ティーパーティ運動の研究 憲法保守とは

なんか読む気しねえという人は、デカ字のとこだけで済ませるといいかも。

chapter2

ティーパーティ運動とインスティテューションの崩壊  

中山俊宏

 もともとアメリカにおける保守主義運動は共和党内反乱軍だった。1960年代前半、穏健なリベラルも包摂し、エスタブリッシュメント色が強い穏健な保守派が率いる政党だった共和党を、グラスルーツのエネルギーを動員しながら、「反共主義」「小さな政府」「伝統的な価値」の三つの価値を支柱にして「ハイジャック」しようとしたのが保守主義運動であった。当初、このムーブメントに関わった多くの活動家にとって、共和党はただの「乗り物」に過ぎず、最大の関心は共和党内の権力を奪取し、「三つの支柱」を軸に漂流するアメリカの政治文化を再定置することにあった。1964年には保守派のバリー・ゴールドウォーターを共和党大統領候補に押し上げ、その後、およそ16年かけてムーブメントのインフラを整え、レーガン政権を誕生させる。 1994年にはそれまで揺らぐことがなかった連邦議会における民主党優位の構図を覆し、着々と権力の拠点をワシントンのいたるところに配置してきた。(略)
[2000年]「ロング・マーチ(長征)」の結果、ついにホワイトハウス連邦議会、そして保守色を強める最高裁とぼぼ三権を掌握し、事実上の「保守革命」が成し遂げられたかのように語られた。特に2002年の中間選挙における共和党議会の勝利、そして2004年のジョージ・W・ブッシュ大統領の再選は(略)
「恒久的共和党多数派体制」というようなことさえ語られた。(略)
[しかしリベラル派の巻き返しで]2006年には民主党が議会を取り返し、2008年にはホワイトハウスを取り返す。その背景には、いくつかの力学が作用していたが、やはりジョージ・W・ブッシュ政権に対する不満と幻滅が中心的な理由だろう。
(略)
ブッシュ大統領保守主義を掲げながらも、結局は政府の権限を拡大させ、それをどんどん肥大化させていったこと、あとは世界を作り替えようという介入主義的理想主義に対する違和感が、「対テロ戦争」が長期化していくとともに高まっていったことなどが上げられる。
(略)
グラスルーツの保守派の不満は、本来は「反乱軍」であった保守主義運動が、権力の階段を上り、ワシントンの政治ゲームのルールを覚えていくとともに、保守主義のルーツを軽視するようになってしまったことに対する不満でもあった。
(略)
[その不満はブッシュ周辺だけでなく]ワシントンの政治エスタブリッシュメントの一部になってしまった「保守エスタブリッシュメント」に向けられていたともいえる。
(略)
つまり、2006-08年期に起きたことは、保守的な価値観そのものが退潮したことでは必ずしもなく、保守的な価値観を政治的影響力に変換する仕組みが機能しなくなったことだといえる。(略)
[ここ10年、保守派を自認する割合は30%台後半、リベラル派は20%前後で安定]
 つまり、2006-08期に保守主義が死んだとするならば、それは保守的思潮自体が消えてなくなったわけではなく、むしろそれを政治の言葉に変換するインフラが機能しなくなったということではないか。この政治的空白を埋めるかのように登場したのがティーパーティ運動だった。それは、まさに保守主義誕生のルーツに立ち返り、反乱軍としてワシントンに「ノー」を突きつけようという衝動に突き動かされた社会運動だった。
(略)
[これまで保守主義運動を支えてきたヘリテージ財団アメリカ保守同盟]らにとってティーパーティ運動の存在は、保守主義運動の原風景を感じさせるものだったに違いない。しかし、それは彼らが掌握していた空間とは別のところから出現し、その台頭を歓迎しつつも、複雑な気持ちをもって眺めていたのだろう。ティーパーティ運動の特徴は、計算された政治的打算を徹底的に忌避し、とにかく剥き出しの衝動に突き動かされることにある種の純粋さを見いだしている点だろう。それは、彼らが政治権力そのものを奪取することよりも、ワシントンにメッセージを突きつけることを重視しているからだ。そのような態度は、保守主義運動の台頭を、ワシントンにおける行動空間を広げることとほぼ同一視してきた保守エスタブリッシュメントからすれば、危なっかしい動きに見えたに違いない。しかし、その圧倒的な存在を前に、ヘリテージ財団は(略)ティーパーティ運動との連携に力を注いでいる。
