磯崎新と藤森照信のモダニズム建築談義・その3

前回の続き。

蟇股

藤森 (略)蟇股などのように、日本建築の中には、大工の腕前まかせでつくるしかない部分があるんですよね。たとえば窓でいうと、猪目という数寄屋で好まれる窓がある。(略)大江さんは、ここを見るとそいつの腕前がわかるって言っていました。その気で見ると、近代の蟇股は江戸時代のものとは大分違う。(略)
磯崎 (略)宇治上神社拝殿の蟇股がいいですね。(略)絶妙という感じで、何とも言えないんですよ。異様に扁平で細いんですね。だから、木造の軽みがあって。(略)それが、江戸時代くらいになるとデコラティブになって、鬼の顔のようなデザインになっちゃうわけですよ。神社にはもともと蟇股はなかったですね。
藤森 そうですね。もともと神社にはなくて、お寺でいちばん有名なものでは、法隆寺の人字形の割束がありますね。この人字形を、「明治神宮」では二重にしています。
磯崎 下手がこんなことをやると腕の悪さがバレちゃう。
藤森 たとえば、村野藤吾さんと黒川紀章さんの猪目を比べると、村野さんがどれくらい自由曲線をちゃんと描ける人かということがわかります。黒川さんは下手です。結局、二十世紀の建築教育って歴史主義とは違って、幾何学的構成はやっても自由曲線についてはトレーニングしないんですよ。自由曲線はその人の腕だけで原理がないうえ、訓練もしていない。一方で歴史主義の建築家達は、建築全体が自由曲線で成り立っているようなもので、村野さんは渡辺節さんに鍛えられた。大江さんと村野さんとで神社をやりあったら面白い対決になっていたでしょうね。
(略)
[村野さんは]学生時代は表現派とかモダンな建築が好きで、渡辺節さんの事務所に入ってヨーロッパの歴史主義を描かされたときには、毎日、翌日はやめようかと思っていたらしい。朝から晩まで曲線を描かされて、直されて。だけど結果的に、そこでの経験で彼はヨーロッパの歴史主義がもっていた、材料を使い分けるだとか、曲線と直線を組み合わすといったことを身につけた。

