出版幻想論・その3 藤脇邦夫

前回の続き。
ここ(kingfish.hatenablog.com)の冒頭でも書いたように、著者は売上至上主義の人ではありません、念のため。1994年の本。

出版幻想論

出版幻想論

角川春樹

 70年代の出版を変えたのは角川春樹である。(略)
エンターテイメントだろうと何だろうと他の出版社で目を向けられなかったジャンルや作家を発掘し(今だとその区別が分かりにくくなっているが)、ビジネス的に成立させたところに、彼の独自性と意味がある。それは当時の文壇の大御所クラスが原稿をくれなかったこともある。だが、角川春樹は、それ以前の『ラブストーリー』のヒットで得た実績で、エンターテイメントの原作なら映画のヒットによって、また、その本も売れるということを知っていた。しかし、日本ではそういう「エンターテイメント」そのものがあるかどうか分からない。
 ところが、この人は逆を考えた。本を売るために映画(テレビではなく映画という発想もスゴイ)を作ればいいじゃないか。(略)

文芸編集者は税金対策

 編集という職業ジャンルが、どこまでを指すのかわからなくなっているのも90年代の出版の特徴の一つだ。本当は企画を立てて、交渉して、入稿してレイアウトして、造本するまで全部を指す言葉であり、昔はそれをすべて一人の人間がやっていたハズである。(略)
もともと本作りは一種の個人作業のハズなのだが、今はすべて外注化されている。(略)
今は単なる請負仕事の一つにしかすぎない、会社の中のサラリーマン制作屋になっている。社内編プロとでもいうのだろうか。
 編集という言葉はもうない。今あるのは、営業企画と制作と販売、この三つだけだ。営業と編集という分け方はもう死語だといっていい。編集は制作といいかえ、営業は営業企画と販売に分かれる。(略)
[企画・制作もフリーを使い]しかも他の販売会社に営業をさせて売っている出版社もある(他に営業・販売を委託した方が安いという人もいるが、本当だろうか。一冊営業し注文総数五〇〇〇部で三〇万円というのがあるらしい。これを安いか、高いかは考え方次第だが、僕は金額のモンダイではないと思う。そういう発想自体が邪道だと思うのだ)。その全部の流れを見る進行役の誰かを編集と今はいうらしい。こういう人間が今、大手出版社に山ほどいる。
 どうしてそういうシステムになってしまうかというと、そうしないとノルマがこなせないのだ。すべてそれから派生している。つまりある人間の、団塊の世代ぐらいの給料を払うには、会社が損益を割り振ると、年間これぐらい出してもらわないとという、利益の数字が出る。そうするとそれをこなすためには、当然年間何冊かある程度の冊数を出さなければならないというノルマ(略)が発生する。当然、ノルマをこなすために、什事の何割かを外部に委託しなければならない。
(略)
 出版で一番恐いというか頭が痛いのが人件費で、固定費だから、毎月確実に出ていく。利益が出るか出ないか分からない本を作っているのに金だけは出てしまう。だから人を増やしたらやっていけない。だが雑誌は違う。別の計算でうまくいけば半年ぐらいはずっと売り上げを維持できるから経営的には一番安定したものになる(逆に売れないと赤字の額も確実に巨大なものになる)。(略)
 バブルの時、本を作って利益が出ても、人件費とか考えると、銀行に預けていた方がいいんじゃないかといわれたことがある。(略)

