「表現の自由」を求めて・その2 奥平康弘

前回の続き。

ホームズの転換――それを促したもの

劇場で[「火事だと」嘘を叫び]パニックを引き起こす言動というレトリックといい、「明白にして現存する危険」(Clear and Present Danger)というフレーズといい、どちらも日本でもよく知られている。
 要するに、ある言動が害悪発生の「危険」があるかどうかは、それが発表されたさいの四囲の状況に左右されるところが多く、同じ言動でも状況のいかんにより、「危険」を含み有害とみるばあいと無害安全とみるばあいとかありうるという考え方に、ホームズの特徴がある。(略)
シェンクが関与した文書作成・配布行為は、戦時体制下という特殊状況にあったことが確認される。ビラの少なくとも一部は、政府の戦争達成をさまたげる効果をもったと認定され、これに関与したシェンクは共謀の罪を免れえないという結論になった。(略)
 「シェンク」判決があって数日後のうちに合衆国最高裁は、スパイ防止法適用事件を一気に片づけた。(略)フローウァクの出版物もデブスの演説も、ともに情熱的に雄弁に反戦・反徴兵を訴える内容のものであったとはいえ、いずれも特定の聴衆に具体的な反戦行為や徴兵拒否の実行を慫慂する種類のものではなかった。(略)
[ホームズは]上告人の憲法論にほとんど動かされることがなく、かなり素気ない仕方でフローウァクもデブスも斥け、両事件とも被告人有罪の原判決を肯定した。
 両判決に関して注目に値するのは、ホームズはどちらの事件でも、「シェンク」判決で設定した「明白にして現存する危険」というフレイズを全く再採用していないことである。彼は、もはや、許容される言論と許容されない言論との区別づけいかんという厄介な問題には心をわずらわしていないようにみえる。問題の表現行為がスパイ防止法で定める構成要件に当てはまるかどうかを、ごく様式的に検討するにとどめている(略)
矢継ぎ早やに出された最高裁判決のゆえに、「ホームズはあたかも言論弾圧勢力のシンボルであるがごとくみえた」のであった。
(略)
1919年春、三件の言論抑制事件に青信号を出すことによって躊躇なく体制的・大勢的・伝統的な立場に与して疑うことのなかったホームズが、同年冬の「エイブラムズ」事件において一転して少数派にまわり、表現の自由憲法論を意識して前面に出すようになったのは、いかなる経緯によるのだろうか。(略)
[ハンドと手紙で意見交換をし]ほんの徐々ながらこの若い友人に啓発されるようになっていた。(略)ホームズというひとは、頑迷固陋な保守主義者では全くなく、むしろ当代有教のかずかずの自由主義的・革新的な思想家・文筆家(H・クロリー、W・リップマン、H・ラスキ、F・ポラックなど)と深いつき合いがあって、これらの思想に共鳴するところが多い人であった。
 ボストン名門の出であり、いわゆるブラーミン(上流文化人)に属したホームズは、煽情的な気配濃厚な大衆新聞紙がきらいであったように、デブス、シェンクなど労働者向けの大衆政治家、アジテーターも大いに肌が合わなかったに違いない。(略)ところが彼は、その年の三月以来信頼する友人の多くから批判的なコメントを受ける度合いが多くなるにつれ、彼における懐疑主義的・自由主義的・進歩的な思想傾向がいちじるしく刺激されるようになった。彼の本来的に具わるもう一つの性向がはたらきはじめるようになった。彼は、自分の物した三つの有罪判決そのものの立脚点に疑いを持ちはじめた。

