ハイジが生まれた日―テレビアニメの金字塔を築いた人々

生みの親・高橋茂人の話を中心に展開。
登山をしていた高橋は山に関係する物語だからと野上彌生子訳の『アルプスの山の娘』を読んだ。

ハイジが生まれた日――テレビアニメの金字塔を築いた人々

ハイジが生まれた日――テレビアニメの金字塔を築いた人々

  • 作者:ちば かおり
  • 発売日: 2017/01/27
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

原作

 ヨハンナは、牧師の娘で有名な詩人でもあったメタと、医師ヤーコプの間の四番目の子どもとして、1827年チューリヒ郊外のヒルツェルで生まれた。ヒルツェルはうねうねと緩やかな丘が連なる酪農地帯だが、先進的な経済の都チューリヒに近いこともあって、彼らの家庭は多くの知識人が出入りするちょっとした文化サロンといった趣があった。ヨハンナはアルプスを望む丘の上でのびのびと自然の中で遊び、かつ最先端の文化を享受する環境で成長していく。
 やがてヨハンナは家に出入りしていたシュピーリ青年と結ばれるが、後に彼はチューリヒ市の書記官となり、政治の世界で重要な地位を占めるようになる。しかしチューリヒでの新生活と都会の社交生活になじめないヨハンナは、次第にハイジ同様心を病んでいく。二人の間に生まれたただ一人の男の子は身体も弱く、ヨハンナは自身の療養もかねて息子を連れてスイス東部の保養地ラガーツ温泉などに逗留する。ラガーツに近いイエニンスという村の友人の家に滞在した際、ヨハンナは周辺で見聞きした自然や村人の暮らしから『ハイジ』の物語を構想する。ラガーツでの療養も後に『ハイジ』でクララが療養する設定に使われている。

柳瀬自動車の梁瀬次郎がこれからはテレビの時代だとつくったCM制作会社「日本テレビジョン(TCJ)」に入社した高橋。初期のCMにアメニが多用されTCJ制作の9割がアニメ。芦田巌とそのスタッフを招聘し体制作り。
 

手塚治虫、アニメーターに応募する

[1946年芦田漫画映画製作所]のアニメーター募集の面接で手塚の三人後ろに並んでいたのが、後日TCJでアニメの制作室長を任される西島行雄だった。「手塚さんは学生服でした。その頃彼は大阪の医学生で、まだ卒業前だったんじゃないでしょうか」と当時を振り返る。二百人もの応募者の中で、採用されたのは結局西島だけだった。自分の作品を並べ、熱心に頼み込む手塚に対しては「あんたはマンガ映画は向いとらん」とにべもなかった。
 主宰者として面接を行った芦田巌はアニメーションという仕事を熟知していた。手塚の絵のうまさはすぐに見抜いたが、それだけでアニメができるとは言えない。アニメと漫画は違う。絵もストーリーも自分一人で完結できる漫画はあくまで個人作業である。すでに漫画家としてデビューをしていた手塚に、チームワーク重視で時に個性を消し、延々と地味な共同作業が続くアニメ制作は向かないと直感したのだろう。だが手塚はよほどアニメ制作への思いが捨てがたかったのか、人気漫画家になった後も自分の絵を動かす夢を諦めきれず、その後もう一度芦田の元を訪れて、アニメをやらせてくれと頼んでいる。だがこのときも芦田は、「甘い」「十年の年季奉公をしてやっと一人前になれる世界だ」と再び手塚を突き返した。
 芦田からは門前払いを食ったものの「狂うほど動画作りに意欲を燃やして」いたという手塚は(略)
西遊記』で念願のアニメ界ヘデビューを果たす。(略)
自分のスタジオが必要だ。そう考えた手塚はある日スタジオ作りの参考に見学させてほしいとTCJを訪ねている。スタジオを案内したのは、かつて手塚と同じ日に芦田漫画を受験した西島だった。(略)
「『アトム』をテレビでやりたいんです!」と熱っぽく話す手塚に、西島は「おやめになった方がいい。アニメはこんなに手間がかかるから」と諭しながら、作業風景を見せて回った。後日手塚は、TCJで見た作業机をそっくりそのまま自身のプロダクション(虫プロ)に再現したという。

