内村剛介インタビュー シベリア抑留「脱欧・入亜」

ハルビン学院における「五族協和

李明旭は、日本人・中国人全員の中の最年少の大秀才で授業中も全くノートをとらない。「何故ノートをとらないんだ?」と訊くと、「そうすると紙に頼るようになっちもうからよ」ときた。(略)「聞いていて忘れるとすれば、それは俺に縁がなかったのさ。(略)」と平然としている。(略)
[卒業間近、物産に就職するというので、外交官合格間違いなしなのに何故と訊くと]


李 ああ、俺は役人というやつが嫌いなんだよ、簡単に言っちもうとそういうわけ。でも、もっと言えばだな、ナイトウ(内村氏の本名、内藤操)よ。俺は中国人ってやつがわからないんだ。俺自身が中国人ってことになっているけど、中国は知れば知るほどわからなくなる。それが中国ってもんだ。(略)
だから、俺は日本を選んだんだ。(略)
だって、お前ら、単純明快、底まで分かるからだよ。


これを聞いて、本当にがっくりきましたね(笑い)。お前らジャパニーズは単純明快である。だから死ぬんなら、この単純さの中で死にたい。不可解の中では死にたくない(略)これはとても正直な態度表明だったと思います。というのはどういうことかというと、われわれは四年間を共に暮らして、それくらい日本人・中国人ということの差が無くなっていたということの証拠でもあるのです。当時、もし少しでもそんなこと喋ったのを聞かれたら、もういっぺんに憲兵に連れて行かれます。つまり、お互いに絶対に裏切らないと思っているからこそ本音を喋っているわけですね。
 というわけで、あなたの言った「五族協和」といった理念を当時の学院生がどう捉えていたのかという問題は、具体的な側面に即していくと、そういうお題目はそれとして、われわれ自身はそんなスローガンを突き抜けて、あくまで一対一で付き合っていたということです。

リベラリズム

ロシア語ではリベラールヌイ(リベラル的な)と言って、これまで蔑称的な意味でしか使われてこなかったんです。そこで「リベラリズム」という言葉を復権させるために、ソルジェニーツィンアメリカヘ行ってから、ロシアにおけるリベラリズムの伝統を、十九世紀思想史の中から見つけようとリベラリズムに関連した文献を発掘し始めたんです。(略)
 僕は今それを踏まえつつ敢えてその用語を使っているわけですが
(略)
あの戦時下における哈爾濱学院のリベラリズムとはいったい何だったのか。それは、明らかに一方においてボルシェヴィズムの台頭を見ながら、他方において日本右翼の突出をも睨んでいた。当時、日本左翼はそれほど問題でなく、われわれの現実に打撃を与えるのはやはりボルシェヴィズムであり、右翼だと思われていました。
[右翼は玄洋社中野正剛が学院に生徒を送り込んでいた](略)
日本の知識人は大正デモクラシー以降、ロシアのボルシェヴィズムにイカレて、このリベラル左派という存在を馬鹿にしてきた歴史がありますが、しかし果たしてリベラル左派以外に残るものがあるのか、という問題ですね。右翼は駄目、ファナチックな左翼も嫌だとすると、結局、自分一個の人間存在として歴史と向かい合うほかない。「歴史」という言い方が大袈裟だとすれば、時代と向かい合うんですよ。(略)そういう精神としてのリベラリズムという位相があると思う。

