ボブ・ディラン自伝・その4 ジャック・エリオット

前回の続き。

ボブ・ディラン自伝

ボブ・ディラン自伝

ウディ・ガスリー、ジャック・エリオット

 ウディの歌はわたしに大きな衝撃を与え、することなすことに、食事のしかたや服装や、だれと知り合いになりたくてだれと知り合いになりたくないかにまで影響を与えた。(略)
[当時は]十代の若者の反抗が話題となっていたが(略)理由なき反抗と言うより、理由のわからない反抗と言うほうが当たっている、とわたしは思った。また、ビートニクたちは、中産階級の慣行や人工的な社会やグレイのスーツを着たビジネスマンを悪の権化としていた。
 フォークソングは必然的にこうしたものと相容れず、ウディの歌はそのことにさえも逆らっていた。比較をすれば、ほかのものはどれも表面的でしかなかった。(略)ガスリーの歌を知ったことで、わたしの頭と心はその文化のなかのまったく異なる宇宙に送りこまれた。(略)
ウディの歌を歌っていれば、すべてのものから距離を置き、安全を保っていられた。しかし、この幻想は短命だった。(略)
ジョン・パンケイクはフォークミュージックの熱心なファンで、フォークの純粋主義者だった。ときには文学を教え、映画にも詳しいパンケイクがしばらく前からわたしに眼をつけて、わたしの行動を見逃すわけにはいかないと言いにきた。ばかを相手にするように人差し指でわたしの胸を小突いて言ったのだ。「どういうつもりだ?ガスリーの歌しか歌っていないじゃないか」。パンケイクは高圧的で、彼の話にとりあわずに逃げるのはむずかしかった。本物のフォークのレコードを大量に持っていて、それについて延々と話をすることで知られていた。彼はフォーク・ポリスの長官ではないとしても署員であり、新しい才能をまったく認めなかった。
(略)
 「一所懸命やっているようだが、ウディ・ガスリーにはなれないぞ」。パンケイクは高い山の上から見下ろすかのように、そしてだれかが彼の気にさわることをしでかしたかのように言った。いっしょにいて楽しい相手ではなかった。いらいらさせられるやつだった。彼の鼻から炎が噴きだした。「ほかのことを考えたほうがいいな。いまみたいなことをやってても無駄だ。ジャック・エリオットはとっくの昔に同じようなことをして卒業した。聞いたことがあるか?」わたしはジャック・エリオットを聞いたことがなかった。(略)パンケイクがエリオットのレコードを聞かせてやろうと言いだした。(略)
彼がすごいレコードを持っているという話が本当なのを知った。見たこともないし、どこで売っているのかもわからないレコードだった。歌もギターもやらない人間が、そんなにたくさんのレコードを持っているのが不思議だった。パンケイクはまず、『ジャック・テイクス・ザ・フロア』というロンドンのトピック・レーベルから出ている一枚を聞かせてくれた――輸入盤のとてもめずらしいやつだ。たぶんアメリカ全土で十枚ぐらいしかなかっただろう。パンケイクのほかには、だれも持っていないのかもしれなかった。(略)
[レコードを聴き]わたしは「すごい、この男は本当にすごい」と思った。ガスリーの作品ではないものを歌っているのに、その声は少し細くて繊細な感じがするほかは、ガスリーそっくりだった。わたしは突然、地獄に突き落とされたような気になった。
 ジャックは音楽の秘儀をマスターした達人だった。レコードジャケットも神秘的だったが、不気味な感じはなかった。そこには、のびのびと自由な、小粋ななりをした馬上の放浪者といった風情の人物が写っていた。カウボーイの服装だ。ジャックの声は鋭くて高く、はっきりとしていた。彼は南部風にゆったりと歌い、わたしの気分が悪くなるぐらい確信にあふれていた。おまけに流れるようなギターのフラットピッキング奏法も完璧だった。彼はゆったりと歌って部屋いっぱいに声を響きわたらせ、そしてその声を好きな箇所で爆発させることができる。あきらかにウディ・ガスリーのスタイルを一歩前進させていた。もうひとつ――ジャックには、人を楽しませるエンタテイナーとしての資質がそなわっていた。フォークミュージシャンの大半は、そういうことに無頓着だった。(略)
わたしより十年早く生まれたジャック・エリオットは、実際にガスリーといっしょに旅をして、じかに教わった歌とスタイルを完璧にマスターしていた。
 パンケイクの言うとおりだった。エリオットはわたしのずっと先にいた。彼はほかにも、ランブリング・ジャックのレコードを持っていた。(略)
『ジャック・テイクス・ザ・フロア』のジャケットを見ると、ジャックの眼がそのままのぞきこめるような気がした。(略)
 わたしはすごすごとパンケイクの部屋をあとにし、寒い通りに出て、あてもなく歩きまわった。(略)
わたしは自分に、忘れろ、何も聞かなかった、エリオットは存在しないと言い聞かせた。どちらにしてもエリオットは自主的な流刑に服して海をわたり、ヨーロッパの地にいる。アメリカにはまだ、彼を受けいれる準備がない。よかった。彼がずっともどってこないことを祈り、わたしはガスリーの歌の探求にもどった。
 数週間後、パンケイクがふたたびわたしの演奏を聞いて、ばかにするな、前はガスリーの真似をしていたが、今度はエリオットの真似をしている。エリオットと張りあうとはいったい何を考えてるんだと言いに来た。ロックンロールにもどったほうがいいかもしれない、前にロックンロールをやっていたのを知っている、とも言った。パンケイクがどうしてそれを知っているのか、わたしにはわからなかった――きっと彼はスパイだったのだろう。
(略)
パンケイクがジャックについて言ったことばも忘れることができなかった。そのとおりだった。ジャックはフォークシンガーの王だった。

