科学報道の真相: ジャーナリズムとマスメディア共同体

福島第一原発事故

は「想定外」の事故ではなかった

[「解題「吉田調書」ないがしろにされた手順書(『世界』掲載)」で田辺文也は]
福島第一原発事故は「想定内」の事故であり、
(略)
東京電力は「想定外」と言っているが、田辺によれば、1号機、2号機は「全交流電源喪失」がおきてから直流電源も失い「水位不明」の徴候が出たところで「徴候ベース」手順書の対象となっている。3号機も「全交流電源喪失」のあとに「ドライウェル圧力高」の徴候が出て「徴候ベース」手順書の対象となっている。(略)「徴候ベース」の場合は、たとえば「水位不明」の原因は問わない。原因が全電源喪失であろうとなかろうと、「水位不明」となれば「徴候ベース」手順書で対応できる。このように「徴候ベース」手順書が使われるべき事態だったのにもかかわらず、東京電力は事故対応において「徴候ベース」手順書を参照しなかった。(略)
[吉田調書から]
全交流電源が喪失した時点でこれはシビアアクシデント事象に該当し得ると判断しておりますので、いちいちこういうような手順書間の移行の議論というのは私の頭の中では飛んでいますね。
吉田所長のこうした発言などから、東京電力は実際の事故対応に「徴候ベース」手順書を使っていないことが分かる。「徴候ベース」手順書を参照して操作をしていれば少なくとも2号と3号機の炉心溶融は回避できた可能性が高かった、と田辺は指摘する。
 2号機と3号機は、原子炉圧力容器の圧力逃し弁(SRV)をひらいて圧力容器内の圧力を減圧しつつ、低圧で作動する注水装置(あるいは消防ポンプなどの代替注入装置)を使って原子炉内に注水することで、炉心燃料の冷却を確保できたと考えている。1号機も同様の方法でやっていれば、炉心溶融は防げなかったとしても、圧力容器の底の部分が損傷して放射性物質が格納容器に漏洩する事態にはならず、事態の深刻化を防げた可能性があるというのである。
(略)
[田辺へのインタビュー]
東京電力の対応のどこが問題だったと考えますか。
 田辺 2号機で原子炉圧力容器を減圧して注水するという話がでてきたのは3月14日の夕方ごろからですね。2号機は全電源喪失になったものの、幸い、原子炉隔離時冷却系(非常用の炉心冷却装置)が動いていて、現揚は格納容器のベントを優先していました。この時点ではベントよりも、圧力容器の減圧と低圧注水を優先すべきでした。
 圧力容器の圧力逃し弁(SRV)をあけるには125ボルトの直流バッテリーが必要ですが、車10台のバッテリーを外して直列につなぎ125ボルトのバッテリーを使える態勢は13日夕方にはできていたので、態勢が整った時点で圧力容器の減圧と消防車のポンプによる低圧注水に移行すべきでした。減圧と低圧注水をしているあいだに、外部からの交流電源の回復を待つというやり方です。そうすれば2号機の炉心溶融を防げた可能性が高いと思います。
(略)
1号機の炉心溶融を防ぐ方法はあったのでしょうか。
 田辺 私の計算では1号機は3月11日夜8時には炉心が溶けています。炉心溶融を防ぐのは難しかったと思います。ただ、車のバッテリーなどを集めて代替の直流バッテリーをつくり、それで原子炉圧力容器の圧力逃し弁(SRV)をひらき、ディーゼル駆動消火ポンプによる低圧注水をやっていれば、溶けて圧力容器下部に落下した溶融燃料がさらに格納容器に落下するのは防げたのではないかと思います。
 ――全体的に言えることは何でしょうか。
 田辺 事故対応として、原子炉の燃料の冷却に力を入れるべきときに、吉田所長らは格納容器ベントを優先しているという問題があります。ベントは炉心溶融がおきた後にすべき対応です。東京テレビ会議の記録を読むと、吉田所長が、格納容器ベントについて誤解していたのではと思われる箇所があります。格納容器のベントをすれば圧力容器の減圧ができるという誤解です。
 やるべきだったのは、3月11日の夕方から至急で直流バッテリーを手配することです。圧力容器の圧力逃し弁(SRV)の弁を手動であけるには直流バッテリーが必要です。車のバッテリーをたくさん集めてくればいいので、現実的に可能だったと思います。自衛隊のヘリコプターで輸送してもらう最優先の資材だったのです。
 田辺の理路整然とした説明からは、当時の東京電力原発事故対応がいかに行き当たりばったりのものだったかがみえてくる。(略)核燃料の冷却よりも格納容器ベントを優先したのはなぜなのか、真相を知りたいところである。(略)
田辺は、[四つの調査報告委員会の]こうした報告書は「『想定外』という言葉のレトリックの罠」にはまっていると指摘する。