編プロ受注率が出版社を左右する

 大手出版社の社員が税金対策の出版をしている間、実は誰が出版というビシネスを支えていたかというと、編集プロダクションである。(略)
バブル時代の景気が良い時は、広告収入目あてに次々と雑誌が創刊され、当の出版社で作り手が足りなくなってきたことから重宝されだした。しかも編集者たちが人手不足とか、自分の時間が欲しいとかいい出して、仕事はしないし、新卒も入ってこない。入っても九時−五時で帰る。となると、本作りの専門家のところに仕事が行くのは当然だ。
 だが、この編プロの盛衰が、それに頼りすぎるあまり、また、出版を変えてしまった。つまり、当の編集者が考えることをやめてしまって、ただの進行役になってしまったのである。だからその編プロが作る本が売れなくなるにつれて、その出版社までおかしくなってしまうわけだ
(略)
 実際今、編プロは大変だ。編プロを支えたのは、実は出版と、もう一つメーカーのPR誌で、ギャラはいい、払いは早い、あまりゴチャゴチャいわない、取材費もふんだんだったから、結構いい時代だった。
(略)
問題は編プロだけではない。実は編プロ依存を続けてきた後遺症として、出版社が本当に脱け殼みたいな、ただ本を出すスポンサーみたいになってきたことの方がより本質的問題である。
(略)
円高におけるメーカーと一緒だ。工場は全部海外で、本社部門だけ日本にあるようになるのと同じことである。こうした信じられない外注化を支えているのか、70年代以前に取った口座の既得権(高い掛け率)だ。ここから生じる差額で管理費が捻出されているのだ。(略)
[外注化で]出版社のカラーがないどころか、まあ今はなくてもかまわない時代だが、誰が何をしているのかわからなくなる。奥付の出版社名にも意味がなくなってしまうと思うのは僕だけだろうか(たとえば、ある文芸出版社とか実用書出版社が、突然ロックとかジャズの音楽の本とか、若者向けのタレント本とか、ジャンルの違う翻訳書を出版する場合、背後には必ず編プロがいる)。
 僕は個人的には営業を外に委託した瞬間、その出版社は終わりだと思う。というのは絶対情報がフィードバックされない。(略)
 本書を書いた最大のモチーフが、売れる本の情報は書店にあり、それを企画化する営業こそが、出版社の命運をにぎっていると主張することであった以上、編集の外注化はともかく、こうした状況に強く異議をとなえたい。

本にも賞味期間がある

(略)[在庫は負担になるので]
今は、昔みたいに増刷を見込みでやらなくなったのである。五〇〇〇部作った本が全部売れて、注文が二〇〇〇たまったとする。でも、増刷をしない。三〇〇〇たまるまで待って、たまったら三〇〇〇で刷る。たまるまで待っているわけである。一〜二ヵ月たっても三〇〇〇たまらなかったら、しなくていい(保留注文スリップも戻した方がいい)。初版部数の四〇パーセントぐらいの返品はスグ帰ってくるからだ(どんなに売れた本でも、必ず二割は返品がある)。
 それからでも遅くない。完売したら終わり。その後は、何かのきっかけで、新装版にして、増補改訂版の形で一回流通させた方がいい(自分の例でいうと、89年に『コンプリート・スティーヴン・キング』を二八〇〇円、ソフトカバーで五〇〇〇部出版し、完売した。そして、三年後に追加の情報、新しい記事を入れて上製三八〇〇円(消費税込)、四〇〇〇部で完売、95年くらいにサード・エディションとして、四八〇〇円、函入りで三〇〇〇部完売できたらいいと思う)。
 これが、今のロングセラーのあり方だと思う。それ以外はもう物理的にできなくなりつつある。全国の書店三〇〇軒の常備で、そこに年に二回転ぐらいしかしない本を置いて売るという時代は、ハッキリいってもう終わったといっていいからだ。
 つまり、本にも賞味期間があるということだ。これはもう売れないのか、だったらもう一回売れるように、何か新しい物を入れて、もう一回出せばいいじゃないかということである。(略)

図書館は出版産業の敵だ

(略)「公共的な場が商業的な利益を侵食していいのか」、これはもっと声を大きくして言うべきだ。本当は国会図書館だけあって、必要な人間だけ行けばいいのである。(略)
 図書館の面白いところは、中間小説までフォローし、絶版の作品も持っているところで、古い中間小説はよく文庫化のネタの元になっている。ある出版社でどうしても元本が必要になって、図書館からのコピーで作った本があるくらいだ。つまり、あそこは出版の遺跡の宝庫であって、そういう意味での利用はあってもいいが(略)

