年取った方の頭をいきなりカラシニコフで吹き飛ばす。もう一人の中年の女はあわてて立ち上がり、タンスの下を示した。500マルク、金のブレスレット、イヤリング、指輪などが隠してあった。中年の女も射殺した。
 四番目の家では、子ども四人、女二人、男四人の十人が地下室に隠れていたのを見つけた。金目のものを出させた後、銃を突き付けながら、「こわがらなくていい。何もしないから、おとなしく壁の前に立て」と家のそばに並ばせた。一番小さい子どもは10歳ほどの女の子で、赤い洋服を着ていた。だれかが「撃て」と叫んだ。赤い洋服の女の子がおばあちゃんの陰に隠れようとするのが見えたときには、引き金を引いていた。(略)
 この「作戦」の後、ヘラクは近くのセルビア人の村で、念願のテレビを買った。テレビのほか、ビデオデッキと電気掃除機も買った。
 捕まるまでの半年弱でヘラクが戦闘以外で殺した人間の数は、少なくとも30人にのぼる。この中には二つの村での略奪・焼き打ちのほか、ボゴシュチャ町近くのカフェ「ソーニャ」で暴行し、殺したムスリム人女性が含まれる。
 カフェ「ソーニャ」は宿泊施設付きドライブインだったが、いつのまにか女性用監獄になった。「監獄」とは名ばかりで、15歳から30歳前後までのムスリム女性を連行してきてはセルビア人兵士たちの性的欲望の対象にする、レイプのための強制収容所だ。ヘラクはここに、多いときには三、四日に一回の割りで通った。
(略)
 「ソーニャ」では暗黙のうちに「用がすんだら連れ出して殺す」のがルールになっていた。山の中に生きたまま置き去りにしたこともあったが、ほとんどは射殺し、ヤブの中に捨てた。暴行し、殺した後も、「ソーニャ」にはたえず、どこからか新たな女たちが連れて来られていた。一方、「ソーニャ」から10キロ余りしか離れていないイリヤシュ町の「女性監獄」では、女たちを殺さなかった。「セルビア人の子どもを産ませる」のが目的だった。イリヤシュの兵隊たちは、そういう命令が出ているとヘラクに話していた。
(略)
 ある日、ヘラクの父親がムスリム兵に殺された、という知らせが届いた。悲しい知らせだったが、自分を誘った伯父やセルビア人幹部のいったとおりになった、とヘラクは思った。サラエボを捨てた自分の行動や「民族浄化」は間違っていなかった、と思った。
 ヘラクが接した「人間の死」は数えきれない。三台のバスにボスニア軍兵士が乗っているといわれて、対戦車砲迫撃砲を撃ち込んで炎上させたら、乗っていたのは避難途中の女性と子どもだった。セルビア軍の「特殊捜査部隊」は、女や子どもを含むムスリム人捕虜を射殺したり、生き埋めにした。
 捕まったヘラクが驚いたのは、ムスリム人に殺されたはずの父親が無事だったことだ。おまけに、いさぎよく真実を話すようにと、ことづけまでしてきた。(略)
ラクの内部で何かが崩れ去った。何もかも話そう、と心に決めた。話してどうにかなるものでないことも、分かっていたけれど。

これが戦争というものなのだろうか?

[即席バリケードを突破しようとした兵員輸送車は民家の庭先に突っ込んで停止]
 まるで交通事故の現場のようだ。やじ馬の規制にあたる警官は、真新しいスロベニア警察の徽章をつけている。一昨日まで、警官の徽章はユーゴ全国共通の赤い星だった。(略)
 長い間ユーゴに暮らしていた私の実感として、警官も軍人も庶民にとっては同じ国家機関であり、一枚岩の協力・連携をしているように見えたものだ。しかしこの朝、連邦軍兵士とスロベニア警察官の表情は対照的だった。
 トルジン村の民家の前で、軍人は「事故」を恥と感じ、アジア人の新聞記者をにらみつけ、やり場のない怒りを持て余している。一方、警官は明らかに戸惑いながらも、素手同様で戦車を止め「してやったり」という表情でニヤリとしている。昨日まで同じ国の権力機関に属していたものたちが「独立宣言」を境に敵味方に分かれる。「独立」とはそういうものなのかと、不思議な感じがした。
(略)
 何の変哲もない農村、ふだんは退屈で眠たげであろうこの村に、ある朝早く、突然、戦車がやって来た。50年前のヒトラーと同じだと感じるのも無理はない。
 しかし、この時点で、トルジン村の住人たちも、わたしたちマスコミ関係者、そしておそらく連邦軍の兵士たちも、「戦争」というものを実感しかねていた。われわれの目の前にあるのは、「事故」を起こした戦車三両と大破した乗用車、トラック、観光バス。取り囲むやじ馬。これが戦争というものなのだろうか?(略)
[だが出発した直後、戦闘が起きた]
立ち往生する戦車と兵士を救出するため、連邦軍ヘリコプターが降下作戦を決行した。スロベニア軍との間で銃撃戦(略)
わたしたちがトルジン村で見たものは、やはり本物の戦争、正確にはその序幕だったのだ。

