カインド・オブ・ブルーの真実・その2

前回の続き。

カインド・オブ・ブルーの真実

カインド・オブ・ブルーの真実

30丁目スタジオ

[テレビ業界に進出した親会社のCBSがリーダークランツ・ホールを二分割してテレビ・スタジオにしたため、30丁目のギリシャ正教会を使うことに]
「30丁目スタジオは天井が高くて、広さが100フィート四方ある、とてつもなく大きなスタジオだった。ソロから40人、50人のミュージシャンが参加するシンフォニー・オーケストラやブロードウェイ・ミュージカルのアルバムまで、なんだってレコーディングできた。コロンビアはCBSにその物件の購入を承諾させたが、そのときCBSは、建物の改造や改装にはいっさいタッチしないことを条件に加えていた。だから、私たちはなにひとつ手を入れなかった。バルコニーに通じる階段を遮断してコントロール・ブースにしたし、教会時代の垂れ下がった埃だらけのカーテンもそのまま長いあいだ使っていた」
(略)
[マイク・バーニカー談]
 「いまではどんなスタジオでもみいだせない独特のサウンドがあった。(略)金属製のものはいっさい使われていなかった。床や天井や壁が木材だったから、ストリングスや他の楽器のサウンドと音響が調和したんだ」
(略)
クインシー・ジョーンズが語る。「あのスタジオでJJジョンソン、カイ・ウインディング、ソニー・スティットたちをよくレコーディングしたものだ。あれこそ純然たるアコースティック・サウンドだった。木材で囲まれたスタジオの特長が、木管楽器やアコースティックの楽器に最適だった」

安堵したジミー・コブ

フィリー・ジョー・ジョーンズの名声に脅かされていたジミー・コブは、セクステットの音楽性における変化に安堵の胸をなでおろした。「フィリー・ジョーの後任だったんだ。だから、むずかしい立場だった。そしたら幸い、マイルスの音楽が変わりはじめた。フィリー・ジョーのスタイルで演奏する必要がない方向、つまりモードヘ向かったんだ。フィリー・ジョー以上の演奏をしようとがんばらなくてもいいと思うとほっとした。フィリー・ジョーを超える演奏なんてできっこなかった」

《ブルー・イン・グリーン》クレジット問題

私はその朝、レコーディングの前に彼のアパートに行った。そして《ブルー・イン・グリーン》を略記した。あれは私の曲だった。だから、メンバーのためにメロディーとコード・チェンジをおおまかに書きとめた。それに《フラメンコ・スケッチズ》はマイルスと私の共作だった」
 この問題に関するマイルスの姿勢は、首尾一貫したものではない。自叙伝のなかでは、「ビルが『カインド・オブ・ブルー』の共作者だと触れまわったやつもいるが、それは嘘だ。あれはすべてオレの曲だ」と、断固として共作を否定する。にもかかわらず、1986年には、彼の自叙伝を執筆したクインシー・トループに、「《ブルー・イン・グリーン》、これはオレたち、ビルとオレで書いたんだ」と語っている。
 《ブルー・イン・グリーン》の作曲と『カインド・オブ・ブルー』全般に関するエヴァンスの協力的役割は、長く論議を呼んできた。バンドのメンバー、エヴァンスと親しい友人や評論家は、彼が当然の権利について語るときにみせた苦々しい表情に触れている。たとえば、ペッティンガーによるエヴァンスの評伝のなかで、友人の一人が、『カインド・オブ・ブルー』の多額の印税の一部を分配するよう要求したエヴァンスに対するマイルスの断固たる返答は、わずか25ドルの小切手一枚だったというエヴァンスの話を述懐している。
(略)
エヴァンスはおおいに不満を感じたものの、生涯その問題をとりたてて口にすることはなかった。だが、マイルスはさまざまなインタヴューのなかで、曲を特定することなく、インスピレーションとサウンドに関するエヴァンスの功績が認められるよう努めている。たとえば、1986年には、ベン・シドランにこう語っている。「ビルのピアノに対するアプローチがあのアルバムを際立たせたんだ」