(略)
例外的にティーパーティ運動の信頼を集めるベルトウェイ内のアクション・タンクがフリーダムワークスだ。(略)マット・キビー会長兼CEOに挨拶した際に、不用意に「ティーパーティ運動の神経中枢を覗きにくるつもりでここに来た」と述べたところ、まっさきに「われわれはナーブ・センターなんかじゃない。むしろティーパーティ運動のサーヴィス・センターだ」とはっきりと否定された。
(略)
[その]自己規定は、フリーダムワークスが依拠するリバタリアン保守主義とも合致する。運動の中枢による一元的な管理ではなく、むしろ無秩序のなかに自主的に発生する秩序に身をまかせる。これがフリーダムワークスの組織理念だ。
 キビー氏のオフィスに入ってまっさきに目に入ったのは[ティーパーティには不似合いな]グレイトフル・デッドのポスターだった。(略)
[キビーは]ニヤッと笑いながら自分はシリアスなデッドヘッド(Deadhead)だと返答した。デッドヘッドとは、グレイトフル・デッドの熱狂的なファンで、しばしばコンサート・ツアーの際に全米中をついてまわる。(略)
[彼が見せてくれた保守系雑誌に掲載された記事には]
サイケデリックなフォントで「死の淵から甦る」と記され、真ん中に連邦議会の前でガズデン旗をもったキビーが立っている写真が配置されている。その記事のなかでキビーは、「保守的な信念をもったカウンターカルチャーの反逆者」として描かれている。いうまでもなく、「死の淵から甦る」とは、「保守主義の死」と「グレイトフル・デッド」の両方をひっかけたものだ。
(略)
デッドヘッド共同体には、どこかに中心があるわけではないが、不思議とある種の秩序が保たれている。必要があれば、互いに助け合うし、自由な精神がつねに維持されている。
(略)
保守派の活動家が、左翼系の活動家の運動モデルから着想を得ることは珍しいことではない。最近では、ブッシュ政権を支えたカール・ローブがアントニオ・グラムシの運動論に影響を受けたことが知られている。またティーパーティ運動についても、アメリカのコミュニティ・オーガナイザーであったサウル・アリンスキーの影響が指摘される場合がある。しかし、グレイトフル・デッドは完全に想定外だった。
 グラムシの議論も、アリンスキーの議論も、組織論であり、運動論である。しかし、デッドヘッズから吸収できることがあるとすればそれは非組織論であり、非運動論であろう。そして、ティーパーティ運動が、まさにこの「非組織性」において際立っているとすると、キビーの主張を単なるグレイトフル・デッドの一ファンの発言として退けることはできなくなる。
(略)
[保守エスタブリッシュメントがグラスルーツとの連携を図っていると伝えると]
キビーはそれに直接答えることはなく、しかし、明らかに勝ち誇った様子で、自分たちは組織化などをしようと考えていない、自分たちはつなげようとしているだけだと述べ、[フェイスブックのような機能をもつソーシャル・ネットワーキング・サイト運営計画を教えてくれた](略)
 どこかウェブ・ベンチャー企業のオフィスのような空気感さえ漂っているフリーダムワークスのオフィスは、ソーシャル・ネットワークが作り出した新たな情報空間とも親和性をもったまったく新しいタイプの政治活動を繰り広げようとしている組織を象徴している。その非組織論は、疑いなくリバタリアン保守主義とも合致している。
(略)
[ジョナサン・ラウチによると]
ティーパーティ運動の本質的重要性は、その思想内容にあるのではなく、その組織形態にあり、それは、アメリカの政治空間を形づくってきたインスティテューションの崩壊の表象であり、従来の政治回路が作動しなくなった兆候でもある。もはや、政党は選挙のシナリオを描けなくなっているし、人々も従来のプリント・メディアではなく、ブログやツイッターでつながり、情報を共有する。

