前回の続き。
- 作者:軽部 謙介
- 発売日: 2015/09/26
- メディア: 単行本
短期金融市場改革
1988年11月、日銀内部で、ある決定がなされた。短期金融市場改革だ。(略)
金融政策の誘導の重心を、公定歩合から市場金利に移したらどうだろう。そうすれば、公定歩合変更の難しさが緩和できる。市場金利が上昇してきたら、公定歩合を追随して引き上げられるようにする。下がってきたら公定歩合も引き下げる――。
つまり、公定歩合という長年にわたって金融政策の中心に君臨してきたツールを有名無実化しようという試みでもあった。
酔いしれる日本人
このころはまだ補佐的な役割を演じることの多かったバイロン・シーゲルには、さまざまな日本人が気楽に本音を語った。
シーゲルはこう回顧する。
「日本は戦争に負けた、でも経済ではあなたの国に勝ったという趣旨のことを何度も面と向かって言われた。あるときはビジネスマンから、あるときは日本政府の官僚から」
この種の体験をした米国人は少なくない。
(略)
「マネーサプライの動向が懸念される」とか「超緩和状態を解消するべきだ」などと警告を発していた三重野の部下たちも、多かれ少なかれ、バブルに酔っていた。
ロンドンにいた田村は日本に帰国するたびに、同僚たちがゴルフ会員権の話をしているのに気付いた。特に房総半島のあるゴルフクラブに人気があった。そこの[数百万する]会員権をもっていないと、「日本銀行の中でも仲間にいれてもらえない」というムードがあったという。
ついに利上げ
24分で終了した臨時政策委員会では、この二年三ヵ月の間に膨らみ続けたバブルに言及する者は誰もいなかった。
この利上げはのちに遅すぎたと評されることになる。
あれだけ利上げに待ったをかけていた大蔵省のある事務次官経験者も「アメリカの圧力があったとはいえ、2.5%があれだけ長く続くとは。利上げは一年か一年半遅かった」と反省する。
三重野も「完全に遅れた」と思っていた。同時にオーラルヒストリーの中で大蔵省などが「土俵」に上がってこなかったと自己弁護している。(略)
のちに大蔵省の事務次官や日銀の副総裁をつとめた武藤敏郎はこう話している。
「たしかにプレッシャーはあっただろう。日銀は何か言われるとすぐに萎縮してしまう。ただ、彼らが本当に上げなきゃいかんと思っていたふしはない。仮に本当にやりたいのなら、職をかけてでも大蔵と交渉すればよかったではないか。金融政策は強要されていたのか。違う。やろうと思ったらできたはずだ」
レーガンからブッシュになり、すべてチャラ
[89年「日米構造協議ニューヨーク会合」米側から今まで色々やってきたけど不均衡は解消されず、プラザ合意は効果がなかった、今度は構造問題だとかまされる]
大蔵省の内海は「これがだめだったら、あれをやってみようと、次々にやり方を変えてくる。アメリカらしいなあと思った」と受け止めた。
まったく違う感慨を抱く当局者もいた。(略)
国際協調に名を借りた利下げは、一体何のためだったのか――。「構造障壁協議」開始の話を聞いた日銀幹部は一瞬、虚無感にとらわれたという。
「経常収支不均衡を内需拡大という政策手段で解消しようとしたことが、そもそも正しかったのか」
閣議事件から総量規制
[89年10月定例閣議で国土庁長官石井一が大蔵大臣橋本龍太郎に]
地価の上昇が続いているが、われわれ国土庁の政策では限界がある。銀行の土地関連融資は地価上昇の原因の一つであり、大蔵大臣からぜひ金融機関を指導していただきたい――。
この石井の発言が事件だったのは、事前に何の打ち合わせもなく突然飛び出したことだ。(略)
[予定調和を旨とする霞が関文化に反すると]銀行局は怒った。
[しかも他の閣僚からも同調者が]
大蔵省内には、国土庁に一杯喰わされたのではないかと疑う声もあった。土地局長の藤原が銀行局長の土田を説得できなかったので強硬手段にでたのではないか。[が、国土庁は長官の独断と平謝り](略)
ただ、長官の石井はこの後も金融機関の融資を問題にする姿勢を崩さなかった。(略)[参院土地問題特別委員会で]投機に融資した場合は厳重な罰則を科した方がいいと思う」と答弁し波紋を広げた。(略)
総量規制はのちの地価下落の引き金を引いたとされているが石井はこう話す。