哈爾濱学院では軍人までがリベラルでした

[さすがに配属将校ではないが、教練を担当した副官の予備将校はノモンハン事件の生き残り]
匍匐前進の訓練で、「一木一草と言えども身を隠すところがあればこれに隠れつつ前進すべし」という陸軍の野外教練マニュアル(略)は間違っていると言うのです。何故か。(略)
 敵と対峙した場合、一木一草というのはこちらから見れば確かに身を隠すものかも知れないが、しかしそれは向こう(敵側)からもはっきり捉えられ、暗記すらされているものである。(略)
しかも、敵側は狙撃兵が銃を構えて待っている。狙撃兵の仕事とは何か。何よりも先ず相手の指揮官を倒すことである。その次に兵たちが倒される。ここで突撃を敢行しようとする場合、我が陸軍のマニュアルにはどう書かれているか。隊長の「突撃ニ――前ヘ!」という二段構えの号令によって律せられる。先ず最初の第一段「突撃ニ」で隊長はやおら軍刀を抜いて構え、次の「前ヘ!」で立ち上がって前方に突進することになっている。兵たち全員がそれに続く。だから相手もその流れを熟知した上でタイミングよくダダダッと撃ってくる。結果、判で押したように先ず隊長が殺られ、次に兵が殺られてしまう。だから、どうするか?お前たちももうすぐ戦場へ行くのだから、よく覚えておけ。俺はこうやって生き残った。つまり、先ず、最初の「突撃ニ」の号令を耳にしたらもう単身で走り出す。そして、次の号令「前へ!」の時にはすでに身を伏せている。突進の構えの時に一人で走り出し、全軍が動き出した時はもう伏せる。狙撃兵は何が起こったのか分からず、指揮官を見失って混乱する。だいたい向こうの装備はチェコ製のマンドリン銃、こららは明治38年製のいわゆる三八銃。つまり、刀でもって種子島と闘うようなもの。負けるに決まっているじゃないか――。
 彼の日本陸軍批判はさらに延々と続きました。僕はこんな教訓に満ちた授業は日本のどこにも当時なかったと思っています。
(略)
で、何故そんなことが言えたのかというと(略)
関東軍が裏から満洲国をギュッと押さえていたわけで、哈爾濱学院はその内部に取り込まれてしまっていたのです。したがって、院長自身も軍から送られてきていたんですが、しかし、それはあくまで建前なんてあって、逆に言えば、哈爾濱学院は軍司令部の掌中にある以上、そのへんのチンピラ軍人は口出し出来ない存在になっていた。関東軍の懐の中でこそ存分にリベラルなことが出来たという逆説がここに成立する。
 ――たしか、最後の渋谷院長は、二・二六事件で決起した近衛師団の連隊長だった人ですね。
そうです。彼は部下が反乱を起こしたので、責任をとろうとして死に場所を求めていたが、監視がきつくて死ねなかった。反乱部隊は満洲へ送られますが、彼自身も満洲へ移動となり、満洲国治安部の次長(事実上の大臣)を務めます。その後、昭和十八年、僕が三年生の時に哈爾濱学院の院長として赴任して来たのです。(略)
[赴任の訓示で]
「自分は陸軍幼年学校以降、いわば変則的な教育を受けた人間である。そういう者が教育者として振る舞っていいのかどうかをよく考えてみた。そして、考えた末にここへ来たのは、自分の変則的なものを正すという効果があるんじゃないか」という演説をしたわけですよ。われわれは感動しましたね。こりゃあ凄いのがきたなあ、と。事実、彼はわれわれ学生には非常に優しかったです。まあ、そういう大物が院長だったわけですから、配属将校なんか小さくなっているわけです。

「革命ロシア」をどう見たか

われわれは「革命ロシア」をどう見ておったか――と言えば、先ず、われわれの周辺にいたのは、学院の先生たちも含めていわゆる白系ロシア人たちでした。つまり、彼らは革命を逃れて、あるいは祖国を追われて来た連中でしたから、革命に対してそれは極めて批判的ですね。革命派は国を売った、われわれロシア人を裏切ったという受け止め方が圧倒的でした。学生たちは彼らに教わるわけですから、どうしてもその影響を受けざるをえない。そんな中で竹内さんとか、一部そういうリベラリストがいて、必ずしも革命を全面肯定はしないんだけれども、しかしそれを受け入れようとした立場の人もまたいたわけです。
 だから結局、われわれは半々で両方を見ていた。どっちにも与しない。俺たちは俺たちだということであったような気がします。確かなことは「革命ロシア」という場合、その革命というやつにロマンを全然感じなかったということです。それは哈爾濱学院の特徴でしょうね。