ジョーン・バエズ、ハーモニカ

 「フォークシンガーの女王」はだれかと言えば、それはジョーン・バエズだったろう。わたしの未来は同じ年のジョーンの未来と絡みあうことになるが、ミネアポリスで歌っていたころには、そんなことを考えるのさえばかげていた。彼女はヴァンガードから『ジョーン・バエズ』というアルバムを出していて、わたしはテレビで彼女を見たことがあった。(略)
ジョーンは自作のバラッドを歌ったあと、ライトニン・ホプキンスと並んでいっしょに歌った。わたしは彼女から眼を離せなかった。まばたきさえしたくなかった。とても魅力的だった――つやつやした黒い髪がほっそりした腰のラインまで下がり、まつげは下向きの長いカーブをつくったあと少しだけ上がっていた。ラガディ・アン人形のまつげとは大ちがいだ。彼女の姿を見ているだけで気持ちが高ぶった。そのうえにあの声だった。悪い考えを追い払ってくれる声。まるでべつの星から来た人のようだった。
(略)
彼女は魅力的で成熟していて、真摯で力強く、まるで魔法のように思えた。彼女のすることのすべてが効果を発揮していた。同じ年齢であることで、わたしは自分を役立たずのように感じた。そして理にかなってはいないが、何かが彼女はわたしの片割れであると教えていた――わたしの声にぴったりと調和するのは彼女の声だと。当時のわたしと彼女のあいだには、大きな隔たり、大きな断絶があった。わたしはまだいなかの片隅から抜けだせずにいた。それでも不思議な感覚が、ふたりがかならず出会うことになると教えていた。(略)
彼女はわたしよりずっと広い世界を経験していた。たとえそうであっても、彼女がわたし自身よりも、わたしらしいかもしれないという考えが、不自然なものには思えなかった。(略)
彼女はずっと上のほう、だれも手が届かないところにいた――シーザーの宮殿に住むクレオパトラのように。彼女が歌うとだれもが衝撃を受けた。ジョン・ジェイコブ・ナイルズと同じで、ふつうの人間とは思えなかった。わたしは恐ろしくて、彼女に会いたくなかった。牙をこちらのうなじにつき立てるかもしれないのだ。会いたくはなかったが、やがて会うことになるのはわかっていた。かなり後れをとってはいたが、わたしも同じ方向を目指していた。ジョーンのなかには炎があり、わたしのなかにも同じ炎があった。わたしも彼女と同じ歌が歌えた……たとえば「メアリー・ハミルトン」や「シルヴァー・ダッガー」「ジョン・ライリー」「ヘンリー・マーティン」といった曲だ。わたしはこれらの曲を、形は異なるが彼女と同じように適切に歌えた。
(略)
[ミネアポリスで時々一緒にやったトニー・グローヴァーは]ハーモニカを手で包みこむようにして、ソニー・テリーやリトル・ウォーターのように吹いた。(略)
 グローヴァーのようには吹けなかったし、そんなふうに吹こうとも思わなかった。わたしはウディ・ガスリーのようなスタイルでハーモニカを吹くだけだった。グローヴァーのハーモニカは有名で街で評判になっていたが、わたしのハーモニカについてはだれも何も言わなかった。だれかがわたしのハーモニカについて何か言うのを聞いたのは、ただ一回、数年後ニューヨークシティはローワーブロードウェイのジョン・リー・フッカーのホテルの部屋でのことだった。そこに来ていたサニー・ボーイ・ウィリアムソンがわたしのハーモニカを聞いて「ぼうや、あんたは速く吹きすぎる」と言った。
 ついにミネアポリスを脱出するときがやってきた。