著作権の重要性

[ヒット作が出ているのに赤字のアニメ部門の立て直しを命じられた高橋]
鉄人28号』も『エイトマン』も著作権はTCJにはない。いくらヒット作を生み出しても所詮下請けで、制作費をもらって納品したらそれで終わりだった。「プロダクションは作品を作る商売。財産は著作権しかない」。高橋はこの異動をきっかけに著作権の重要性について考えるようになる。(略)
[そこで長年愛着のあった『ハイジ』のパイロット版を制作。しかしそのデキにがっかりし、一旦断念。その後も『スーパージェッター』『ソラン』とヒットは出たがアニメは利益が出ず、梁瀬はアニメ部門を子会社として切り離すことに]

ムーミン

[アニメ部門のTCJから独立[のちのエイケン]を機に退社し「瑞鷹エンタープライズ」を設立、海外渡航が大変な時代に、以前から関心のあった『ムーミン』のためにトーベ・ヤンソンと直接交渉。たまたま機内で隣に座っていた少年が『Gigantor』(鉄人28号)が面白かったと言い、「アニメは男が一生をかける仕事だ」と自信を持つ。トーベの許可は取れたが]
日本とフィンランドでは生活も風習も違う。例えば日本ではチョウを捕まえるのが遊びだが、トーベに言わせるとチョウを追いかける行為そのものが遊びなのだ。それがフィンランド流の考え方なのだという。
[「カルピスまんが劇場」枠、『どろろ』が視聴率低迷。フジはアニメ枠をやめようとしたが、スポンサーのカルピスが業績好調で継続を希望。候補は『ムーミン』と『ハレンチ学園』だったが、企業イメージに合う『ムーミン』に決定。演出のおおすみ正秋は同じ姿のムーミンに区別をつけるため]
パパのシルクハットやママのエプロンなど、原作の挿絵で彼らが身につけたことがあるデザインを参考に、キャラクターを描き分けることにした。ムーミン独特の丸みは大塚康生が動きで再現した。(略)
[おおすみは当時流行のヒッピー思想をヒントに、ムーミンたちの暮らしを理想社会に置き換えた。だがトーベからクレーム]
 高橋は企画当初、日本だけでなくヨーロッパ市場も視野に入れていた。ムーミンの絵柄も何種類か用意したデザインの中からトーベに選んでもらったほどで、原作者の意見を尊重しようという思いは強かった。「『ムーミン』はノーマネー、ノーカー、ノーファイトの世界。内容もなるべく原作に近いものを作りたい」。だが原作の世界観そのままでは日本の子どもたちに理解できないだろうとも感じていた。日本でアニメ化する以上、ある程度の妥協もやむを得ないだろう。
 トーベの訴えは、原作者としてもっともな内容だった。本来の『ムーミン』はこういうものですと、彼女は原作者として当然の主張をしたのである。後に「日本の子どもたちが喜ぶならそれはそれでかまわない」とも言ったという。(略)
[『ムーミン』の人気でカルピスは一年の延長を希望したが、制作の東京ムービーは『ルパン三世』が決定しており、続けたいフジは虫プロに依頼。現在、高橋の『ムーミン』が放送されないのはトーベのクレームのせいという風説があるが]
トーベと高橋の交流は終生続くほどだった。実際は制作会社の変更による混乱を収拾するために「クレーム」が理由として使われたというのが本当のところのようだ。高橋の『ムーミン』が放映されない理由は、ある時期から本国フィンランドで、トーベ自身のキャラクターのみが公式とされ再放送できなくなったことによる。

