『文藝春秋』の戦争: 戦前期リベラリズムの帰趨

1931年『文藝春秋』11月号

満洲事変と次の世界大戦座談会」

まず『朝日新聞』の米田實が法学の見地から、事変は「自衛権」(日本人民の権益保護)の発動であり、軍部の動きについては、朝鮮の部隊が国境を越え、中国国内へ移動したことも軍事の急の際のこととして容認する発言をしている。そして、満鉄のおかげで満洲が発展してきたことが確認され、中国で反日感情を盛り上がらせた原因や満鉄の経営体質などが問題にされる。だが、中国側が支払い契約を守らないこと、事変の直前に起きた中村大尉虐殺事件などが持ち出され、「満蒙は日本経済の生命線」論が唱えられる。中村大尉事件は、この年六月下旬、陸軍参謀・中村震太郎大尉が協力者三名と大興安嶺東側に潜入調査を行い、張学良配下の屯墾軍につかまり、銃殺され、遺体を焼き棄てられた事件で、日本世論の怒りを買っていた。
 そのような論調に対して長谷川如是閑は、帝国主義時代は第一次大戦で終わったとし、日中相互の関係で解決すべきだと説く。長谷川如是閑については後述するが、戦前期『文藝春秋』に最も登場回数の多いひとりである。(略)
ここに戦前期『文藝春秋』のリベラリズムがはっきり示されている。
(略)
今後について、日本には領土的野心はなく、経済権益だけを守ると主張されている。満洲全域が中華民国から独立性が高いことにも言及されている。このころ、大英帝国とオーストラリアやカナダの関係にならい、満洲独立図案が浮上していること、清朝の宣統皇帝(溥儀)が治める案も出ていたこともわかる。が、「日本が手を突っ込んではダメ」という意見で一致している。編集サイドから出席し、日本は「合法的ファシズム」に進むと予言する直木三十五も、それに同調している。この事件が世界大戦への引き金になるという危惧が出ていたことが、座談会のタイトルの由来だが、結論はそれを否定する方向に落ち着いた。

ゴシップで『話』を黒字に

[1932年『文藝春秋』8月号]民政党を割って出た中野正剛が熱弁をふるい、満蒙をふくめた日本の「モンロー主義」(孤立主義に同じ)、大衆生活の絶対保障を訴え、統制経済に進むべきと力説している。やがて中野正剛は、1936年には東方会を率いて、ナチスに傾倒してゆく。この32年後半、『文藝春秋』には「愛国主義政党」関連の記事が目立つが、それを警戒し、監視するトーンが基調である。
 菊池寛は赤字つづきの『婦人サロン』を1932年で打ち切り、1933年4月に『話』を創刊した。(略)
 創刊時はともかく、一年を経てもそれほど売れ行きが伸びなかった。そこで菊池寛は、自らプランづくりに乗り出し、巷に話題を提供するような企画を満載した。「水谷八重子に愛人があるか」と、新派のスターを取りあげ、「松竹王国を動かす者は誰か」と芸能界のしくみを取りあげ、また「大本教は果たして没落したか」「人の道教団の正体」「日本のメッカ長野善光寺を裸にす」など、社会不安から勢力を伸ばす新興宗教などを俎上に乗せ、「三原山自殺者の実況を弔う」と心中事件が相次ぐ現場を報告し、「講談社とはどんなところか」「大朝・東朝は誰の天下か」と出版、新聞社の内幕を報道した。『話』は一挙に黒字になり、部数も増していった。