エコー

 セッションには計7本のマイクが使われ、コントロール・ルームのボードを通して、当時の最新テクノロジー、3トラックにミックスダウンされた。さらに、ステレオが急速に普及したことにより、その3トラックのマスターは、ステレオとモノラルの2ヴァージョンに使用されることになる。通常ミックスには、30丁目スタジオの自然な反響音とともにエコーが多少加えられた。
 ジョン・ハモンドのような伝統を重んじるジャズ・プロデューサーは、そうしたスタジオの“トリック”にがく然とした。1953年、ハモンドがニューヨーカー誌に語っている。「1948年ごろからコロンビアはおぞましいエコー・ルームを使ってレコーディングを行い、サウンドをいじくりはじめた。ひとつには、レコード会社がそろいもそろってまやかしのサウンド・エフェクトを求めて血道を上げた背景がある。バンドのすべての楽器をオランダ・トンネル (ニュージャージーとマンハッタンを結ぶトンネル)のなかで演奏しているようなサウンドにすることにいったいどんなメリットがあるんだ?」
 30丁目スタジオでは、長年の試行錯誤が実を結び、1959年にはエコーを微妙にコントロールすることが可能になっていた。フランク・ライコが、『カインド・オブ・ブルー」のサウンド・エフェクトは、「ごくわずかだけ加えられたものだった」と断言する。「30丁目では、ケーブルがミキシング・コンソールから天井の低いコンクリートでできた地下室につながっていた。地下室のサイズは、だいたい12×15フィートで、私たちはそこにスピーカーと高性能の無指向性マイクロフォンを1台ずつセットしていた」
 セッションのサウンドはスピーカーを通して再生され、人けのない部屋で反響させて、マスター・ミックスでセンター・トラックに再度録音された。オリジナルの3トラックのテープを傾聴すれば、たとえばコルトレーンのソロのあいだ、トラックの右側や左側を消し、わずかにエコーを加えた、微妙なエフェクトを聴くことができる。

《ソー・ホワット》

メロディーの着想と趣は、アフリカの民族音楽アメリカのゴスペルというふたつの具体的な音源に端を発する。マイルスによれば、アフリカの民族音楽は当時のガールフレンド、フランシス・テイラーに紹介されたギニア人のダンサー一行に由来するという。
 「オレたちはアフリカのバレエ団の公演に行った。連中のリズム!連中は5/4から6/8、で次に4/4というふうに変幻自在にリズムを変えるんだ」
 一行はまた、アフリカ特有のスケールを用いて演奏するカリンバ奏者をフィーチャーしていた。
 「オレは、あの晩はじめてフィンガー・ピアノを演奏し、ダンスに合わせて歌うのを聴いた。おい、あれはちょっとしたもんだったぜ」
 ゴスペルは、幼年時代に祖父の農場を訪れたとき、マイルスの胸に刻まれた記憶に基づく。
 「アーカンソーで聴いた覚えがあるサウンドをちょっとつけ加えたんだ。教会から家に歩いて帰るあいだ、みんなゴスペルを歌っていた。オレは6歳だった。あの暗いアーカンソーの田舎道をいとこと歩いた……オレが狙ったのは、あのフィーリングだった」
 マイルスは、ラヴェルラフマニノフといった現代のクラシック音楽の要素を取り入れて融合させたが、作品の出来は、彼の当初のヴィジョンと多少異なる結果になった。
 「(略)オレはあのサウンドでアフリカのフィンガー・ピアノの音を活かしきれなかった。だがアルバムの大半は、とくに《オール・ブルース》と《ソー・ホワット》は、オレが狙ったとおりのものになった」
(略)
印象的なプレリュードの作者は誰なのだろう?(略)
マイルス自身あるいは。もう“もう一人のエヴァンス”、ギル・エヴァンスによって書かれた公算が高い。ギルが当時、ひそかにマイルスと共作に取り組んでいたことは衆知の事実だった。そして、1か月後のテレビ出演(『ザ・サウンド・オブ・マイルス・デイヴィス』)のために、また、1961年のカーネギー・ホールにおけるマイルスの歴史的なコンサートで起用された21人編成のオーケストラのために、そのプレリュードを再アレンジしたのはギルだった。ギルの未亡人アニタエヴァンスも、プレリュードがギルの手によるものと主張する。彼女は夫から、それを書いたことを聞いた記憶があるという。さらに、その疑問をコブに投げかけると、彼は「いかにもギルらしいサウンドだ」と断言した。