投降した国境守備隊

[出動命令が出て国境の施設で警戒態勢に入った国境守備隊。夜が明け]
周囲が明るくなると、自分たちが武装した集団にぐるりと囲まれていることに気がついた。
 よく見ると、こちらに銃を向けているのは知った顔だ。連邦の指揮下にあるとはいえ、国境守備隊員の圧倒的多数は地元出身。スロベニア軍兵士と彼らは幼なじみなのだ。
 「おーい、お前たち、いったい何やってんだ」
 「お前こそ、何やってんだ」
(略)
「外敵が攻めてくるわけではない。連邦軍スロベニアの独立をやめさせようと、戦車部隊まで出動させているのだ」と、同じスロベニア人から説明されると、守備隊員たちは「何だ、何だ、そういうことか」と、あっさり「投降」し、逆にスロベニア軍の兵士として、連邦軍と戦うことにした――。

自滅した連邦軍

 スロベニア戦争は連邦軍側の完敗に終わった。
 連邦軍の主力を占めるセルビア人たちは、勤勉だが性格の穏和なスロベニア人を「本質的弱虫民族」と、常日頃から馬鹿にしていた。そして、「戦車さえ出せば、驚いて独立を断念するだろう」と甘く見て、作戦ミスをおかした。(略)
[水も食料も持たずに出動し]
夜明けまでには国境線や空港を制圧できると考えていたのだろうが、思わぬ抵抗と反撃にあって驚いた。
 スロベニアがアルプスのふもとに位置し、丘陵・山岳地域が多いことも、戦車の作戦には不利だった。丘陵や森林を縫うように走る幹線道路がバスやトラックの即席バリケードで封鎖されると、戦車部隊は迂回できず、立ち往生させられた。運のよかった部隊は近所のスロベニア人から水を「さし入れ」てもらったが、飢えと渇きでどうにもならなくなった戦車兵が近くの商店を襲った例もある。
 各共和国に指揮権がある領土防衛隊(TO)の武器は90年の自由選挙前、連邦軍駐屯地に移され、本来スロベニアTO所有の戦車や大砲など重火器も「敵側」に保管されていた。このためスロベニア政府は、大量の自動小銃や対戦車砲などをひそかに密輸入し、独自の「準備」をしていた。連邦軍は、クロアチア軍には内偵部隊を潜入させ、武器購入現場を隠し撮りし、「クーデタ」も計画するなど警戒していたが、スロベニアには無警戒だった。連邦軍に残っていたスロベニア人将校などからの作戦情報を、スロベニア側が事前に入手していた形跡もある。
 相手をなめるなど情勢判断を誤り、情報戦にも最初から負けていた連邦軍は、自滅したといっていい。
(略)
 スロベニアを独立させ、旧ユーゴを崩壊させたのは結果的に、連邦軍の武力介入方針そのものだった。スロベニア側は「独立戦争」に勝ち、後戻りができなくなった。(略)
[スロベニアは]セルビア主導の中央集権強化を嫌い、旧ユーゴをゆるやかな「国家連合」に作り替えようと提案し、それが拒否されて「独立」を決定した。

自己申告制だった所属民族

 旧ユーゴでは、国勢調査などでの民族決定を、各個人の自己申告にまかせていた。自分で所属民族を決めることができたのだ。
 最新の国勢調査では数千人が「エジプト人」として登録された。マケドニアの一部地域の住民が、集団的に「自分たちはエジプト人だ」と申請をしたのだ。報道によると、彼らは日常的にはマケドニア語を話し、大多数はイスラム教の信者という。古い言い伝えに「祖先はエジプトからわたってきた」とあり、91年に初めて「素性を明かした」のだという。「エジプト民族」はエジプトにもいない(国民の多数はアラブ人だ)。