L・D・ブランダイス

ホームズはスパイ防止法の根底を支えるコモンロー上の伝統的な“seditious libel”のコンセプトに、表現の自由の見地から疑いをさしはさみはじめたのである。そしてそのさいの重要条件として、同僚裁判官L・D・ブランダイスの存在があることを、いまいちど、ぜひ強調しなければならない。
(略)
彼の、最高裁入り以前の経歴から推せば、「シェンク」など言論抑圧事件にそのまますんなり賛成する思考の持主であったとはとうてい思えないのである。しかし、彼がのちに同時代を回顧して語ったところによれば、その彼にして、1919年春の段階では、言論抑圧事件に対しては、より慎重に構え、特殊なアプローチがあるべきだとは思いつかなかったという。社会に支配的な思想の惰性というものは恐ろしい力をもつものであることにあらためて気づかされる。
(略)
 ブランダイスにとって幸運なことに、第四番目の裁判事件、「エイブラムズ」事件において、彼の尊敬すべき先輩裁判官であり深く胸襟を開く間柄にあったホームズが異議を申し述べ、表現の自由の意義の再検討を促す少数説をとることを表明した。ブランダイスは留保することなく、ホームズに無条件に追随した。(略)
 これを嘴矢としてその後、ホームズとブランダイスはときにあたかも二人三脚のように両名が協調し合いながら、言論抑圧事件において少数意見を書きながら、表現の自由の展開のみちを開いてゆくことになる

[「ホゥィトニー」事件における補足意見で]
 ブランダイスは、議会民主主義のわく組みに固執することなく、広く市民的なレベルにおける公共的討論、そこにおける審議あるいは慎重な考慮をつうじてのみ民主主義は正当化され活性化されるのであって、これを確保するためにこそ、表現の自由が重要なのだ、と説く。このさいブランダイスは、こうした公共的討論に参加するのは、市民にとって「政治的な義務」であり、ここにこそアメリカ統治の基本原則があるというべきだ、と性格づけるのである。この議論はホームズの理論として知られる「思想交換の自由市場」というのとかなりちがう。アメリカ独立革命を遂行し困難な建国の諸過程を経てきた人たちが歴史的現実的に体得したところの、共和主義の精神が貫流している。(略)
ブランダイスの理論はハーバマスの公共的コミュニケーション論の先行形態といえる面がある。
 統治過程を正当化し活性化し有効ならしめるために討論の自由が本質的であるとすれば、権力によるものであろうと非権力的なものであろうとを問わず、「沈黙の強制」(表現の自由の禁圧)ということはあり得てならない道理である。このばあい唯一の例外は、表現活動が独自的にいま現在、深刻な社会的な危険をもたらすおそれがある状況である。こうした状況下では、審議あるいは慎重な考慮を生み出す討論過程が存在し機能する余裕がないので、例外を構成する。「嘘やインチキを討論をつうじて暴露し、また、ありうる弊害を教育をつうじて匡救するために時間的な余裕のあるかぎりは、とられるべき措置というのは、沈黙を強いることではなく、もっと多く討論させることである」(more speech, not enforced silence‐「モア・スピーチ」の立場の表明)。
 こう語ることによってブランダイスは、1919年「シェンク」事件に法廷意見として現われた「明白にして現存する危険」の法理とある種のつながりをつけているのは明らかである。ただ実際のところ、「明白にして現存する危険」の法理は――一連の反対意見で用いられたばあいを除いて――けっして表現の自由のために有利にはたらいたことはなく、また、ほとんど真面目に取り上げられたことさえなかった。ブランダイスは、この点を意識しつつ、補足意見のなかで次のように指摘しているのに注意したい。「いつ危険が明白になったと見なしてしかるべきか、危険は遠いかもしれないがそれでいて現に存すると言えるのはどういうばあいか、どんな程度の弊害があればそれを重大と見なして保護措置として言論・集会の自由を制限するに足ると認定すべきなのか――こういった諸点を判定する基準を、当法廷はいまだなお確定したことがない。これらのことがらに正当な結論を出すためには、われわれは、なぜ一体平常時にあって国家は、圧倒的多数の市民たちがそれは間違っている、それはとんでもない悪い結果をもたらすと信じて疑わない種類の社会的、経済的そして政治的な言説の伝播を禁止する権力を、否認されているのかという根拠を深く心に銘じておく必要がある。」
 ブランダイスのこの指摘は、きわめて重要である。というのは、第一、先にも述べたように、「明白にして現存する危険」法理なるものが登場したというものの、これまでのところは、コモンロー的な言論抑圧を説明し正当化するための決まり文句の気味があった。しかし、ブランダイスはここで、この法理を行為の違法性判定基準あるいは法律の違憲性判定基準として位置づけようとし、そうであるためには、単なる決まり文句としてではなくて、法理の構成要件をきめ細かく練り上げてゆく方向性を打ち出している。この指摘は、表現の自由の司法的な保障という、この国がやがて析出する憲法的特質を示唆するものとして、看過できない。
 第二に、強調したいのは次の点てある。決まり文句としてならば「明白にして現存する危険」というフレーズは誰もが用いる。日本の法曹界においてさえもこれは大いにもてはやされてきている。大事なのはしかし、このフレーズを基礎づけ、そういう言葉として押し出している背後にある理論である。ブランダイスが問題にしているのは「なぜ国家は」(“Why the state?”)ということなのであって、既製品としての決まり文句ではない。「なぜ国家は」という根本理論に関する絶えざる問いかけ・問い直しがあることによってはじめて、言葉の形で表現された「明白にして現存する危険」フレーズは法理として活かされてくる。それがなかったならば、このフレーズは言論弾圧のための道具でさえあり得るのである。
(略)
「ホゥィトニー」事件におけるブランダイス補足意見がこの国の表現の自由の歴史にとって転機ともいえる重大な意味をもつ文書であることを確認し、次の段階の歴史的な考察に移ろうと思う。