Joan and Bob - When the Ship comes in

「黒い大きな船」

[恋人のスージ・ロトロが制作に関わっていた音楽劇がテアトル・ドゥ・リースで上演]
ベルトルト・ブレヒトと、オペラとジャズを組みあわせたようなメロディを書くクルト・ヴァイルによる作品だった。劇中歌のひとつ、「マック・ザ・ナイフ」は、ボビー・ダーリンの歌ですでによく知られていた。
(略)
 わたしはすぐさま、三十時間ほど食べも眠りもせずにいたあとのような気分になって引きこまれた。いちばん強烈な印象を受けたのは、大喝采を浴びた「大きな黒い船」のバラッドだ。「海賊ジェニー」というタイトルの歌だが、歌詞に海賊ジェニーということばはなく、ほんとうのタイトルかどうかわからない。裏ぶれた港の安宿でベッドを直すなどの雑役をする下働きの女の歌だ。わたしが最初に引きつけられたのは、リフレインとして繰り返される「大きな黒い船」についての一行だった。この一行が、子どものころに聞いて心にしみついた船の霧笛を、その壮大な音を思いださせた。まるで頭の上を船が通っているように聞こえる音だった。
(略)
霧笛の重たい響きが人の首ねっこをつかまえてふつうの気持ちではいられなくさせる。(略)
わたしは体のなかがその音でいっぱいになるのを感じ、自分をうつろに感じた。何かにのみこまれてしまいそうだった。
(略)
[次に私は下働きの女が]立っている冷たくて乾いた場所について考えはじめた。彼女の姿勢は強固で熱っぽい。彼女が仕度を整えるベッドの主である「紳士たち」は、彼女のなかにある憎しみにまったく気づいていない。黒い大きな船は救世主的なものを象徴しているようだ。船はどんどん近づいてきて、すでにドアの近くまで来ているのかもしれない。彼女は力にあふれていて、正体を隠したまま人の頭数を数えている。やがて歌の内容は、このあとに起こることになっている恐ろしいできごとへと変わる。「建物はどれも平らにつぶれて、いまいましい街はなくなる」(略)
大勢の男たちが船から埠頭に下りてきて、鎖でつながれた紳士たちを引きたてて、いますぐに殺すかあとにするかを主人公の女性に訊く。彼女がそれを決めるのだ。彼女の顔が晴れやかに変わる。船のへさきから砲弾が撃ちこまれ、紳士たちの顔からほほえみが消える。(略)彼女が「やつらをいますぐに殺すんだ。思い知らせてやるんだ」と言う。紳士たちがその仕打ちに値する何をしたのか、歌はそれを教えない。
 ワイルドな歌だった。呪術を含んだ歌詞。繰り広げられる暴力的行為。(略)
かならず「黒い大きな船」のリフレインが影のように入って区切りをつけ、それまでの部分を厳重にしまいこむ。邪悪な鬼のことばのような恐ろしい歌を聞いて、観客はことばを失う。息を殺す。小さな劇場のなかで歌が最後のクライマックスに達すると、客は全員、反応するすべを失い、不安な気持ちでただステージをみつめる。なぜそうなのか、わたしにはわかった。客は歌のなかの「紳士たち」であるからだ。(略)
ウディはこういう歌は書かなかった。これはプロテストソングでもトピカルソングでもなく、そこには人々に対する愛がない。
 この歌の原動力は何なのか、なぜこんなに効果的なのか。(略)この歌では、すべてのものが最初からそこにあって見えているのに、それがわからないということに気がついた。何もかもが大きな金具で壁に留めつけてあって明白だが、各部分をまとめた全体を見るには、一歩うしろに下がって最後まで待たないといけない。ピカソが描いた「ゲルニカ」のようだった。(略)
 みすぼらしい自分の部屋にもどったあと、わたしはさらに考えた。(略)歌詞とメロディで綴られたもののなかにある可能性を――それが人の心や肉体に成しえることの大きさを――強く感じていた。そして自分が歌いたいタイプの歌はまだ存在していなかったのだと気づき、そういう歌を手に入れようとして、ことばをいじりはじめた――そこに含まれている情報や登場人物や筋書き以上のものを表現できる歌をつくりたかった。
 思想的な意味では隔たりがあったが、「海賊ジェニー」の影響を大きく受けて、わたしは『ポリス・ガゼット』というタブロイド紙で読んだ猥雑な事件を題材にして、歌をつくろうと試みた。牧師の娘だったが、クリーグランドではスノウ・ホワイトという名で通っていた娼婦が、複数の客を恐ろしい方法で殺害した事件だった。(略)
「フランキー・アンド・アルバート」の最初の二行をリフレインに使用したのだ。「フランキーはよい娘/だれもがそれを知っている/アルバートの新しいスーツに百ドルを出してやった」というところだ。しかし楽しい作業ではあったが、歌は生まれてこなかった。まだ何かが欠けていた。