プロレタリア文学、「わだつみ」批判

駄目でしたね。あの左翼の一方的な自己主張――つまり、自分たちだけが真理を握っているんだという、あれが何とも僕は我慢できなかった。(略)自分たちは歴史の長者である、歴史から最も溺愛されているのがコミュニストである、と彼らは宣伝これ努めているわけです。しかし、そんなことは関係ない、歴史はもっと冷酷に君たちを裁くだろうという風に僕は思っていました。(略)その意味ではリベラル派の方に与していました。
 その嫌悪感を僕たちにうまく伝えていたのは、当時唯一小林秀雄だけだったんじゃないかな。
(略)
 ――最近『きけわだつみのこえ』の改鼠問題が話題になったりしていますが、内村さんは当時の「学徒出陣」に関して、かなり早い時期に所謂「わだつみ」の連中に対して批判を提出されています。特権的に学問をさせて貰っていて、それが戦争で痛めつけられたからといって彼らだけが特別に哀悼される何のいわれもない、戦後の風潮に乗って「わだつみ」を栄光化しようとする視点そのものがおかしいのじゃないか、と。
 ええ。僕が若いとき、満鉄社員に感じた疑問――満鉄のエリート社員が左翼がかった本を読み、左翼がかった言辞を弄しているのを見て、何かおかしいと思ったことと理屈は同じです。それはあんたたちが云々すべきことじゃないんだ、あんたたちは所詮階級のよそ者なんだ。それを言うなら俺にこそ資格があるということです。僕の故郷・栃木県の田舎から出征した兵士はブーゲンビルとガダルカナルで全滅しています。村では父親か息子が兵隊に取られて戦死すれば家族は壊滅ですよ。彼らは何も言わないじゃないですか。自分はいい飯食って将校待遇を受けながら、それでいて被害者面をしているという傲慢。それが僕の反発の根拠でした。戦後、それが反戦ムードに利用されているわけですが、それがおかしい。最近言われ出している改鼠騒ぎも当然のことだと思います。それはそうですよ。これはいい加減なものだと、僕は昔から感じてきました。
(略)
[哈爾濱学院は「スパイ学校」という中傷はどこから]
ソ連側からですね。
 ――日本のジャーナリズムの側もそう受け止めたということですか。
 そうですね。戦後ジャーナリズムはそうだったですね。(略)敗戦日本は戦勝者ソ連の言いぐさを真に受けたわけです。極東裁判と同じレベルの発想なんてすね。戦勝者による断罪です。スパイ養成のための学校であると。むろんそんな学校じゃないわけです。そういう学校ならばすでに軍にあり、軍は軍でちゃんと別の部隊をもって哈爾濱のロシア語教育をやっていました。また、それよりも大事なことは中野学校が存在していました。

脱亜入欧」、後藤新平

われわれは確かに「入欧」はしたんですよ。しかし「脱亜」の方は本当に成功したんだろうかということです。しないんですね、これが。この失敗のツケこそが、その後大東亜戦争への突入とその敗北(略)
あの「脱亜入欧」こそ終わりの始まりだったのではないか、という風に僕は考えるわけです。
 そういう中でじゃあ後藤新平はどうだったかと見ていくと、彼が原敬など同時代の他の人と違うところは、先ず「反米」を貫いていることです。(略)
[1924年、排日移民法案で日本人移民は入国禁止]
アメリカに門戸を閉じられた日本人はどこへ行ったらいいんだということですね。われわれは満洲に行くほかないではないかというわけです。しかし、満洲へ出ようとすれば今度はロシアとぶつかってしまう。だからロシアとは仲良くしなきゃいかん――というのが彼の論理です。
 つまり、たしかにわれわれはお互いに喧嘩(日露戦争)はしたが、しかし喧嘩が終わったらすぐ仲直りしようと。これが彼の一貫する発想法です。(略)
[それはリアルポリティックスというより彼自身の固着概念で、ロシア革命も冷静に評価できず]
この国の看板はたしかに社会主義なるものに変わったけれども、しかしそれは建前じゃないか、ロシアは結局これまで通りロシアだろうという風にしか彼には考えられなかった。
(略)
[トロツキーは追われ、スターリン体制に]
ロシア革命がこのたった十年で変質するのを見て敗戦ドイツがヒトラーの名で対抗するわけ。(略)
[それが]後藤には見えていない。そして相変わらず、日本の膨張する力の捌け口としては満洲しかない。それゆえロシアとの宥和提携は絶対必要である、という考えにのみ凝り固まっている。しかし当のロシアの方は変質して国境を閉じてしまうわけですから、哈爾濱学院生は行くところがない。
(略)
先の大戦の敗北によって、われわれは「脱亜」も「入欧」も両方ともしくじったんだということです。したがって、これからは、かつてわれわれが棄てたところのアジア、これとどのように一緒に生きていくかという道を見つける以外に僕らの生きようはないと思います。(略)
 そこで思い出すんですが、日米戦争が始まったときの学院でのシーンです。(略)
[授業で教授がニュースを聞いたと言ったが]
勝ったのか負けたのかさっぱりわからんわけですね。ともかく戦争が始まったということだけです。で、そのとき教室の誰一人として頭を上げる者はいなかっかです。誰も声を上げなかった。
 ――その沈黙とは皆が対米戦を予期していたからですか。
いや、予期していたというんじゃなく、日本はおそらくこの戦争には勝てないだろうという直観ですね。日本は敗けるであろうというのが教室全体の判断でした。それが夕方になって真珠湾で勝ったという報せが入り、わーっと情況が一変するんですけれども。ともかく始めは教室では誰もがしゅーんとなって頭も上げなかったというのが現実でした。
 ――とうとう始まってしまったか、という悲痛な感じだったわけですね。
そうそう。とうとうやっちゃったなという。