吉阪隆正、今和次郎、バッラク

消費の原理、肥溜め、残骸

磯崎 [55年の「吉阪自邸」は]レンガがやっとまわりにできたくらいのときで、床もコンクリートのままの状態でした。バラックに住むというよりは、骨組みができたという状態で、夏はマットの上にゴザを敷いて蚊帳を吊って寝ていたそうです。いわばコルビュジエのいう床と柱だけのドミノ・システムを実行して、それに最初に住み込んだということになるわけですね。(略)骨組みだけでまだトイレがなかったから、[二人の息子には]コンクリートのスラブの上から立ち小便をさせていたそうです。
(略)
藤森 僕は吉阪さんのことを今和次郎さんのお弟子として知っていましたが、変わった人だなくらいにしか思ってなかった。しかし、四十五歳で初めて設計をしたとき、歴史主義でも、モダニズムでもやるわけにもいかない。完全に行き詰まったときに、吉阪さんが学生時代に満州方面へ行ったときの文章を読んで、救われました。
 僕の場合、歴史家としてやると歴史主義になるし、批評家としてやると下手な現代建築家になる。それだけは嫌だった。吉阪さんの言葉に触発されて、建築界の目とか、いろいろ考えずに自分がやりたいものをやりなさい、というふうに文章が読めたんです。でも、そのときはまだ、あのスケッチは見ていなかった。泥の家の入口に棒が立って、布がドア代わりというスケッチです。
(略)
コルビュジエが荒々しくて原始的だけれど、あれだけの完成度でやるでしょ。吉阪さんは初期の作を見ても、二十世紀とは違うところに目がいっている感じがあります。磯崎さんが言われた、「そこで立ち小便すればいい」という、原始性と始原性を肯定する建築家はいない。それが僕にとって、いちばんの興味です。彼は自邸の段階ではまだ、コルビュジエのピロティーとフレームでちゃんとやることを守っているんだけど、それがどんどん変になっていきます。変というか、独特の世界へいく。
(略)
磯崎さんが若い頃、一歩間違えばそっちへいったかもしれないネオダダの人達は、破滅的方向へと突き進む。世界中で芸術を否定する運動が起こっていた。とにかく二十世紀の欧米のアーティストは芸術を否定するんだけど、自分自身のことは否定しない。芸術を否定する自分、というのは最後まで保持して、成功すると偉い芸術家になる。
 ところが日本の前衛は、芸術の否定と自己破滅が一緒になる。フォンタナは画面に穴を開ける。そうやって生涯穴を開け続けて、美術史に作家として名を残した。だけど磯崎さんが先ほど言われたネオダダのグループは、トタン板に硫酸をかけて斧で穴を開けて自滅していくわけです。
磯崎 そしてゴミになって残らない。
藤森 僕は吉阪さんにもその要素があると思った。(略)建築家は実務があるから自滅はしないんだけれど、想像力としては相当危険な崖っぷちから飛んでしまいますよね。(略)戦災後のバラックに住んでいて、その後自邸をつくり始め、骨組みの状態で蚊帳を吊って住んでいた。結局僕にとっては、そういう吉阪さんの姿勢が救いだった。たとえば僕が設計を始めたときには、歴史的なことはやっちゃいけないとわかっていた。かといってモダンなことは他の建築家がやり尽くしている。おまけに磯崎さんなんか、建築の消滅みたいなことを言う。伊東豊雄さんなんかは今でもこのことについては怒るからね。建築は終わるって本気で思ったって。自分が建築をさあやろうとしているときに、兄貴がもうお前らこの領域は終わりだぞって言うんだからね。
 本当にどうしていいかわからなかったときに、吉阪さんの、底だと思ったところの下にもう一つの世界があるという感じがすごく救いだった。
(略)
今さんは民家の研究家で知られているけど、それだけじゃなくて、世界の建築家で最初にバラックに本気で興味をもった人です。何もない焼け野原で、あり合わせのものを運んで来て、人が家をつくるという、その原始状態への関心なんです。
(略)
 今さんは自分のことを「湿地をばかり選んで匍い歩くカタツブリのように妙なアンテナが発達し、角の先端指の先きに眼の玉が出来」と自己規定し、分離派や大正派の文化人に向かって、「陽当りに闘歩している読者はどうか私のようなみっともない運命に堕ちないように、立派な公認文化のうちに生活をば築いて」、と今さん一流のタンカを切って、去る。
磯崎 その離れ方が、歴史家藤森照信が正統的モダニズム歴史学からずれていった、その契機とどう重なっていくか。路上観察の活動はゴミ拾いと同じですね。ゴミは美じゃない。それを拾ってきて、これを美と言う。これは一九八〇年代の日本の建築的、都市的思考に大きなインパクトを与えたわけですよ。これが今さんの大正時代の回心というか、明治以降の国家的近代化路線を回転するようないろいろなものと繋がっているのか。(略)
藤森 (略)今さんについてもう一つ大事なことがある。二十世紀の建築理論は、生産と工場を基本にする。コルビュジエも住宅を住むための機械と言った。二十世紀の生産と工場は大量生産、大量消費。バウハウスも生産工場の論理です。世界中の建築界の誰も気づかなかったんだけど、物を百つくったら、百売らないといけない。それで、売るときの空間が生産・工場の空間では売れないんです。それでは社会主義の商店になってしまう。まったく反対の原理でストリートの空間をつくらないといけない。多種で賑やかで、チャラチャラしないといけない、でも、そこは誰も考えなかった。
磯崎 それは一九二〇年代の大正の頃の話ですね。
藤森 そうです。分離派の人は相変わらず生産の原理で考えていたけれど、今さんは消費の原理に注目していた。つくるほうと売るほうとの都市的原理が反対であるというととに今さん以外気づいていない。今さんは普通に人が暮らしている町の問題に初めて興味をもった。そればかりでなく、今さんは柳田國男に連れられて民間調査に最初に行くんだけど、そのときのスケッチを見ると、肥溜めをちゃんと描いている。柳田國男の民家調査は、日本人の心の底に溜まっている考え方を探ろうとしていた。今さんは肥溜めとか、さりげなくみんながつくったようなものにも関心をもっていて、それが吉阪さんに流れていったんだと思う。吉阪さんはコルビュジエのもとで学びながら、途中から変なところへいってしまう。建築や芸術の崖から飛んでしまう。
磯崎 前川さん、坂倉さんなんかは、建築家が設計をやるということは一つの社会をつくっていく、社会的に建築をつくっていくことがミッションだと思っている。ところが、吉阪さんの受け取り方というのは、ミッションなんてもはやない。ミッションが崩壊して意味がなくなったところから、デブリ、つまり、残骸、破片こそが美だということを逆転して感知しているんだな。考えてみたら、僕らの戦争の焼跡を見た世代から言えば、その通りですよっていう印象です。
(略)
原爆の跡というのは地上にあったものの残骸自体も溶けているんですね。都市自体が消滅しているのだけれども、それは単純にまっさらになるんじゃなくて、そういう溶解状態ですよ。(略)
今さんはそれにのめり込んだというところが、他の建築家と違うところだな。
藤森 のめり込んで、帰ってこなかった。
磯崎 もうこれは帰れないんですよ。さっき言った九州派のアスファルト建築家も帰ってこられないんです。結局、大半がヒッピーに流れる。そして、菊畑茂久馬だけがちょっと正気で、いまではユネスコの世界記億遺産になっている。炭鉱の記録を見つけてきたんです。ネオダダの風倉匠にいたってはマゾヒスティックに自分の身休まで痛めつけているんだから。自分の体にアイロンあててそれがまた、じゅーっといって、煙が出ているところを僕らは見せられているんです。
藤森 その時代に磯崎さんは、心の底で廃墟を抱えながらも、生産の論理でずっといくわけですよね。

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ウィアード・アーキテクチュア

ウィアード(weirdo宅)とは、要するに普通じゃない異様なかたちが生まれてくるということですね。こういうものを生み出したいという欲望みたいなのが、やっぱり片方にあったと思う。透明で直角でというピュアな建築に対して、反対の極限みたいなやつをつくりたいという欲望がやはりあるんですよ。
 原爆の後とか、震災の後というのは、そういうような状態がマイナス側に大量に一挙に出現する。(略)すべてが変形しているわけですね。これがやっぱり何とも言いがたい魅力なんですよ。
藤森 創造力の自由。
磯崎 そうです、その極限ですね。この自由な欲望を禁止しようとしているのが、今のゆるキャラとか「みんなの家」とかなんですよ。欲望を拒絶して抑圧して禁止しているんですね。それで成立しているものだから、まったく歯ごたえがない。(略)
神戸や東北の災害(略)の後に、隈研吾さんが「負ける建築」、伊東豊雄さんが「みんなの家」を世に出しているんです。隈さんの「負ける建築」も一九九五年の阪神淡路大震災の後ですから。(略)
その二人が、NHKのドキュメンタリー番組「プロフェッショナル仕事の流儀」で、今話題の建築家なんて言って特集される建築家なんですから。その二人が世の中で話題になっているんだとするならば、僕は二人がこういう人為を超える巨大自然災害を見ちゃったせいだと思うんです。とすると、僕の場合は原爆の焼け野原を見ちゃったせい、今和次郎関東大震災を見たせいだと言える。

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