ジョン・ハモンドロバート・ジョンソン

 わたしはキャロリン・ヘスターに、コロンビアから発表するデビューレコードで何曲かハーモニカを吹いてほしいと頼まれていた。ほかにも、わたしが演奏でやっていることの一部を教えてほしいと言われていた。わたしは協力できるのがうれしかった。ハモンドは事前にみんなと会って準備を万全に整えたい、キャロリンが録音する曲を先に聞いておきたいと求めてきた。そういうわけで、わたしたちはキャロリンのアパートメントに集まった。そしてそこでハモンドは、初めてわたしの歌と演奏を聞いた。わたしはハーモニカを吹いてギターを弾き、キャロリンにハーモニーをつけて歌ったが、ハモンドが特別の関心を払っているとは思わなかった。
(略)
ニューヨーク・タイムズ』紙のフォーク&ジャズのコーナーに、わたしを絶賛するコンサート評が載った。わたしは前座でしかなく、グリーンブライアー・ボーイズについてはほとんど書かれていないのを考えると奇妙に思えた。前にもフォーク・シティには一度出演していたが、そのときはどこにも評が載らなかった。『ニューヨーク・タイムズ』の記事が出たのはキャロリンのレコーディング・セッションの前日の夜で、つぎの日の朝、ハモンドは新聞を読んだ。レコーディングは順調に運び、みんなが荷物をまとめて帰ろうとしたとき、ハモンドがわたしをコントロールブースに呼び、コロンビアからわたしのレコードを出そうと言ってきた。わたしは、「はい、そうしたいです」と答えた。心臓が空まで、ほかの銀河系の星まで飛んでいきそうだった。心のなかは動揺し安定を失っていたが、外からはわからなかったろう。信じられなかった。ほんとうとは思えないぐらいすごいことだった。
 全人生がひっくりかえろうとしていた。(略)
 ジョン・ハモンドは徹底した音楽人間だった。早口で話し、ことばを短く切って、神経質だった。わたしと同じことばづかいで話し、好きな音楽やレコーディングにかかわったアーティスト全員に関する知識をたっぷりと持っていた。彼は率直にものを言い、そのことばには裏がなく、言ったことを実行する人だった。いいかげんなことを言う人ではなかった。金にはあまり関心のない人だ。それも当然だ。彼の先祖のひとりであるコーネリアス・ヴァンダビルトは何かの折に、「金?わたしがどうして金を気にしなくてはいけないのかね?わたしには権力がある!」と言ったことがある。(略)
人がおぼえていないぐらい遠い昔から、貧しい者や弱い者にチャンスを与えてきた。その彼がこのわたしを、音楽業界の迷宮の中心、コロンビア・レコードに招き入れようとしている。フォークレーベルはどこもわたしを受けつけなかった。それでよかった。断られていてよかった。
 ミスター・ハモンドのオフィスを見まわすと、友人のジョン・ハモンド・ジュニアの写真が眼に入った。ジョンは、マクドゥーガルストリート近辺ではジープという名で知られているブルースギター奏者兼シンガーだった。(略)
ほかのみんなも、ジープの父親がだれであるのか知ってはいなかったろう。ジープがそれを話したことはなかった。
 ジョン・ハモンドがわたしの前に契約書を置いた(略)
「どこに署名すればいい?」と言った。彼がその箇所を教え、わたしは不安を感じることなく自分の名前を書いた。わたしはハモンドを信じていた。信じないはずがないだろう?世界には千人ぐらい王様がいて、彼はそのひとりなのだ。その日、オフィスを出るとき、ハモンドが二枚のレコードをわたしてくれた。
(略)
[一枚はデルモア・ブラザーズとウェイン・レイニー]もう一枚はロバート・ジョンソンというシンガーの『キング・オブ・ザ・デルタ・ブルース』というレコードだった。(略)
ハモンドは絶対にそれを聞くべきだ、こいつに「かなうやつはいない」と言った。そしてジャケットに使用するという絵を見せてくれた。ギターを持ってうちこんだ様子で歌う男を、真上から、部屋の天井から見下ろす形で描いた絵だった。ふつうの体格の男なのに、肩だけが体操選手のように大きく張り出して描かれていた。刺激的なジャケットだった。わたしはその絵をみつめた。まだ何も知らなかったが、すでに絵のなかのシンガーが心に入りこんでいた。(略)
 ジョンは、わたしのレコーディングの開始日や使用スタジオを決めた。そしてわたしは凧みたいに高く舞いあがってスタジオをあとにし、地下鉄に乗ってダウンタウンにもどり、ヴァン・ロンクのアパートメントまで駆けていった。
(略)