新しい民族、マケドニア

 いまでもブルガリア政府は「マケドニア民族」の存在を断固として認めない。ブルガリア政府は「マケドニア共和国」を独立国として承認しているが、この背景には、セルビアの影響下からマケドニアが離れることを歓迎する、野心的な動機がある。マケドニア民族を承認したのではない。
 マケドニア人が「民族」と認められたのは第二次大戦中だ。「セルビア人」と扱われていたマケドニア人たちは初め、枢軸側のブルガリア軍侵攻を歓迎したが、すぐに「大セルビア」から「大ブルガリア」に支配者が交替したにすぎないことをさとった。マケドニア人を民族として認め、将来の連邦国家マケドニアを共和国とすると約束するパルチザン抵抗運動が、しだいに支持を集めていく。
(略)
 一方、ギリシャ人にとっては、アレクサンドロス大王の王国の名前を勝手に使われるのは我慢がならない。旧ユーゴ時代にも、ギリシャの政治家は「マケドニア」と呼ばずに、「スコーピエ政権」と呼ぶならわしだった。現マケドニアの首都スコーピエは、古代マケドニアには含まれていなかった。(略)
[マケドニアの独立承認に反対し、ギリシャ北部で]数十万人が「マケドニア人とはオレたちのことだ」というプラカードを掲げてデモ行進した。
 マケドニア人たちの側でも、新独立国の国章と国旗を、よせばいいのに「日の沈むことのない大帝国」の象徴である古代マケドニアの国章(黄金の太陽)と定めた(国旗は赤地に黄色)。ギリシャ側は「スコーピエ政権は領土的野心がある」と猛反発(略)
 マケドニアは独立宣言から一年七ヵ月後の九三年四月、「旧ユーゴ・マケドニア共和国」という奇妙な、仮の国名で国連に加盟した。その後、事務総長が「新マケドニア共和国」と呼ぶように勧告したが、本書執筆段階では双方とも頑強に抵抗している。

ムスリム民族

 ムスリム人は71年の国勢調査で初めて「民族」として認められた。(略)
 旧ユーゴではムスリム人を「民族」として認める以外に、民族対立(とくにセルビアクロアチアの対立)を緩和する方法はなかった。ボスニアのイゼトベゴビッチ幹部会議長(大統領)は、次のように語っている。
 「われわれムスリム人は、(セルビア中心の)ユーゴ王国時代、お前たちはセルビア人だといわれた。大戦中、ボスニアが『クロアチア独立国』の一部になると、おまえはクロアチア人だといわれた。真実はどちらでもない、ムスリム人なのだ」
 この「どちらでもない」という特徽こそが、旧ユーゴでムスリム人が「民族」となった重要な要因である。セルビアクロアチア双方の民族主義は「ムスリム人はもともとセルビア人(クロアチア人)だ」と主張し、ボスニアを草刈り場として対立を繰り返してきた。これは現在のボスニア戦争にも共通している。
 ムスリム人も、もとはキリスト教徒だった。500年のオスマン帝国支配下で、イスラム教を受け入れた人々の子孫だ。
(略)
 ボスニアの主要三民族は、自然人類学的外見はもちろん、言葉もまったく同じだ。宗教を除くと区別できない。彼らは昔から、宗教に付随する風俗習慣の違い(礼拝方法や断食その他)で、相手を「違う集団」と認識していたが、この意識を基礎に近代的な「民族」が形成された。特定の宗教の信者だけを「民族」としたのでないことは、かつての共産党員など「無神論者」も堂々と「ムスリム人」をなのっていたことでもわかる。
 前の項で述べたマケドニア人と同じように、ムスリム人も周辺の大民族主義の対立を背景に「どちらでもない」民族として認められた。
(略)
最近はにわかに、礼拝するムスリム人、女性のベール姿(以前はネッカチーフが主流だった)が目立つようになった。民族主義政党の対立で起こった戦争が、庶民レベルでの「民族」の自覚、つまり宗教回帰をうながしている。セルビアクロアチアでも、信心深いと自慢するものが増えた。戦争と対立が、民族主義を拡大再生産している。