ソ連軍侵攻情報を握り潰した関東軍

満州ソ連軍が入ってきたらどうなるかということについて関東軍は常に備えていた筈ですが、アメリカ軍が南方から攻め上がってくるにつれて、満洲国にいた日本の高級官僚たちは家族を満洲に呼びました。信じられないかも知れませんが、ここ満洲の方がむしろ安全だと思っていたという証拠ですね。
 ――いかにソ連を知らなかったかということでしょうか。
知らなかったんじゃない。もっと卑怯です。彼らは結局ソ連の参戦という事態を考えたくない、見たくなかったんです。思考における頽廃と指導部としての責任放棄以外の何物でもありません。(略)
[6月頃将校会報から戻ってきた大尉が激怒]
聞けば、われわれ二課(情報)が出していたところの重要情報――ソ連軍が「後方の準備」をせずに侵攻してくるなら八月初め。「後方」を伴ってくるならば九月初め――について参謀本部から返電があり、「これ以上天皇陛下をなやませ奉るのは余りに畏れ多いことゆえ、陛下のお耳には入れなかった」と。要するに、握り潰したということですね。したがって、それに対する対策も何ら講じられないということを彼は聞いてきたのです。ソ連軍が八月に入ってくる可能性があるということは十分わかっていたわけです。

捕虜する民族・ロシア

昔からロシアという国は、常に労働力として人間をその内部に取り込んできたのです。(略)
この脈絡の上に今度の敗戦後の「シベリア捕虜」という事態も起きているのであって、ですからこれは決して「抑留」じゃないんです。彼らにとっては、むしろ取り込んで当たり前。れっきとした労働力なんですよ。もっぱら労働力の不足を捕うために取り込むんであって、理由はなんでもいい。それが伝統的なロシアの発想ですから。(略)
 ロシア語で「ブレンヌイ」と言いますが、これは「無傷の」ということです。「丸ごと」「きずものにしないで」、つまり「キズ物でない状態で捕まえる」ということですね。フルネス、フルであること、つまり「労働力としてキズものでないこと」を意味します。(略)
剥き出しの欲望がそこに入っているわけです。それは「抑留」なんてちゃちなものじゃない。(略)
その代わり捕虜になったからといって、ロシアではその人間が市民として一級下になったというような受けとり方は全然ありません。人間として「位」が下がるということはないんですね。外国人を捕まえて、俺のところの娘を嫁に貰ってくれと言ってくるケースが昔からたくさんあります。だから、捕虜というのは彼らロシア人にとっては決して蔑称じゃないんですよ。
(略)
 ――昔から捕虜を運用する機構が出来上がっていて、全土に鉄道網が張り巡らされており、いつでも捕虜、囚人を運搬できるシステムとして完備している。
 それはスターリン時代には実に精密なインフラとして完成していたわけですよ。囚人労働力の移動もまことに立派なもので郵便と同じです(笑い)。つまり、郵便列車と同じなんで、郵便列車の走るところ必ず囚人列車が連結されている。見事なものですよ。だから彼らにとっては、例えば北海道の全住民ぐらいを一度に動かすことなど平気です。あっという間にシベリアに持っていくことくらいやりかねません。
(略)
 ――(略)同じ敗戦国であるドイツは、戦後、当時のアデナウアー首相がソ連へ飛んでフルシチョフと掛け合い、絶対引かぬ態度で談判して自国の捕虜を連れて帰りますが(略)この差は何によるのか。
(略)
ロシアには二百年近いドイツ文化の影響の下、ドイツに学ぶという長い伝統があるわけです。ドイツが先輩なんです。
(略)
この優位な立場というものは一回や二回の戦争で負けたからといって揺らぐようなものじゃないので、勝っても負けてもドイツの方が上ということはロシア人の頭には固着してるわけですね。負けた?それがどうしたんだ、というわけです。「まあ負けることもあるさ」程度の受け取り方です(略)
アデナウアーはドイツからモスクワに自分の専用列車でやって来るなり、交渉はここでしようと告げて、そこから動かなかったそうです。それをソ連側は拝み倒してやっとホテルヘ移ったらしい。交渉ごとでは万事「お願いします」と頼んだ方が負けです。彼は「じゃあ移ってやろうか」と言いながら、後はその調子で押しまくったのです。全部計算づくで、ロシア人の心理を始めから読んでいる。とても松葉杖をついてヨタヨタしてる日本の全権とは比較になりません。
(略)
 ――ドイツ人捕庸たちは、ラーゲリでも日本人がやったような迎合的な「民主化運動」などには決して加わらなかったと聞いていますが。
 そう。彼らはそんなオセンチなことはしなかった。のっけからロシアを呑み込んでいて、和風感傷思想なんかの入り込む余地はない。われわれより遥かに後から来て、さーっと先に帰っていったのは当然です。日本人はやはり大正デモクラシーを通過して、それなりにロシアにオセンチな借りがあるからでしょうね。

