ヘンな日本美術史 山口晃 写生の弊害

うーん、これは面白い。特に前半が面白すぎ。

ヘンな日本美術史

ヘンな日本美術史

  • 作者:山口 晃
  • 発売日: 2012/11/01
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

四巻通して初めてわかる「鳥獣戯画」の面白さ

[実は「鳥獣戯画」があまり好きではなかった]
動物たちや自然の風景を描く墨の線は、迷いが無く、かつ伸びやかな感じで素晴らしいものです。ユーモラスな描き方をしているとはいえ、描き手の確かな技術が窺えます。
 だからでしょうか、逆に手本がずっと並んでいるような印象を受けてしまう。“あまりにも”な感じに溢れていて(略)「上手でございます」ぶりがやや退屈に感じられてしまうのです。(略)
[以前プロを目指す人の絵を審査したら]わざとらしい個性、ニュアンスを出したようなものが多いのです。「私らしく、伸び伸びと描きました!」と云う雰囲気を出しつつ、その実まったく伸び伸び描いていない。
 どうも私はそういうものが苦手でして、それに比して「鳥獣戯画」を見ていると、しっかりと技術のある人が描いた絵は、上手さへの志向が素直で、とても潔いものであると感じられます。
(略)
 さらに、このような私の目から鱗を落としたのが、実物を目の当たりにした事でした。(略)
墨が吃驚する程に綺麗なのです。(略)[単に黒一色ではなく]ガラス絵を見ているような透明度と色の奥行きが感じられます。
 ザザッと岩を描いたような荒れた一筆。その墨の黒がスーッと吸い込まれるように、画面の上に定着されています。それがとにかく驚きでした。よほど粒子の細かい墨なのでしょう、黒と云うよりは青味がかって見えます。
 ですからこの感じは、印刷した図版では絶対に分かりません。
(略)
[動物が擬人化されている甲巻と違い、乙巻に擬人化はないが、途中から麒麟、龍といった空想上のものが入り込んでくる。]
その入り方がまたさらりとしていて自然で、当時の人ならずとも思わず信じてしまいそうなさりげなさです。
(略)
 進むにつれて「あれあれ、走っちゃってるぞ。この人」と云うような感じでどんどんとエスカレートしてゆく。最初が実在の動物なだけに、そこで現実とフィクションの重層的な構成が際立つのです。
[次の丙巻は人は人として]動物は動物として描かれていますが、心持ち擬人化されているようにも感じられる。(略)同じ絵の中に人がいることによって、この擬人化の位置と云うものが、甲巻の時とはまったく違う位置ヘズレてくるのです。(略)
ひょっとして最初に描かれた擬人化というものを読み解くための手引書になっているのかもしれない。あるいは逆に、乙巻で見たような動物の「動物臭さ」を洗い直しているとも受け取れる。(略)
[最後の丁巻は人間だけに。甲乙巻から制作年代が下がった丙丁巻は]以前の巻の内容をきちっと受けながら、それでいて前に描かれたものに対して喧嘩を売ってもいるように思えます。
 甲巻は、動物の擬人化、それも高度な技術で上手く特徴を捉えると云う手法で人間を描いてみせているけれども、それじゃあ人を人として描いてみては駄目なのか? と云った感じでしょうか。
(略)
巻が下るほど先の巻を参照して、それに対して応答する形で進んでいくと云った構成になっている。そのため、各巻のキャラが相互作用していて、四巻まとめて見て、初めてこんなに面白い絵巻だったのだと云う事が分かるのです。
(略)
現代で云う「批評」の走りだったとも言えそうです。(略)
近代以降の絵画では前提とされている「作家性」が前に出た作品の在り方ではなく、そういうものは割とどうでもいいと考えられている訳です。(略)
 複数の人が参加していって、結果として一つの作品とされる。後から描いた人は、同じ「鳥獣戯画」と呼ばれて一括りにされるとは恐らく考えていなかったでしょう。(略)現代で言えば同人誌を作る人がオリジナルの本を色々いじるような感じくらいだったかもしれません
(略)
 今の作家性の在り方とは違いますが、それでは自分と云うものが無いのかと言えば逆で、描く事で「自分」が限りなく広がっているのです。
 現代だったら独自性に固執するあまり、「あ、俺はこんな絵は描けない」と言って落ち込んで終わりなのですけれども、その粋が緩いと「じゃあ、俺はこうしてみよう」と云う風に広がるほうに行く。その結果、むしろ自分というものを保てる側面がある。そういう、絵描きにとってはある種の幸せな状態が生まれていたのだと思うのです。