chapter3

ティーパーティと分裂要因

渡辺将人

[ロン・ポールと、その次男であるランド・ポールのグループを概観することで]ティーパーティ内の分裂要因を検討する。
 ティーパーティにおける元祖的な存在を自称するポール派のティーパーティ運動は、その起源を「反オバマ」「反民主党」ではなく、「反ブッシュ政権」「反共和党」に置いていることに特質がある。言い換えれば、ティーパーティ発祥を「オバマ政権後」ではなく「オバマ政権前」に由来のある現象として考えている。
(略)
ポールは議会における投票をすべて合衆国憲法に照らして決めていることを明言する憲法保守に分類される議員である。しかし、憲法を根拠とする姿勢が原理的で、イラク戦争反対にとどまらず駐留米軍撤退論や海外援助不要論などの非関与的な外交政策連邦準備制度の廃止などの主張が主流とかけ離れているため、共和党内はもとより議会全体のなかで孤立した周辺的存在であった。(略)
[そのポールが]ブッシュ政権末期からオバマ政権1期目にかけて、エレクタビリティは依然低いながらも大統領選挙候補として全国的に熱心な支持を得ている現象は異変と称せる動向であり
(略)
ポール派含め多くのティーパーティ活動家にとって2008年金融危機後に金融安定化を目指したTARP(不良資産救済プログラム)に対する批判は運動への覚醒要因であった。ランド・ポールは、2010年中間選挙共和党政治家の再選が危ぶまれたのは、TARP賛同に対する「対価」だったと結論づけている。
(略)
「自由のためのキャンペーン」と名づけたポールを支える草の根の運動は、若年層の参加とネットによる運動の拡散から、保守版オバマ現象の形相も呈した。
  ポール派の反共和党エスタブリッシュメントの色彩をとりわけ鮮明にしたのは、2008年夏にミネソタ州で開かれた「共和国のための集会」であった。共和党大会が開催されるミネソタ州セントポールまで、280マイルの距離を支持者が3日間かけて歩く「自由への行進」は、終着点をミネアポリス市内の連邦準備銀行ビル前に据え、ロンーポールが連邦準備制度廃止を訴える演出を施した。抗議行進が民主党大会ではなく、共和党大会を照準に据えたことにポール派の当時の仮想敵が共和党エスタブリッシュメントにあった事情が垣間見える。
 2009年以降に拡散した全国規模のティーパーティ集会で多用されたボストン茶会事件時代のコスチュームやガズデン旗は、すでに2008年のポール派のシンボルとして同行進で使用されている。ポール派がティーパーティの元祖を主張し、ペイリンとその同系譜としてティーパーティ議員連盟の顔を務めるミシェル・バックマンを「後発」と考える向きがコアなポール派支持層の間に根強いのは、そうした経緯とも無縁ではない。
(略)
ポール派の哲学は概ね[2010年上院初当選した]次男ランドに継承されていることも支持者を安心させ、ポール派の運動を延命させた。
 党の団結を重視する共和党主流派は、党内分裂の種を作りがちなロン・ポール派を周辺に追いやってきたが、2010年以降のティーバーティ運動の台頭が皮肉にもポール派に命を吹き込ませ、それに伴い共和党脱退者も反動的に生じさせた。共和党穏健派がポール派の運動を嫌うのは、反共和党エスタブリッシュメントのレトリックに加えて、運動のスタイルや支持者層がきわめて「リベラル」に見えることも関係している。「革命」と銘打ったポール派の運動は若年層を基盤にしており、見た目には2008年のオバマ陣営の熱気を彷彿とさせる既視感すら呼び起こすだけに、ポール派の運動に感情的な嫌悪を露にする共和党関係者も少なくない。