高畑勲の葛藤

[73年、高橋は森やすじの絵で再度ハイジのパイロットを作って局に見せたが「女の子が主人公で当たったことがない」と相手にされず。それでもカルピスとの信頼関係で制作決定。演出を依頼された高畑は、実写でやるべき作品ではないか、アニメでやる意義が見出だせないと躊躇]
 もう一つ高畑をためらわせていたのは『ハイジ』という作品そのものでもあった。アニメ作品として、子どもを教化しようとする傾向が強い十九世紀の児童文学を取り上げることに疑問を感じたのだ。もし扱うのなら『長くつ下のピッピ』のように、子どもの心を解放するような作品を選ぶ方がよいのではないか。それもできればファンタジーがいい。とはいえ、高畑自身『ハイジ』をやりたいという気持ちもあった。子どもの頃から好きな物語の一つだった。つまりは原作を愛する故の葛藤だったのだ。そうして慎重に読み返して準備作業を進めるうちに、次第にアニメにする意義と可能性が見えてきたという。登場人物の心の動きを丁寧に描き、視聴者に主体的に観てもらえるよう演出し、何が起こるかを自分で発見してもらおう。よく考えて工夫すれば、アニメでこそ可能な表現があるはずだ。高畑は演出を引き受ける以上、テレビアニメだからといって一切妥協をするつもりはなかった。
[キリスト教による魂の救済をどう描くか、高橋と脚本の松木功は三本の大きな樅の木をハイジの心の支えとすることに]

ロケハン

フランクフルトでは、高畑の提案でゲーテの生家「ゲーテハウス」を訪ね、クララが暮らすゼーゼマン家のモデルにした。原作者シュピーリが敬愛してやまなかったというゲーテは、代々フランクフルト市の高官を務めた名家の出で、一族が住んだ大きな屋敷はお金持ちのゼーゼマン家のモデルにふさわしい堂々とした佇まいであった。(略)
クララのおばあさまがハイジを連れて入った絵が飾られた秘密の部屋や、クララの勉強部屋、メインホールの階段など、ゼーゼマン家のイメージとしてほぼそのままアニメで使用している。また、一階には当時の台所を再現した部屋があり、そこによくわからない形のポンプ式の器具があった。「水道じゃないかな」と言う小田部に、宮崎は「そんなばかな」と返すが、それが確かにポンプだと納得した彼は、後日ハイジがゼーゼマンに頼まれて水を汲みに行く場面で、しっかりとポンプ式水道を描き入れていた。
 また、高畑らは十九世紀の面影を残すフランクフルトの旧市街を歩き回り、ハイジが登った教会の塔のモデルには、同じくゲーテが洗礼を受けたカタリーナ教会を選んだ。

渡辺岳夫

[売れっ子だった渡辺]
「私は疲れ果てて座っていた。皮膚はカサカサでどす黒くなり、目は死んだ魚のように赤くよどんでいて我ながら情けない姿であった」。スイスヘ向かう飛行機は自分を運ぶ救急車のようだったと、後に渡辺は記している。
 アルプスに抱かれたマイエンフェルトの宿で荷をほどいた渡辺の耳に、カランコロンと牛の鈴(カウベル)の音が届いた。外に出て草の上に寝転んでゆっくり流れる雲を眺めているうちに、渡辺の目から自然と涙があふれてきた。風がほほをなで、牛や小鳥の声がする。「……ここに音楽があった。ここに素晴らしい音楽が演奏されていたのだ。私はアルプス交響楽団の演奏会に招待されていた」。渡辺の心は長いトンネルを抜け、自身の作曲心を取り戻していた。
 高畑勲は、マインフェルトで渡辺が目の前の景色を見ながら「ドミソの音楽だなあ」と言ったことを印象深く覚えている。(略)
素朴でのびやかな明るい世界だ。『ハイジ』で書くべきは、このような生きる喜びに満ちた音楽だろう。渡辺は「ハイジのそばにすっと寄り添う」音楽を作ろうと決めた。できあがった主題歌「おしえて」は、音域が高く子どもが簡単に歌えるものではない。だが、渡辺はどうしてもこれで行きたいと思っていた。注文されて作った音楽ではなく、作曲家として自分が惚れ込んで自己主張して書いた曲だ。
(略)
[第一話のセル画が八千枚と知り発奮した渡辺はありものの「録り溜め」は使いたくないと、放映数日前に完成した映像に合わせて作曲]
スクリーンに映る完成したばかりの映像を見ながら、絵に合わせて指揮棒を振った。(略)
第二話以降は通常の「録り溜め」に戻るが、渡辺らの意気込みが伝わるエピソードである。