マイルスはときにはリズムに乗り、ときには意識的にリズムをはずし、また、リズムのすきまをかいくぐる。(略)
ビリー・ホリデイはビートに遅れているかと思うと次の瞬間にはぴったりビートに合わせている。ときにはビートでリズム・セクションのなかに食いこむ必要がある。そのたびにバンドをまとめるわけだ」(略)
コルトレーンは、エヴァンスの多彩なアルペジオに刺激され、断片的に効果的なソロを聴かせる。コルトレーンが集中していることは、そのサウンドから伝わる。音階が転換する前に間を置き、インプロヴィゼーションに入るや、いっきにエネルギーを放出する。(略)
[エヴァンスは]最初、ためらいがちである。そしてホーンが音を発すると、一連の多彩な、えもいわれぬコードを響かせ、スタインウェイのソフト・ペダルを用いて音色に暖かみを加える。エヴァンスはソロのエンディングでのみ、強烈で印象的な持ち味をあらわにする。ハンコックが語る。「(略)彼はああいうフレーズ、セカンドを独特に弾くんだ。セカンドをね」
 同時にふたつのノート、つまりルートとセカンドを、あるいはルートとセカンドのあいだの音を弾くことによって、その不協和音で意表をつくのである。エヴァンスは、そうしたコードを次から次に奏でる。「あんな演奏は誰もしたことがなかった。彼はたぶんほかの誰よりもモードのコンセプトにしたがっていた。まったくあれで私の展望が大きく開かれたんだ」

すべてが、ただ“ポン”とはじけたんだ

 クインシー・ジョーンズもまた、『バードランド』のステージを何度か見守り、バンドのレパートリーにおける、新曲のけだるいテンポに注目した。「あれが『カインド・オブ・ブルー』のナンバーのきわだった特長のひとつなんだよ。つまりテンポがね。そのテンポには、まるで催眠術をかけられたような恍惚とさせる作用があった。なんだかわかるかい?ジャンキーのテンポだ。モードの演奏は独特のムードをかもし出すものだ。(略)」
 マイルスは、4月29日、『バードランド』のステージを終えた。1週間後、コルトレーンは『ジャイアント・ステップス』のレコーディングのためにスタジオに入る。(略)
コルトレーンにとって大きな飛躍であり、マイルスのグループを脱退し、彼自身のグループを結成することを予示する、音楽的な自立の宣言でもあった。
(略)
 コルトレーンの一時的な離脱につづき、キャノンボールもすでに一歩、踏み出していた。(略)
 コブがふり返る。「(略)ビルは例のピアノ・スタイル、キャノンボールはファンキーな持ち味、そしてコルトレーンは、ものにしたばかりのスタイルという具合にだ。また、ケリーとチェンバースと私はスウィング・トリオを組んでいたが、共演したいという申し出があとを断たなかった」
 マセロによれば、マイルスがセクステットをこれほど長く統率しえたことじたい、驚異だったという。「マイルスのセクステットのようなバンドを2か月もたせれば奇跡だった。すべてが、ただ“ポン”とはじけたんだ」
 バンドにはさしあたりキャノンボールが残っていたが、コルトレーンの穴を埋めるべきジミー・ヒースは、マイルスのモードに基づく新曲に悪戦苦闘していた。「マイルスははっきりとした指示が出せるから、彼に聞いたんだ。『ちょっと教えてくれ、《オータム・リーヴス》や《オン・グリーン・ドルフィン・ストリート》みたいなトラディショナルな終止形の曲はまったく問題ないんだが、この 《ソー・ホワット》は、その終止形で悩んでしまうんだよな。どうやるんだ?』とね。彼は『ブリッジは黒鍵だけ、それ以外は白鍵だけで演奏すると思って吹けばいいんだ』とこたえた。それはすばらしい分析だった。簡潔にして奥が深い」

『スケッチズ・オブ・スペイン』

のレコーディングは、『カインド・オブ・ブルー』 のワン・テイクによる即興的なアプローチとは対照的なものだった。スタジオ内でのマイルスの会話からもあきらかだった前回のセッションの明るさは、プロデューサーとアレンジャーの完全主義のもと、影をひそめていた。ちなみにプロデューサー、テオ・マセロは、このレコーディングではじめてマイルスのセッションを指揮していた。(略)
[マイルス談]
「『スケッチズ・オブ・スペイン』を完成させたあと、オレは喜怒哀楽の感情が枯れはてて、抜け殼になった。まったく骨の折れるやつをどうにか仕上げると、もうメロディーすら聴きたくもなかった」
 マイルスがレコーディング・スタジオに復帰したのは1年後、ギル・エヴァンスと再び共作に取り組んだのは、それからさらに1年後のことになる。マイルスは、レコーディングの合間をぬってステージ活動をつづけていた。彼は、ライヴ・パフォーマンスを息苦しいスタジオ・セッションの気晴らしとみなしていたにちがいない。(略)
[60年初頭サザーランドでステージを観たウォーレン・バーンハート談]
「なかに入ると、高い本格的な演奏用のステージがあって、それを取り囲むようにカウンターが円を描いていた。(略)カウンターの向こうのイタリア製のスーツを着た小柄なバーテンダーが『オーダーは?』と聞いたから、私はビールを注文し、そこに腰をおろした。すると突然、そのバーテンダーが階段を駆け上がり、トランペットを取りあげるじゃないか。私は『くそっ、しまった、あれがマイルスだったんだ』と思った。なんと彼はコルトレーンの演奏中、カウンターでふざけて客の応対をしていたんだ。当時コルトレーンはソロを45分間、吹きつづけた。彼は決してホーンを目から離そうとしなかった。そして休憩のあいだずっと、厨房に通じるカウンターのそばのソファーにねそべり、ひっそりと練習していた。ささやくような小さな音で。だから、男性用のトイレに行くために彼のそばを通ると、いろんな音階のサウンドが聞こえたものだ」