最初の一音から、スピーカーが放つ振動がわたしの髪を逆立たせた。ギターの刺すような音が、いまにも窓ガラスを割りそうだった。歌いはじめたジョンソンは、ゼウスの頭から躍りでた甲胃の戦士のようだった。即座に、ジョンソンがこれまで聞いてきたほかのだれともまったくちがうのがわかった。(略)
はじめ、歌は軽くすばやく進行する、聞き逃してしまうぐらい速く進行する。そして大きく飛躍して、やがて主題である鮮明で効果的なことばに到達し、大きな展開のある物語が完成される。「カインド・ハーテッド・ウーマン」「トラヴェリング・リヴァーサイド・ブルース」「カム・オン・イン・マイ・キッチン」――回転するアセテート盤の表面から、人間の炎が燃えあがる。
 ジョンソンの声とギターが部屋に鳴り響き、わたしはそれに酔いしれた。だれだってそうなると思った。しかしデイヴはちがっていた。この歌はべつの歌から派生しているとか、この歌はべつの歌の複製であるとかを指摘しつづけた。ジョンソンに独創性があるとは見なかった。
(略)
 続く数週間、わたしはレコードプレイヤーをにらみつけ、ジョンソンの歌を一曲、また一曲と繰り返して聞いた。それを聞いているときは、恐ろしい幽霊が部屋にいるような気がした。彼の歌は、驚くほど簡潔な行を積み重ねて構成されていた。(略)
ジョンソンの詞は、わたしの神経をピアノ線のように震わせる。その意味や感情はとても本源的で、聞く者の内側に大きな絵を描く。(略)そこには、たくさんの欠けたことば、たくさんの二重の意味がある。ジョンソンは、ほかのブルース作家が一曲を費やして語ることもある冗長な描写を省略する。彼の歌詞にあることばが、本当に起こったことであるのか、だれかが言ったことであるのか、だれかが想像したことであるのかはわからない。ジョンソンが樹からたれさがったつららのことを歌うとわたしは寒さを感じ、腐ったミルクのことを歌うと吐きたくなる……どうしてそんなことができるのか。どの歌にも、不思議と個人的な反応を引きだす要素がある。
(略)
 わたしは歌詞を紙に書き写して、さらに詳しく調べてみた――歌詞とパターン、彼が書いた古風な行の構成と彼が使用した自由な連想、生命力と才気にあふれた風諭、ナンセンスな一般論という殼の奥に潜むとてつもない真実、やすやすと空気のなかを飛んできて聞き手に届く主題。わたしはそういうものを夢に見たことも考えたこともなかったが、それを自分のものにするつもりだった。
(略)
小作人たちやプランテーション労働者たちが安酒場で、ジョンソンの歌を楽しんだとは想像しにくい。ジョンソンは彼にだけ見える未来の聞き手に向かって歌っていたのではないかと思いたくなる。「おれの持ちもので、おまえの頭をからっぽにしてやる」と彼は歌う。彼は、作物が枯れてしまった土地のように、深刻で切迫した事態を歌う。ジョンソンに、そしてジョンソンがつくった歌詞にばかばかしいところはひとつもない。わたしも彼のようになりたかった。
(略)
どうしてジョンソンの心があんなふうに自由に、たくさんの場所に出たり入ったりできるのか、わたしにはわからなかった。
(略)
その後の数年のあいだにわたしは、「イッツ・オールライト・マ」「ミスター・タンブリン・マン」「ハッティ・キャロルの寂しい死」「デイヴィー・ムーアを殺したのはだれ?」「しがない歩兵」「はげしい雨が降る」などの歌をつくった。もしテアトル・ドゥ・リースに行かず、海賊ジェニーの歌を聞いていなかったら、こういう歌をつくろうという気にはならなかった。自分にこういう歌がつくれるとは思わなかったろう。1964年と1965年には、無意識のうちに五、六曲でロバート・ジョンソンのブルースの形を取り入れていたと思う。といっても、主に作詞上の修辞的表現に関してのことだ。あのときロバート・ジョンソンを聞かなかったとしたら、大量の詩のことばがわたしのなかに閉じこめられたままたった。わたしはきっと、それを文字に置きかえる自由と勇気を持てなかっただろう。わたしのほかにもジョンソンの作品から多くを学んだ人がいる。わたしより二歳若いテキサス人で、派手なギターを弾くジョニー・ウィンターは、ジョンソンの蓄音機の歌をテレビの歌に書きかえた。おれのテレビがぶっ壊れて絵が映らない――おれのチューブがいかれてお楽しみがなくなったと。ジョニーはわたしがつくった「追憶のハイウェイ61」をレコーディングしているが、この曲自体がジョンソンの歌づくりに影響されたものだった。そんなふうに歌と歌が輪になってつながっているのが不思議に思える。