1940年国旗敬礼強制事件

[国旗敬礼・国歌斉唱を拒む「エホバの証人」に対する裁判。新任のF・フランクファータは国旗敬礼強制は合憲と宣言。全員一致の予想を覆し、ストウン裁判官がひとり反対]
ブラック、ダグラス、マーフィなど新勢力のリベラル派は、ストウンを孤立させて、逆にこぞってフランクファータ支持に回っている。これは、いまから見れば、不思議であり奇異に感じざるを得ない。国家観念を統合し国家の総力を終結して国難に当たるべしとする国家イデオロギーの方が、結局において個人の権利・自由を尊重すべしとする市民的自由の法イデオロギーよりも強く、裁判官の心のうちを暗黙のうちに支配していた証拠であると言えよう。このことと深く結びついてであるが、自由派裁判官は、ストウン裁判官ほど深刻に司法審査のありよう(すなわち、なにか決定的な理由があるばあいには、司法審査は前面に出てきて積極的におこなわれるべきであるという法的なコンセプト)に確信が持てなかった証拠である。彼等は、なお、多数決支配という脈絡の民主主義的な原理のもと、司法権は一般に消極的であるべきだという、かつてのリベラルの立場から意識的に明確に脱却できないでいた。こうして結局、「国家の安全」という切り札のゆえに、多数者による少数者の抑圧という古典的な図式に従ってしまったのである
(略)
 けれども、この1940年6月の「ゴビティス」判決は、第一に、憲法学界およびジャーナリズムにおいて、かってない規模のはげしい批判にさらされる結果を生んだ。このゆえに、それが潜在的に持っているはずの自由侵害効果は大きく勢いを殺がれることになった(もっとも、圧倒的多数の一般大衆はこの判決によりいちじるしく愛国心をかき立てられ、全国各地で「エホバの証人」に対する「いじめ事件」をひき起こすのではあるが)。これと関係するが第二に、合衆国最高裁のリベラル派裁判官たちのあいだに、たやすくフランクファータ見解に同調してしまったことを反省し自己批判するうごきが出てきた。こうして、1942年6月のある上告審事件に関係し、先に名をあげたブラック、ダダラスそしてマーフィの三名のリベラル派裁判官が共同声明というまことに異例の措置によって、「ゴビティス」判決は「あれは間違いだった」と公言する事態を招くことになったのである。
 このような反「ゴビティス」の趨勢に力を得て、ウェスト・ヴァジニア州の国旗敬礼を強制する法律の違憲性を主張するもうひとつの事件が別の「エホバの証人」たちによって提起された。これが合衆国最高裁に上がってきた機会をつかまえ、1943年6月、最高裁の新しい多数意見は、ウェスト・ヴァジニア国旗敬礼強制法を違憲であると宣言するとともに、ほとんどちょうど三年まえの自らの先例「ゴビティス」を破棄しさったのである。この新判例は「バーネット」事件として知られ、高い評価を得ながら現在にいたっている。

次回に続く。