滝川事件、松岡洋右縦横談

[1933年「滝川事件」]誌面は「大学の自治」が脅かされたというトーンが強い。だが、菊池寛は1933年7月号「話の屑籠」に「京都大学の問題は、どちらがより正しいか一寸分からないが、しかし自分はこう云う機会には、現在の大学制度が問題になってもいいと思っている」と書いている。帝国大学は、官僚やテクノクラートの養成を主目的に設立され、実学中心だったが、菊池寛は、そもそも学問など実社会に出て役立たないと考えていた。そのあたりが『改造』や『中央公論』とちがう。
 『文藝春秋』1933年9月号には「松岡洋右縦横談」が掲載されている。冒頭、「誰にも会わないでいたい。自分ひとりの時間を持ちたい」と繰り返し、当然、果たすべきことをやっただけ、「現在私の享けているのは虚名である」という。
 松岡洋右は(略)「満洲国」が圧倒的多数で否認されるや、[国連の]席を蹴って帰ってきた。それを「痛快事」とほめそやす世論に対して、故郷の山口、三田尻に老母を見舞い、静養と沈黙のうちに日々を送る心境を吐露するところからはじめている。そして、皇祖発祥の地(天孫降臨の地とされる高千穂峰のこと)を拝観し、西郷隆盛ら薩摩の勤王家を偲び、幕末の勤王精神を育んだ水戸学の真髄にふれたいと述べる。血盟団事件五・一五事件については、動機はよいが、「実行の方法」がよくないという。(略)
 さらには、満洲揚子江の二兎を追って行き詰まった幣原喜重郎の外交とはちがい、自分は日本の国家存立の生命線として満蒙のみを考えつづけてきた。満蒙はイギリスにとってのエジプト(スエズ運河)と同じ意味だという。「満蒙に強固なる独立国さえ出来れば、露西亜の問題なんかもすっかり片附くに違いない」と力説する。

検閲

 1934年2月号の「話の屑籠」に、菊池寛は「この二十年来、今日ほど文筆生活が圧迫されているような気がする事はない」と書いている。言論が不自由になることへの危惧は、その後も再三、繰り返される。このときは、その理由を政党政治に力がないことに求めている。(略)
 ただし、3月号の「話の屑籠」が向かうのは、そこではない。直木三十五の肝いりで松本学警保局長と会って話をした。検閲問題については、あまり不安を抱えずにやっていけそうだ。文芸院という組織をつくる計画がある。そう簡単にはいかないだろうが、とにもかくにも文士を継子扱いしないのはよいことだとつづく。軍部と官僚が力を発揮し、政党人とのつきあいだけでは体制側の意向がわからなくなっていた。検閲サイドとのパイプも必要だった。
 この時期の検閲の元締め、内務省警保局長の松本学は、日本精神で国民統合を目論む団体「国維会」のメンバーだった。そして直木三十五三上於菟吉らと「文芸院」の構想を語らっていた。そこから組織された「文藝懇話会」には、上司小剣菊池寛岸田国士佐藤春夫吉川英治長谷川伸山本有三直木三十五三上於菟吉ら有力文士が集まった。
(略)
 この会は、翌1935年、「文藝懇話会賞」を創設し、転向作家、島木健作を受賞させようとしたが、官側の圧力を受けて変更を迫られ、横光利一『紋章』と室生犀星あにいもうと』が受賞した。

1937年近衛文麿内閣誕生

[2月文化勲章制定]
3月号の「話の屑籠」は「藝術が一国の文化に対する貢献を国家が認めたことは、嬉しいことである」という。(略)
[6月近衛内閣誕生]
自由主義者たちには明るい光が見える思いだった。
 菊池寛は7月号の「話の屑籠」に書いている。「近衛内閣の出現は、近来暗鬱な気持になっていた我々インテリ階級に、ある程度の明るさを与えてくれたことは、確かである。少くとも、日本に於ての最初のインテリ首相である。近衛さんに依って、初て我々と同時代の人が、総理大臣になったと云えると思う」と。8月号にも「ひいき眼で見るわけでもないが、近衛内閣の政治は、従来の内閣に比し、大衆的であり、文化的であり、合理的である」と書いている。また、帝国藝術院が創立され、自分が参加したことを告げている。美術家尊重に対して文芸のために努力するつもりだとも。

戦後

 文藝春秋のある大阪ビルは被災をまぬがれ、『文藝春秋』は、1945年10月復刊号を出した。菊池寛は巻頭の「其心記」に書いている。「しなくってもすんだ戦争だと思う」「最大の敗因は戦争をしたことだと思う」と。「しかし、強いて敗因を探れば、間接の原因は、満洲国の建設と軍部及び右傾団体の与論の圧迫」、「直接の原因はドイツの勝利を信じたことと米国の国力の誤算」と続けている。
(略)
 菊池寛の考えでは、自由主義者が無謀な戦争に突っ走った軍部や官僚の指令に従わざるをえなくなるところへ追い込まれ、国家存亡の危機に際して国民としてなすべきことをしたまで、ということになる。
(略)
 だが、実際のところ、菊池寛と彼の『文藝春秋』は、軍部がはじめた戦争の狂気に「理性」を与えようとした昭和研究会の提案を受け、「東亜新秩序建設」に走った近衛文麿と心中したようなものだった。