STAP細胞報道

 理化学研究所などが、まったく新しい「万能細胞」の作製に成功した。マウスの体の細胞を、弱酸性の液体で刺激するだけで、どんな細胞にもなれる万能細胞に変化する。いったん役割が定まった体の細胞が、この程度の刺激で万能細胞に変わることはありえないとされていた。生命科学の常識を覆す画期的な成果だ。29日、英科学誌ネイチャー電子版のトップ記事として掲載された。
 この記事は、科学研究、とりわけ新しい科学的知見にかかわる発表報道の場合に、一般的に、してはいけない書き方をしている。それは、冒頭の「理化学研究所などが……作製に成功した」という記述に象徴される。つまり、本来であれば、「作製に成功した、と発表した」とすべき性質のものを、「成功した」と断定している点である。記事のトーンは強まるが、その断定は朝日新聞が責任をもってしたことになる。後につづく「万能細胞に変化する」「生命科学の常識を覆す画期的な成果だ」という断定も、同じように、朝日新聞の判断として記述している。責任をもっての断定であればかまわないのだが、そうでないのであれば、「作製に成功したという研究成果を、ネイチャー電子版に掲載した」といった事実描写に徹すべきだったと思う。

学術誌のエンバーゴシステム

[発表まで再生医学の専門家においても小保方を知る人は少なかった]
 背景には、最前線の科学研究を公式に発表する場が一流の学術誌に集中している現実がある。(略)
 ネイチャーは毎週木曜日に発行される週刊誌である。ネイチャーのHPに記されたエンバーゴポリシーによると、ネイチャー誌に投稿された論文については、メディア関係者といっさい話をしてはいけないことになっている。もし、研究者が禁を破ってメディア関係者と話をした場合は、ネイチャー編集部には、当該論文の検討や掲載を取り止める権利があると明記している。かなり強い調子である。
 メディアは研究論文や研究者へのアクセスを制約されるが、その代わり、ネイチャー誌はメディアヘの広報として、次週の号に掲載予定の主要論文のサマリーを一週間前にプレスリリースしている。ジャーナリストは論文のゲラとともに取材対象となる研究者のアクセス情報を得ることができる。ジャーナリストは発行前に論文を読み、研究者に取材をして記事を準備できる。記事にはエンバーゴがつく。解禁時間はグリニッジ標準時で出版前日の水曜日午後六時、日本時間だと木曜日午前三時になる。
 学術誌のエンバーゴシステムは、研究者、学術誌、科学ジャーナリスト三者による効率的な科学情報発信という点で、グローバルなエコシステムとなっている。互いに利益を享受しあい、仲間意識の源泉となる構造である。この三者では、学術誌がもっとも強い立場にある。研究者は一流の学術誌に載ることが研究実績の指標になるため、競って学術誌に投稿する。科学ジャーナリストは日常的に研究者に会って取材をしたりしているが、最先端の研究成果は、エンバーゴシステムにより、学術誌への掲載というタイミングでしか取材・報道することができなくなっている。(略)
科学ジャーナリストはその仕組のなかで、受け身の報道に流されがちである。
(略)
STAP細胞の真偽が組織内でもベールに包まれたまま、ネイチャー誌掲載の記者会見というかたちで、いきなりクライマックスを迎え、そして瞬く間に崩壊した。