満洲とは一体何であったか

という問題をわれわれはまともに考えてみなきゃいけない。何故なら満洲という問題こそ、明治以降、日本が開国した時点から必然的に絡まってきた巨大な問題だと思うからです。(略)
[軍による「日本の生命線」という]位置づけではなくて、満洲とは中国人にとって何であったかということ、そして日本人にとって何であったかということを素直に考えるべきだと思うんです。
 先ず孫文満洲をどう見ていたか。彼の政治スローガンは「反満興漢」でした。漢族が民族的な復讐を満洲族に対して行うというのが辛亥革命でしょう。若き日の蒋介石はその在日学習時代に、孫文の指示で満洲を視察に行っている筈ですが、僕の記憶では明らかに彼は密行して行っています。(略)
[漢族]男子は長城を越えてはいけないというのが清朝の禁令であり、それが解けたのはやっと明治11年です。だからそれまで満洲にいたのは清朝が認めない逃亡者の集団だったわけです。要するに満洲に入った中国人は皆密行者なんで、その連中が満洲で権益を拡張していく。その権益をめぐって、それを守るために匪族・馬族が生まれるのであって、それが張作霖政権です。
(略)
朝鮮を確保し、満洲も専有した後、さてこれから日本プロパーの政策はどうなるんだと問われる、ちょうどその時点で明治天皇が没します。(略)[崩御の衝撃と]同時に満洲問題というのは彼らの目の前にあったのであって、おそらく鴎外や漱石は、この問題を日本は処理できないのではないかと危惧していたと思います。
 やがてロシアに革命が起こります。そしてその煽りをくらって中国にも共産党が生まれる。これにどう対応すべきか。日本は周章狼狽して右往左往します。「革命」というものが分からないわけですね。帝国主義は分かったんですよ。しかし、帝国主義に反対するその革命というものが日本人には分からなかった。その一人が後藤新平であったわけです。
(略)
哈爾濱学院の場合、五族協和というスローガンの建前上、漢・満・蒙・日・朝の誰でもいらっしゃいと言わざるを得なかった。そして、事実彼らは入学して来ました。しかし、いったん入学すれば、学生たちは、スローガンがそうだから、あるいは軍が言うことだから仲良くしましょう、といったそんなものじゃないわけで、入学後一年も経たないうちに、いわゆる支配する民族、支配される民族というようなものは完全に吹っ飛んでいましたね。前回、李明旭君の例を話しましたが、日本人であろうが中国人であろうが、出来る奴は出来るし出来ない奴は出来ない。要するに哈爾濱学院の学生であるという一点で全く同等だったと断言できます。これはフィクションじゃなく現実でした。
 こういうことが戦後デモクラシーの諸君には全然見えないわけですよ。お互いにアジアのことは分かるということ。ここに僕は「入亜」へのチャンスがあると思います。それが一つ。
 もう一つは営口から来た級友劉丕坤の例を挙げましょう。彼は学院三年生のとき突然学校から消えていなくなっちゃうんです。[延安系列の組織に関係し]日本の憲兵隊に追われて逃げたらしい(略)
[十数年後北京で会うと]
別れ際にこう言って私を驚かせました。「ナイトウよ、頼みがある。俺も文革では日本関係者ということでひどい目にあったが、実は伜も苦労してきた。伜は下放されて雲南省にいたが、北京に帰って清華大学に入り、今三年生だ。いろいろ考えたけれどもやっぱり日本で勉強させるのが一番いいと思う。日本の東工大なんかに入れる方法はないだろうか。お前に伜を預けたいんだ。金はないよ。どこか養ってくれるところがあるならば何とか引き受けてほしい」と、ぽつりと言ったんです。(略)