1972年、キャノンボールのフリージャズへの見解

「(略)彼らをひとくくりにはできない。みんなそれぞれにルーツが違うからね。たとえばマリオン・ブラウンは大学で音楽を専攻し、卒業してからはチャーリー・パーカーのような演奏をしていたが、いまはフリーをやっている。だが、みんながみんな、コルトレーンのように鍛えられたわけじゃない。フリー・ジャズは、コルトレーンと同じくらいの年齢からはじめるべきだし、彼のような修練を積んだうえで演奏すべきだろう。あの種の演奏は若いミュージシャン向きじゃない」(略)
 「いろんなフリーのプレイヤーが好んでモードを演奏した。先輩ミュージシャンのようにコード・チェンジを連結させられなかったからだ。彼らはグルーヴの点では問題ないが、『よし、ここはFマイナー・セヴン、このあとはBマイナーだ」というようなことを考えていない。私がなるほどと思うのは、フリーの連中よりもトーナルとコード・チェンジの両方をこなせるミュージシャンのモード・スタイルの演奏だ。だが、いちがいには言えない。フリー・スタイルのなかにも名手はいる。オーネットはなんだってやれる。しかも、スウィングする。私が言わんとするのは、あくまでも追随する一部の連中のことだ」

オーネット・コールマン

[ジョー・ザヴィヌル談]「『カインド・オブ・ブルー』は、ハートに響くすばらしいアルバムだった。だが、それによって考えかたが変わった覚えはない。その後オーネットが現れると、彼のサウンドは、生きる時代も違えば住む星も違うような気がした。まったく斬新そのものだった」
 マイルスは当初、オーネットの登場にいささか機嫌をそこね、おおいに当惑した多くのジャズ・ミュージシャンの一人だった。オリン・キープニュースがふり返る。「オーネットが出現すると、キャノンボールやジャズ畑の連中は大部分が冷ややかな態度をとった。それは演奏スタイルに加えて、オーネットがまたたくまに評論家の注目を集めたからだ」
(略)
マイルスは、59年のオーネットやその後のコルトレーンのように、ルールブックを投げ捨て、フリー・スタイルを熱狂的に受け入れようとはしなかった。マイルスがメロディーやリズムを無視することはなかった。
(略)
 オーネットが、マイルスのフレージングをダイレクトに否定するような対照的な見解を述べている。「私のフレージングはインプロヴィゼーションであり、スタイルはない。スタイルというものは、フレージングが固定したときに生まれるんだ」
 フリー・ジャズのメッセージが浸透して久しい1969年後期、マイルスはなおも執ようにひとつの音楽の輪郭と基盤を求めた。
 「ある種のスタイルがあっても、やっかいなことをやらかす必要があるんだ。壁やなんかを乗り越えて、ある程度自由にやるということだ。だが、枠組みがある。オレたちは度を越したくはないんだ。そこのバランスが取りづらい」
 後年、マイルスとオーネットの距離はせばまり、最終的には多少のスタイル的な相違にとどまった感がある。ようするに、マイルスとオーネットは、音楽的には対照的だが、それ以上に哲学的には近似するように思われる。彼らはともにジャズのルールや彼ら自身のメッセージを書きかえることに生涯を棒げた。次の会話は個別に語られたものではあるが、言外の意味を補足しあう。
 マイルス:4、5小節のあいだ、キーをはずして演奏したくなるもんだろう。オレがそういう演奏をこわがるもんか
 オーネット:ピッチより高く演奏することもできるし、低くしてもかまわない
 マイルス:オレは、たとえ熟練していても陳腐な常とう手段をいつも使うやつより、ノートをふたつみっつ間違えるやつの演奏のほうが好きだ
 オーネット:私はミスをしかねないと思うから、わきまえて演奏するようになっている