キャラデザイン

[小田部のキャラにOKを出さない高畑、悩む彼に]高畑はある日、「おじいさんをまっすぐひたと見つめる顔を」と注文を出した。(略)
ほっぺたの丸は何げなく入れたほほの赤みであった。スケッチの中から特にまん丸に描いたのを高畑が気に入り、これでいこうと決まった。
 皆に意見をもらおうと、小田部がキャラクターを描いた紙を璧に貼っていた時、高橋茂人が通りかかった。高橋は家政婦長として登場するロッテンマイヤーの絵を一目見るなり「僕はロッテンマイヤーさんは美人だと思うよ」と言った。(略)小田部が描いていたのは意地悪そうなおばあさんの絵だった。

宮粼駿のレイアウト

 宮崎がまず着手したのは、ハイジを取り巻く世界づくりだった。マイエンフェルトからデルフリを経てアルムの山小屋までのほぼ全行程は急斜面の山道である。さらにその上に牧場があり、牧場の先には“山の上の湖”がある。宮崎は下から上へ明確な地形の変化をダイナミックに設計し、ロケハンで実際に見たマイエンフェルト近郊やベルナーオーバーラントの風景を取り込みながら、ハイジの暮らす舞台を構築した。宮崎の仕事は本来レイアウト担当の範疇ではなかった建物や小道具の設定にまで及んだ。
 「アルムの山小屋の設定を見たときにびっくりしたのは、宮崎さんの図面だったら本当に家が建つということです」。こう話すのは背景を担当した川本征平である。高校の建築科を出て建築の実務経験もある川本

高畑のカメラワーク

[撮影監督・黒木敬七談]
 黒木は元々コマーシャル制作会社出身で実写の撮影をしていた。(略)
黒木は高畑のことを「映画屋さん」だと評した。高畑の演出は、撮影フレームやポジションがしっかり計算されているのだ。例えばハイジとペーターが山を登る場面では、手前と奥の背景を少しずつずらして撮影する“密着マルチ”が使われた。カメラが次第に上がり、ハイジたちの背後にある麓の村が徐々に視界に現れることで、山の高さと雄大な空気感が表現された場面がある。まるでクレーンを使った撮影のような効果が得られるその技法は、重ねる素材の移動値で距離感を作っていくが、高畑のカメラワークの指示には少しの狂いもなかったという。
 『ハイジ』にはカメラを固定したまま周囲の風景をぐるっと見せたり、下から上にフレームを動かすといった“パン”という技法が多く使われた。高畑の演出指示に応えるため、黒木はアニメで初めての試みとして従来のタングステンタイプの電球ではなく色温度の違うデイライトタイプを撮影に使用してみたり、特殊フィルタを手作りしたりするなど、様々な技法に挑戦したという。

オープニングのダンスのモデルは小田部と宮崎

 『ハイジ』の準備が佳境に入るころ、森やすじは長年目を酷使していたことから失明寸前まで追い込まれていた。もう第一線でアニメーターを務めるのは難しいと自ら身を引きながら、それでも『山ねずみロッキーチャック』の仕事の合間を縫って、『ハイジ』のパイロットフィルムやキャラクター原案などに関わってきた。
 クレジットこそされていないが、森は『ハイジ』のオープニングの作画に参加している。冒頭のハイジとヤギのユキちゃんがスキップするところと、ハイジとペーターが手をつないで踊る場面がそうだ。ハイジとペーターのダンスのモデルを務めたのは、小田部羊一宮崎駿だった。旧スタジオ横の駐車場で小田部がハイジ役、宮崎がペーター役になり手をつないで踊る。それを8ミリで撮ったのを参考に森が原画を描いた。微妙なスキップの感じを出せるよう、小田部らだけでなく、松土と事務の女性もダンスのモデルになったという。

裏の『ヤマト』

[74年4月テレビ局に、秋から裏で始まる『ヤマト』対策はできてるいるかと問われた中島]
西崎義展は前年まで高橋茂人のもとで、ズイヨーのスタッフとして『山ねずみロッキーチャック』の制作部長を務めた人物だった。『ロッキーチャック』終了後、自分の作品をやりたいとズイヨーを飛び出したが、まさか『ハイジ』の裏に『ヤマト』をぶつけてくるとは、と高橋は驚き呆れた。[だが『ヤマト』はふるわず打ち切り]

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