アルバートグロスマン

コロンビアから一枚目のアルバムが出たあと、心変わりしてわたしの代理人になる気になった。わたしもそれを歓迎した。グロスマンが抱えるアーティストはみんな、いい仕事にありついていたからだ。わたしのマネジャーとなって彼が最初にやろうとしたのは、コロンビアとの契約を白紙にもどすことだった。わたしはそれを裏切りに近い行為だと考えた。グロスマンは、署名したときのわたしはまだ21歳になっていなかった、つまり未成年だったから、そういう契約は効力を持たないのだと言った。そしてコロンビアのオフィスに行ってジョン・ハモンドと話をしろ、契約は非合法だから近くグロスマンが訪問して新たな契約について話しあうと言いに行けと言われた。わかった。わたしはそう言ってハモンドに会いに行ったが、グロスマンに命じられたとおりにする気はなかった。大金を払うと言われても、彼の言うようにはしなかったろう。ハモンドは自身の信念にしたがってわたしを信じ、わたしが世に出る初めての機会を与えてくれた人であり
(略)
グロスマンの名を聞いただけで、ハモンドは卒中を起こしそうになった。ハモンドは、とびきり汚い人間だとグロスマンを嫌っていて、彼がわたしのマネジャーになったことを悲しんだ。それでも、いままでと同じようにわたしを応援すると言ってくれた。そして問題が大きくならないよう、いますぐに契約書の問題を解決してしまおうと提案してきて、わたしはそれに応じた。コロンビア・レコードの新人の若い顧問弁護士がやってきて、ハモンドがその男をわたしに紹介した。契約の修正案が作成され、すでに21歳になっていたわたしはその場で署名した。コロンビアの新しい顧問弁護士は、新進気鋭のクライヴ・デイヴィスだった。1976年、クライヴはコロンビア・レコードの代表者となる。
 わたしがハモンドと会って契約をすませたと言うと、グロスマンは「どういうことだ?」と怒り狂った。そんな風に展開するとは想像していなかったのだ。しかしリーズ・ミュージックとの契約を切ることには成功した。もともとわたしは、その契約にはたいした意味がないと感じていた。ルー・レヴィは本当の意味でわたしを見いだしてはいなかったし、彼がわたしの歌をどうにかできるとも思わなかった(略)
グロスマンはわたしに千ドルをわたし、ルー・レヴィのところに行ってその金で契約を終わりにしたいと言えと指示した。わたしはそのとおりにし、ルーも喜んで応じた。「いいとも」例の葉巻を吸いながらルーは言った。「きみの歌にはたしかに独特のものがあるが、それが何なのかはっきりわからないんだよ」。わたしはルーに千ドルをわたして契約書を返してもらった。
 このあとグロスマンはわたしをウィットマーク・ミュージックに所属させる。

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