編集局の権力構造は社会の縮図

 指摘しておかねばいけないのは、個々のマスメディア組織内部の権力構造である。
 新聞・テレビの編集局や報道局では政治部と政治家、社会部と捜査当局といったカップリングが生じ、ニュース生産そのものが縦割りの構造ですすんでいる。その結果、政治部が政治家の代弁をし、社会部が捜査当局の代弁に力をいれたりする。編集局内での各取材セクションの議論は、社会におけるアクター同士の「代理戦争」になりやすい。
 編集局内での議論には、各取材セクション同士の力関係が色濃く反映することを忘れてはいけない。
 一般的に発言権の強い取材セクションは、政治部、社会部、経済部、国際部などである。(略)
 編集局の権力構造は、現実の社会において、政府・官庁、捜査当局、経済界といったアクターが有する権力構造をそののまま縮図のように反映している。

日々主義とニュースの断片化

 ニュースの断片化も、マスメディアのニュース生産過程が構造的に生み出す特徴である。ジャーナリズムは日々主義だと喝破したのは、戦前の物理学者、寺田寅彦だった。
 ジャーナリズムの直訳は日々主義であり、その日その日主義である。けさ起こった事件を昼過ぎまでにできるだけ正確に詳細に報告しようという注文もここから出てくる。この注文は本来はなはだしく無理な注文である。たとえば一つの殺人事件があったとする(略)それを僅々数時間あるいはむしろ数分間の調査の結果から、さもさももっともらしく一部始終の顛末を記述し関係人物の心理にまで立ち入って描写しなければならないという、実に恐ろしく無理な要求である。その無理な不可能な要求をどうでも満たそうとするところから、ジャーナリズムの一つの特異な相が発達して来るのである。
寺田は、ジャーナリズムが、無理な要求である日々主義を何とか実践するために採用した手法の一つとして「差分報道」というべきものを取りあげている。締め切り時間ごとに、それまでに起きた出来事は旧聞とし、次の締め切りまでに発生した事象を新情報(新聞)として取材し、報道していくやり方である。
(略)
[当の記者たちはどうなのか]
 毎日のように特定のテーマを取材していると、取材データが多面的に集積され、事実と事実の関係性や文脈が徐々に明らかになり、全体像がみえてくるようになる。(略)
 記者として、所属するメディアのために仕事をして日々の記事を書きながらも、自分のなかに、末発表の取材データがたまり、全体像が構築されていく。立花隆のいう「職業的懐疑精神」や「職業的批判精神」を強くもった記者であれば、自分のなかに集積された、そうした取材データを活用して、より長文の原稿やルボを書きたいという「個人」としての気持ちが芽生えるのは自然である。

客観性を装う発表報道

発表報道が主流になる背景には、マスメディアのニュース生産過程における効率と責任の問題が関係している。発表報道は、相手の発表を待って、その情報にもとづき行動する。発表スケジュールは事前に知らされているので、マスメディアは少ない人数で多くのニュースを発信することができる。また、「信頼できる情報源が発表した」ということ自体は、客観的な事実である。発表内容の真偽は、信頼できる情報源だから大丈夫であろうという推定にもとづくが、もし、発表内容が間違っていたとしても、間違った情報源に責任を転嫁することが可能である。
(略)
発表報道が横行する結果、じつは新聞紙面には、政治家たちの主観的な意見があふれている。(略)
権力を持つ政治家が発言したのだから、という客観報道である。記者の主観を排除することを意図した客観報道記事に、政治家の主観的な発言が事実として記述されるのは皮肉なことである。

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