ジブリを世界に売った男 スティーブン・アルパート

ディズニーとの提携

 ディズニーは、日本側がこの提携で何を狙っているのか本当には理解していなかった。ディズニーは思っていたよりずっと安くジブリ作品の権利を取得できたことに驚いていた。ディズニーのトップは把握していなかったが鈴木さんが目論んでいたのは、ディズニーと徳間書店スタジオジブリの提携とこの豪華な会見イベントによって得られる宣伝効果だった。実際の成果よりも、この提携で得られるイメージや波及効果を狙ったのだ。
 ディズニーは徳間/ジブリの名がディズニーというブランドと結びつけられるところに価値があると推測したが、それは一部にすぎなかった。この提携をアメリカにおけるジブリの成功として日本中に印象づけること、鈴木さんがのちに「野茂戦略」と呼ぶものこそが真の狙いであった。

キスシーンを懇願

 人間の腕が切断され、矢が貫通して頭が吹っ飛ぶ、巨大なイノシシの体がどろどろとくずれ、きゃしゃなヒロインが口の周りの血を手でふき取るといった場面が映しだされた。ホールの照明がついたとき、MOJ[ディズニー国際部門のトップ:マイケル・O・ジョンソン]は言葉を失い、顔面蒼白だった。(略)[鈴木達に]宮崎さんに少なくとも暴力を相殺するものを加えるよう言ってくださいと懇願した。たとえばヒーローとヒロインのロマンチックなシーンとか。キスがあればほんとうにすばらしい。宮崎さんは私がすごく尊敬する芸術家であり、作品を変えてくれと言う資格は自分にありませんが、どうかお願いですからそうしてほしいのです。私はディズニーでこの事業提携を支持し、みなさんを支持してきました。私はそのために自分のクビを差しだしたのです。ですから私をクビにする口実をディズニーに与えないでください、お願いです、と訴えた。(略)
[一ヵ月後予告編を携え再訪]そこには「あの子を解き放て、あの子は人間だぞ」という台詞があらたに入っていた。これは好ましい追加と思われた。MOJはヒーローのアシタカがヒロインのサンを助けているのだと解釈した。ほんとうはそうではなかったがわれわれは否定しなかった。サンがアシタカの上にかがみ込み、キスしているかのように見える場面があった。すばらしい、ロマンスもある、とMOJは言った。われわれは、それがキスではないとは言わなかった。瀕死状態だったアシタカのために、サンは乾燥肉を噛んで口移しで与えていたのだ。しかしMOJは喜び、われわれは彼の喜びに水を差すつもりはなかった。映画が公開された後に真実を知ればいいと思ったのだ。そして彼がそれを知ったときには、『もののけ姫』は日本の興行成績をすべて塗りかえていた。

徳間康快社長

奇抜で自信に満ち、独断的で意志が強く、世論や常識に反することを喜々としてやった。精力的で、喜ぶときは大いに喜ぶが、怒るとすごかった。彼はリア王のように大言壮語してはばからず、明らかに真実でないことを言っても聞く者を納得させた。彼はマキャヴェリのように細かい策略に長け、その効果は、彼がもっとも過小評価されているときに現れた。(略)
じつに上手に、クリエイティブに、もっともらしく、そして見え見えに嘘をつくことができた。聞き手はもともと信じていないから気を悪くしない。おじいちゃんが孫である自分だけに秘密を教えてくれているという思いになる。たとえそれまで同じことをほかにも10人くらいに語っていたとしても。一方、彼はごく実用的な知恵も授けてくれた。「きみの人生のシナリオを他人に書かせてはいかん」と彼は忠告した。「金が足りないからといってやめるな。銀行にはあまるほど金があるのだから、頼めば貸してくれるはずだ」と。お金、それも大金を借りることが上手なのが彼の最大の才能だった。
 当時70代だった徳間社長は背が高く、がっちりしていて男前だった。

