学術書の編集者 橘宗吾

名古屋大学出版会の本に他の大学出版とは違う、一般人を惹き付ける何かがあったのは、こういう編集者がこういう姿勢でつくっているからなのであった。
いいぞ、名古屋大学出版会、GOGO!名古屋大学出版会。

学術書の編集者

学術書の編集者

はじめに

 学術書の出版社は市場の中で本を売ります。つまり、市場に左右される部分があるわけです。他方、学問的真理は、少なくともそれを主張するさなかにおいては、市場からの独立性を保障することが求められます。学術書出版はそのあいだに立って両者を媒介することが基本的な役割ですから、当然のことながら、いろいろ苦労することになります。しかし私は、この苦労はとても大切なことだと思っています。なぜなら、市場は社会の声を(もちろん、そのすべてではないにせよ)反映するものでもあるからです。また、学問的真理の主張も、たとえ自然科学のそれでも、人間の社会から完全に独立したものとは考えにくいところがありますから、これを、アカデミアを通したもう一つの社会の声だと考えるなら、学術書出版は人間社会の二つの声を交わらせ、結びつけることによって、コミュニケーションを推し進め、知識を深めようとするものだと言えるでしょう。そこには必然的に、経済的リスクとは別の、コミュニケーション上のリスクがともなうことになりますが、これは前者のリスク以上に学術書出版が積極的に引き受けるべきものだと考えられます。逆に言えば、それを回避しようとすることから、おかしな考え方が広がったりもします。

企画化と原稿化のプロセス、著者への「挑発」

「たて」と「とり」、つまり企画化と原稿化のプロセスです。(略)
著者を何らかの形で触発して本を書こうと思ってもらうわけですが、学術書の場合、このとき最も大切なのは、「学問のディシプリンを大切にしつつ、それを超え出る」よう促すということです(元東京大学出版会の竹中英俊さんの表現。私の出版の師匠で名古屋大学出版会の基礎をつくった後藤郁夫さんは、これを「挑発する」と呼んでいました。(略)
原稿化の過程が、研究の「体系化」の過程でもあるために、時間がかかるわけです。ですから、粘り強く「待つ」。といってもボンヤリしているわけではなくて、タイミングを見計らって連絡をとり、時々会って四方山話から本のプランの相談までします。このとき一番大事なのは、その著者の研究が最高の形で完成したものを読みたいと、そういう気持ちを伝えつづけることです。(略)
そしてようやく著者が原稿を書いてくれれば、次にそれを「読む」ことになります。もちろん、そもそも著者の方から出版企画の提案があったり、書かれた原稿について相談を受けることもあります。しかしどの場合でも、最初に書かれた原稿がそのままでOKということはめったになくて、いわゆるボツになるケースも含めて、編集者が読んで感じ考えたところを何らかの形で著者に差し戻すことになります。さらに、他の研究者の意見を聴くこともありますから、その場合には自分で読んだところと突き合わせた上で著者にフィードバックします。ここにも一種の「挑発」があると考えますと、ここからもう一度、「挑発する〜待つ〜読む」というサイクルが始まることになります。そして原稿が最終的に「よし」と思えるところまできたら、初めて「つくり」つまり書物化の段階に進んでいくわけです。「たて」と「とり」のプロセスには、時間がかかる場合も多くて、大きな学術書ですと、十年以上かかることもあります。編集者はそのかん、つねに数十から100以上の出版企画を抱えながら、その著者や企画とつき合いつづけることになるわけです。
(略)
私は、編集の仕事の醍醐味は、ほんとうは、本を書くことを依頼した際の、編集者の期待を軽々と超えてしまう、そんな原稿を初めて読んだとき、その衝撃で自分自身が変わってしまうような経験にあるとすら思っています。(略)
ただしそれを読むことは、一方で苦しい経験でもありまして、読み進めようとしても、ひっかかって進まなくなったり、これでいいのか心配になったり、考えるのをやめたくなったりもします。とにかく、自分のそれまでの物の見方・感じ方を変えてしまう、つまり自己変容をせまってくる部分がありますので、これはたいへんなことでして、そうした場合には、他に計画中だった本を、少なくとも前と同じようにはつくりつづけることができなくなるくらいです。

検索機能肥大化による問題

従来、紙の書物の中では、読むための機能と、検索するための機能が共存してきましたが、現在、デジタル・ネットワーク化によって、検索機能が肥大化して突出する中で、読むことが、特に体系性や世界性を読むことが、衰弱しつつあるように見えます。検索の驚くべき便利さは否定しようもありませんが、しかしそれは、読むことに取って代わることはできない、という点が重要です。さらに言いますと、多くの人が、読まずに直ちに情報にたどりつこうという欲望をもった、検索情報の消費者となり、できればその情報を操作する主体になりたがっていて、他方、読むことについては労苦としか捉えていないように見えます。その背後にはひょっとすると、読むことによる衝撃やそれによる変化に対する恐れ(あるいは疲れ?)のようなものすらあるのかもしれません。そこでは読むことがなにか受け身で、さらには誰かに操作されることのように捉えられて、マイナスの価値を与えられているようなのです。たしかに、読むことは労力や時間を必要とするものですが、しかし、読むことによる衝撃は、人間を変えることができるものですから、けっしてその過程を軽んじてはいけないと思います。むしろ、不完全な情報の中で生きるしかない人間が、創造的に生きようとすれば、こうした、読むことによる自己変容・自己変革は最も重要なものの一つです。そしてこの自己変革こそ、イノベーションといわれるものの根本ではないかと思います。