僕らクラスメートに対する彼の信頼はちっとも狂っていないんです。たしかにいろんなことがあった。僕は11年シベリアヘ行って帰ってきたんだし、彼は彼で文革の渦中さんざん苦難を嘗めた。それでいて、十数年後会ったとき「俺の伜を預かってくれんか」と、ふいっといきなり言う。これはいったい何だということ。ここに僕は、かつて一日本人と一中国人とが全く対等に付き合った空間があって、そこに出来た信頼関係は揺るがなかった事実を見るのです。つまり、これこそ五族協和そのもの、国を超えた「協和」そのものじゃないかと。(略)
たとえ政府が何と言おうと、われわれは事と次第によっては一緒に組んでやれるのであり、したがって「入亜」するチャンスは十分にある。
(略)
日本の戦略は、ヨーロッパと戦うために先ずアジアを固めるというものでしたが、結局アジアも失ったしヨーロッパも失った。ただ、この敗戦処理においてじゃあ本当にアメリカが「勝った」のかどうか、僕には極めて疑問だということです。これからの世界戦略という長期的スパンからアジアの運命、ヨーロッパの運命を考えたときに、あの東京裁判というのは果たしてアメリカにとってプラスだったのか。後世史家は徹底的なマイナスと言うのではないだろうか。アメリカは日本に勝ってあの東京裁判に負けたということになるのではないかと僕は思います。(略)
 明治維新以後、「脱亜入欧」の昇り坂において日本が凱歌を奏したということが日本の「終わりの始まり」であったという論法で言うならば、東京裁判において凱歌を奏したということがアメリカにとっての「終わりの始まり」なのではないか。そのことを尻目に見ながら、われわれは「脱欧・入亜」という風にターンニングが出来るんじゃないかということです。それは決して空想の産物ではなく、実体として実在としてあったものだし、これからもありうると思います。そういう風に僕は満洲を考えたいと思っているんです。

日本人の自治区を作るべきだった

――これは満洲の問題とも関連するんですが、日本人はいったんコトがあると直ぐ逃げ帰って来るということへの疑問について以前お伺いしたことがあります。日本人はもともと日本以外の土地には土着しにくいんでしょうか。
(略)
 僕は、敗戦時、何故今日本人が大陸にいるかをまともに考え、かつその志を正当に継承しようとする覚悟であるならば、たとえどんなに苛められ、さげすまれようが石に噛り付いてでも大陸に残って、少数民族として日本人の自治区を今から作るというのがこの戦争の論理的帰結じゃないのかと思っていました。つまり、どれほど卑しめられとしても、ただ敗走するのではなく、少数民族としての自治区をここに作るという選択もありうるのではないか、ということですね(笑い)。まあ今考えてみて、これはそれほど滑稽な妄想でもないような気がしますけれどもね。
 例えばもしこれが朝鮮人だったら、彼らはどこへ行っても必ずちゃんとした自分たちの集落を形成してそこへ根づきます。彼ら大陸の民族は、引き揚げを命じられても帰らないんです。ゆえあっていったん故郷を出たからには死すとも帰らず、というのが彼らの決意ですよ。満州でもロシアでも、どこへ行っても彼らは残りました。あれは力ですね。ですから、そういう意味での日本人集落として残る方法を選ぶのなら話は分かると。要するに帰らないということです。それが敗戦前と敗戦後の日本人の経験を結ぶ唯一の方法ではないかと考えていたわけです。

次回に続く。