エネルギーあふれるダイナミックな人で、まるで勢いのいい山火事のようだった。山の管理者が火を制御しているときは、森が栄えた。しかしコントロールできなくなったときには、木が一部燃えるだけですめば幸運なほうだった。徳間社長が商売の機会を広げるアイデアを思いつくと、行動に移して問題を引き起こし、どういう事態になるか静観する。そしてきちんとした返済計画もないまま、さらに銀行から借金する。鈴木さんはジブリがそれ以外の事業に巻き込まれないよういつも注意していたが、他の人が責任を逃れたとき、呼び出されて始末をさせられることが間々あった。
 徳間社長は、ふだんはジブリの事業に口を出さなかったが、ときには介入した。自らが望むほどディズニー社が徳間社長に注目しなかったとき、彼は鈴木さんをけしかけて、ディズニーの宿敵ドリームワークスとの会合を設定し波風を立てた。『もののけ姫』が日本のあらゆる興行記録を破ったとき、徳間社長は東宝に対し、変更は問題外だったにもかかわらず歩合率をむりやり上げさせるべく、最後通告を出した。東宝は拒否し、ジブリの次回作『ホーホケキョ となりの山田くん』を東宝系映画館で上映するのを拒んだ。(略)
 徳間社長の策略に対応することで、鈴木さんの感覚は研ぎ澄まされたに違いない。
(略)
[とはいえ]
もし徳間社長がいなかったら、そもそもスタジオジブリは存在しなかっただろう。黒澤明の晩年の作品の製作を他の映画会社が断ったとき、当時徳間書店グループに属した大映だけ(フランス人は別として)が引き受けた。(略)
[ガメラを復活させた]
ゴジラのようにガメラアメリカで売れたはずだが、もっとお金をとれると思って200万ドルのリメイク権を拒否した――ここに徳間グループの企業の大半が最終的に失敗した理由のひとつが垣間見える)。映画会社である東光徳間は、チャン・イーモウの『菊豆』など中国政府に睨まれていたために資金を調達できなかった中国本土の監督の作品製作を援助した。徳間社長がいなかったら、映画『阿片戦争』はつくられなかっただろう。

海外のインタビュー

[20分単位のインタビュー]作品を見ていなかったり、宮崎駿が何者でどんな作品をつくっているのか知らない人がけっこういることがわかる。
 大半の記者はまったく同じ質問をし、それぞれ特別な返事を期待する。その点では宮粼駿は記者にとって理想的な相手である。なぜなら同一の質問でも彼はめったに同じ答え方をしないからだ。たとえば次のように。
記者 「この作品の主人公は若い女性ですが、あなたの作品の主人公はいつも少女か女性なのですか?」
宮崎 10時「はい」
   10時半「いいえ」
   11時「半分はヒーローで半分はヒロインです。人類の構成が男女約半々ですからだいたいそれに合っていると思います」
   11時半「映画のコンセプトを練るとき主人公が男か女かあまり気にしません」
   12時「10歳の少女たちのためにつくりたかったので、主人公は当然女性になりました」
   12時半「一般的に女性の方が主人公にふさわしいので、できるだけ女性にしています」
 日本でインタビューされるのに慣れていた宮崎さんはおそらく、外国でのインタビューに会話の要素がなく、記事に引用できる言葉や放送できる短い発言をとるのが主な目的であることに愕然としただろう。彼は記者たちがもっと作品を理解しようと聞いてくると思っていたのに、何を言ってもうなずいてメモし、コメントも質問もしないことに驚いていた。なかには作品を見ていないばかりか事前に渡した資料さえ読んでおらず、彼にあらすじを聞く記者さえいた。1998年にベルリンで行った最初の一連のインタビューでもっともよく聞かれたのは「アニメーションでこれだけ成功したのですから、次は実写映画をつくろうと思いませんか?」という質問だった。このようなインタビューがいかにいまいましいかわかってしまった宮崎さんを、次の国外宣伝キャンペーンに行こうと説得するのは一苦労だった。