出版における新商品とは

(略)85年は「ビジネス書元年」と名付けていたと思うが、この前後からバブルの真只中にさしかかり、横文字の翻訳やビジネス書が、値段が高ければ高いほど売れた。(略)
 だが、今、そのすべてが失速してしまった。ビジネス書を読む時間も金も余裕もなければ、誰もそんなただでさえ高い本を買おうとは思わない。さらに、文化を支えていた思想も哲学も、広告代理店の都合のいいように消費されてしまった。結局、ここ90〜93年の話題は、ヘアー云々に代表されるヌード写真集に席捲されたといえる。(略)
これがいかに取次の書籍売上げと書店の経営を支えているか、知る人は少ないだろう。ハードカバーで、しかも立読みを防ぐためにあらかじめパッケージしてある、二〇〇〇〜三〇〇〇円でページ数さえわからない(写真集にはノンブルはない)商品が棚差しで、日本全国どこでも、いつでも、また長く売れるというのはおどろくべきことだ。また、この価格がさらに書店にとっておいしいものになっている。実際、出版のマネーメイキングのイメージをコミックに次いで変えたのはこの写真集だといっていい。
(略)
 ところで、90年代に入って本の売れなさ加減は相当なものである。(略)
[マンガの売れ行きにかげりが出て]事態は深刻である。マンガに代わるマネーメイキング出版物はハッキリいってない。いかに写真集が売れても補うことができないくらい、その売上げは巨大である。
――となると、恒久的に本を売りつづけなければいけない出版界が考えた応急処置として、まことしやかに語られているのが、マンガの二次使用としての、文庫化である。(略)三年は売上げを維持できると考えているようだが、これはいってみれば、タコが自分の足を食っているようなもので(略)
追記・後に秋田書店が『ブラックジャック』の一挙文庫化でたやすくミリオンセラーを実現してしまった。

ただし、写真集の功罪というのもあって、あれで本というか写真集を作る制作費が上がりすぎて、もう何か映画の主演女優の交渉みたいになってしまい、いわゆる相対的に本の制作費が従来の本とは比べものにならない額になった。出版という、少ない制作費で利益を出そうという業界にとっては困る現象だ。ある女優の写真集で初版一〇万部。それでトントンだというから話はデカイ。価格が三〇〇〇円だから三億。三億で六五の掛で計算すると初版の制作費に一億以上かけていることになる。しかも前金で三〇〇〇万。
 これは契約料で、あとは印税である。さらに、カメラマンの印税が今は大きいのだ。カメラマンがコーディネーターみたいな役目をするようになってきて、「ああ、この人が脱ぎますよ」とか、「俺だったら、あれを話をつけてやってもいい」とかで、二次出版物を作らなければ合わなくなった。豪華本にするとか、逆に、文庫にするとか、一つのことで三回ぐらい商売しないと回収できない巨大な制作費である。だが、一冊の写真集に制作費一億というのはあまりにもリスキーすぎる。もうギャンブルみたいなもので、当たっているうちはいいが、それこそ、別の意味での出版の原点からかけはなれているのかもしれない。

90年代の出版界を予想する

(略)
 ?「文庫が別の意味での一般書になる」。ちくま文庫に代表されるように、文庫の方が価格設定が自由になり(略)小さくて価格が高いというのは販売(書店)にとって魅力的である。(略)
 ?「趣味・娯楽のムックが今以上に増える」。つまりは「サライ」型のムックが増えるということで、「太陽」なども雑誌でありながら、別冊、ムックという捉え方になっている。(略)
 ?「映画、音楽、文芸といった芸術分野がすべて雑誌の特集の形でしか成立しなくなり、単一の書籍の存在意義がなくなる」。88年代後半頃から、無目的に出た安易な翻訳のロック本、映画本はすべて雑誌の中の特集として片付けられる。あと、書籍として成立するのは資料(LD、CDリスト)的なものだけである。
 ?「本の売行動向を左右するのは読者と書店と営業だけであり、書評、広告、評論家などの存在意味がなくなる」。読者と販売側が作家や編集者以上の知識と選択眼を持った以上、不要な本はすべて淘汰される。
(略)
 ?「女性向けの形をかえたポルノグラフィーが静かなブームになる」。耽美小説からゲイ小説まで、今まで日本で未開拓の分野だっただけに、ブームの余波も長く続くと思われる。(略)