媒介者の役割

専門家というのは特定の分野のことはよく知っておられますが、その専門を離れると――ある種の共通項を外れると――、近いと思われる分野のことでも驚くほどご存知ありません。ところが、非専門家である編集者の方は、いろんな分野で本をつくりますから、多少ともそれぞれの事情を知ることができる立揚にありまして、それを専門家の世界へとフィードバックすることができるわけです。たとえばAという分野で新しいおもしろい問題が出てきたときに、Bという分野でもそれと同様の問題が考えられることは結構ありまして、それをB分野の著者に伝えて「挑発」するのです。これを、専門分野のあいだの媒介者の役割と言ってよいかと思います。(略)
東京大学安冨歩先生が、専門家とは盲点を共有する集団だと言っておられますが、そういう盲点を少なくしてよりよい認識に到達するには、外部の社会からの声を吸収することが重要になります。(略)
専門家にとって当然の前提となっている事柄には、一般の目から見て「おかしい」と思われることや、「それを論じるならば、なぜこれを論じないのか」といったことがよくあるのですが(略)
外部からの声をさしむけて「挑発」することで、編集者は、専門と社会のあいだの媒介者の役割も果たすわけです。

「産婆役」、現在の大学のあり方への危惧

「産婆役」と申しましたが(略)こうした「知」の誕生を促す行為はとても時間がかかります。(略)
この産婆的行為は、今日の大学において、学問分野の違いをかえりみずに半ば強制されている短期的なプロジェクト型の研究や、若手研究者に不遇を強いてインスタントな、すぐに結果の出そうな研究へと誘導してしまっているあり方とは、正反対のものです。
 おそらく、今日このような学問の「徳」を無視したやり方が多少とも大学で実行できて、ある程度の成果が出ているように見える場合があるのは、これまでの、つまりこうしたやり方以前の、学問的な蓄積があるからこそだと思います。したがって、こんなやり方を続けていては、やがて研究の源泉は枯渇してしまうでしょうし、それは、将来に手渡すべき遺産を食いつぶすということでもあるはずです。つまり、現在の大学のあり方は、過去と未来へのフリーライドを行っている部分があり、それは是正されるべきです。