(略)
[「小さな政府」を目指す]緩やかなシングル・イシュー運動であるだけに争点が拡散するとコアリションに亀裂が入りかねない。
(略)
リバタリアンティーパーティの受け皿がポール父子ならば、社会保守色が混在したティーパーティの受け皿がペイリンと後のバックマンである。(略)
[ポール派の「立憲主義」は]キリスト教信仰との抵触も避けられない。ロン・ポールは人工妊娠中絶についてプロライフ派であるが、憲法修正第10条を尊重して人工妊娠中絶は州が結論を出すべきであるとの条件をつけている。また、結婚の定義についても州に決めさせるべきだとしている。しかし、キリスト教右派にとって、憲法を信仰より優先させる考えには違和感が残る。
(略)
ポールは2010年に起きたニューヨークのモスク建設論争で建設擁護の立場だった(略)ムスリムを含む信仰の自由の担保はキリスト教徒の利益であるとの論法で、キリスト教右派の反発抑制に努めている。
(略)
 周知のようにポール派が基盤とするリバタリニズムは経済保守ではあるが、社会問題でも完全なる自由を優先するため、社会争点では皮肉にもリベラル派と親和性が高い政策選択に陥ることがある。(略)
実際、ポール派のティーパーティ活動家のなかには、教会に通わないプロチョイスで、大麻合法化賛成論者の社会リベラル派リバタリアンも多々存在する。無論、社会リベラル派といっても移民政策と憲法修正第2条の銃所持権では、民主党リベラル系と一致しない。むしろ、これら二つの争点はリバタリアンと宗教保守が一致できる社会争点である。
(略)
ポール派の外交政策は、周知のように非介入的、孤立主義的な姿勢を基本にしている。戦争遂行における大統領令濫用、米軍の海外駐留などに激しく抵抗しているが、その思想は財政保守と憲法保守主義に立脚している。
(略)
 ポール派外交がリベラルな平和主義ではないことは、人道的な海外援助にも否定的であることから明らかである。しかし、イラク戦争をはじめ防衛政策全般についての方針は、結果として反戦リベラルのような響きを伴う。民主党リベラル派もロン・ポールに対しては往々にして「興味深い」という形容で部分的な共感を寄せ、他のティーパーティ系議員とは区別して特異な評価を与える傾向がある
(略)
 経済政策におけるポール派の党内仮想敵が、超党派で金融安定化法を推進した財政穏健派であれば、外交政策における党内仮想敵は新保守主義者であり、ロン・ポールネオコンを「偽の保守」と称している。
(略)
ポール派はマケインの副大統領候補だったペイリンをもはやネオコンの一種として遠ざけており
(略)
ポール親子自身は「孤立主義」と定義されることを拒絶し、軍事的非介入の自由貿易主義者を標榜している。ポールは「自分は今まで孤立主義者であったことはない。孤立主義の正反対である対話外交と自由貿易と自由な航行を支持している」と述べる。ランド・ポールはポール派を「孤立主義」と呼ぶのは、リベラル派がティーパーティを人種差別主義者と呼ぶのと同じ愚行で、マケインを「帝国主義者」と断じるような罵り言葉と同じであると嫌悪感を示す。
(略)
ラッセル・カーク、リチャード・ウィーバー、ロバート・ニスベットら伝統的保守知識人にポール外交の精神の源を探り、「当然彼らは平和主義者ではなかったが、戦争は物質的にも道徳的にも破滅的であり、本来的に最終手段であるべきだと信じていた」と述べる。一般的には「反知性主義」的な性質を帯びるとされるティーパーティ運動にあってポール派の姿勢は異色である。