「総力を挙げて投機を止めたということだ。すべての施策をうった。ただ、あのときは目の前の火を消すのにやっとだった。そのあとのことまで関心はなかった」
三日の事件は改めて地価が異様に膨らんでいることを印象付ける効果があった。
(略)
「地価高騰を何とかしろ」という声は次第に「銀行融資を何とかしろ」という主張に収斂していった。
(略)
[89年5月公定歩合引き上げ後も、バブルは膨らみ続け、10月再利上げ。大蔵省もすんなり了承したが]注文もついた。
「予防的な引き締めということにしてくれ」
本格的な引き締めということになると、現状についてかなり危機感を示すものになる。
(略)
このとき銀行局は、ノンバンクという別の材料をちらつかせることにより、何とか総量規制を求める攻勢をかわすことができた。(略)[しかし、それでも地価は上昇]銀行局は次第に追い詰められていった。
橋本龍太郎がコドモすぎて市場混乱
[89年12月日銀の「プリンス」三重野がついに総裁に。就任会見で]
「地価の上昇は(略)金融がその片棒をかついでいることは率直に認めねばなりません」(略)
[利上げ準備を読売が一面トップでスクープ]
三重野の記憶によると、会議の「終わりのほうに」蔵相の橋本が近づいてきて「新聞に出ましたね」と語りかけた。その後の会話について三重野は「正確には覚えていない」という。(略)
[日経・滝田洋一談]
「[橋本が]三重野さんに「あれは何だ」と。そうしたら、三重野さんが、私は非常に不誠実だったという感じを今でも持っておりますけれども、「さあ、どうしますかね」と。そういうトーンのお答えをされたので、「それなら撤回してくれ」というやり取りになったんです」
このときの事情を最初から最後まで目撃していたのは橋本の秘書官だった伏見泰治。彼の記憶は三重野や橋本の説明と少し異なる。
「橋本さんは情報管理ができないのを嫌がる。あの日、月例経済会議で大臣の座っているところに三重野さんが来て「出ちゃいましたね」と言った。大臣の機嫌がみるみる悪くなるのが分かった。公定歩合という重要な話を真面目にやっているのに、三重野さんはそれを冗談ぽく言った。それを橋本さんは許せなかった。まあ、大人気ないと言えば大人気ないんだけど」
(略)
[大蔵省に戻り記者に囲まれ]橋本が突然こう言った。
「たとえ、そんな話をしていたとしても、白紙に戻してこいと担当者らに言ってある」
官邸で三重野との間に何かあったのかなど、橋本を取り囲んだ記者たちはこのときまだ知らない。彼らは一瞬耳を疑った。日銀の公定歩合操作に対して大臣が公然と拒否権を発動する。そんなことが実際にあるのか。
(略)
彼らの一報が日本を、そして世界を駆け巡った。
「蔵相、公定歩合引き上げの撤回を要請」
前代未聞の事態に市場は驚いた。為替も債券も株も、すべてのマーケットがこのニュースをめぐって乱高下した。
(略)
三重野は驚いた。思い当たる節がない。しかし、大臣は怒って「白紙に戻せ」と言っている。市場は荒れ、部下たちは事態収拾に走り回っている。三重野は歯痒さを感じながらも[利上げの]冷却期間を置くことを決意せざるを得なかった。
(略)
もちろん大蔵省も困った。事務次官の平澤や総務審議官の篠沢が大臣室に集まり協議した。橋本の失言から市場は混乱している。「白紙撤回」と言った橋本の真意は三重野の態度にカチンときたという子どものようなたわいのないものだったが、市場はそうは受け止めない可能性が強い。
日銀の引き締め姿勢に対して、大蔵省が待ったをかけた。それは景況感が異なるためだ。いやいや、また米国が何か言ってきたのではないか。こういう市場の疑念は理解できた。
発言してしまったことは仕方がない。「日銀とは内々にやってきているので、本当の撤回はできない」と幹部たちは橋本に説明した。最初は「まるで他人事のようだった」と三重野への怒りが鎮まらない様子だったが、次官の平澤は「これはすでに積み上げて決まったことなので、あとは自分たちにおまかせください」として大臣から事態収拾の一任を取り付けた。
(略)
[白紙撤回]報道もありましたが、大蔵省筋からは、こうした大臣発言は無かったとの了解の下に、今後とも適切な金融政策の運営に当たってほしい旨の連絡を受けているところです」(略)