鳥獣戯画」はアニメの源流?

私にとってはそういうのは全く興味のない話で(略)
その絵が描かれた時代を起点にして、なるべくこっち向きの視点を獲得する。「こっち向き」と云うのは、要するに、その時代からどうなるか分からない未来を見据えた視線を一生懸命想像する方が、あるべき態度かと思います。
(略)
 絵巻物のように場面が移り変わるのが「コマ割り」の基本だと言われる事がありますけれども、コマと云うものは昔から外国にもありました。13〜14世紀頃に描かれたジョットの壁画「聖フランチェスコの生涯」なんかは思い切りコマが割られています。時間と空間を区切る「コマ」のような合理性はいかにも西洋です。
 むしろズルズルと空間がつながって、曖昧な雲とか林で空間が仕切られている妙の方が、日本人が受け継ぐべき所のような気がします。
 それはそうとしても、この「鳥獣戯画」を見た時に私たちが漫画的であると感じるのは、ある種の力の抜けた画調にあるのでしょう。
(略)
わざとふにゃっと描くと云うか、ちょろまかすと云うか、仕上げすぎないのは日本の絵の特徴です。できるけれどもやらないのか、できないのか、そもそもその気がないのかは分かりませんが、解像度が一段階落ちるとでも云ったような感じになる。
 ただ、解像度が落ちた事によって、ある全体性が逆にばっと浮き上がってくるのが、外国と比べて不思議な所です。
(略)
 日本の美術を考えた時、私は「枠」とか「入れ物」と云う言葉が思い浮かびます。他の国の人たちが中身で勝負する時に、日本人と云うのは外側でそれをするのです。器とか枠と云ったもので何か物事と向き合うような所がある。

白描画とは

墨の絵と塗りだけで描かれたものを指します。「鳥獣戯画」も白描絵巻です(略)
[どこがそんなに特徴的か]
「平面性のプロフェッショナル」と申しますか、画面と云うものだけで勝負している感がある。ぱっと見た時に、広間に人がいる空間よりも、線である、黒である、と云った画面そのものが見えてくるのです。(略)
面面構成の心地良さを優先してしまっている。奥行きなんかどうでもよいから、ここに黒を入れないと間が抜けてしまう。そちらの方が、彼らにとって重要だったのでしょう。
 面面の中に空間を構成するために様々な技法を凝らすと云うよりは、意識が画面の外に出ていて、画面そのものを作り出す方に意識が行っている。(略)
 絵を見る人の意識が画面の外とつながっていたとも言えるもので(略)非常に現代的なものです。(略)
[現代芸術が外に出ようとして行き詰ったのとは違い、白描画は]
画面の外の視点を獲得しながらも、中側の視点でも新たな領域へ踏み込んでいる。それが詞書と云うものです。(略)
字が擬人化され、人が擬デザイン化されているとでも申しましょうか、人も文字もデザインとなって、双方の枠が溶け出している。(略)
現実を写すと云うより、「この人物の配置がシビレル」、「文字を置くならそこしかない」みたいな感情が優先しています。

