ソクラテス われらが時代の人 ポール・ジョンソン 中山元

ソクラテス われらが時代の人

ソクラテス われらが時代の人

プラトンによる二度目の死

その頃のプラトンはまだ、独自の理論は構築しておらず、ソクラテスの思考と方法に完全に魅了されていたので、これらの初期の対話篇はそれらを正確に再現したものである。(略)
 しかしプラトンが学園の権威者となり(略)それまでとは違う人物になっていった。(略)
教師としてのプラトンは、ソクラテスを利用しながら、自分が作りあげた観念を広め、永遠のものにしようとした。初期の対話篇ではソクラテスは、実際に生き、息づき、思考する現実の人物として描かれている。しかしプラトンの独自の哲学が構築されていくにつれて、それを広めようとするあまり、プラトンは哀れなソクラテスに二度目の死を与えたのである――かつてはソクラテスの死をあれほど嘆いていたにもかかわらずである。このようにしてソクラテスはいわばたんなる木製の人間になり、腹話術の人形として、自分の哲学ではなくプラトンの哲学を広めるために語らされるようになったのである。

過激な思想家・ソクラテス

プラトンの心の中にはすでに、賢い若者たちを知的に独立させるような教えを与えるのは危険であるという考えが生まれていたことである。(略)ソクラテスの言葉をそのままに記録しながらも、ブラトンの心のうちでは後の対話篇『国家』で語られる理念が、すでに動き始めていたに違いない。『国家』で語られるのは、国の守護者たちの強力な合意のもとで守られることで、過激で不敬虔な思考による脅威を恐れる必要のなくなったユートピア的な国家の像である。
 ソクラテスなら、プラトンが望んでいたこうした国家を嫌っただろうし、絶対に容認しなかっただろう。実際のところソクラテスプラトンはほとんどすべての側面で、きわめて対照的な意見をもっていた。
(略)
 若いプラトンソクラテスを英雄のように崇拝していた。しかし成年になったプラトンは、不注意な読者には分からないように、ソクラテスの言葉をそっと否認している。あるいはプラトン自身も自分が実際には何をしているのか、分かっていなかったのかもしれない。
 ソクラテスは保守的ではあるが過激な思想家であるが、プラトンは過激な保守的思想家である。ソクラテスが過激だったというのは、自分の心の中に構築した思考の場においては、論理的な証明によっては到達することのできないあらゆる思想をうけいれる用意があったからである。ソクラテスが保守的であったというのは、神々や英雄など、民衆が大切に考えるものにまつわる昔ながらの慣習を尊重したからである。あまり重要でもない神話を破壊しようと願うことは、ごくふつうの人々が重要な真理に近づくのを困難にすることであり、愚かなことだと考えたのだ。ソクラテスは穏健で、天才的で、敏感で、寛大な人間だったので、保守的ではあるが、過激な思想家になったのである。
 これにたいしてプラトンは、ふつうの人々の経験的な智恵から生まれた自然の保守的な本能を、具体的なイデオロギーに作り変えようとする傾向があった。その過程において、人間らしい伝統的な智恵が、絶対的な教義に変わってしまうのは避けられないことだった。カール・ポパーが『開かれた社会とその敵』において、プラトンを20世紀の全体主義国家の究極的な創始者とみなしたのは、驚くべきことではない。

タフガイ・ソクラテス

 紀元前432年にソクラテスはボテイダイアからの苦しい撤退戦を戦っていた。冬のさなかで、ひどく寒かった。ソクラテスはすぱらしい忍耐力と勇気を示した。彼はもう46歳で、当時のふつうの考え方では老人とみなされる年齢だっただけに、これは称賛に値することだった。(略)若い友人だった貴族のアルキピアデスの証言がある。(略)ソクラテスは自分の生命の安全も考えずに、アルキピアデスの命を救った。(略)ソクラテスは完全武装をしていて、撤退戦においても恐るべき兵士であった。ソクラテスの物腰には、敵が手を出させないような様子があった。(略)アルキピアテスはソクラテスがきわめて我慢づよい人物であることを証言している。寒さにもかかわらず薄着で、雪の中を裸足で歩いていたのである。不愉快な事態も食料や飲み物の不足も、ソクラテスをわずらわせることはないようだった。陽気で傑出した兵士だったのである。
(略)
 ソクラテスは衣服、食べ物、飲み物、暖かさ、快適な場所など、自分の身体的な快適さには無関心だった。(略)
「食べるために生きる人もいるが、わたしは生きるために食べる」とか、「食欲をそそるための最善のアペリティフは空腹になることだ」とか、「わたしは喉が渇かないかぎり飲まない」とか語ったと伝えられている。
(略)
 ソクラテスは当時の基準では醜く、中年になると太鼓腹になった。脚はがにまたで、横向きに歩く傾向があった。(略)
多くの人がソクラテスを、決して言い負かすことはできないが、滑稽な人物とみなしていた。ソクラテスは人々にからかわれ、ときには小突かれることもあった。こうした扱いをうけても腹をたてないのはどうしてかと尋ねられて、「驢馬が君を蹴ったからといって、裁判所に訴えて出るかね」と問い返した。「わたしの顔を叩く人がいたとしても、わたしに悪をなしたわけではない。自分に悪をなしただけだ」。ポタイダイアからの撤退戦でアルキピアデスが目撃したように、ソクラテスはまったく動じない人物なのである。(略)
ソクラテスを知っている人々にとって、彼は嫌うことのできない人、愛さずにはいられない人だった。