当局者たちは、白を黒にする修辞で事態を乗り切ろうとした。市場は少し落ち着いた。
(略)
[三重野談]
「結局それで25日に公定歩合引き上げを決定しました。当初の予定からいったら数日遅れたわけですね。しかし、私は腹が立っていましてね。口には出しませんでしたが、もし大臣が最後まで折れなければ、マル公〔公定歩合〕上げを断行してしまおうと。それで僕は辞職しようと思ったんですけれども、だけどそうならないとも思ったんですね。
総量規制がこんなに効くとは予想外
[90年国土庁が地価高騰みんなでなんとかしてえ、とSOS通達。金融機関からノンバンクへの融資が毎年三割アップに焦る大蔵省]
ノンバンクを通じた迂回経路だけでなく、本体からも融資を拡大している。(略)[日銀の]自粛要請などまったく効いていなかった。
ただ、銀行局は総量規制には相変わらず否定的だった。
(略)
このころ、世の中には漠とした不安が広がり始めていた。[90年初から]株価が急落し始めたのだ。(略)
財界の大物。メディア。大蔵省のOB[から総量規制導入の声](略)包囲網は狭まっていた。
(略)
[3月20日「予防的引き締めの総仕上げ」として1%の大幅利上げ、結果、株価は史上三番目の下げ]
市場はこれを「金融政策の失敗」とみていた。日銀がいたずらに利上げをしたからというわけだ。
株価は下落、地価は上昇。この時期、日本経済は不思議な状況に置かれていた。のちに両者は崩壊のタイミングがずれただけだと分かるのだが
(略)
総量規制に躊躇し続けた銀行局で、この通達が「効きすぎる」ことを懸念した幹部はいなかった。(略)
この通達は「不動産融資をするな」とは書いていない。「全体の伸び以下」にすることが求められているだけだ。なぜこの通達がその後、地価下落の主犯とされたのか。このときの大蔵省首脳はこう振り返る。
「市場もそろそろ危ないと思っていた。総量規制されれば地価は下がるかもしれない。そう思えば買おうとしない。融資もなくなる。地価は下がるというわけだ。あ、締められるな、と思えばさっさと引き上げる。それがマーケットだ」
銀行局担当の審議官だった松野は「この通達をだしたらどれくらい地価が下落するのかを事前に検証したことはなかった。ただ、あの通達は全体の伸び以下に抑えてほしいという内容だ。ゼロにしろなどとは言っていない。不良債権問題が明確に意識されるのはもっとあとのことだ」と話していた。
(略)
予測できなかったというのは日銀も同じだった。総務局長をつとめた田村はこう回顧する。
「資産価格がこれだけ下がるということまでわかっている人は、だれもいなかったのですよ」
「その当時、三重野さんが土地〔地価〕もそんなに下がらないだろうけど一割くらい下げるかもしれないと言ったのですよ。(略)それで日銀はそこまで悲観的なのかと受け止められたですね」
(略)
大臣の橋本は、総量規制発動から半年ほどたったとき、秘書官だった伏見泰治にぽつりとこう尋ねたことがある。
「あれは本当に効いているのか」
たまたま省内にいる金融機関からの出向者が「あれには参りました。困っています」と話していたのを覚えていた伏見は「あれは効いています」と答えた。橋本はそれ以上何も言わなかった。(略)
[政務担当秘書渡邉賢談]
「総量規制がこうも効くとは思っていなかったようだ」
しかし、一方で当時大蔵省内には疑問に思う声もあった。たとえば財務官の内海だ。この国際派官僚は資産価格の上昇を抑えるのに公定歩合を使うことに疑問をもっており、「やっぱり何らかの規制は必要だろう」と思っていた。しかし、総量規制の発動を知り「不動産価格はすでに調整が始まっていると見るべきなのに、何で今ごろ」と思っていた。
(略)
[90年8月イラクのクウェート侵攻]
原油価格が上がったから、「これは危ない」とは思ったものの、現実として一般物価が上昇しなければ、公定歩合の引き上げにはつなげられない。しかし、三重野には石油ショックのときの経験があった。このとき、引き締めが遅れたために、インフレを招いたとの反省を日銀は胸に刻んでいた。三重野は「予防というよりは需要を押さえる本格的引き締めの第一歩ぐらいな感じ」と位置付けていたし、石油ショックのときの経験からいって、なるべく早くやっておこうと決意していた。[6%に引き上げ]