余波:アフターマス

[1986年マイルス談]
「オレがいろんなモードや代用コードを使って、キャノンボールビル・エヴァンスとやった当時はみんな意欲的だった。だが、そういう活気はなくなっている。いまだにやっている連中もいるが、同じ刺激はない。温めなおした七面鳥みたいなもんで、新味がない」(略)
[評論家ロバート・パーマー談、1969年]「デュアン・オールマンは、当時私が知るかぎり、30分以上のあいだ、ワン・コードのヴァンプでソロがとれる唯一のロック・ギタリストだった。彼は退屈させないどころか、釘付けにした。その彼が私にこう言った。『あの種の演奏はマイルスとコルトレーン、とくに『カインド・オブ・ブルー』からいただいたんだよ。オレはあのアルバムを聴きこんできた。この2、3年、ほかのレコードはほとんど聴いていないぐらいだ』と」
(略)
ドナルド・フェイゲンは、テレビや映画館で流れる、クールでモーダルなヘンリー・マンシーニふうのテーマに『カインド・オブ・ブルー』が反映されているという。
 「60年代初期に、同じコードが長いあいだくり返されるだけだが、じつに雰囲気のある音楽をテレビや映画で聴いたものだ。ああいったスタイルは、『カインド・オブ・ブルー』が出たことによって認知されたんじゃないかと思う。これまで静的な映画音楽が数々作られてきたが、オスティナートがくり返される奇妙なサウンドの《ピンク・パンサー》のような曲は、あのクールでモーダルな音楽を発展させたものだ」

ジェイムズ・ブラウン《コールド・スウェット》

[ピー・ウィー・エリス談]
「セッションの前の晩、ショーのあとにジェイムズがオレを楽屋に呼んで、あのベース・ラインをハミングしたんだ。そこで、シンシナティに向かうバスのなかで、オレたちは例のホーン・ラインを夜どおし考えた。あれはワン・コードのスタイルで、あの2ノートのリフは《ソー・ホワット》のメロディーと完全に一致する。ふと浮かんで、ぴったりだと思ったんだ……Dee-Dum...Dee-Dum。あとでそれがなんだったか思い出した。ただちょっと“ひねった”《ソー・ホワット》だった」(略)
[1989年マイルス談]
ジェイムズ・ブラウンは好きだ。オレが書いたあのナンバー、《ソー・ホワット》のアイデアは、オレが彼からちょうだいしたか、彼がオレからちょうだいしたかのどっちかだと思う。
 いずれにせよ、60年代後期から70年代におけるジェイムズ・ブラウン特有のファンクのリズムをマイルスが使ったことを考えれば、両者がインスピレーションを与えあったことはあきらかである。トランペッター、ウォレス・ルーニーは、マイルスが死去した年に交わした会話から、その“続編”があったと言う。
 「マイルスは、あの《ソー・ホワット》のリズム・スタイルをもう一度使おうとした。『キリマンジャロの娘』の《フレロン・ブラン》でトニー・ウイリアムスに《コールド・スウェット》のビートを叩かせたいと思ったそうだ。マイルスは私にこう言った、『あのくそったれ野郎ときたら《コールド・スウェット》をひっくり返して演奏したんだぜ!』とね。彼はすごく自慢にしていたんだよ。あれほどヒップなことはないと思っていた。1991年のことだが、彼はまだ、あのリズムにマイッていたんだ」

日本の“オリジナル・マスター”は「第3世代のコピー」!

 80年代初期のデジタル時代の黎明には、不幸な状況が生まれた。(略)ソニー・レガシーの副社長スティーヴ・バコーウィッツが、当時の状況をあきらかにする。
 「50年代後半から60年代には、コロンビアはあくまでもアメリカ国内のレコード会社だった。まだ国際的な音楽企業というレヴェルではなかった。だからフランスや日本の会社がレコードを出したいと言ってくれば、しめたものだった。ライセンスをもつ外国の会社にテープを送るのは、『おい、ついでにあのマイルスのレコードもコピーしてくれ。あした日本に船便で送るんだ』という感覚だった。したがって、外国に送ったテープは、エンジニアがマスターをコピーしたものもあれば、マスターのコピーから音源をとったものもあり、なかにはドルビーがかかったものもあった。そうしてフランスや日本の会社は、手に入れたテープを以後ずっと“オリジナル・マスター”として使うことになった。それは、せいぜいオリジナルの第2、第3世代のコピーだった。1992年には、ニューヨークのダウンタウンにあるタワーレコードで、7種類の『カインド・オブ・ブルー』が売られていた。(略)日本製の24ビットCDは40ドルの値段がついていたが、彼らが使ったマスターは、そもそも60年代につくられた第3世代のコピーなんだ」

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