査読

 結論から先に言ってしまいますと、私は、学術書出版における「審査」は、査読を含むピアレビューに100%従うということではないと思っています。
(略)
アメリカ式のピアレヴュー制度では、「専門家が専門家のために行う」という力が強く働くために、書籍が「閉じた」構造をもつ傾向があるということです。(略)
専門家集団の承認をすでに受けているアイデアに対して「安全証明」を出すという性格があるため、過去に囚われた「後ろ向き」の評価になりがちだということです。別の言い方をすれば、科学者の専門家共同体という一種の「ギルド」を維持していくために、新しい、つまり、すでに存在する秩序から逸脱するような、突出した研究を排除しようとする傾向が、どうしても生まれるということです。
(略)
そもそも日本の場合、たとえ大学出版部でも、専門家による査読を厳密に制度化しているところは少ない。というか、はっきり言って、アメリカのように徹底して行っているところはほとんど無いのではないでしょうか。
(略)
実際、日本で書籍の査読制を徹底して行おうとしても、まず制度についての認知度が低いということがあります。
(略)
 まず主として査読者側に原因がある難しさの例です。たとえば、書籍の原稿は論文に比べて一つひとつの分量がはるかに多いので、それを丁寧に読むにはたいへん多くの時間と労力がかかりますが、研究者に査読をお願いしても、そもそもなぜ自分がそんな労力と時間をかけなければならないのかわからないというかたがおられます。特に所属大学も異なり、学会の仕事でもないとなると、そう思われるようです。一見この点に理解があるように見えるかたでも、忙しさを理由に断ったり、断らないとしても実際には斜め読みしかしてくれないというケースもあります。また、人によって甘口・辛口ということがあり、極端な場合、どれも全部ダメ、逆に何でもOK、とにかく一般に――あるいは自分の専門分野で――本が出るのはいいことだから何でも持ち上げる、という姿勢でレフェリーペーパーを書かれるかたもおられます。レフェリーペーパーについては冒頭でもふれましたが、そこまでいかなくても、書きぶりという問題があり、レフェリーに直接話を聞いてみるのと、レフェリーペーパーとでは、評価が大きく違うという印象を受けることもあります。以上のような問題のほかにも、たとえば、それぞれの出版社で求めている水準を、レフェリーに納得してもらうのが難しいということがあります。そのためにはレフェリーに、その出版社の本についてある程度知ってもらわなくてはならないわけですが、それは実際なかなか難しいことですし、既刊書の少ない分野ではほとんど不可能です。さらに言えば、「身内びいき」も生じがちで、特に研究者の数が少ない分野では、著者とつき合いの濃い研究者に査読をお願いせざるをえなくなりますから、査読者の方でも厳しい意見は書きにくかったり、逆に仲が悪くて「貶める」ような意見を書かれる場合もあります。
(略)
複数の査読者を探すというのは、言うは易しですが書籍の原稿についてはそうとう大変で、手間ヒマがかかって、結局、査読者やそのコメントをこちらがどう評価するかという問題が消えるわけではありません。それよりも、後で言いますように、編集者が原稿をしっかりと読めば、査読者の言葉をある程度聴き分けられるようになりますから、割り引いたり割り増したりして、それでもダメでレフェリーペーパーがまったく役に立たないという時にだけ、二番目の査読者を探すくらいでよいように思います。いずれにしても、査読者のコメントの質を見極めるには、編集者が原稿を読むということがベースになり、まずはそれと突き合わせていくしかないと思います。一方、査読者の数については、とこまでコストをかけるかという問題になるでしょう。
 さて、ここまでは査読者側の問題でしたが、さらに著者側に関しても、たとえば、出版社が原稿を検討するのに時間がかかるのを待てない人がいますし、そうでなくても、査読にかけられること自体を嫌がる人もいます。あるいは、査読で厳しい修正意見が出てきた場合、著者が、ほかの出版社、つまり査読の無い、しかし「学術書」も出版しているような出版社からの出版を選ぶということもありえます
(略)
たとえば編集者が山中さんという研究者のことを知り、関心をもったとき――いわば「アタリ」をつけていく段階ですが――、その編集者は、山中さんの論文などを探して読もうとすると同時に、山中さんの研究が専門家集団の中でどのような評価を受けているかを知ろうとするでしょう。
(略)
しかし、先ほど「身内びいき」と言いましたように、山中さんとつき合いの濃い研究者に、山中さんは優秀ですか、あるいは山中さんのこの仕事はいいですかと聴くだけでは、なかなか率直な意見を言ってもらえないこともあります。
(略)
編集者が論文を手に入れて自分なりに読めていれば、読んで考えたところを、研究者――山中さんではなく、意見を聴こうとしている方の研究者――にぶつけてみるというのが正攻法で、そうすれば、その研究者は、編集者の意見にかなりの程度、答えてくれますし、それ以外にも内心、山中さんの研究についてこうすべきだと思っていた点などについてもいろいろ話してくれるものです。
(略)
「感触」がわかるだけでもいいと思っているときには、私の場合ですと、たとえば、関連する研究者に会ったついでに――「ついで」というのは大事ですね――、自分はいまこういうテーマに関心があるのですが、と話を出してみて、その山中さんの名前がパッとあがってくるかどうかを確かめてみたり、あるいは、たしかこんなことを研究している山中さんだか田中さんだか、そんな名前の人がいると聞いたのですがと、ちょっとトボケて、少し距離をとって言ってみて、相手からどんな反応が返ってくるか探ってみることもあります。また、話の中ですでに山中さんの名前が出てしまっているようなときには、あえて山中さんの研究についてちょっとネガティブな、あるいはその逆の意見を言ってみて、相手の反応を見てみるということもあります。(略)
そのほか、「後ろ向き」の評価を避けるためには、むしろ若い研究者、場合によっては、まだポストをもっていないような研究者の意見を聴いてみることもあります。こういう場合、あまり正式ではない方がかえって聴きやすいと思います。

大学との関係

 名古屋大学出版会でも設立して間もないころは、大学の先生方から提案される出版企画を、たとえそれがイマイチと思われるものであっても、なかなかお断りする力がありませんでした。しかし、そういう状況を徐々に変えていくことは、けっして不可能ではありません。(略)そのためには結局、少しでも「いい本」を増やし、その逆の本を減らしていく、というあたりまえのことを、少しずつ実行していくしかないのです(略)「審査」をうまく使っていくことは十分可能だと思います。(略)
 残念ながら、出版する/しないの決定に当面は踏み込めないという場合、つまり、出版を引き受けることが前提になってしまっている場合でも、内容改善のためだということで、査読を含む「審査」を行えば、少しでも出版物の質を高めることができるはずです。(略)
質を上げるために書き直すということになれば、その本の出版は遅れるはずです。そうすると、全体として、もともとそれなりに質のいい企画は時間的に早く進んでいきますし、イマイチの企画は遅れていくことになり、一定の時間単位、たとえば年度で見た場合、よりよい出版物が増え、その逆の出版物が減っていく傾向が生み出せます。

インタビューから

後藤さんに拾ってもらって入社してすぐの時期、著者にに会いに行くと「名古屋大学出版会ってまだつぶれてなかったの?」「そんなものは知らん」とよく言われました。存在を認められていないところに自分は入ったんだって思ったものです。

自分らしさが表れた担当作品として著者が挙げた本。

漢文脈の近代―清末=明治の文学圏―

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動物からの倫理学入門

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属国と自主のあいだ―近代清韓関係と東アジアの命運―

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