編集者40代定年説

(略)人数に応じた売り上げが期待できないのなら、リストラ以前に、編集と営業の二大部門の構成比を変えるべきだというのが、出版営業である僕の意見である。仮に人数三〇人の書籍だけの出版社で、一〇人の編集、一〇人の事務総務経理その他、一〇人の営業という比率はおかしい(雑誌だけの出版社だと、この構成比は全く違う。編集二〇人、営業、その他一〇人である)。どうしても全体人数である三〇人が動かせないなら、一〇人の事務その他は変わらず、編集一五人、営業五人という陣容はどうだろう。これで維持できないなら、それぞれの部署から、その比率に従って、人数を減らしていくだけの話である。これが、現在考えられる一番健康的な出版社の経営母体比率だと思う(実用書の出版社だと大体そうである)。
(略)
 僕が考えるに、書籍の出版というのは、いや、出版は書籍だけを出している限り、本来の意味の中小企業そのものではないのか? これは別に皮肉をいっているのではなく、そういう少人数による、パーソナルな制作物であるからこそ、小さな出版社でも一〇〇万部という夢も残されているわけだ(実際は、一〇万部でも同じ意味だと思う。というのは仮に一〇〇万部という部数などが出ると、逆に資金繰りから会社がベストセラー倒産してしまうからだ)。
 出版社の最低構成人員は三人だという。社長が経理と営業を兼ねて、営業事務が内勤で一人、そしてもう一人が、本の制作(編集?)という形である。このスタイルで創業した出版社は山ほどあるハズだ。そして、消えていった出版社も。このくらいの規模になると、取次の口座が消えない程度に、年に一〜二冊出版しているほうが維持できるという。赤字になった本を一冊出した時のリアクションの方が大きいからだそうだ。ここで、ロングセラーなる物が、意味をもってくる。そういう本をもっている出版社が一人の営業でコツコツ注文を取っている方が実利があるという。後向きの考えといわれそうだが、これが出版の原点であり、根源のような気もする。(略)

「カネを飼っているような本」の作り方

 今まで書いたことと矛盾するようだが、実は「本」は、今の日本で今時珍しい、利益率のいい商品という側面も兼ね備えている。もちろん、売れてからのハナシで、売れないと、徒労に近い労働量と非生産的な人件費に圧迫される、典型的な自転車操業の中小企業である。
 だから良書とか文化という自己満足が必要なのかもしれない。というのは、出版社で売れなくて倒産というのは、掃いて捨てるほどあるが、経営者が首をつったというのはあまり聞かない(本当にあったら、スイマセン)。せいぜい夜逃げぐらいである。
 初版五千から一万部の本が、それ以上売れて、間違って一〇万でも超えると(営業費も広告費もない場合に限る)、もうあとは紙代だけである。あながち札を刷っているようなものという表現はオーバーではない。これほどボロイ商売があるかと思うほどだ(残念ながら僕はマンガでしか経験したことがない)。メーカーでありながら、工場も持たずに、ただ活字を組んで、印刷した紙を綴じて製本したモノに、価格がついて商品になるのだから。
(略)
 だから今は、特別インテリでなくても、人が面白いと思って買ってくれることが書けて、たまたま運がよくて本が出ると、思わぬ金が入ってくることもある。昔はもっと「本」にする際の内容審査が厳しかったような気がする
(略)
 だが、そういうふうに「中身が軽い」本が売れるこの現実も、商品性という観点から考えるなら、話は別である。もう、それでいい時代なのだ。あのニューアカブームの頃の、中身のある(重い?)本(実際、重量もあった)の末路を考えてみればいい。あの時、どの出版社も中身が力タければカタイほどいい、なんでもかんでも本にしていたのだ。とにかく、それを買う人間がいて、また世間体も悪くない。となれば、それに一斉に右倣えになるのも当たり前である(この頃が編集者の能書きのピークだろう)。
(略)
中身でない、それに附随する他の条件についてここで書いておくと――
1.上製本ではなく、絶対にソフトカバーでなければならない。上製本ほど手間がかかるものはない。定価が二〜三〇〇円高くなっても、やめたほうがいい。最後は手作業になるので、大量生産に向かない。箱入りはもう論外(略)
2.仮に一〇万部突破しても、絶対に広告を打たない。他の媒体が記事にしてとりあげてくれるまで待つ。それだけで十分で、これは最終的に損益を考えるとよくわかる。
3.著者にきたテレビ出演、インタビューetc注文はすべて受けさせる(協力しない著者の本はもう増刷しない)。そのたびにまた売れる。
4.内容証明がこようが、週刊誌・新聞で叩かれようが、本が売れている限りは絶対に謝罪しない。そして、売れ行きが完全に止まってから謝罪する。