「写生」の害

 昔の日本の絵の特徴の一つに、モチーフすなわち描かれている対象と背景の「成分」が一緒だったと云う事があると思います。つまり、同じレベルでの描かれ方をしているからこそ、対象と背景が同一画面上にちゃんと収まっていられたのです。
 けれども、日本画はある時から、そこに別の成分を入れるようになりました。それが透視図法的「写生」、いわゆるデッサンの要素です。
 これは劇的な事でした。まるで、お出汁を薄くひいた美味しいお吸い物にサーロインステーキをぶち込むような乱暴さです。(略)その意味では、日本においては油絵などよりもむしろ日本画の方が、自らの足元を突き崩すような冒険をしている。その点、油絵と云うのは、能天気に海の向こうの「正解」を取り入れることで、立脚点の確保を保留してきたような所があります。
 しかし、その結果何が起きたかと云うと、それまで一緒だったモチーフと背景がバラバラになってしまったのです。見たものを見たままに描く「写生の成分」があまりに強くなると、それはもう日本の絵にとっては、「食材」ですらなくなってくる訳です。
 「伊勢物語絵巻」を見ても分かるように、背景が地そのままであったり、金箔であったり、絵と云うよりは物質です。それが背景になっているからこそ、人物の描画と云うものがこの描き方、この手数で許される。それは現実を写したと云うより、型押しされたような完璧なポージングです。
 実際の人間がここまで首を曲げたら死んでしまいます。でも、絵としてはこちらが正解なのです。人間が可能な範囲でのポージングでは、絵として間違いになってくる。もし、そのように描いてしまったら、絵の中の雲は単なる金粉としか見えなくなってしまうでしょう。すると、絵全体が空間ではなくなってしまいます。(略)
[当時の人は]意識しないでもそうした空間を描く事ができたと言いますか、自然とデッサンをしない絵になると言いますか、もっと血肉に近い部分で描いているように感じるのです。つまり、自然体で描けていたと云う事です。
 明治時代になり、写生をやった日本人はこれができなくなってしまいます。一度、自転車に「乗れる」ようになってしまうと、「乗れない」事をできなくなってしまうような感じです。
(略)
小さい子の絵が綺麗で強いのは、色も構図も主観に貫かれており、バランスが非常に良いからです。(略)
塗りたい色しか塗らないし、描きたい所しか描かない。実にムダが無いのです。しかし、大人が横から「お空にも色を塗りましょう」と言ってみたり、当人も「木が紫なんておかしいかな」などと思い始めるあたりから、絵のバランスがおかしくなり、一色に迷うようになるのです。
 「伊勢物語絵巻」の時代の絵師は(略)子供の頃から親方がやっているのを見て、真似する事で、何の疑いもなくそれができたのです。ものを見て描くよりも、こっちの方が美しいからそう描くと云う純粋さでやってこられた。
 ものを見て描く事を覚えると、それができなくなる時期があります。私自身がそうなのですが、よく見ようとするとどうしても腰が引けてしまい、ガサついた薄塗りの非常に痩せた絵になってしまうのです。けれども、近代以降において日本画を描こうと思ったら、そこを通過せざるを得ない部分もあって、それはいわば「不幸なハイブリッド」とでも云うべきものを生み出してしまいます。
(略)
 私の学生時代の同級生などでも、見ないと描けないと言う人が多くいます。やはり写生と云うものをやっていると、引き写す技術は非常に長けてくるのですが、頭の中でイメージしたものを再構築する技術は別の所へ行ってしまう。これは近代の美術教育を象徴していると思います。(略)
 多くの場合、漫画家の方と云うのは逆で、見ないでもすらすら描く事ができます。自分の中に記号的な「型」があるからです。その代わりに、粉本から粉本を写したような、非常に浅い絵になってしまう人も中にはいます。
 「あれ、ここにこういう影はつかないぞ」と云うような所に影をつけて、「ここにハイライトは入らないんじゃないかな」と云う所にハイライトが入っている。ものを見ないで、イメージの引き写しになってしまうのです。
 絵としての完成度が高いのは、その中間ではないでしょうか。現実のイメージを引き写すのですけれども、ものを見ながら描くという側面だけでなく、若冲の言う「神気」を捉えて描く事で、そのイメージを強化する。それが三次元を二次元に引き写すと云う事の性格だと思います。

次回に続く。

 

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