鈴木敏夫の説得術

[宮崎駿]に「イエス」と言わせることができるのは鈴木敏夫プロデューサーだけだ。(略)
 私は宮崎さんが最初断ったことを、鈴木さんが説得し了解させる場面を何度も見た。しかし注意深く観察しても、当時も今もどうやって口説いたのかさっぱりわからない。宮崎さんを説得するのが表向きの目的でも、その話題が出ることさえなかった。たいていは同席するほかの人が知らない共通の知人が話題になり、今彼または彼女がどこで何をしているのかといった話をする。そのうちに鈴木さんはそもそも宮崎さんに会った目的を打診することも口にすることもなく、もう終わったので帰ろうという合図を出す。部屋から出ると鈴木さんは「宮さんがいいと言ったから計画を進めてください」と言う。私はガイジンだから、ボディランゲージを見逃したか昔の話の中に隠れた意味があってそれを聞き落としたのかと思ったが、同席したほかの日本人に聞いても、いつ、どのように宮崎さんが同意したのかわからないと言っていた。

ゴミ箱をあさるジョン・ラセター

ラセターはジブリを訪れた際に、あることを発見した。それは宮崎さんが使わないことにした場面の絵コンテを捨ててしまうことだった。これ以降ジブリを訪問するたびにラセターは宮崎さんのゴミ箱をあさることにした。ラセターは「これを捨ててしまうんですか!本当に?」と言って、捨てられた紙をゴミ箱から拾い出したのである。
 宮崎さんが捨てた絵コンテの一部が、ピクサーのラセターのオフィスに飾られている。彼のオフィスはまるでおもちゃの博物館で、名画もかかっていた。同じ壁に、宮崎さんのゴミ箱から救い出された絵コンテが、額に入れられ飾られている。宮崎さんはラセターのオフィスを訪ねるたびに、それらを見てため息をつき、「映画に残せばよかった」と言うのだった。

吹替版制作の際の宮崎駿による注意点リスト

まず、タイトルは訳そうとしないこと。どうせ無理だから。現代的な言い回しやスラングもダメ。いい声の人を選ぶこと。声は重要だ。アシタカは王子なので、言葉づかいは丁寧で、よそ行きの感じ。彼の生きる時代にしては古風である。エミシとは滅ぼされ、近代日本まで生き残らなかった人々である。エボシ御前が率いるのは非常に低い階層に属し、社会から追放された人や非人たちだ。かつては夜鷹や男娼や犯罪人やぽん引きだったが、今は立ち直っている。ハンセン病患者らしき人もいる。でもエボシ御前はちがう。彼女だけは別の階級の出だ。ジコ坊はミカドの命令で働いていると主張する。ただしそのミカドは今の天皇のイメージとは違う。当時のミカドは自分の署名を売って生活の足しにしている。ジコ坊がほんとうは誰のために働いているのかは不明。ミカドが署名したという書を持っているが、なんの意味もない。ライフルのように見えるものはライフルではない。ライフルとは別物だ。これらは持ち歩ける大砲のようなものだ。だからライフルと訳してはいけない。ライフルではないのだから。ライフルという言葉は使わないこと。

早朝散歩

 早起きの宮崎駿は、知らない街に行くと、朝食前に散歩して探検するのが好きだ。ロサンゼルスでは全くそれができなかった。ロスでただ歩いていると、犯罪にかかわっているにちがいないと疑われ警察を呼ばれる。ジョギングはいいのだが、歩くのはだめなのだ。だからほんとうに散歩したかったら、ジョギングの格好をしなければいけない。
(略)
 ニューヨークでのプレス・キャンペーンの責任者で、滞在中の面倒を見てくれたミラマックスの女性、ロビン・ジョーナスが翌朝ホテルに着いたとき、宮崎さんがひとりで外出していると聞いて彼女はぎょっとした。宮崎さんがひとりでセントラルパークを散策し、ブロードウェイでベーグルとコーヒーを買い、ニコニコしながら帰ってきたとき、ロビンは私を脇に呼び、二度と彼をひとりで外出させないでほしいと念を押した。
(略)
[ミラマックス社長からスコセッシが自宅に招待したいと言ってると電話、断る宮崎駿]
われわれがそれをロビンに伝えると彼女の表情が陰った。
 「スティーブ、M・A・R・T・I・N・S・C・O・R・S・E・S・Eが宮崎さんを自宅に招待したのですよ。あのマーティン・スコセッシですよ!彼が何者か宮崎さんは知っているのですか?どんなに大変なことかわかっているのですか?」(略)
[再度交渉]
 「だめだ、行きたくないって」と鈴木は言った。(略)
彼女は座っていた私を脇に呼び出した。
 「彼を説得できませんか?お願いですから行ってくださいと頼めませんか?私はこの仕事を失いたくありません」

ワイン通なの?