問い掛けるソクラテス

 ソクラテスは、アテナイの街路を歩き、市場アゴラをぶらつき、市外の公園や庭園で体操をすることを習慣にしていた。そしてこうした場所で働いている人々の活動を調べていたのである。たとえば革鞣し職人、金属細工職人、商人、飲料水の売り子、行商人、果物や野菜の行商人、写本筆写人、両替商などである。近くのペイライエウス港まで散歩したり、アテナイの周囲の田舎を歩いたりしながら、ソクラテスは船員、農民、馬の訓練土、そして葡萄畑やオリーヴ果樹園、搾乳場などで働く男女を観察したものだった。
 そのうちにソクラテスは、これらのすべての人々はそれなりの言葉を話す能力があり、しかも喜んで話すつもりがあることに気づいたのだった。そこでソクラテスは彼らに問い掛け、彼らは質問に答えた。そこに隣人や同僚たちが会話に加わってきた。ソクラテスには不思議な魅力があった。(略)
ソクラテスの質問はまず相手の仕事についての問い掛けから始まり、やがては相手の信念や道徳や意見など、もっと複雑な問題への問いに進むのである。(略)
 ソクラテスがこのような方法で人々に問い掛けることができることに気づくと、彼の理性はこれこそが彼の生涯の仕事なのだと語ったのである。

「正義とは何か」

 当時の人々が正しい知識をもっていなかった重要なテーマとして、正義の問題があった。ギリシア人は誰もが正義を好んだ。しかし正義とは何かを知っている人はごく少数だった(そもそもいたかどうかも疑問である)。さらに悪いことに、多くの人が正義と思い込んでいるものは、実は正義とは正反対のものであることを、ソクラテスはみいだしたのだった。ギリシア人の徳についての知識に大きな欠落があるとすれば、それは正義についての知識の欠如だった。
(略)
 『国家』の第一巻でソクラテスはまさにこの「正義とは何か」という問題について、ソフィストのトラシュマコスと論争している。トラシュマコスは「正義とは強い者の利益だ」と主張する。すべての社会において、何が正義であり、何が不正であるかを定義する規則は、社会を支配するエリートが、すなわちその社会でもっとも力の強い者たちが、自分の利益になるように決めるのだと、トラシュマコスは考えるのである。ソクラテスはこの定義を認めないが、自分の定義を示すこともしない。第一巻はそのままうやむやに終わる。
 第二巻で(略)
ソクラテスは、不正なことをするよりは、どんなことでも、たとえ死であっても甘受するほうがましであると主張する。
(略)
 ソクラテスは明らかに、抽象的な意味での正義には関心をもっていなかった。ソクラテスはつねに、実践における行動にしか興昧を感じなかったからである。当時のギリシアで一般的だったのは、トラシュマコスが表現したように、正義はふつうは自己の利益とかかわるものであるという見解であった。「正義の人とはどのような人か」と尋ねられたならば、当時のギリシア人であれば、「友人のためには善をなし、敵にたいしては悪をなす人である」と答えただろう。しかしソクラテスはそうは語らない。「正義の人はたしかに、友人のために善をなす人であるが、自分に害をなした人にも善をなし、敵もまた友人に変えてしまおうとするような人である」と語るのである。(略)
これは「もう一方の頬も向けよ」というイエスの言葉に近いものである。
 ソクラテスは『クリトン』では「悪をなすことは正しいことではない。悪にもって悪で応じてはならない。悪をなされて自分を守るために、お返しに悪をなしてはならない」と語っている。ソクラテスはこの明確な見解によって、どのような装いや状況のもとでも、道徳的な相対主義を否定して、道徳的な絶対主義を明確に採用するのである。あなたはそれが悪いことであることを知っているならば、決してそれを行ってはならない、絶対に。
 この規則を定めることでソクラテスは、道徳の歴史における一つの分水嶺を超えたのであり、個人や国家が採用していたギリシアのもっとも根深い道徳律の一つ、すなわち報復の法則を絶対に否定するようになったのである。

あなたがもし誰か他の人に悪をなすならば、とくに多数の人々に悪をなすならば、そのことはそれ自体において悪であるだけでなく、あなた自身にとってもきわめて大きな悪である。
(略)
その悪をなすことによって、コンテストで優勝できるかもしれないし、戦争に勝てるかもしれない。喜び、快適さ、安全性、長寿など、あなたが高く評価するものをもたらしてくれるかもしれない。あなたが愛する人々や、あなたの家族や友人から認めてもらえるかもしれない。それはあなた自身と、こうした人々が生き延びるために必要であると、あなたは考えるかもしれない。しかしそれが悪であるならば、あなたはそれをなしてはならない。それで世界のすべてが手に入るとしても、それを行ってはならない。あなたが他人に悪をなさなければ、自分の生命を維持できないのであれば、あなたの生は生きるに値しないものである。
 これは厳しい教義である。過去2500年にわたって世界は、この教義を原則としてはうけいれながら、しばしば、あるいはほとんどいつも、それにしたがうのはきわめて困難であると考えてきた。そしてそれは驚くべきことではない。