chapter7 

ティーパーティ運動と「憲法保守」

梅川健

 ティーパーティ運動の集会の参加者の多くは、ポケットサイズの憲法を持ち運び、ティーパーティ運動の団体のウェブサイトには、「アメリカを憲法の原則に立ち戻らせること」が、団体の使命として掲げられていることが多い。さらに、ティーパーティ系の候補者たちは自らを「憲法保守」だと名乗っていた。これらのティーパーティ運動と憲法との関わりは、いたるところで確認される組み合わせである。
(略)
憲法保守」という概念が、ティーパーティの多様な側面を結び合わせる役割を果たしていたことを明らかにしたい。
(略)
 2009年1月27日に、フーヴァー研究所のピーター・バーコウィッツは「憲法保守」というタイトルのポリシー・ペーパーを発表した。このペーパーは、2008年の大統領選挙に敗れた共和党が今後とるべき戦略は、共和党の基本的な支持基盤である社会保守と、オバマ政権にうんざりしている経済保守とを結びつけることだと提言している。(略)
彼は、1957年から1972年にナショナル・レビューで編集者を勤めたフランク・メイヤーが、すでに解決策を提示しているという。
 バーコウィッツは、メイヤーを引用し、社会保守と経済保守は、お互いがなくては成り立たないという関係にあると主張する。家族やコミュニティが自律的な個人を形成するという社会保守の考え方は、市場における自律した個人という、経済保守がよって立つ前提を提供する。同様に、小さな政府や個人の自由の重視という経済保守の考え方は、社会保守に対して、家族やコミュニティが道徳を教えることができるのは、政府が制限されている場合に限るのだということを思い起こさせる。
 このようなメイヤーの考え方は60年代には、融合主義と呼ばれていた。バーコウィッツは、「メイヤーの主張に相応しいのは、憲法保守という名前であると論じている。その理由は、経済保守と社会保守の調和は、憲法の定める小さな政府に立ち戻ることで実現できるからだという。
(略)
ランド・ポールは選挙中、自らをリバタリアンというよりもむしろ憲法保守だと主張した。彼にとって憲法保守とは、「小さな政府と、個人の自由を重視する保守」という意味であり、「あらゆる保守派は、憲法保守の原則のもとに集まることができる」と述べている。ランド・ポールは、「連邦政府は、州政府が行えることを行ってはならない。州政府は、ローカルな自治体が行えることを行ってはならない。ローカルな自治体は、家族や信仰に基づいたコミュニティが互助によって可能なことを行ってはならない」と述べ、リバタリアンにとって重要な小さな政府と自由な市場という理念と、社会保守にとって重要な家族とコミュニティという価値を結びつけている。ランド・ポールは、憲法保守という考え方によって、「保守とリバタリアンとを結びつける」ことが可能であると考えており、「それこそ、私の選挙戦の中心である」と述べている。
(略)
 『ニューヨーク・タイムズ』紙のジェフリー・ローゼンによれば、マイク・リーが選挙戦においてとった立場は、ティーパーティ運動における憲法論の「教祖」とされるクレオン・スコウセンが1981年に出版した『5000年の跳躍』を下敷きにしている。
(略)
スコウセンは、アメリカ合衆国の建国の父祖たちは「28の神聖な原則」を打ち立てたと主張し(略)
「限定された権力だけが連邦政府に譲渡されたのであり、残りのすべての権力は市民に残されている」という第19原則から、連邦政府による規制のための行政機構は、環境保護庁や連邦通信委員会といったものも合めて、違憲であると結論している。なぜなら、それらの委員会は、「州と連邦の業務の境を曖昧にするため」である。
(略)
 全米憲法研究センターは、1971年にクレオン・スコウセンによって設立された団体である。現在の会長であるジャレド・タイラーは、31年間にわたり、『5000年の跳躍』を底本とした、「アメリカの建国」という8時間にも及ぶ長大なセミナーの講師をこなしてきた。
(略)
 セミナーの受講者は、受講料として10ドルを支払い、131ページからなるワークブックを受けとる。ワークブックは空欄穴埋め式となっており、受講者たちが8時間のセミナーを受け終えると、すべての空欄が埋まるという案配であった。このワークブックは、アメリカの建国がいかに宗教的な偉業であったのかが書かれており、スコウセンの原案によるものであった。
(略)
タイラーの議論の骨子は、「憲法には、時代を超越する原則が示されており、あるべき政治の姿についての不変の真理がある。それゆえ、アメリカは、不変の真実ヘと立ち戻らなくてはならない」ということであった。
 『5000年の跳躍』、「アメリカの建国」セミナーとティーパーティ系の候補者の主張には、二つの特徴がある。第一に、アメリカの建国期の原則を論じる際に、1776年の独立宣言と、1789年の合衆国憲法の両者を、自由に織り交ぜる点である。第二に、独立宣言を、「自然法」もしくは「神の意志の表れ」と理解する点である。
(略)
[憲法保守と80年代の共和党保守派が唱えた原意主義の違い]
アメリカの憲法解釈論には、憲法の文言を、憲法制定者たちが理解していたように解釈しなければならないと考える原意主義と呼ばれる法理論がある。 1980年代から今日まで、原意主義は保守派の憲法理論の主流である。リベラル派は、憲法をその時代の価値によって再解釈するべきだと考え、生きた憲法と呼ばれる憲法論を主張しており、原意主義は、これに対抗するものであった。
(略)
憲法保守は、原意主義を、政治運動の熱源となりうるように大衆化したものであったといえる。原意主義が、裁判官に対して、憲法の文言を憲法制定者たちが理解したように解釈するように求める法理論であったとすれば、憲法保守は、議会に対して、憲法に示された原則に従って政治を行うように求めるイデオロギーである。原意主義は、共和党と結びついて30年が経つが、憲法保守という形に変容されて初めて、グラス・ルーツヘと染みだしていったのである。
 その際に、原意主義ではありえなかった変化が憲法保守には生じた。(略)
憲法保守は、合衆国憲法とは、独立宣言に示された原則を、政治の世界の妥協を通して書き下したものだと考えている。それゆえに、ティーパーティ運動の候補者たちは、憲法修正条項が「誤っている」と主張できたのである。

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