セルビアクロアチア語

セルビア語とクロアチア語は方言の差はあるが、アメリカとイギリスの英語のようなものだ。文字はセルビアモンテネグロでは主にロシア語に似たキリル文字クロアチアではラテン文字を使う。民族が混在するボスニアの新聞は、ページごとに文字をかえて発行していた。
 このセルビアクロアチア語は、建国から崩壊まで、旧ユーゴと運命をともにした。
 19世紀前半、セルビア人とクロアチア人は、国境の向こうに同じ言葉を語す人間がいることに気がついた。現在の表記方法を確立した国語改革の父、セルビア言語学者ヴーク・カラジッチは「ウィーンの南はみんなセルビア人だ」と断言した。別のクロアチア人学者は「みんなクロアチア人だ」と主張した。こうしてユーゴスラビア建国をめざす、クロアチアセルビアの統一運動が起こる。
 当初は知識人の言語文化運動として、まずクロアチアではじまった。
(略)
 皮肉なことに、いまではクロアチア人の側が執拗に、「クロアチア語セルビア語とは違う言語だ」と主張している。
 旧ユーゴの崩壊とともに「セルビアクロアチア語」を公用語とする国は、なくなってしまった。
(略)
 92年春、国連が「国連軍とは何か」というビラを作成、配布した。クロアチア人向けにはラテン文字で、セルビア人向けにはキリル文字で印刷されていたが、クロアチア政府はこれに「文字だけでなく、単語も変えなければ、『ラテン文字で表記したセルビア語』に過ぎず、正しいクロアチア語の文書とはいえない」と文句をつけた。
 クロアチア政府は現在、言葉の呼び方だけでなく、単語や文法まで変える「クロアチア語浄化運動」を進めている。「旧ユーゴ時代の70年余りもセルビア語の影響を押し付けられ、ゆがめられたクロアチア語をただす」ことが目的だ。
 十数年ぶりに帰国した出稼ぎ移民は、大統領のありがたい演説がよく分からない。イギリスに長く住むある女性は、「祖国」クロアチア代表団の通訳手伝いを志願したが、「クロアチア語」が分からず、「あなたの言葉はセルビア語だ」となじられた。

ミロシェビッチ

ミロシェビッチ本人は当時、民族主義を政争の道具と考えていたに違いない。セルビアで基礎を固めた後、「第二のチトー」あるいは「チトーを超えた指導者」として、旧ユーゴに君臨する計画でいたかもしれない。しかし、セルビアだけでなく、他の民族主義も眠りから覚まさせ、旧ユーゴは崩壊してしまう。

民族主義に塗りつぶされて

 セルビア共和国憲法が改定された89年当時、ベオグラードは官製の祝賀ムードでいっぱいだったが、わたしの観察では、好戦的・熱狂的なセルビア民族主義者は一部にすぎなかった。少なからぬ市民は縁故にしばられ、「民族の危機に立ち上がらぬものは何よりも卑怯、下劣だ」との伝統的な考え方の圧力を受け、受動的に賛同していた。しかし表面的には、セルビア指導部の強権発動と各地で繰り返される大集会は、セルビア民族主義一色に塗りつぶして見せ、ユーゴ全土にはかりしれない衝撃を与えた。
 まずスロベニア、続いてクロアチアで、「次は自分たちが弾圧される」「ユーゴがセルビア中心の中央集権国家に再編される」という危機感が広がった。(略)
[スロベニアの集会で]セルビア当局を「野蛮」などと批判した。
 この翌日、ベオグラードでは30万人(公称は200万人)の集会が開かれ、スロベニア人を「スラブ民族の裏切り者」と非難した。同じ南スラブ民族なのだから、セルビアの味方をしろ、という論理だ。ベオグラードではスロベニア製品不買運動がはじまり、スロベニア企業のベオグラード支店もあいついで本店から「独立」した。
 この年の秋、ベルリンの壁が開き、冬にチャウシェスクが処刑された。(略)旧ユーゴは連邦はなだれをうつように崩壊に向かって行く。