[マンハッタンで]あまり飲まない宮崎さんがデザートの後に四〇年もののポートワインを頼んだ。それを口にした彼が、私にウェイターを呼んでお酒を返してくれと言った。
 「これは四〇年もののポートじゃない」と宮崎さん。
 レストランで出されたワインを返すにはかなりの肝っ玉がいるとかねがね私は思っていた。(略)
 ウェイターはまず味を確かめ、たしかに四〇年ものだと反論した。マネージャーを呼んでもらうと、彼も同意見だった。ワインはデカンタからつがれたので瓶で確かめることができなかった。
 「お言葉ですが、これはたしかに注文なさった四〇年もののポートワインです。お客様が違うとどうしてもおっしゃるなら引き取りますが、そのような要求をされるのは不当だと言わざるをえません」
 宮崎さんを見ると首を振り「四〇年ものじゃない」と断言した。
 私は「すみませんが引き取ってください」と言った。
 15分くらい経って、レストランのオーナーがしみだらけで泥がついたボトルを持ってきた。彼は申し訳なさそうだった。彼が自分で調べたところ、ウェイターがデカンタについだのはもっと若いヴィンテージのものだとわかったと言った。彼は本当の四〇年もののポートを本物のボトルから全員に注ぎ、代金はとらなかった。
 大都会の光の下、閑散としたアップタウンをゆうゆうと走ってホテルに帰りながら、私は宮崎駿がどうやってポートワインが四〇年ものでないことを見抜いたのだろうと思いをめぐらさざるをえなかった。

アカデミー賞授賞式招待

宮崎さんは授賞式に出席するつもりはなく、二度と聞くなと釘を剌した。鈴木さんは、もう決断しているのだから何度聞いても無駄だと言った。
 私がジョン・ラセターにその旨を伝えると、彼はそれから一カ月間、週に何度も電話をかけてきては、宮崎さんの気を変えさせるアイデアを次々に提案した。(略)
 ジョン自身が同行すれば行くだろうかと探りを入れてきたこともあった。(略)
 飛行機が嫌いなのか? 空旅のあわただしさと面倒くささが理由ならば、ロイ・ディズニーが彼の自家用ジェット機ボーイング七三七機を貸してもいいと言っている。それは120人の乗客を運べる飛行機だ。だから、ゆったりできるし、好きなだけ人を連れていける。(略)
 私はジョンから新しいアイデアが出るたびに、鈴木さんに伝えた。一度決めた宮崎さんの考えを変えることができる人がいるとすれば、鈴木さんしかいない。しかし、新しい計画がどんなに魅力的でも(ロイ・ディズニーの七三七機に秉れるなんて!)、鈴木さん自身がどれだけ宮崎さんに承諾してほしくても、答えはいつもノーだった。行く気はもうとうなく取りつく島もなかった。
 1973年にマーロン・ブランドが受賞した『ゴッドファーザー』の主演男優賞をネイティブ・アメリカンのサシーン・リトルフェザーが代わりに受け、受賞挨拶の代わりにハリウッド映画とテレビがアメリカのインディアンを正しく描いていないと抗議して以来、アカデミーは受賞者本人にしか舞台での受賞を認めなくなった。唯一の例外は候補者が死亡した場合だ。
(略)
 やがてアメリカがイラクに侵攻し、状況が一変した。ジブリの人間は、その年、誰もアカデミー賞授賞式に出席したがらなかった。

宮崎駿はかつてこう言っていた。

「みんなストレスがいかに悪いかと言いますが、私はそう思いません。ときには大きなストレスの下に置かれることも悪くないのです。自分のいちばん優れた面が発揮されるからです。ストレスがないと、毎日とぼとぼと歩き続けるだけですが、ストレスがかかると、自分が実際にどこまでできるか知ることができます。確かに死期はちょっと早まるかもしれませんが、だからどうだっていうのですか?みんな死ぬのです。われわれが考えたこと、やろうとしたことがすべて無になるのです。それでいいじゃありませんか」。

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