マスコミと情報操作

 旧ユーゴではかなり前から各共和国の利害、主張が対立していたが、テレビやラジオの全国放送はなかった。全国紙は一紙だけ。各地の方言・言語で印刷され、内容もバラバラの六共和国二自治州の新聞全部を読まないと「本当のユーゴは分からない」といわれたが、わたしは四紙がやっとだった。
 ユーゴ紛争は80年代後半、民族主義をあおったこれらのマスコミが準備した。戦時下でも、軍隊並みかそれ以上に戦局を大きく左右した。各当局にとって、マスコミは国民を戦争に動員し、国際世論に訴える重要な武器だった。
 マスコミは相手側を「ウスタシャ」「チェトニク」「イスラム原理主義」と、黒一色に塗り潰し、自分の民族は共通して「被害者」「自分たちの権利を守っているだけ」と、天使・聖人のごとく描いた。テレビは死体の映像も、これでもかとばかりにたれ流す。ベオグラードでは一時期「ニュースを見ない運動」が呼びかけられた。
 どれも「大本営発表」だ。「敵軍隊が停戦合意を無視したので、反撃を余儀なくされた」という一方の報道を聞いたら、「敵部隊が迫撃砲で攻撃してきたが、挑発にはのらなかった」という他方の報道も聞く必要がある。慣れると「強力に反撃した」などの表現で「激戦があった」とわかる。しかし、どちらが優勢かなどは、早くても数日後、多くの場合は永久にわからない。
 テレビは、現代「情報戦争」の主力兵器として、各派ともとくに重視した。
(略)
24時間「戦争のために」という名の番組だけ。「進めクロアチア防衛隊」「わが祖国」などの愛国歌をはさんで、政府発表、各地の戦況、教養番組「クロアチア民族の歴史」などが続く。映画やアニメはない。スポーツ担当者まで戦場に送り、選挙レポートさせた。

ありがとう、ドイツよ

[92年1月]クロアチア国営テレビから「ダンケ・ドイチュラント(ありがとう、ドイツよ)」という歌が流れた。歌詞もドイツ語だった。(略)ECがクロアチアの独立を承認した当夜のことだ。
 消息筋によると「国家上層部の指示で、放送の三日前に急遽作詞作曲され、前日に録画された。(略)
ECの独立承認が、ドイツのごり押し工作の結果だったのは事実だが、クロアチア人の間でも「卑屈すぎる」という声が聞かれた。
(略)
 当時、数十万人のセルビア人が強制収容所などでウスタシャに虐殺された。彼らの目から見た統一ドイツは、ヒトラーの「第三帝国」に続く、まぎれもない「第四帝国」である。欧州制覇の野望をいだく大ドイツが、手初めにユーゴの分裂をねらい、ふたたびクロアチアを衛星国にした、とセルビア人たちは感じた。カディエビッチ連邦国防相は、ドイツが「(両世界大戦に続く)20世紀で三回目の、我が国への侵略を開始した」と激しく非難した。
 セルビアの国営ベオグラード放送は、「ダンケ」の歌を繰り返し放送した。クロアチア人の卑屈さを笑いものにし、同時に「ドイツの侵略」の危険を国民に警告するためだ。
 クロアチア独立承認はドイツの支援なしには不可能だった。コール政権の中でもとくにゲンシャー外相が積極的で、独立承認によってクロアチア戦争をやめさせられる、また後には、ボスニアヘの拡大を阻止できると主張した。
 ゲンシャーは91年夏以降、たびたび「戦闘が続けば、クロアチア独立を承認する」と述べた。セルビア側や連邦軍を牽制し、圧力をかけるためだったが、クロアチア政府はこれを逆手にとって「承認のためには戦闘を続ければいい」と停戦違反の攻撃をくりかえし、戦況を悪化させた。
 早期承認論にはイギリスやフランスが抵抗するが、ドイツは(略)単独承認を決定し(略)
EC諸国は市場統合を一年後に控え、紛争解決より「加盟国の一致」を優先させたい事情もあった。ドイツの強引な圧力の勝利だった。
 この背景には、ドイツが統合ECの内部で主導権を握るとともに、旧ソ連の勢力圏から離れた東欧諸国という広大な市場にまで、ドイツの影響力を拡大・強化しようという衝動があったことは、間違いないだろう。
(略)
[ドイツは経済で欧州制覇できたのに、なぜユーゴを分裂させたか。クロアチアからの出稼ぎ・移民が多く]
一説には60万人というクロアチア系移民組織は、「祖国支援」をドイツ国内で訴えた。
 すでに「統一」の悲願を達成していたドイツ国民は、自分たちと同様に「民族自決」を求めるクロアチア人の訴えに(同時に、これを報じる自国のマスコミに)、心を動かされた。しかもドイツ国民の目からは、クロアチアの独立を妨げるセルビアミロシェビッチ大統領が(略)[ソ連や東独の]「共産主義の独裁者」として二重写しになって見えた。
 外相を18年間もつとめた「歩く西ドイツ外交」のハンス・ディートリッヒ・ゲンシャーまでが、「民族感情」のとりこになったようだ。(略)ドイツ政府のある高官は「理性より感情的要素が強かった」と述懐している。